平家物語 百三十ニ 三草勢揃(みくさせいぞろへ)

原文

正月廿九日、範頼(のりより)、義経院参(よしつねゐんざん)して、平家追討(ついたう)のために西国(さいこく)へ発向(はつかう)すべきよし奏聞(そうもん)しけるに、「本朝(ほんてう)には神代(じんだい)よりつたはれる三(み)つの御宝(おんたから)あり。内侍所(ないしどころ)、神璽(しんし)、宝剣(ほうけん)これなり。相構(あひかま)へて事(こと)ゆゑなくかへしいれ奉れ」と仰せ下さる。両人かしこまり承ッてまかりいでぬ。

同(おなじき)二月四日(よつかのひ)、福原には、故入道相国(こにふだうしやうこく)の忌日(きにち)とて、仏事かたのごとくおこなはる。朝夕(あさゆふ)のいくさだちに、過ぎゆく月日は知らねども、こぞは今年(ことし)にめぐりきて、うかりし春にもなりにけり。世の世にてあらましかば、いかなる起立塔婆(きりふたふば)の企(くはたて)、供仏施僧(くぶつせそう)のいとなみもあるべかりしかども、ただ男女(なんによ)の君達(きんだち)さしつどひて、泣くより外(ほか)の事ぞなき。其次(そのついで)に叙位除目(じよゐぢもく)おこなはれて、僧も俗もみなつかさなされけり。門脇中納言(かどわきのちゆうなごん)、正二位大納言(じやうにゐだいなごん)になり給ふべきよし、大臣殿(おほいとの)より宣(のたま)ひけれは、教盛卿(のりもりのきやう)、

けふまでもあればあるかのわが身かは夢のうちにもゆめをみるかな

と御返事(おんへんじ)申させ給ひて、つひに大納言にもなり給はず。大外記中原師直(だいげきなかはらもろなほ)が子、周防介師澄(すほうのすけもろずみ)、大外記になる。兵部少輔尹明(ひやうぶのせうまさあきら)、五位蔵人(ごゐのくらんど)になされて蔵人少輔(くらんどのせう)とぞいはれける。昔将門(まさかど)が 東(とう)八ヶ国をうちしたがへて、下総国相馬郡(しもつふさのくにさうまのこほり)に都をたて、我身を平親王(へいしんわう)と称(しよう)して、百官をなしたりしには、暦(こよみ)の博士(はかせ)ぞなかりける。これはそれには似るべからず。旧都をこそおち給ふといへども、主上三種(しゆしやうさんじゆ)の神器(じんぎ)を帯して、万乗(ばんじやう)の位(くらゐ)にそなはり給へり。叙位除目(じよゐぢもく)おこなはれんも僻事(ひがこと)にはあらず。

平氏(へいじ)すでに福原までせめのぽッて都へかへり入るべきよし聞えしかば、故郷(ふるさと)にのこりとどまる人々いさみよろこぶ事なのめならず。二位僧都全真(にゐのそうづせんしん)は、梶井宮(かぢゐのみや)の年来(としごろ)の御同宿(ごどうじゆく)なりければ、風のたよりには申されけり。宮よりも又常(つね)は御おとづれありけり。「旅の空の有様おぼしめしやるこそ心苦しけれ。都もいまだしづまらず」なンどあそばいて、おくには一首の歌ぞありける。

人知れずそなたをしのぶこころをばかたぶく月にたぐへてぞやる

僧都是(そうづこれ)をかほにおしあてて、かなしみの涙せきあへず。

さるほどに、小松(こまつ)の三位中将維盛卿(さんみのちゆうじやうこれもりのきやう)は年へだたり日かさなるにしたがひて、ふる郷(さと)にとどめおき給ひし北(きた)の方(かた)、をさなき人々の事をのみなげきかなしみ給ひけり。商人のたよりに、おのづから文なンどのかよふにも、北の方の都の御有様(おんありさま)、心苦しう聞き給ふに、さらばむかへとッて一所(ひとところ)でいかにもならばやとは思へども、我身こそあらめ、人のためいたはしくてなンどおぼしめし、しのびてあかしくらし給ふにこそ、せめての心ざしのふかさの程もあらはれけれ。

現代語訳

正月二十九日、範頼と義経が院の御所に参って、平家追討の為に西国へ出発することを申し上げたところ、「わが国には神代の時代より伝わる三つの御宝がある。内侍所(ないしどころ)、神璽(しんし)、宝剣がその三つの宝である。心して注意して事故なくお返し申せ」と仰せ下された。両人は畏まってこれを承り、退出した。

同じ二十四日、福原では、故入道相国の命日ということで、仏事が形通りに行われる。朝夕の合戦のあわただしさに、月日の経つのも忘れ、時は巡って去年は今年になり、悲しい事のあった春になった。世が世であったならば、どのように立派な卒塔婆を建てるかの計画が実施され、仏への供え物をする事や、僧に施しを行う仏事も行われたであろうが、ただ男女の公達が集まって、泣くよりほかにする事がない。そのついでに叙位除目が行われて、僧も俗人も皆官職の昇進が行われた。門脇中納言は、正二位大納言に任じられると、大臣殿(おおいどの)からの仰せがあったが、教盛卿は、

けふまでもあればあるかのわが身かは夢のうちにもゆめをみるかな
(今日までは生きながらえるとも思われなかった我身なのに、昇進の事など夢の中の夢のようで空しいものです)

と御返事申されて、ついに大納言にもお成りにならない。大外記中原師直(だいげきなかはらもろなお)の子、周防介師澄(すおうのすけもろずみ)が大外記になる。兵部少輔尹明(ひょうぶのしょううまさあきら)は五位の蔵人になされて蔵人少輔(くらんどのしょうう)と言われた。昔将門が東国八か国を征伐し従属させて、下総国相馬郡(しもつふさのくにそうまのこおり)に都をたて、我身を平親王(へいしんのう)と称して百官を任じたときには暦の博士という官職はなかった。こお叙位除目は、それには似ない別のものである。旧都を落ちて来られたといっても、主上は三種の神器を帯され、天皇の位にお着きである。叙位除目を行われることも間違った事ではない。

平家はすでに福原まで攻め上っており都へ帰ってくると伝わったので、故郷に残り留まっている人々が、感激して喜ばれるのはなみ一通りではない。二位僧都全真(にいのそうずぜんしん)は梶井宮(かじいのみや)と長年同じ寺に住んでいた僧仲間だったので、ちょっとしたついでに手紙を差し上げておられた。宮からも又いつもお手紙を出しておられた。「旅の空の様子を思いやるのは心苦しい事だ。都もまだ静まってはいないのに」などとお書きになり、奥には一首の歌を同封された。

人知れずそなたをしのぶこころをばかたぶく月にたぐへてぞやる
(人に知られないように貴方のおられる所を思う心を西に傾く月につけて貴方に送ります)

僧都はこれを顔に押し当てて、悲しみの涙が流れるのを拭こうともなさらない。

そうしているうちに、小松の三位中将維盛卿は、年が過ぎ、日数が増えるに従って、故郷に留め置かれた北の方、幼い人々の事だけを思い出して歎き悲しまれた。商人に託された手紙に、自ずから返事をお書きになるにも、北の方の都での御有様を心苦しくお聞きになると、それではここへ迎え取って同じ所でどうにでもなろうとは思うが、自分だけならいいだろうが、妻には可哀想だなどと思われて、偲びあかしてお暮しになるのが、せめてもの思いやりの深さの表れであった。

原文

さる程に、源氏は四日(よつかのひ)寄すべかりしが、故入道相国(こにふだうしやうこく)の忌日(きにち)と聞いて、仏事をとげさせんがために寄せず。五日(いつか)は西ふさがり、六日(むゆか)は道虚日(だうこにち)、七日(なぬかのひ)の卯剋(うのこく)に、一谷(いちのたに)の東西(とうざい)の木戸口(きどぐち)にて源平矢合(やあはせ)とこそさだめけれ。さりながらも、四日(よつか)は吉日(きちにち)なればとて、大手(おほて)搦手(からめて)の大将軍(だいしやうぐん)、軍兵二手(ぐんぴようふたて)にわかッてみやこをたつ。大手の大将軍は蒲御曹司範頼(かばのおんざうしのりより)、相伴(あひともな)ふ人々、武田太郎信義(たけだのたらうのぶよし)、加賀美二郎遠光(かがみのじらうとほみつ)、同(おなじき)小次郎長清(こじらうながきよ)、山名次郎教義(やまなのじらうのりよし)、同三郎義行(おなじきさぶらうよしゆき)、侍大将(さぶらひだいしやう)には梶原平三景時(かじはらへいざうかげとき)、嫡子源太景季(ちやくしのげんだかげすゑ)、次男平次景高(へいじかげたか)、同三郎景家(おなじきさぶらうかげいへ)、稲毛三郎重成(いなげのさぶらうしげなり)、榛谷四郎重朝(はんがへのしらうしげとも)、同五郎行重(おなじきごらうゆきしげ)、小山小四郎朝政(をやまのこしらうともまさ)、同中沼五郎宗政(おなじきなかぬまのごらうむねまさ)、結城七郎朝光(ゆふきのしちらうともみつ)、佐貫四郎大夫広綱(さぬきのしらうだいふひろつな)、小野寺禅師太郎道綱(をのでらのぜんじたらうみちつな)、曾我太郎資信(そがのたらうすけのぶ)、中村太郎時経(なかむらたらうときつね)、江戸四郎重春(えどのしらうしげはる)、玉井四郎資景(たまのゐしらうすけかげ)、大河津太郎広行(おほかはづのたらうひろゆき)、庄三郎忠家(しやうのざぶらうただいへ)、同四郎高家(おなじきしらうたかいへ)、小代八郎行平(せうだいのはちらうゆきひら)、久下二郎重光(くげのじらうしげみつ)、河原太郎高直(かはらたらうたかなほ)、同次郎盛直(おなじきじらうもりなほ)、藤田三郎大夫行泰(ふぢたのさぶらうだいふゆきやす)を先として、都合其勢(つがふそのせい)五万余騎、二月四日(よつかのひ)の辰(たつ)の一点に都をたッて、其日(そのひ)の申酉剋(さるとりのこく)に摂津国昆陽野(つのくにこやの)に陣をとる。搦手(からめて)の大将軍は九郎御曹司義経(くらうおんざうしよしつね)、同じく伴ふ人々、安田三郎義定(やすだのさぶらうよしさだ)、大内太郎維義(おほうちのたらうこれよし)、村上判官代基国(むらかみのはんぐわんだいもとくに)、田代冠者信綱(たしろのくわんじやのぶつな)、侍大将には土肥次郎実平(とひのじらうさねひら)、子息弥太郎遠平(しそくのやたらうとほひら)、三浦介義澄(みうらのすけよしずみ)、子息平六義村(しそくのへいろくよしむら)、畠山庄司次郎重忠(はたけやまのしやうじじらうしげただ)、同長野三郎重清(おなじきながののさぶらうしげきよ)、三浦佐原十郎義連(みうらのさはらのじふらうよしつら)、和田小太郎義盛(わだのこたらうよしもり)、同次郎義茂(おなじきじらうよしもち)、同三郎宗実(おなじきさぶらうむねざね)、佐々木四郎高綱(ささきしらうたかつな)、同五郎義清(おなじきごらうよしきよ)、熊谷次郎直実(くまがへのじらうなおざね)、子息小次郎直家(しそくのこじらうなほいへ)、平山武者所季重(ひらやまのむしやどころすゑしげ)、天野次郎直経(あまののじらうなほつね)、小河次郎資能(をかはのじらうすけよし)、原三郎清益(はらのさぶらうきよます)、金子十郎家忠(かねこのじふらういえただ)、同与一親範(おなじきよいちちかのり)、渡柳弥五郎清忠(わたりやなぎのやごらうきよただ)、別府小太郎清重(べつぷのこたらうきよしげ)、多々羅五郎義春(たたらのごらうよしはる)、其子の太郎光義(たらうみつよし)、片岡太郎経春(かたをかのたらうつねはる)、源八広綱(げんぱちひろつな)、伊勢三郎義盛(いせのさぶらうよしもり)、奥州(あうしう)の佐藤三郎嗣信(さとうさぶらうつぎのぶ)、同四郎忠信(おなじきしらうただのぶ)、江田源三(えだのげんざう)、熊井太郎(くまゐたらう)、武蔵房弁慶(むさしぼうべんけい)を先として、都合其勢一万余騎、同じ日(ひ)の同じ時(とき)に都をたッて丹波路(たんばぢ)にかかり、二日路(ふつかぢ)を一日(ひとひ)にうッて、播磨(はりま)と丹波のさかひなる三草(みくさ)の山の東(ひんがし)の山口(やまぐち)、小野原(をのばら)にこそつきにけれ。

現代語訳

そうしているうちに、源氏は二月四日には攻め寄せるはずであったが、故入道相国の命日と聞いて、仏事を終わらせるために攻め寄せない。五日は西ふさがり、六日(むいか)は道虚日(どうこにち)、七日(なぬか)の午前六時に、一谷(いちのたに)の東西の木戸口で矢合せを行うよう評議決定した。そうはいっても四日は吉日だからといって、大手搦手の大将軍が軍兵(ぐんぴょう)を二手に分けて都を出発する。大手の大将軍は蒲御曹司範頼(かばのおんぞうしのりより)、従う人々は、武田太郎信義(たけだのたろうのぶよし)、加賀美次郎遠光(かがみのじろうとおみつ)、同小次郎長清(どうこじろうながきよ)、山名四郎教義(やまなのじろうのりよし)、同三郎義行(どうさぶろうよしゆき)、侍大将は梶原平三景時(かじわらへいぞうかげとき)、嫡子源太景季(ちゃくしのげんたかげすえ)、次男平次景高(へいじかげたか)、同三郎景家(どうさぶろうかげいえ)、稲毛三郎重成(いなげのさぶろうしげなり)、榛谷四郎重朝(はんがえのしろうしげとも)、同五郎行重(どうごろうゆきしげ)、小山小四郎朝政(おやまのこしろうともまさ)、同中沼五郎宗政(どうなかぬまのごろうむねまさ)、結城七郎朝光(ゆうきのしちろうともみつ)、佐貫四郎大夫広綱(さぬきのしろうだいふひろつな)、小野寺禅師太郎道綱(おのでらのぜんじたろうみちつな)、曾我太郎資信(そがのたろうすけのぶ)、中村太郎時経(なかむらたろうときつね)、江戸四郎重春(えどのしろうしげはる)、玉井四郎資景(たまのいしろうすけかげ)、大河津太郎広行(おおかわづのたろうひろゆき)、庄三郎忠家(しょうのざぶろうただいえ)、同四郎高家(どうしろうたかいへ)、小代八郎行平(しょうだいのはちろうゆきひら)、久下二郎重光(くげのじろうしげみつ)、河原太郎高直(かわらたろうたかなほ)、同次郎盛直(どうじろうもりなほ)、藤田三郎大夫行泰(ふじたのさぶろうだいふゆきやす)を先駆けとして、合計その軍勢五万余騎が、二月四日午前八時に都を出発して、その日の午後五時には摂津国昆陽野(つのくにこやの)に陣をとる。搦手(からめて)の大将軍は九郎御曹司義経(くろうおんぞうしよしつね)、同じく従う人々は、安田三郎義定(やすだのさぶろうよしさだ)、大内太郎維義(おおうちのたろうこれよし)、村上判官代基国(むらかみのはんがんだいもとくに)、田代冠者信綱(たしろのかんじゃのぶつな)、侍大将には土肥次郎実平(とひのじろうさねひら)、子息弥太郎遠平(しそくのやたらうとおひら)、三浦介義澄(みうらのすけよしずみ)、子息平六義村(しそくのへいろくよしむら)、畠山庄司次郎重忠(はたけやまのしょうじじろうしげただ)、同長野三郎重清(どうながののさぶろうしげきよ)、三浦佐原十郎義連(みうらのさわらのじゅうろうよしつら)、和田小太郎義盛(わだのこたろうよしもり)、同次郎義茂(どうじろうよしもち)、同三郎宗実(どうさぶろうむねざね)、佐々木四郎高綱(ささきしろうたかつな)、同五郎義清(どうごろうよしきよ)、熊谷次郎直実(くまがえのじろうなおざね)、子息小次郎直家(しそくのこじろうなおいえ)、平山武者所季重(ひらやまのむしゃどころすえしげ)、天野次郎直経(あまののじろうなおつね)、小河次郎資能(おかわのじろうすけよし)、原三郎清益(はらのさぶろうきよます)、金子十郎家忠(かねこのじゅうろういえただ)、同与一親範(どうよいちちかのり)、渡柳弥五郎清忠(わたりやなぎのやごろうきよただ)、別府小太郎清重(べっぷのこたろうきよしげ)、多々羅五郎義春(たたらのごろうよしはる)、その子の太郎光義(たろうみつよし)、片岡太郎経春(かたおかのたろうつねはる)、源八広綱(げんぱちひろつな)、伊勢三郎義盛(いせのさぶろうよしもり)、奥州(おうしゅう)の佐藤三郎嗣信(さとうさぶろうつぎのぶ)、同四郎忠信(どうしろうただのぶ)、江田源三(えだのげんぞう)、熊井太郎(くまいたらう)、武蔵房弁慶(むさしぼうべんけい)を先掛けとして、合計その軍勢一万余騎は、同じ日(ひ)の同じ時(とき)に都を出発して丹波路(たんばぢ)にさしかかり、二日路(ふつかじ)を一日(いちにち)馬に鞭うって急ぎ、播磨(はりま)と丹波の境の三草(みくさ)の山の東(ひがし)の山口(やまぐち)、小野原(おのばら)に着いた。

朗読・解説:左大臣光永

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