平家物語 三草合戦(みくさがつせん)

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平家物語巻第九より「三草合戦(みくさがつせん)」。三草山に布陣している平家軍に源氏が夜襲をかける。

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前回「三草勢揃(みくさせいぞろえ)」からの続きです。
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あらすじ

法皇より三種の神器奪還の命を受けた範頼、義経はそれぞれ摂津国昆陽野(こやの)と播磨・丹波の境、三草山の東の山口、小野原に進出した(「三草勢揃」)。

平家軍は大将軍資盛、有盛以下三千余騎で三草山の西の山口に布陣していた。

義経は田代冠者(たしろのかんじゃ)の進言で土肥次郎実平らと夜討ちを決行することに決めた。

民家や野山に火をつけて照明の代わりとして進軍する。平家軍はすっかり油断していたところを強襲され大慌てで逃げていった。

大将軍資盛、有盛らは讃岐の八島へ、侍大将平内兵衛清家、海老次郎盛方らは一の谷に落ちて行った。

原文

平家の方(かた)には大将軍小松新三位中将資盛(こまつのしんざんみのちゆうじやうすけもり)、同(おなじき) 少将(せいしやう)有(あり)盛(もり)、丹後侍従忠房(たんごのじじゆうただふさ)、備中守師盛(びつちゆうのかみもろもり)、侍大将(さぶらひだいしやう)には、平内兵衛清家(へいないびやうゑきよいへ)、海老次郎盛方(ゑみのじらうもりかた)を初(はじめ)として、都合其勢(つがふそのせい)三千余騎、小野原(をのばら)より三里へだてて、三草の山の西の山口に陣をとる。

其夜の戌(いぬ)の剋(こく)ばかり、九郎御曹司(くらうおんざうし)、土肥次郎(とひのじらう)を召して、「平家はこれより三里へだてて、三草の山の西の山口に大勢でひかへたんなるは。今夜夜討(こんやようち)に寄すべきか、あすのいくさか」と宣(のたま)へば、田代冠者(たしろのくわんじや)すすみいでて申しけるは、「あすのいくさとのべられなば、平家勢(せい)つき候(さうら)ひなんず。平家は三千余騎、御方(みかた)の御勢(おんせい)は一万余騎、はるかの利に候。夜うちよかんぬと覚え候」と申しければ、土肥次郎、「いしう申させ給ふ田代殿かな。さらばやがて寄せさせ給へ」とてうッたちけり。つはものども、「くらさはくらし、いかがせんずる」と口々に申しければ、九郎御曹司、「例(れい)の大(おほ)だい松(まつ)はいかに」。土肥二郎、「さる事候」とて、小野原(をのばら)の在家(ざいけ)に火をぞかけたりける。 これをはじめて、野にも山にも、草にも木にも、火をつけたれば、 ひるにはちッともおとらずして、三里の山をこえゆきけり。

此(この)田代冠者と申すは、父は伊豆国(いづのくに)のさきの国司中納言為綱(こくしちゆうなごんためつな) の末葉(ばちえふ)なり。母は狩野介茂光(かののすけもちみつ)が娘を思うてまうけたりしを、 母方の祖父(そぶ)に預けて、弓矢とりにはしたてたり。俗姓(ぞくしやう)を尋ぬれば、後三条院第三王子(ごさんでうのゐんのだいさんのわうじ)、輔仁親王(すけひとのしんわう)より五代の孫(そん)なり。俗姓もよきうへ、弓矢とッてもよかりけり。

平家の方(かた)には、其夜(そのよ)夜うちに寄せんずるをば知らずして、「いくさはさだめてあすのいくさでぞあらんずらん。いくさにもねぶたいは大事の事ぞ。よう寝ていくさせよ」とて、先 陣はおのづから用心するもありけれども、後陣(ごぢん)の者ども、或(あるい)は甲(かぶと)枕(まくら)にし、或は鎧(よろひ)の袖(そで)、箙(えびら)なンどを枕にして、先後(ぜんご)も知らずぞふしたりける。夜半(やはん)ばかり、源氏一万騎(ぎ)おし寄せて、時をどッとつくる。平家の方にはあまりにあわてさわいで、弓とる者は矢を知らず、矢とる者は弓を知らず、馬にあてられじとなかをあけてぞとほしける。源氏はおちゆくかたきをあそこにおッかけ、ここにおッつめせめければ、平氏の軍兵(ぐんぴやう)やにはに五百余騎うたれぬ。手負ふ者どもおほかりけり。大将軍小松(こまつ)の新三位中将(しんざんみのちゆうじやう)、同少将(おなじきせうしやう)、丹後侍従(たんごのじじゆう)、面目(めんぼく)なうや思はれけん、播磨国高砂(はりまのくにたかさご)より舟に乗ッて、讃岐(さぬき)の八島(やしま)へ渡り給ひぬ。備中守は平内兵衛(へいないびやうゑ)、海老二郎(ゑみのじらう)を召し具して、一谷(いちのたに)へぞ参られける。

現代語訳

平家の方(ほう)では大将軍小松新三位中将資盛(こまつのしんざんみのちゅうじょうすけもり)、同少将有盛(ありもり)、丹後侍従忠房(たんごのじじゅうただふさ)、備中守師盛(びっちゅうのかみもろもり)、侍大将には、平内兵衛清家(へいないびょうえきよいえ)、海老次郎盛方(えみのじろうもりかた)を初めとして、合計その軍勢三千余騎が小野原から三里を隔てて、三草山の西の出口に陣をとる。

その夜の午後八時ごろ、九郎御曹司は土肥次郎を呼んで、「平家がここから三里離れた、三草山の西の出口に大勢で控えているということだ。今夜夜討ちをすべきか、明日の戦にすべきか」とおっしゃると、田代冠者が進み出て申したのは、「明日の戦へ延期されたなら、平家は勢いづくことでしょう。平家は三千余騎、味方の勢力は一万余騎、はるかに有利でございます。夜討ちが良いと思われます」と、申したところ、土肥次郎は、「よくぞ申された田代殿。ではすぐにお寄せなさいませ」といって、出発した。武士どもが、「暗さは暗いがどうしましょうか」と口々に申したので、九郎御曹司は、「例の大松明(だいたいまつ)はどうだ」。土肥次郎が、「そうでございますな」といって、小野原の在家に火をつけたのだった。野にも山にも、草にも木にも、火をつけたので昼とまったく変わらない明るさの中を、三里の山を越えて行った。

この田代冠者と申すのは、父は伊豆国の前の国司中納言為綱(ためつな)の子孫である。母は狩野介茂光(かののすけもちみつ)の娘で、為綱がその娘に心を寄せて子をもうけたのを、母方の祖父に預けて、弓矢取りに仕立てたのだった。素性を尋ねると、後三条院第三王子(ごさんじょうのいんのだいさんのおうじ)、輔仁親王(すけひとしんのう)から五代目の子孫である。素性も良く、弓矢を取っても勝れていた。

平家の方(ほう)では、その夜源氏が夜討ちで押し寄せるのを知らずに、「戦はきっと明日になるであろう。戦に睡眠は大事である。良く寝て戦をせよ」といって、先陣は自ずから用心してはいたが、後陣に控えた者共は、或は甲を脱いで枕にし、或は鎧の袖、箙などを枕にして、前後不覚に陥って眠っていた。夜半頃に、源氏一万騎が押し寄せ、鬨の声をどっとあげる。平家ではたいそう慌て騒いで、弓を取る者は矢を見つけられず、矢を取る者は弓を見つけられず、馬に蹴られまいとして中を開けて通した。源氏は逃げて行く敵をあそこに追いかけ、ここに追い詰め攻めたてたので、平氏の軍兵(ぐんぴやう)はあっというまに五百余騎が討たれてしまった。傷を負う者は多かった。大将軍小松の新三位中将、同少将、丹後侍従は面目なく思ったのか、播磨国高砂(はりまのくにたかさご)から舟に乗って、讃岐の八島へお渡りになる。備中守は平内兵衛(へいないひょうえ)、海老次郎(えびのじろう)を呼んで同行させ、一の谷へ参られた。

語句

■平内兵衛清家 系譜未詳。 ■海老次郎盛方 海老は江見の転か。江見は岡山県美作市江見。 ■小野原 兵庫県丹波篠山市今田町今田。 ■ひかへたんなるは ひかえているということだぞ。「は」は詠嘆の終助詞。 ■よかんぬ 「よかりぬ」の音便。「ぬ」は強い断定。 ■いしう 「いしく」の音便。よくぞ。相手をほめている。 ■大だい松 民家に火をつけて灯りとする戦法。 ■父は伊豆国のさきの国司中納言為綱の末葉なり 田代冠者は父が前伊豆国司中納言為綱であり、 その子孫であるの意。 ■狩野介茂光 伊豆国狩野の人。藤原為憲の子孫。狩野四郎家次の子。 ■俗称 世間で通っている素性。 ■輔仁親王 底本「資仁親王」より改め。父後三条院の遺言で即位させるように定められていたが、白河院が位につかせなかった。せめての事に、輔仁親王の御子に源氏の姓をさずけて無位から一気に三位にした(巻四「通乗之沙汰」)。 ■あわてさわいで… 軍勢が慌て騒いでいる時の慣用表現(巻五「富士川」)。 ■高砂 兵庫県高砂市、加古川の河口。

……

一の谷の合戦の前哨戦として名高い、三草合戦の顛末でした。「いくさにもねぶたいは大事の事ぞ。よう寝ていくさせよ」…平家はとことん戦に向いてなかったようですね。

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朗読・解説:左大臣光永

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