平家物語 百七十五 副将被斬(ふくしやうきられ)
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原文
同(おなじき)五月七日(なぬかのひ)、九郎大夫判官(くらうたいふのはうぐわん)、平氏のいけどりども相具(あひぐ)して、関東へ下向ときこえしかば、大臣殿(おほいとの)判官のもとへ使者をたてて、「明日(みやうにち)関東へ下向と承り候。恩愛の道は思ひきられぬことにて候(さうらふ)なり。いけどりのうちに八歳の童(わらは)とつけられて候(さうら)ひし者は、いまだこの世に候やらん。いま一度(ど)見候はばや」と宣ひつかはされたりければ、判官の返事には、「誰(たれ)も恩愛は思ひきられぬ事にて候へば、誠にさこそおぼしめされ候らめ」とて、河越小太郎重房(かはごえのこたろうしげふさ)があづかり奉(たてま)ッたりけるを、大臣殿の許(もと)へ若君(わかぎみ)いれ奉るべきよし宣ひければ、人に車かッて乗せ奉り、女房二人(にようぼうににん)つき奉(たてま)ッたりしも一(ひと)つ車に乗りぐして、大臣殿へぞ参られける。
若公(わかぎみ)ははるかに父を見奉り給はで、よにうれしげにおぼしたり。「いかにこれへ」と宣(のたま)へば、やがて御膝(おんひざ)のうへに参り給ふ。大臣殿若公(おほいとのわかぎみ)の御(おん)ぐしをかきなで、涙をはらはらとながいて、守護の武士どもに宣ひけるは、「これは、おのおの聞き給へ、母もなき者にてあるぞとよ。この子が母は、これをうむとて、産(さん)をばたひらかにしたりしかども、やがてうちふしてなやみしが、『いかなる人の腹に公達(きんだち)をまうけ給ふとも、 思ひかへずしてそだてて、わらはが形見(かたみ)に御覧ぜよ。さしはなッて、めのとなンどのもとへつかはすな』といひし事が不便(ふびん)さに、あの右衛門督(うゑもんのかみ)をば、朝敵をたひらげん時は大将軍(たいしやうぐん)せさせ、これをば副将軍せさせんずればとて、名を副将とつけたりしかば、なのめならずうれしげに思ひて、 すでにかぎりの時までも、名をよびなンどしてあいせ しが、七日といふにはかなくなりてあるぞとよ。この子を見るたびごとには、その事が忘れがたくおぼゆるなり」とて、涙もせきあへ給はねば、守護の武士どももみな袖をぞしぼりける。右衛門督(うゑもんのかみ)も泣き給へば、めのとも袖をしぼりけり。良(やや)久しくあって大臣殿、「さらば副将、とくかへれ。うれしう見つ」と宣へども、若公(わかぎみ)か へり給はず。右衛門督これを見て、涙をおさへて宣ひけるは、「やや副将御(ご)ぜ、こよひはとくとくかへれ。ただいま客人(まらうど)のこうずるぞ。あしたはいそぎ参れ」と宣へども、父(ちち)の御浄衣(おんじやうえ)の袖にひしととりついて、「いなやかへらじ」とこそ泣き給へ。
現代語訳
同年五月七日、九郎大夫判官(くろうたいふのほうがん)は、平氏の捕虜共を引き連れて、関東へ下向という噂が立ったので、大臣殿(宗盛)は判官のもとへ使者を立てて、「明日関東へ下向と承りました。親子の愛情は断ち切れないものでございます。生け捕られた者の中に八歳の童と帳面につけられておりました者は、まだこの世にいますでしょうか。もう一度会いたいものです」と言って使いを出されたところ、判官の返事としては、「誰でも親子の愛情は断ち切れないものですが、本当にそのように思われるのでしょう」と言って、河越小太郎重房が預かり申していたのを、大臣殿のもとへ若君をお入れ申すよう命令されたので、重房は人に車を借りて若君をお乗せ申し上げ、若君に付き添っていた女房二人もお付き申し、一つの車に同乗して、大臣殿の所へ参られた。
若君は久しく父にお会いしておられなかったので大変うれしく思われた。大臣殿が、「どうしていたのだ。これへ参れ」と言われると、すぐ御膝の上にお乗りになる。大臣殿は若君の御髪をかきなで、涙をはらはらと流して、守護の武士どもに言われるには、「この子は。おのおの方聞きなさい。母のない者であるぞ。この子の母は、この子を産むに際してお産は安産でしたが、産後そのまま病に伏していましたが、その母が、『どんな人の腹に若君を設けようとも、この子への愛情を保ち続けて、私の形見と思って御覧ください。突き離して、乳母などのところへやってはいけない』と言った事が可哀想で、あの右衛門督(清宗)に、朝敵を平らげる時は大将軍をさせ、この子を副将軍にさせればといって、名を副将と付けたのでひとかたならず嬉しく思って、もう今はこれまでという時までも、子供の名を呼びなどして可愛がっていましたが出産後七日目には亡くなったとのことですよ。この子を見るたびごとに、その事を忘れがたく思うのですよ」といって、涙の流れるのを抑える事もできないので、守護の武士共も皆涙を流し袖を絞った。右衛門督もお泣きになると、若君の乳母も袖を涙に濡れた袖を絞った。かなり時間が経って大臣殿、「それでは副将、早く帰れ。会えて嬉しかった」と言われたが、若君はお帰りにならない。右衛門督はこれを見て、涙を抑えて申したことには、「おい副将お前、今夜は早くお帰りなされ。今のも客人が来ようとしているのだ。明日は急いで参れ」と言われたが、若君は、父の御浄衣の袖に必死にすがりついて、「嫌じや。決して帰らぬ」とお泣きになる。
原文
かくてはるかに程ふれば、日もやうやう暮れにけり。さてしもあるべき事ならねば、めのとの女房いだきとッて御車(おんくるま)に乗せ奉り、二人(ににん)の女房どもも袖をかほにおしあてて、泣 く泣く暇(いとま)申しつつ、共に乗ってぞ出でにける。大臣殿(おほいとの)はうしろをはるかに御覧じおくって、「日来(ひごろ)の恋しさは事のかずならず」とぞかなしみ給ふ。この若公(わかぎみ)は、母の遺言がむざんなればとて、めのとのもとへもつかはさず、朝夕御(あさゆうおん)まへにてそだて給ふ。三歳(さんざい)にて初冠(うひかぶり)着せて、義宗(よしむね)とぞなのらせける。 やうやうおひたち給ふままに、みめかたちうつくしく、心ざま優(いう)におはしければ、大臣殿もかなしういとほしき事におぼして、西海(さいかい)の旅の空、浪(なみ)のうへ、舟のうちの住ひにも、かた時もはなれ給はず。しかるをいくさやぶれて後は、けふぞたがひに見給ひける。
河越小太郎(かはごえのこたらう)、判官(はうぐわん)の御(おん)まへに参って、「さて若公の御事(おんこと)をば、なにと御(おん)ぱからひ候やらん」と申しければ、「鎌倉まで具し奉るに及ばず。なんぢともかうもこれであひはからへ」とぞ宣ひける。河越小太郎二人の女房どもに申しけるは、「大臣殿は鎌倉へ御(おん)くだり候が、若公は京に御(おん)とどまりあるべきにて候。重房(しげふさ)もまかり下り候あひだ、緒方(をかた)の三郎維義(さぶらうこれよし)が 手へわたし奉るべきにて候。とうとう召され候へ」とて、御車寄せたりければ、若公なに心もなう乗り給ひぬ。「又昨日(きのふ)のやうに父御前(ちちごぜん)の御(おん)もとへか」とて、よろこばれけるこそはかなけれ。六条を東へやッてゆく。この女房ども、「あはやあやしき者かな」と、きも魂を消して思ひける程に、すこしひきさがッてつはもの五六十騎が程、河原へうち出でたり。 やがて車をやりとどめて、敷皮(しきがは)しき、「おりさせ給へ」と申しければ、若公車よりおり給ひぬ。よにあやしげにおぼして、「我をばいづちへ具してゆかむとするぞ」と問ひ給へば、二人の女房共とかうの返事にも及ばず。重房(しげふさ)が郎等(らうどう)太刀をひきそばめて、左の方より御(おん)うしろに立ちまはり、すでにきり奉らんとしけるを、若公見つけ給ひて、いく程のがるべき事のやうに、いそぎめのとのふところのうちへぞ入り給ふ。さすが心強(こころづよ)うとりいだし奉るにも及ばねば、若公をかかへ奉り、 人の聞くをもはばからず、天にあふぎ地にふしてをめきさけみける心のうち、おしはかられて哀れなり。かくて時刻てはるかにおしうつりければ、河越小太郎重房(かはごえのこたらうしげふさ)涙をおさへて、「今はいかにおぼしめされ候とも、かなはせ給ひ候まじ。とうとう」と申しければ、其時めのとのふところのうちよりひきいだし奉り、腰の刀にておしふせて、つひに頸(くび)をぞかいてンげる。たけきもののふどももさすが岩木(いはき)ならねば、みな涙をながしけり。くびをば判官の見参(げンざん)にいれんとて取ッてゆく。めのとの女房かちはだしにておッついて、「なにか苦しう候べき。御頸(おんくび)ばかりをば給はって、後世(ごせ)をとぶらひ参らせん」と申せば、判官もよにあはれげに思ひ、涙をはらはらとながいて、「まことにさこそは思ひ給ふらめ。もッともさるべし。とうとう」とてたびにけり。これをとッてふところにいれて、泣く泣く京の方へかへるとぞ見えし。其後五六日して、桂河(かつらがは)に女房二人(ににん)身を投げたる事ありけり。一人(いちにん)をさなき人のくびをふところにいだいて沈みたりけるは、此若公(このわかぎみ)のめのとの女房にてぞありける。いま一人むくろをいだいたりけるは、介錯(かいしやく)の女房なり。めのとが思ひきるはせめていかがせん、介錯の女房さへ身を投げけるこそありがたけれ。
現代語訳
こうしてだいぶ時間が経ったので、日もしだいに暮れてしまった。いつまでもそうしてはいられないので、乳母の女房が若君を抱き上げて御車にお乗せ申し、二人の女房どもも袖を顔に押し当てて、泣く泣くお暇申しながら、共に乗って出た。大臣殿は後姿をはるかにお見送りになって、「日ごろの恋しさは今の別れの悲しさに比べれば問題ではない」と悲しまれる。この若君は、母の遺言が痛ましいからというので、乳母の所へも預けられず、朝夕御前にてお育てになる。三歳で初冠(ういかぶり)着せて、義宗と名のらせた。しだいにお育ちになるにつれて、見た目・形は美しく、心は優しくお育ちになったので、大臣殿も悲しく愛おしい事に思われて、西海の旅の空、波の上、舟の中での住まいでも、かたときもお離れにならない。それなのに戦に敗れた後は、今日が初めての会見であった。
河越小太郎は、判官の御前へ参って、「さて若君の御事をどのように取り計らわれるのですか」と申したところ、「鎌倉までお連れ申すことはない。汝がともかくこの京都でよろしくはからえ」と言われた。河越小太郎が二人の女房共に申すには、「大臣殿は鎌倉へお下りになるが、若君は京都に御留まりになられるべきです。重房も罷り下りますので、緒方の三郎惟義の手に渡し申し上げることになります。早くお乗り下さい」と言って、御車を近付けたので、若君は何のお考えもなくお乗りになった。「又昨日のように父御前のもとへ参るのか」」と、喜ばれたのは空しい事であった。御車は六条通りを東へ進んで行く。この女房どもは、「ああ大変、変な事をする者だな」と、怖れおののく思いをしていたが、そのうちに軍兵五六十騎が、少し御車から後の方へ下がって、河原へ出た。軍兵共が、すぐに車を止めて、敷皮を敷き、「お降りください」と申したので、若君は車から降りられた。 怪訝な事をと思われて、「私を何処へ連れて行こうとするのか」とお尋ねになると、2人の女房どもは何も返事をしない。重房の郎等が太刀を抜こうとして体の傍へ太刀を引きつけ、左の方から御後ろに立ち回って、もはやお斬り申しあげようとしたのを、若君が見つけられて、いくらかでも逃れられるように、急いで乳母の懐の中へお隠れになる。武士も気強く取り出すわけにもいかず、若君を抱え申したが、若君が、人の聞くのもはばからず、空を仰ぎ、地に伏しておめき叫ばれた心の内が推し量られて哀れである。こうしているうちに時間がかなり経ってきたので、河越小太郎重房は涙を抑えて、「今はどのように思われようとも、希望はかないますまい。早く早く」と申したので、その時乳母の懐の中から引き出し申しあげ、腰の刀に押し伏せて、ついに首をかいたのだった。勇猛な軍兵もさすがに岩木ではないでの、皆涙を流したのだった。首を判官にお目にかけようと取って行く。乳母の女房は裸足で追いついて、「何のさしつかえがありましょうか。御首ばかりを頂いて、後世を弔い参らせましょう」と申すと、判官もまことに哀れに思い、涙をはらはらと流して、「まことそのように思われるのであろう。そうするのが一番良い。早く早く」と若君の首をお与えになった。女房はこれを取って懐に入れ、泣く泣く京都の方へ帰るように見えた。其の後五六日して、桂川に女房二人が、身を投げる事があった。そのうちの一人が幼い人の首を懐に抱いて沈んだが、それは、この若君の乳母の女房であった。もう一人骸(むくろ)を抱いていたのは、付き添いの女房である。乳母が覚悟を決めたのはよくよくの事でやむを得ない事だが、付き添いの女房さえ身を投げたのはめったにないことであった。
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