平家物語 百三十三 三草合戦(みくさがつせん)

原文

平家の方(かた)には大将軍小松新三位中将資盛(こまつのしんざんみのちゆうじやうすけもり)、同(おなじき) 少将(せいしやう)有(あり)盛(もり)、丹後侍従忠房(たんごのじじゆうただふさ)、備中守師盛(びつちゆうのかみもろもり)、侍大将(さぶらひだいしやう)には、平内兵衛清家(へいないびやうゑきよいへ)、海老次郎盛方(ゑみのじらうもりかた)を初(はじめ)として、都合其勢(つがふそのせい)三千余騎、小野原(をのばら)より三里へだてて、三草の山の西の山口に陣をとる。

其夜の戌(いぬ)の剋(こく)ばかり、九郎御曹司(くらうおんざうし)、土肥次郎(とひのじらう)を召して、「平家はこれより三里へだてて、三草の山の西の山口に大勢でひかへたんなるは。今夜夜討(こんやようち)に寄すべきか、あすのいくさか」と宣(のたま)へば、田代冠者(たしろのくわんじや)すすみいでて申しけるは、「あすのいくさとのべられなば、平家勢(せい)つき候(さうら)ひなんず。平家は三千余騎、御方(みかた)の御勢(おんせい)は一万余騎、はるかの利に候。夜うちよかんぬと覚え候」と申しければ、土肥次郎、「いしう申させ給ふ田代殿かな。さらばやがて寄せさせ給へ」とてうッたちけり。つはものども、「くらさはくらし、いかがせんずる」と口々に申しければ、九郎御曹司、「例(れい)の大(おほ)だい松(まつ)はいかに」。土肥二郎、「さる事候」とて、小野原(をのばら)の在家(ざいけ)に火をぞかけたりける。 これをはじめて、野にも山にも、草にも木にも、火をつけたれば、 ひるにはちッともおとらずして、三里の山をこえゆきけり。

此(この)田代冠者と申すは、父は伊豆国(いづのくに)のさきの国司中納言為綱(こくしちゆうなごんためつな) の末葉(ばちえふ)なり。母は狩野介茂光(かののすけもちみつ)が娘を思うてまうけたりしを、 母方の祖父(そぶ)に預けて、弓矢とりにはしたてたり。俗姓(ぞくしやう)を尋ぬれば、後三条院第三王子(ごさんでうのゐんのだいさんのわうじ)、輔仁親王(すけひとのしんわう)より五代の孫(そん)なり。俗姓もよきうへ、弓矢とッてもよかりけり。

平家の方(かた)には、其夜(そのよ)夜うちに寄せんずるをば知らずして、「いくさはさだめてあすのいくさでぞあらんずらん。いくさにもねぶたいは大事の事ぞ。よう寝ていくさせよ」とて、先 陣はおのづから用心するもありけれども、後陣(ごぢん)の者ども、或(あるい)は甲(かぶと)枕(まくら)にし、或は鎧(よろひ)の袖(そで)、箙(えびら)なンどを枕にして、先後(ぜんご)も知らずぞふしたりける。夜半(やはん)ばかり、源氏一万騎(ぎ)おし寄せて、時をどッとつくる。平家の方にはあまりにあわてさわいで、弓とる者は矢を知らず、矢とる者は弓を知らず、馬にあてられじとなかをあけてぞとほしける。源氏はおちゆくかたきをあそこにおッかけ、ここにおッつめせめければ、平氏の軍兵(ぐんぴやう)やにはに五百余騎うたれぬ。手負ふ者どもおほかりけり。大将軍小松(こまつ)の新三位中将(しんざんみのちゆうじやう)、同少将(おなじきせうしやう)、丹後侍従(たんごのじじゆう)、面目(めんぼく)なうや思はれけん、播磨国高砂(はりまのくにたかさご)より舟に乗ッて、讃岐(さぬき)の八島(やしま)へ渡り給ひぬ。備中守は平内兵衛(へいないびやうゑ)、海老二郎(ゑみのじらう)を召し具して、一谷(いちのたに)へぞ参られける。

現代語訳

平家の方(ほう)では大将軍小松新三位中将資盛(こまつのしんざんみのちゅうじょうすけもり)、同少将有盛(ありもり)、丹後侍従忠房(たんごのじじゅうただふさ)、備中守師盛(びっちゅうのかみもろもり)、侍大将には、平内兵衛清家(へいないびょうえきよいえ)、海老次郎盛方(えみのじろうもりかた)を初めとして、合計その軍勢三千余騎が小野原から三里を隔てて、三草山の西の出口に陣をとる。

その夜の午後八時ごろ、九郎御曹司は土肥次郎を呼んで、「平家がここから三里離れた、三草山の西の出口に大勢で控えているということだ。今夜夜討ちをすべきか、明日の戦にすべきか」とおっしゃると、田代冠者が進み出て申したのは、「明日の戦へ延期されたなら、平家は勢いづくことでしょう。平家は三千余騎、味方の勢力は一万余騎、はるかに有利でございます。夜討ちが良いと思われます」と、申したところ、土肥次郎は、「よくぞ申された田代殿。ではすぐにお寄せなさいませ」といって、出発した。武士どもが、「暗さは暗いがどうしましょうか」と口々に申したので、九郎御曹司は、「例の大松明(だいたいまつ)はどうだ」。土肥次郎が、「そうでございますな」といって、小野原の在家に火をつけたのだった。野にも山にも、草にも木にも、火をつけたので昼とまったく変わらない明るさの中を、三里の山を越えて行った。

この田代冠者と申すのは、父は伊豆国の前の国司中納言為綱(ためつな)の子孫である。母は狩野介茂光(かののすけもちみつ)の娘で、為綱がその娘に心を寄せて子をもうけたのを、母方の祖父に預けて、弓矢取りに仕立てたのだった。素性を尋ねると、後三条院第三王子(ごさんじょうのいんのだいさんのおうじ)、輔仁親王(すけひとしんのう)から五代目の子孫である。素性も良く、弓矢を取っても勝れていた。

平家の方(ほう)では、その夜源氏が夜討ちで押し寄せるのを知らずに、「戦はきっと明日になるであろう。戦に睡眠は大事である。良く寝て戦をせよ」といって、先陣は自ずから用心してはいたが、後陣に控えた者共は、或は甲を脱いで枕にし、或は鎧の袖、箙などを枕にして、前後不覚に陥って眠っていた。夜半頃に、源氏一万騎が押し寄せ、鬨の声をどっとあげる。平家ではたいそう慌て騒いで、弓を取る者は矢を見つけられず、矢を取る者は弓を見つけられず、馬に蹴られまいとして中を開けて通した。源氏は逃げて行く敵をあそこに追いかけ、ここに追い詰め攻めたてたので、平氏の軍兵(ぐんぴやう)はあっというまに五百余騎が討たれてしまった。傷を負う者は多かった。大将軍小松の新三位中将、同少将、丹後侍従は面目なく思ったのか、播磨国高砂(はりまのくにたかさご)から舟に乗って、讃岐の八島へお渡りになる。備中守は平内兵衛(へいないひょうえ)、海老次郎(えびのじろう)を呼んで同行させ、一の谷へ参られた。

朗読・解説:左大臣光永

【古典・歴史】メールマガジンはこちら