平家物語 百九十ニ 女院死去(にょういんしきよ)

原文

さる程に寂光院(じやくくわうゐん)の鐘(かね)の声(こゑ)、けふも暮れぬとうち知られ、タ陽(せきやう)西にかたぶけば、御名残(おんなごり)惜しうはおぼしけれども、御涙(おんなみだ)をおさへて還御(くわんぎよ)ならせ給ひけり。女院は今更(いまさら)いにしへをおぼしめし出でさせ給ひて、忍びあへぬ御涙に、袖のしがらみせきあへさせ給はず。はるかに御覧じおくらせ給ひて、還御もやうやうのびさせ給ひければ、御本尊(ごほンぞん)にむかひ奉り、「先帝聖霊(せんていしやうりやう)、一門亡魂(いちもんばうこん)、成等正覚(じやうとうしやうがく)、頓証菩提(とんしようぼだい)」と、泣く泣くいのらせ 給ひけり。昔は東(ひんがし)にむかはせ給ひて、「伊勢大神宮、正八幡大菩薩(しやうはちまんだいぼさつ)、天子宝算(てんしほうさん)、千秋万歳(せんしうばんざい)」と申させ給ひしに、今はひきかへて、西にむかひ手をあはせ、「過去聖霊(くわこしやうりやう)、一仏浄土(いちぶつじやうど)へ」といのらせ給ふこそ悲しけれ。御寝所(ぎよしんじよ)の障子(しやうじ)に、かうぞあそばされける。

このごろはいつならひてかわがこころ大宮人のこひしかるらん
いにしへも夢になりにし事なれば柴のあみ戸もひさしからじな

御幸(ごかう)の御供(おんとも)に候(さうら)はれける徳大寺左大臣実定公(とくだいじのさだいじんさねさだこう)、御庵室(おんあんじつ)の柱に書きつけられけるとかや。

いにしへは月にたとへし君なれどそのひかりなき深山辺(みやまべ)の里

こしかたゆくすゑの事どもおぼしめしつづけて、御涙(おんなみだ)にむせばせ給ふ折しも、山郭公音信(やまほととぎすおとづ)れければ、女院、

いざさらばなみだくらべん時鳥(ほととぎす)われもうき世にねをのみぞ鳴く

抑壇(そもそもだん)の浦(うら)にていきながらとられし人々は、大路(おほぢ)をわたしてかうべをはねられ、妻子(さいし)にはなれて遠流(をんる)せらる。池(いけ)の大納言(だいなごん)の外(ほか)は、一人(いちにん)も命をいけられず、都におかれず。されども四十余人の女房達の御事(おんこと)、沙汰(さた)にもおよばざりしかば、親類(しんるい)にしたがひ、所縁(しよえん)についてぞおはしける。上(かみ)は玉の簾(すだれ)の内までも、風しづかなる家もなく、下(しも)は柴の枢(とぼそ)のもとまでも、塵(ちり)をさまれる宿(やど)もなし。枕(まくら)をならべしいもせも、雲ゐのよそにぞなりはつる。やしなひたてし親子(おやこ)も、ゆきがた知らず別れけり。しのぶ思(おもひ)はつきせねども、歎(なげ)きながらさてこそすごされけれ。是(これ)はただ、入道相国(にふだうしやうこく)、一天四海(いちてんしかい)を掌(たなごころ)ににぎッて、上(かみ)は一人(いちじん)をもおそれず、下(しも)は万民(ばんみん)をも顧(かへりみ)ず、死罪流刑(しざいるけい)、 思ふ様(さま)に行(おこな)ひ、世をも人をも憚(はばか)られざりしがいたす所なり。父祖(ふそ)の罪業(ざいごふ)は、子孫(しそん)にむくふといふ事、疑(うたがひ)なしとぞ見えたりける。

かくて年月(としつき)をすごさせ給ふ程に、女院御心地例(おんここちれい)ならずわたらせ給ひしかば、中尊(ちゆうぞん)の御手(みて)の五色(ごしき)の糸をひかへつつ、「南無西方極楽世界教主弥陀如来(なむせいはうごくらくせかいけうしゆみだによらい)、かならず 引摂(いんぜふ)し給へ」とて、御念仏(おんねんぶつ)ありしかば、大納言佐(だいなごんのすけ)の局(つぼね)。阿波内侍左右(あはのないしさう)に候ひて、今をかぎりのかなしさに、声も惜しまず泣きさけぶ。 御念仏の声やうやうよわらせましましければ、西に紫雲(しうん)たなびき、異香室(いきやうしつ)にみち、音楽(おんがく)そらにきこゆ。かぎりある御事(おんこと)なれば、建久(けんきう)二年きさらぎの中旬(ちゆうじゆん)に、一期(いちご)遂(つひ)に終らせ給ひぬ。后宮(きさいのみや)の御位(おんくらゐ)より、かた時もはなれ参らせずして候はれ給ひしかば、御臨終(ごりんじゆう)の御時(おんとき)、別路(わかれぢ)にまよひしも、やるかたなくぞおぼえける。此(この)女房達は、昔の草のゆかりもかれはてて、寄るかたもなき身なれども、折々(をりをり)の御仏事(おんぶつじ)、営み給ふぞあはれなる。遂(つひ)に彼人々(かのひとびと)は、竜女(りゆうによ)が正覚(しやうがく)の跡をおひ、葦提希夫人(ゐだいけぶにん)の如くに、みな往生(わうじやう)の素懐(そくわい)をとげけるとぞきこえし。

于時応安四年辛亥三月十五日、平家物語一部十二卷付灌頂、 当流之師説、伝授之秘決、一字不闕、以口筆令書写之、讓与定一検校記、抑愚質余算既過七旬、浮命?期後年、而一期之後、弟子等中雖為一句、若有廢忘輩者、定及諍論歟、仍為備後証、所令書留之也、此本努々不可出他所、又不可及他人之披見、附属弟子之外者、雖為同朋幷弟子、 更莫令書取之、凡此等条々、背炳誠之者、仏神三宝冥罰、可蒙厥躬而已

沙門覚一

現代語訳

そのうちに、寂光院の鐘の音が響き、今日も暮れたと知られ、夕日が西に傾くと、法皇は、お名残惜しくは思われたが、御涙を抑えてこらえて御所へお帰りになられた。女院はいまさらのように昔のことを思い出されて、こらえきれない御涙に袖が濡れるのをお留めになる事もできない。遠くまでお見送りなさって、お帰りの行列も次第に遠ざかって行かれたので御本尊にお向い申して、「先帝聖霊(せんていしょうりょう)、一門亡魂(いちもんぼうこん)、成等正覚(じょうとうしょうがく)、頓証菩提(とんしょうぼだい)」と、泣く泣くお祈りになった。昔は内裏で東に向われて、「伊勢大神宮(いせだいじんぐう)、正八幡大菩薩(しょうはちまんだいぼさつ)、天子宝算(てんしほうさん)、千秋万歳(せんしゅうばんざい)」と申されたのに、今は言葉を変えて、西に向って手を合せ、「過去聖霊(かこしょうりょう)、一仏浄土(いちぶつじょうど)へ」と祈られるのは悲しい事であった。御寝所の襖に、次のように歌を書いておかれた。

このごろはいつならひてかわがこころ大宮人のこひしかるらん
(いつの間にこのようなくせが私の心についてしまったのであろうか。この頃は、宮中の人たちが恋しくてたまらない気がするよ)
いにしへも夢になりにし事なれば柴のあみ戸もひさしからじな
(華やかな宮中での昔も夢になってしまった事なので、柴で編んだ戸に囲まれた庵での生活も長くはないだろうなあ)

過ぎ去った過去の事や将来の事どもを思い続けられて、御涙にむせばれている時も、山郭公が飛んでくると、女院は、
いざさらばなみだくらべん時鳥(ほととぎす)われもうき世にねをのみぞ鳴く
(ほととぎすよ、さあ涙を比べてみよう。私も辛くて悲しいこの世の中に泣いて暮しているのです)

御幸の御供をしておられた徳大寺左大臣実定公(とくだいじのさだいじんさねさだこう)が、御庵室(おんあんしつ)の柱に書きつけられたかいうことだ。

いにしへは月にたとへし君なれどそのひかりなき深山辺(みやまべ)の里
(昔は月に例えた美しい上品な君ですが、その光を失ったわびしい深山辺の里での暮らしであることよ)

ところで、壇の浦で生け捕られた人々は、京都の大通りを引き回された後、首を刎(は)ねられ、あるいは妻子と離れて遠くに流された。池の大納言の外は、一人も命を生かされず、都に置かれなかった。それでも四十余人の女房達の取り扱いについては、何の処分もなかったので、親類に従い、縁者を頼っておられた。上は立派な邸宅の美しい簾の内でも、風の吹かない平穏な家もなく、下は柴の戸のわびしい住居に至るまで塵の立たない静かな家もなかった。枕を並べて寝た夫婦も、空のかなたに離れ離れになってしまった。養い育てた親と子も、行方もわからず別れてしまった。互いに慕い合う情は尽きる事はなかったが、そのまま嘆きながら過ごされていた。これはただ、入道相国が天下を手中に治めて、上は天子御一人をも恐れず、下は万民を顧みず、死罪流刑を、思う様に行い、世間にも人にも遠慮しない振舞によるのだ。父祖の罪業は子孫に報うという事は、まったく疑いないと思われた。

こうして年月を過ごしておられるうちに、女院は御病気にかかられたので、中尊の手におかけになっていた五色の糸をお持ちになって、「南無西方極楽世界(なむせいほうごくらくせかい)の教主阿弥陀如来(きょうしゅあみだにょらい)、必ず極楽浄土へお引き取り下さい」といって、念仏をお唱えになると、大納言佐(だいなごんのすけ)の局(つぼね)、阿波の内侍は左右に付き従って、これが最後という悲しさに声も惜しまず泣き叫んだ。御念仏を申される声が次第に弱くなっていくと、西の方角に紫雲がたなびき、今まで嗅いだことのない香りが室内に充満して、音楽が空から聞えてきた。寿命は限りの有る事なので、建久二年二月の中旬、ついに御生涯をが終りとなった。二人の女房は女院が后宮の御位に就かれて以来、かたときも離れ参らせずしてお仕えしていたので、御臨終の御時、別れの悲しみに取り乱したが、悲しみを晴らしようもなく思われたのだった。この女房達は、昔の縁者もすっかりなくなってしまって、頼る所もない身ではあるが、命日命日の御仏事を営まれるのは哀れな事であった。そして、この人々は、竜女が悟りを開いた例にならい、葦提希夫(いだいけぶにん)が釈迦の説教を聞いて往生したように、みな極楽往生を遂げたいというかねての望みを遂げたということであった。

朗読・解説:左大臣光永

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