平家物語 百三十一 六ヶ度軍(ろくかどのいくさ)

原文

平家福原(ふくはら)へわたり給ひて後は、四国の兵者(つはもの)したがひ奉らず。中にも阿波讃岐(あはさぬき)の在庁(ざいちやう)ども、平家をそむいて源氏につかむとしけるが、「抑(そもそも)我等は、昨日今日(きのうけふ)まで平家にしたがうたるものの、今はじめて源氏の方へ参りたりとも、よも用ひられじ。いざや平家に矢一(ひと)つ射かけて、それを面(おもて)にして参らん」とて、門脇(かどわき)の中納言(ちゆうなごん)、子息越前(ゑちぜん)の三位(さんみ)、能登守(のとのかみ)、父子(ふし)三人、備前国下津井(びぜんのくにしもつゐ)にましますときこえしかば、討ち奉らんとて兵船(ひやうせん)十余艘(さう)で寄せたりけり。能登守これを聞き、「にくいやつ原(ばら)かな。昨日今日まで我等が馬の草きッたる奴原(やつばら)が、すでに契(ちぎり)を変ずるにこそあんなれ。其儀(そのぎ)ならば一人(いちにん)ももらさずうてや」とて、小舟(こぶね)どもに取乗(とりの)ッて、「あますな、もらすな」とてせめ給へば、四国の兵者(つはもの)共、人目(ひとめ)ばかりに矢一つ射て、のかんとこそ思ひけるに、手いたうせめられ奉(たてま)ッて、かなはじとや思ひけん、遠負(とほまけ)にして引(ひ)き退(しりぞ)き、都のかたへにげのぼるが、淡路国福良(あはぢのくにふくら)の泊(とまり)につきにけり。其(その)国に源氏二人(ににん)あり。故六条判官為義(ころくでうのはうぐわんためよし)が末子(ばつし)、賀茂冠者義嗣(かものくわんじやよしつぎ)、淡路冠者義久(あはぢのくわんじやよしひさ)ときこえしを、四国の兵者(つはもの)共、大将にたのんで、城槨(じやうくわく)を構へて待つところに、能登殿やがておし寄せ責め給へば、一日たたかひ、賀茂冠者打死(うちじに)す。淡路冠者はいた手(で)負うて自害してンげり。能登殿(のとどの)、防矢(ふせぎや)射ける兵者(つはもの)ども百卅余人が頸(くび)切ッて、討手(うちて)の交名記(けうみやうしる)いて、福原へ参らせらる。

門脇中納言(かどわきのちゆうなごん)、其(それ)より福原へのぼり給ふ。子息達は、伊予の河野四郎(かはののしらう)が召せども参らぬをせめんとて、四国へぞ渡られける。先(ま)づ兄の越前三位通盛卿(ゑちぜんのさんみみちもりのきやう)、阿波国花園(あはのくにはなぞの)の城(じやう)につき給ふ。能登守讃岐(さぬき)の八島(やしま)へわたり給ふと聞えしかば、河野の四郎通信(みちのぶ)、安芸国住人沼田次郎(あきのくにのぢゆうにんぬたのじらう)は母方(ははかた)の伯父(をぢ)なりければ、一(ひと)つにならんとて安芸国へおしわたる。能登守これを聞き、やがて讃岐の八島を出でておはれけるが、すでに備後国蓑島(びんごのくにみのしま)にかかッて、次日(つぎのひ)沼田(ぬた)の城(じやう)へ寄せ給ふ。沼田次郎、河野四郎一(ひと)つになッてふせぎたたかふ。能登殿やがて押し寄せせめ給へば、一日(いちにち)一夜(いちや)ふせぎたたかひ、沼田次郎叶(かな)はじとや思ひけん、甲(かぶと)をぬいで降人(かうひと)に参る。河野四郎はなほしたがひ奉らず。其勢(そのせい)五百余騎ありけるが、わづかに五十騎ばかりにうちなされ、城(じやう)を出でてゆくほどに、能登殿の侍平八兵衛為員(へいはちびやうゑためかず)二百騎ばかりが中にとりこめられて、主従七騎にうちなされ、たすけ舟(ぶね)に乗らんとほそ道にかかってみぎはの方(かた)へおちゆく程に、平八兵衛が子息讃岐七郎義範(さぬきのしちらうよしのり)、究竟(くつきやう)の弓の上手ではあり、おッかかって七騎をやにはに五騎射おとす。河野四郎、ただ主従二騎になりにけり。河野が身にかへて思ひける郎等(らうどう)を、讃岐七郎おしならべてくんでおち、とッておさへて頸(くび)をかかんとする処(ところ)に、河野四郎とッてかへし、郎等が上(うへ)なる讃岐七郎が頸かき切ッて、深田(ふかた)へ投げ入れ、大音声(だいおんじやう)をあげて、「河野四郎越智(かはののしらうをち)の通信(みちのぶ)、生年(しやうねん)廿一、かうこそいくさをばすれ。われと思はむ人々はとどめよや」とて、郎等を肩にひッかけ、そこをつッとのがれて小船(こぶね)に乗り、伊予国へぞわたりける。能登殿、河野をもうちもらされたれども、沼田次郎(ぬたのじらう)が降人(かうにん)たるを召し具して、福原へぞ参られける。

又淡路国(あはじのくに)の住人安摩(あま)の六郎忠景(ろくらうただかげ)、平家をそむいて源氏に心をかよはしけるが、大舟二艘(おほぶねにさう)に兵粮米(ひやうらうまい)、物具(もののぐ)つうで、都の方(かた)へのぼる程に、能登殿福原にてこれを聞き、小船(こぶね)十艘ばかりおしうかべておはれけり。安摩の六郎、西宮(にしのみや)の興(おき)にて、かへしあはせふせぎたたかふ。手いたうせめられ奉(たてま)ッて、かなはじとや思ひけん、引退(ひきしりぞ)きて和泉国吹飯(いづみのくにふけひ)の浦(うら)につきにけり。

現代語訳

平家が福原へ渡られて後は、四国の武士どもは従い申さない。中でも阿波讃岐の地方役人どもは、平家に背いて源氏につこうとしたが、「そもそも我々は、昨日今日まで平家に従ったものの、今初めて源氏の方へ参ったとしても、まさか登用されることはないだろう。いざ平家に矢一つでも射掛けて、それを面目として参ろう」といって、門脇の中納言、子息越前の三位、能登守の父子三人が備前国下津井におられると聞いたので、討ち申そうと兵船十余艘で寄せたのだった。能登守はこれを聞いて、「にっくき奴どもだな。昨日今日まで我等の馬の草を切っていた奴等が、すでに主従の約束を変えるということがあるのだな。そういうことなら一人も逃さず討て」といって、小舟に飛び乗って、「余すな、漏らすな」と攻められると、四国の武士ども。人目につく程度に矢を一つ射て、逃げようと思ったが、手痛く攻められ申して、敵わないと思ったのか敵に近寄りもしないのに負けにして引き退き、都の方角へ逃げ上Tるが、淡路国福良(あわじのくにふくら)の港に着いた。その国に源氏が二人いた。故六条判官為義の末っ子、賀茂冠者義嗣(よしつぎ)、淡路冠者嘉久と聞えた者を、四国の武士どもが大将に担ぎ上げ、城槨を構えて待つところに、能登殿まもなく押し寄せ攻められると、一日戦い、賀茂冠者は討死する。淡路冠者は重傷を負って自害してしまった。能登殿は防ぎ矢を射た武士ども百三十余人の首を斬って、討ち手の者の名簿を書いて、福原へ差し出される。

門脇中納言はそこから福原へお上りになる。子息たちは、伊予の河野四郎が召しても参らないのを責めようと、四国へお渡りになった。まず兄の越前三位通盛卿が阿波国花園の城にお着きになる。能登守は讃岐へお渡りになったと聞いたので、河野四郎通信(みちのぶ)、安芸国住人沼田次郎は母方の伯父だったので、一つになろうとして安芸国へ押し渡る。能登守はこれを聞いて、まもなく讃岐の八島を出て追われたが、すでに備後国簑島にさしかかって、次の日沼田の城へお寄りになる。沼田次郎、河野四郎は一丸となって防ぎ戦う。能登守がすぐに押し寄せお攻めになると、一日と一夜防ぎ戦い、沼田次郎は敵わんと思ったのか、甲を脱いで降参する。河野四郎はなおも従い申さず。その勢力は五百余騎であったが、わずか五十騎ほどに討ち取られ、城を出て行くうちに、能登殿の侍平八兵衛為員(へいはちひょうえためかず)の二百騎ほどの軍勢の中に取り込まれて、主従七騎までに討ち取られ、助け舟に乗ろうと細い道にさしかかって水際の方へ落ちて行くと、平八郎の子息讃岐七郎義範(よしのり)、屈強な弓の名手ではあり、追いついて七騎をあっというまに五騎射落す。河野四郎はただ主従二騎だけになった。河野が我身に変えてもと大切に思っている郎等を、讃岐四郎は並んで組んで落ち、取って押えて首をかこうとする所に、河野四郎が立ち戻り、郎等の上に覆いかぶさっている讃岐七郎の首を掻き切って深田へ投げ入れ、大音声をあげて、「河野四郎越智(おち)の通信(みちのぶ)、生年二十一、このように戦はするものだ。自分は優れていると思う人々は止めてみろ」といって、郎等を肩に引っ掛け、そこをつっと逃れて小舟に乗り、伊予国へ渡った。能登殿は河野を討ち漏らされたが、沼田次郎が降参してきたので、召し連れて、福原へ参られた。

又淡路国の住人安摩(あま)の六郎忠景(ろくらうただかげ)は、平家に背いて源氏に心を通わせたが、大船二艘に兵粮米(ひょうりょうまい)や武具を積んで、都の方角へ上っていたが、能登殿は福原でこれを聞き、小船十艘ほどを押し浮べて追われた。安摩(あま)の六郎は、西宮の沖で、引き返しこれを迎えて防ぎ戦う。手厳しく攻められ申して「敵わん」と思われたのか、退却して和泉国吹飯(いずみのくにふけい)の浦に着いた。

原文

紀伊国住人園辺兵衛忠康(きのくにのぢゆうにんそのべのひやうゑただやす)、これも平家をそむいて源氏につかんとしけるが、安摩(あま)の六郎が能登殿に責められ奉(たてま)ッて、吹飯にありと聞えしかば、其勢(そのせい)百騎ばかりで馳(は)せ来(き)て一(ひと)つになる。能登殿やがてつづいてせめ給へば、一日一夜ふせぎたたかひ、安摩の六郎、園辺の兵衛、かなはじとや思ひけん、家子郎等(いへのこらうどう)に防矢(ふせぎや)射させ、身がらはにげて京へのぼる。能登殿、防矢射ける兵者(つはもの)ども二百余人が頸(くび)きりかけて、福原へこそ参られけれ。

又伊予国住人(いよのくにのぢゆうにん)河野四郎通信、豊後国住人臼杵二郎維高(ぶんごのくにのぢゆうにんうすきのじらうこれだか)、緒方三郎維義(をかたのさぶらうこれよし)同心して、都合(つがふ)其勢二千余人、備前国(びぜんのくに)へおしわたり、今木(いまぎ)の城(じやう)にぞ籠(こも)りける。能登守是(これ)を聞き、福原より三千余騎で馳せくだり、今木の城をせめ給ふ。能登殿、「奴原(きやつばら)はこはい御敵(おんかたき)で候。かさねて勢を給はらん」と申されければ、福原より数万騎(すまんぎ)の大勢(おほぜい)をむけらるるよし聞えし程に、城のうちの兵者(つはもの)ども、手のきはたたかひ、分捕(ぶんどり)、高名(かうみやう)しきはめて、「平家は大勢でましますなり。我等は無勢(ぶせい)なり。いかにも叶(かな)ふまじ。ここをばおちてしばらく息をつがむ」とて、臼杵二郎、緒方三郎、舟に取乗(とりの)り、鎮西(ちんぜい)へおしわたる。河野は伊予ヘぞ渡りける。能登殿、「今はうつべき敵(かたき)なし」とて、福原へこそ参られけれ。大臣殿(おほいとの)をはじめ奉(たてま)ッて、平家一門の公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)寄りあひ給ひて、能登殿の毎度の高名をぞ一同に感じあはれける。

現代語訳

紀伊國住人園部兵衛忠康(ただやす)、これも平家に背いて源氏につこうとしたが、安摩(あま)の六郎が能登殿に攻められ申して、吹飯にいると聞えたので、その勢力百騎ほどで急いで駆けつけ合流する。能登殿がすぐに続けてお攻めになると、一日一夜防ぎ戦い、安摩の六郎・園部の兵衛共に「敵わん」と思われたのであろう、家の子・郎等に防ぎ矢を射らせ、自分たちは京へ逃げ上る。能登殿は防ぎ矢を射た兵士ども二百余人の首を斬り、獄門にかけて、福原へ参られた。

又伊与国住人河野四郎通信は、豊後国住人臼杵二郎惟高と緒方三郎惟義(これよし)を味方に付けて、合計その軍勢二千余人が備前国へ押し渡り、今木の城に籠った。能登守はこれを聞いて、福原から三千余騎で馳せ下り、今木の城をお攻めになる。能登殿は、「奴らは強うござる。重ねて援軍をいただきたい」と申されたところ、福原から数万騎の軍勢を向かわせるということが聞えたので、城の中の武士どもは、力の限り戦い、分捕り、名を高める所作をし尽して、「平家は大勢でいらっしゃる。我等は無勢である。まったく敵うまい、ここから逃げてしばらく息をつなごう」といって、臼杵三郎、緒方三郎は舟に飛び乗り、鎮西へ押し渡る。河野は伊予へ押し渡る。能登殿は、「今は討つべき敵はいない」といって、福原へ参られた。大臣殿をはじめ申して、平家一門の公卿・殿上人が寄り集まって、能登殿の毎度の功名を等しく感心された。

朗読・解説:左大臣光永

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