副将被斬(ふくしやうきられ)

平家物語巻第十一より「副将被斬(ふくしょうきられ)」。平家一門に対する処罰は苛烈をきわめた。それは子供とて、例外ではなかった。

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前回「文之沙汰(ふみのさた)」からのつづきです。
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あらすじ

九郎大夫判官義経が関東へ下向するときいて、大臣殿(宗盛)は八歳の童(副将)に会わせてほしいと訴える。義経は同情しこれをゆるした。

若君は河越小太郎重房が預かっていたが、車にのせて、付き添いの女房二人も同じ車に乗り、大臣殿のもとへ参った。

若君は久しぶりに父と会えることを喜んだ。大臣殿は、この子の母がお産の後に亡くなったこと、自分の形見と思って乳母に預けたりせずに大切に育ててほしいと言ったこと、副将という名のゆらいなどを守護の武士たちに語った。守護の武士たちも皆袖をぬらした。右衛門督も乳母も涙を流した。

別れぎわになっても若君は帰りたがらない。兄の右衛門督にたしなめられても、父の袖に取りすがって「帰りません」と泣く。日も暮れてしまった。いつまでもこうしてはいられないので、乳母の女房が抱きとって御車に乗せて二人の女房とともに帰っていった。大臣殿はその後をずっと見送って悲しんだ。

この若君は母の遺言が痛ましいので乳母には預けず、朝夕大臣殿のもとで育てた。三歳で元服させて義宗と名乗らせた。成長するにつれて顔かたちも美しいので、大臣殿もかわいく思い、西海の旅に出た後も片時もお離しにならなかった。しかし戦で負けた後は、今日がはじめて会うのだった。

河越小太郎が判官に若君の処遇についてたずねると、「鎌倉に連れて行くまでもない。お前がこちらで処理せよ」という答えだった。

河越小太郎は若君と女房たちをいつわって、車に乗せる。若君は無心に喜んだ。六条を東へ車を進めた。女房たちがいぶかしがっていると、軍兵が五、六十騎ほど賀茂の河原に出てきた。若君は車から降ろされた。重房の郎党が後ろから斬ろうとすると、若君は気づいて、乳母の懐の内に隠れた。

武士も気強く若君をお出しすることもできない。乳母は声を惜しまず泣く。ずいぶん時間が経ったので、河越小太郎が「さあ早く」と促すと、武士どもが乳母の懐から若君を引き出し、首を斬ってしまった。

乳母の女房がはだしで追いついて「御首だけでも頂戴して後世の菩提を弔いたい」と訴えるので、判官は同情し、首をおやりになった。乳母の女房は首を取って懐に入れて、泣く泣く京に帰るように見えた。

それから五六日後、桂川に女房が二人、身を投げた。幼い人の首を抱いて沈んだのは乳母の女房だった。もう一人死骸を抱いて沈んだのは付き添いの女房だった。

乳母はまだしも、付き添いの女房まで身を投げたのはめったにないことだった。

原文

同(おなじき)五月七日(なぬかのひ)、九郎大夫判官(くらうたいふのはうぐわん)、平氏のいけどりども相具(あひぐ)して、関東へ下向ときこえしかば、大臣殿(おほいとの)判官のもとへ使者をたてて、「明日(みやうにち)関東へ下向と承り候。恩愛の道は思ひきられぬことにて候(さうらふ)なり。いけどりのうちに八歳の童(わらは)とつけられて候(さうら)ひし者は、いまだこの世に候やらん。いま一度(ど)見候はばや」と宣ひつかはされたりければ、判官の返事には、「誰(たれ)も恩愛は思ひきられぬ事にて候へば、誠にさこそおぼしめされ候らめ」とて、河越小太郎重房(かはごえのこたろうしげふさ)があづかり奉(たてま)ッたりけるを、大臣殿の許(もと)へ若君(わかぎみ)いれ奉るべきよし宣ひければ、人に車かッて乗せ奉り、女房二人(にようぼうににん)つき奉(たてま)ッたりしも一(ひと)つ車に乗りぐして、大臣殿へぞ参られける。

若公(わかぎみ)ははるかに父を見奉り給はで、よにうれしげにおぼしたり。「いかにこれへ」と宣(のたま)へば、やがて御膝(おんひざ)のうへに参り給ふ。大臣殿若公(おほいとのわかぎみ)の御(おん)ぐしをかきなで、涙をはらはらとながいて、守護の武士どもに宣ひけるは、「これは、おのおの聞き給へ、母もなき者にてあるぞとよ。この子が母は、これをうむとて、産(さん)をばたひらかにしたりしかども、やがてうちふしてなやみしが、『いかなる人の腹に公達(きんだち)をまうけ給ふとも、 思ひかへずしてそだてて、わらはが形見(かたみ)に御覧ぜよ。さしはなッて、めのとなンどのもとへつかはすな』といひし事が不便(ふびん)さに、あの右衛門督(うゑもんのかみ)をば、朝敵をたひらげん時は大将軍(たいしやうぐん)せさせ、これをば副将軍せさせんずればとて、名を副将とつけたりしかば、なのめならずうれしげに思ひて、 すでにかぎりの時までも、名をよびなンどしてあいせ しが、七日といふにはかなくなりてあるぞとよ。この子を見るたびごとには、その事が忘れがたくおぼゆるなり」とて、涙もせきあへ給はねば、守護の武士どももみな袖をぞしぼりける。右衛門督(うゑもんのかみ)も泣き給へば、めのとも袖をしぼりけり。良(やや)久しくあって大臣殿、「さらば副将、とくかへれ。うれしう見つ」と宣へども、若公(わかぎみ)か へり給はず。右衛門督これを見て、涙をおさへて宣ひけるは、「やや副将御(ご)ぜ、こよひはとくとくかへれ。ただいま客人(まらうど)のこうずるぞ。あしたはいそぎ参れ」と宣へども、父(ちち)の御浄衣(おんじやうえ)の袖にひしととりついて、「いなやかへらじ」とこそ泣き給へ。

現代語訳

同年五月七日、九郎大夫判官(くろうたいふのほうがん)は、平氏の捕虜共を引き連れて、関東へ下向という噂が立ったので、大臣殿(宗盛)は判官のもとへ使者を立てて、「明日関東へ下向と承りました。親子の愛情は断ち切れないものでございます。生け捕られた者の中に八歳の童と帳面につけられておりました者は、まだこの世にいますでしょうか。もう一度会いたいものです」と言って使いを出されたところ、判官の返事としては、「誰でも親子の愛情は断ち切れないものですが、本当にそのように思われるのでしょう」と言って、河越小太郎重房が預かり申していたのを、大臣殿のもとへ若君をお入れ申すよう命令されたので、重房は人に車を借りて若君をお乗せ申し上げ、若君に付き添っていた女房二人もお付き申し、一つの車に同乗して、大臣殿の所へ参られた。

若君は久しく父にお会いしておられなかったので大変うれしく思われた。大臣殿が、「どうしていたのだ。これへ参れ」と言われると、すぐ御膝の上にお乗りになる。大臣殿は若君の御髪をかきなで、涙をはらはらと流して、守護の武士どもに言われるには、「この子は。おのおの方聞きなさい。母のない者であるぞ。この子の母は、この子を産むに際してお産は安産でしたが、産後そのまま病に伏していましたが、その母が、『どんな人の腹に若君を設けようとも、この子への愛情を保ち続けて、私の形見と思って御覧ください。突き離して、乳母などのところへやってはいけない』と言った事が可哀想で、あの右衛門督(清宗)に、朝敵を平らげる時は大将軍をさせ、この子を副将軍にさせればといって、名を副将と付けたのでひとかたならず嬉しく思って、もう今はこれまでという時までも、子供の名を呼びなどして可愛がっていましたが出産後七日目には亡くなったとのことですよ。この子を見るたびごとに、その事を忘れがたく思うのですよ」といって、涙の流れるのを抑える事もできないので、守護の武士共も皆涙を流し袖を絞った。右衛門督もお泣きになると、若君の乳母も袖を涙に濡れた袖を絞った。かなり時間が経って大臣殿、「それでは副将、早く帰れ。会えて嬉しかった」と言われたが、若君はお帰りにならない。右衛門督はこれを見て、涙を抑えて申したことには、「おい副将お前、今夜は早くお帰りなされ。今のも客人が来ようとしているのだ。明日は急いで参れ」と言われたが、若君は、父の御浄衣の袖に必死にすがりついて、「嫌じや。決して帰らぬ」とお泣きになる。

語句

■五月七日 「今暁、左馬頭能保、大夫尉義経等東国ヘ下向ス、前内大臣父子、并郎従十余人相具ス云々、是配流之儀ニ非ズ云々」(玉葉・元暦ニ年五月七日条)。 ■八歳の童 宗盛の次男。副将とよばれた。 ■河越小太郎重房 河越太郎重頼の子。武蔵国入間郡河越庄(埼玉県河越市)の人。畠山氏の一族。 ■かッて 「借りて」の音便。 ■はるかに 長く。久しく。 ■思ひかへずして この子への愛情を変えないで。 ■七日といふに… 産後七日目に死んだ。この母は伝未詳。 ■こうずるぞ 「来むずるぞ」の音便。 ■浄衣 白衣。 ■いなやかへらじ いやいや、帰らない。

原文

かくてはるかに程ふれば、日もやうやう暮れにけり。さてしもあるべき事ならねば、めのとの女房いだきとッて御車(おんくるま)に乗せ奉り、二人(ににん)の女房どもも袖をかほにおしあてて、泣 く泣く暇(いとま)申しつつ、共に乗ってぞ出でにける。大臣殿(おほいとの)はうしろをはるかに御覧じおくって、「日来(ひごろ)の恋しさは事のかずならず」とぞかなしみ給ふ。この若公(わかぎみ)は、母の遺言がむざんなればとて、めのとのもとへもつかはさず、朝夕御(あさゆうおん)まへにてそだて給ふ。三歳(さんざい)にて初冠(うひかぶり)着せて、義宗(よしむね)とぞなのらせける。 やうやうおひたち給ふままに、みめかたちうつくしく、心ざま優(いう)におはしければ、大臣殿もかなしういとほしき事におぼして、西海(さいかい)の旅の空、浪(なみ)のうへ、舟のうちの住ひにも、かた時もはなれ給はず。しかるをいくさやぶれて後は、けふぞたがひに見給ひける。

河越小太郎(かはごえのこたらう)、判官(はうぐわん)の御(おん)まへに参って、「さて若公の御事(おんこと)をば、なにと御(おん)ぱからひ候やらん」と申しければ、「鎌倉まで具し奉るに及ばず。なんぢともかうもこれであひはからへ」とぞ宣ひける。河越小太郎二人の女房どもに申しけるは、「大臣殿は鎌倉へ御(おん)くだり候が、若公は京に御(おん)とどまりあるべきにて候。重房(しげふさ)もまかり下り候あひだ、緒方(をかた)の三郎維義(さぶらうこれよし)が 手へわたし奉るべきにて候。とうとう召され候へ」とて、御車寄せたりければ、若公なに心もなう乗り給ひぬ。「又昨日(きのふ)のやうに父御前(ちちごぜん)の御(おん)もとへか」とて、よろこばれけるこそはかなけれ。六条を東へやッてゆく。この女房ども、「あはやあやしき者かな」と、きも魂を消して思ひける程に、すこしひきさがッてつはもの五六十騎が程、河原へうち出でたり。 やがて車をやりとどめて、敷皮(しきがは)しき、「おりさせ給へ」と申しければ、若公車よりおり給ひぬ。よにあやしげにおぼして、「我をばいづちへ具してゆかむとするぞ」と問ひ給へば、二人の女房共とかうの返事にも及ばず。重房(しげふさ)が郎等(らうどう)太刀をひきそばめて、左の方より御(おん)うしろに立ちまはり、すでにきり奉らんとしけるを、若公見つけ給ひて、いく程のがるべき事のやうに、いそぎめのとのふところのうちへぞ入り給ふ。さすが心強(こころづよ)うとりいだし奉るにも及ばねば、若公をかかへ奉り、 人の聞くをもはばからず、天にあふぎ地にふしてをめきさけみける心のうち、おしはかられて哀れなり。かくて時刻てはるかにおしうつりければ、河越小太郎重房(かはごえのこたらうしげふさ)涙をおさへて、「今はいかにおぼしめされ候とも、かなはせ給ひ候まじ。とうとう」と申しければ、其時めのとのふところのうちよりひきいだし奉り、腰の刀にておしふせて、つひに頸(くび)をぞかいてンげる。たけきもののふどももさすが岩木(いはき)ならねば、みな涙をながしけり。くびをば判官の見参(げンざん)にいれんとて取ッてゆく。めのとの女房かちはだしにておッついて、「なにか苦しう候べき。御頸(おんくび)ばかりをば給はって、後世(ごせ)をとぶらひ参らせん」と申せば、判官もよにあはれげに思ひ、涙をはらはらとながいて、「まことにさこそは思ひ給ふらめ。もッともさるべし。とうとう」とてたびにけり。これをとッてふところにいれて、泣く泣く京の方へかへるとぞ見えし。其後五六日して、桂河(かつらがは)に女房二人(ににん)身を投げたる事ありけり。一人(いちにん)をさなき人のくびをふところにいだいて沈みたりけるは、此若公(このわかぎみ)のめのとの女房にてぞありける。いま一人むくろをいだいたりけるは、介錯(かいしやく)の女房なり。めのとが思ひきるはせめていかがせん、介錯の女房さへ身を投げけるこそありがたけれ。

現代語訳

こうしてだいぶ時間が経ったので、日もしだいに暮れてしまった。いつまでもそうしてはいられないので、乳母の女房が若君を抱き上げて御車にお乗せ申し、二人の女房どもも袖を顔に押し当てて、泣く泣くお暇申しながら、共に乗って出た。大臣殿は後姿をはるかにお見送りになって、「日ごろの恋しさは今の別れの悲しさに比べれば問題ではない」と悲しまれる。この若君は、母の遺言が痛ましいからというので、乳母の所へも預けられず、朝夕御前にてお育てになる。三歳で初冠(ういかぶり)着せて、義宗と名のらせた。しだいにお育ちになるにつれて、見た目・形は美しく、心は優しくお育ちになったので、大臣殿も悲しく愛おしい事に思われて、西海の旅の空、波の上、舟の中での住まいでも、かたときもお離れにならない。それなのに戦に敗れた後は、今日が初めての会見であった。

河越小太郎は、判官の御前へ参って、「さて若君の御事をどのように取り計らわれるのですか」と申したところ、「鎌倉までお連れ申すことはない。汝がともかくこの京都でよろしくはからえ」と言われた。河越小太郎が二人の女房共に申すには、「大臣殿は鎌倉へお下りになるが、若君は京都に御留まりになられるべきです。重房も罷り下りますので、緒方の三郎惟義の手に渡し申し上げることになります。早くお乗り下さい」と言って、御車を近付けたので、若君は何のお考えもなくお乗りになった。「又昨日のように父御前のもとへ参るのか」」と、喜ばれたのは空しい事であった。御車は六条通りを東へ進んで行く。この女房どもは、「ああ大変、変な事をする者だな」と、怖れおののく思いをしていたが、そのうちに軍兵五六十騎が、少し御車から後の方へ下がって、河原へ出た。軍兵共が、すぐに車を止めて、敷皮を敷き、「お降りください」と申したので、若君は車から降りられた。 怪訝な事をと思われて、「私を何処へ連れて行こうとするのか」とお尋ねになると、2人の女房どもは何も返事をしない。重房の郎等が太刀を抜こうとして体の傍へ太刀を引きつけ、左の方から御後ろに立ち回って、もはやお斬り申しあげようとしたのを、若君が見つけられて、いくらかでも逃れられるように、急いで乳母の懐の中へお隠れになる。武士も気強く取り出すわけにもいかず、若君を抱え申したが、若君が、人の聞くのもはばからず、空を仰ぎ、地に伏しておめき叫ばれた心の内が推し量られて哀れである。こうしているうちに時間がかなり経ってきたので、河越小太郎重房は涙を抑えて、「今はどのように思われようとも、希望はかないますまい。早く早く」と申したので、その時乳母の懐の中から引き出し申しあげ、腰の刀に押し伏せて、ついに首をかいたのだった。勇猛な軍兵もさすがに岩木ではないでの、皆涙を流したのだった。首を判官にお目にかけようと取って行く。乳母の女房は裸足で追いついて、「何のさしつかえがありましょうか。御首ばかりを頂いて、後世を弔い参らせましょう」と申すと、判官もまことに哀れに思い、涙をはらはらと流して、「まことそのように思われるのであろう。そうするのが一番良い。早く早く」と若君の首をお与えになった。女房はこれを取って懐に入れ、泣く泣く京都の方へ帰るように見えた。其の後五六日して、桂川に女房二人が、身を投げる事があった。そのうちの一人が幼い人の首を懐に抱いて沈んだが、それは、この若君の乳母の女房であった。もう一人骸(むくろ)を抱いていたのは、付き添いの女房である。乳母が覚悟を決めたのはよくよくの事でやむを得ない事だが、付き添いの女房さえ身を投げたのはめったにないことであった。

語句

■むざんなれば 不憫であるので。気の毒であるので。 ■初冠 元服して初めて冠をつけること(参考『伊勢物語』第一段)。 ■義宗 『尊卑分脈』には「能宗」とある。 ■緒方の三郎惟義 豊後国大野郡緒方庄(大分県大野市緒方町)の人。本姓は大神(おおみわ)。三輪の明神(大物主神)の子孫と伝える(巻八「緒環」)。 ■ひきさがッて 車から下がって。 ■ひきそばめて 太刀を抜くために体に引き付ける動作。 ■さすが心強う 武士は心強いものだが、そうはいってもやはり。 ■腰の刀 鍔のない短刀。 ■岩木ならねば 「人木石ニ非ズ、皆情アリ」(白氏文集・李夫人)。 ■見参にいれん お目にかけよう。 ■なにか苦しう候べき なんの差し障りがありましょう。何の差し障りもないでしょう。 ■桂川 大堰川の下流。 ■介錯 付き添い。

朗読・解説:左大臣光永

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