吉備津の釜 七

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明くれば夜(よべ)のさまをかたり、暮るれば明くるを慕(した)ひて、此の月日頃千歳(ちとせ)を過ぐるよりも久し。かの鬼も夜ごとに家を鐃(めぐ)り或は屋(や)の棟(むね)に叫(さけ)びて、忿(いか)れる声夜ましにすさまじ。かくして四十二日といふ其の夜にいたりぬ。今は一夜にみたしぬれば、殊(こと)に慎(つつし)みて、やや五更(ごかう)の天(そら)もしらじらと明けわたりぬ。

長き夢のさめたる如く、やがて彦六をよぶに、壁によりて「いかに」と答ふ。「おもき物いみも既に満(みて)ぬ。絶(たえ)て、兄長(このかみ)の面(おもて)を見ず。なつかしさに、かつ此の月頃の憂怕(うさおそろ)しさを心のかぎりいひ和(なぐ)さまん。眠(ねむり)さまし給へ。我も外の方に出でん」といふ。彦六用意なき男なれば、「今は何かあらん。いざこなたへわたり給へ」と、戸を明くる事半(なかば)ならず、となりの軒に「あなや」と叫ぶ声耳をつらぬきて、思はず尻居(しりゐ)に座す。

こは正太郎が身のうへにこそと、斧(をの)引堤(ひきさげ)て大路(おほぢ)に出づれば、明けたるといひし夜はいまだくらく、月は中空(なかぞら)ながら影朧々(ろうろう)として、風冷(ひや)やかに、さて正太郎が戸は明けはなして其の人は見えず。内にや逃げ入りつらんと走り入りて見れども、いづくに竄(かく)るべき住居にもあらねば、大路にや倒(たふ)れけんともとむれども、其のわたりには物もなし。いかになりつるやと、あるいは異(あや)しみ、或はおそるおそる、ともし火をかかげてここかしこを見廻(めぐ)るに、明けたる戸脇(とわき)の壁(かべ)に生々しき血灌(そそ)ぎ流(ながれ)て地につたふ。されど屍(しかばね)も骨(ほね)も見えず。月明かりに見れば、軒の端(つま)にものあり。

ともし火を捧(ささ)げて照(てら)し見るに、男の髪の髻(もとどり)ばかりかかりて、外には露ばかりのものもなし。浅ましくもおそろしきは筆につくすべうもあらずなん。夜も明けてちかき野山を探しもとむれども、つひに其の跡さへなくてやみぬ。

此の事井沢が家へもいひおくりぬれば、涙ながらに香央(かさだ)にも告(つげ)しらせぬ。されば陰陽師が占(うら)のいちじるき、御釜の凶祥(あしきさが)もはたたがはざりけるぞ、いともたふとかりけるとかたり伝へけり。

現代語訳

夜が明ければ、昨夜の恐ろしさを語り、日が暮れたら、明けるのを慕い、此の数十日間というものは、まるで千年を過すよりも長く思われた。あの死霊も夜ごと家の周りを徘徊し、或は家に向って叫び声をあげ、その怒りに震えた声は一晩増すごとにすさまじくなった。このようにして四十二日目の夜になった。今となっては、今夜一晩で物忌みの期間も終わるところまできたので、いつもより慎み深く謹慎して、しばらくするうちに夜明けの空が白々と明けわたってきた。

(正太郎は)長い夢から覚めたような気がして、すぐに彦六に声をかけると、(彦六も)境の壁際に身を寄せて「どうしました」という。(正太郎は)「重い物いみもすっかり終わりました。このところ、しばらく貴方のお顔を見ておりません。懐かしさも懐かしいし、またこのひと月あまりのつらさや恐ろしさを、思う存分話し合って心を慰めたいものです。目を覚ましてください。私も外に出ますから」と言う。彦六は思慮の浅い男だったので、「もう大丈夫ですよ。さあ、こちらへおいでなさい」と戸を開けかかったが、半分も開けていないのに、正太郎の家の軒のあたりで「うわぁぁぁ」と叫ぶするどい声が耳に入り、思わず、尻もちをついた。

これは正太郎の身に何か起こったに違いないと、斧を引っ提げて表通りに飛び出してみると、明けたはずの夜は、いまだに暗く、月は中空にあるものの、その影はおぼろにぼうっとして、風は冷たく、さて、(正太郎の家を見ると、)戸は開け放たれているが正太郎はいない。家の中に逃げ入ったのかと、走り入ってみたが、どこにも隠れようのない広さの住居なので、表通りに倒れているのではと探したが、そのあたりには何もみあたるものがない。「どうなったのであろう」と、或は不思議に思い、或は恐る恐る灯火をかかげて、あちらこちらと探し回っていると、開け放たれた戸の脇の壁に生々しい血が注ぎ流れて、地面にしたたり落ちているが、死体も骨もない。月明かりをすかして見ると、軒の先に何か物が下がっている。

(彦六が)灯火を高くさしあげて照らしてみると、男の髪の髻だけがぶら下がっており、ほかにはなにも無い。呆れかえりながらもその恐ろしさは筆には書きつくせないほどである。夜が明けてから、近くの野山を探し、(正太郎の姿を)求めたが、とうとうその形跡さえ見つけだすことができなかった。

此の事を井沢の家に言い送ってやると、涙ながらに香央家にもこのことを告げ知らせた。そんなわけで、陰陽師の占いが的中したこと、御釜の凶のお告げも果たしてそのまま事実として現れたことは、実にあらたかなことであったと、世の人々はかたり伝えたのである。

語句

■此の月日頃千歳(ちとせ)を過ぐるよりも久し-この数十日間と言うものは、まるで千年を過すよりも長く思われた。■夜ましに-一晩ますごとに。■一夜にみたしぬれば-今夜一晩で物忌みの期間も終わるところまできたので。■やや-やっと。しばらくするうちに。■五更-およそ午前四時~六時。■壁によりて-壁に身を寄せて。■兄長(このかみ)-年長者に対する敬称。■用意なき男-普通の男。思慮分別の浅い男。軽はずみでなうかつな男。■耳をつらぬきて-鋭い音声が耳に入ること。■尻居(しりゐ)に座す-尻もちをつく。■正太郎が身のうへにこそ-正太郎の身の上に異変が起こったに違いない。■明けたるといひし夜はいまだくらく-さっき正太郎が夜が明けたと思ったのは、怨霊にだまされたのである。■いひし-誰が言ったというわけではなく、二人がそう思い込まされていたことを示す表現。■朧々(ろうろう)として-おぼろにぼうっとしたさま。■いづくに竄(かく)るべき住居にもあらねば-どこにも隠れることのできるような広い住居でもないので。■かかげて-かざして。■生々しき血-鮮血。■ものあり-ここでの「もの」は異物。■捧(ささ)げて-高くさし上げて。■髻(もとどり)-髪を頭の頂に集めて、その元を束ねたもの。■露ばかりの-少しも。わずかも。なにひとつ。■浅ましき云々-驚き呆れた。■筆につくすべうもあらずなん-とても書きつくせないほどである。■其の跡さへなくてやみぬ-形跡さえ見つからなくて、そのままに終った。■陰陽師-前記のごとく、古代の播磨の国は、すぐれた陰陽師が輩出した地である。それだけにこの地方では、陰陽術の効験は信じられていたと思われる。■占のいちじるき-占いがよく的中したこと。■御釜の凶祥(あしきさが)もはたたがはざりけるぞ-御釜祓いの凶兆のお告げもはたしてそのまま事実としてあらわれたことは。

備考・補足

■四十九日の夜、磯良の怨霊は、夜が明けたと錯覚させ、正太郎を戸外に呼び出して襲ったのである。ここにいたって怨霊の凄まじさは、神仏を超えた底知れぬ威力を持つ悪鬼として浮かび上がる。
■此の惨劇の、どんな分析的具体的な描写にもまして効果的なのは、この「髻ばかりかかりて」であろう。そこに何が行われたかを作者は書かず、逆にそれゆえに読者の想像力は瞬時に激発させられ、恐怖と戦慄は倍加する。怪異を描く迫真力において、以前からかなり有名な一節である。この場面の典拠として多くの説があるが、そのいずれよりもこの一篇は想像を絶する凄まじいイメージを創っている。
■正太郎はかくして凄惨な最後を遂げたのだが、その場面が「印南郡荒井村」、すなはち謡曲「高砂」で著名な「高砂の浦」であるという皮肉さは、作者の意図的設定であったか、なかったか。この二人は親族から、めでたい和合長寿を予祝されて結婚しながら、その予祝の曲の「高砂」の地で、稀に見る破滅をとげる物語なのである。

<参考文献一覧>

本資料作成にあたり以下の文献を参考にしました。

・英草紙 西山物語・雨月物語・春雨物語

  一九九五年十一月十日 第一版第一冊発行
  ニ〇〇三年七月二〇日第一版第三冊発行
  発行所 小学館

・古典新釈シリーズ25 雨月物語

  一九七八年四月二十五日 初版発行
  ニ〇〇余年       重版発行
  著者 太刀川 清
  
・三省堂 全訳 読解古語辞典

  二〇十三年一月十日 第一冊発行

・完訳 日本の古典 第五十七巻 雨月物語 春雨物語

  昭和58年9月30日初版発行
  発行所 小学館

・マンガ 日本の古典 雨月物語

  一九九六年十二月十日初版印刷
  一九九六年十二月二十日初版発行
  著者 木原敏江
  発行所 中央公論社  

・図説日本の古典17 上田秋成   

  一九八九年八月二十三日 新装第一刷発行
  著者代表 松田 修
  発行所 株式会社 集英社

・雨月物語

  一九七六年三月三十日 初版発行
  一九九七年四月十日  5版発行
  原本所蔵者 国立国会図書館
  発行者   池嶋洋次
  発行所   (株)勉誠社

・日本の名作映画集28 雨月物語
 
  監督 溝口 健二
  出演 京マチ子/森雅之

・雨月物語(上)

  著者 青木政次
  1981年6月10日 第1冊発行
  1994年12月20日 第21冊発行
  発行所 株式会社講談社

・改訂版雨月物語

  発行者 青木誠一郎
  発行所 角川学芸出版
  平成十八年七月二十五日 初版発行
  平成十九年十月十五日  三版発行
  
・雨月物語

  校訂者 高田 衛・稲田篤信
  発行所 株式会社 筑摩書房
  一九九七年十月九日 第一刷発行

・雨月物語精読

  編者 稲田篤信
  発行所 勉誠出版(株)
  ニ〇〇九年四月一日 初版発行

・水木しげるの【雨月物語】

  著者 水木しげる
  一九八五年七月二十日初版発行
  一九九二年八月二五日六版発行
  発行所 河出書房新社

朗読・解説:左大臣光永


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