発端序

原文

道中膝栗毛発端 全

膝栗毛発端序

鬼門関外莫道遠(きもんくはんぐはいとをしといふことなかれ)、五十三駅是皇州(ゑきこれくはうしう)、といへる山谷(さんこく)が詩(し)に拠(より)て、東海道(とうかいだう)を五十三次と、定(さだめ)らるよしを聞(きけ)り。予此街道(かいだう)に毫(ふで)をはせて、膝栗毛(ひざくりげ)の書(しよ)を著(あらは)す。元来野飼(もとよりのがひ)の邪々馬(じやじやむま)といへども、人喰(ひとくひ)馬にも相口(あいくち)の版元(はんもと)、太鼓(たいこ)をうつて売弘(うりひろめ)たる故、祥(さいわゐ))に乗人(のりて)ありて、編数(へんすう)を累(かさ)ね、通(とを)し馬となり、京大阪(きやふおほさか)および、藝州宮嶋(げいしうみやじま)までの長丁場(ながてうば)を歴(へ)て帰(かへり)がけの駄賃(だちん)に、今年続(ことしぞく)五篇、岐蘇路(きそぢ)にいたる。弥次郎兵衛北八の称(な)、異国(からくに)の龍(りやう)馬にひとしく、千里(ちさと)の外に轟(とどろき)たれば、渠等(かれら)が出所(しゆつしよ)を問ふ人有。依(よつ)て今その起(おこ)る所を著(あらは)し、東都(とうと)を鹿島立(かしまだち)の前冊(ぜんさつ)とし、おくれ走(ばせ)に曳出(ひきいだ)したる、馬の耳(みみ)に風もひかさぬ趣向(しゆかう)のとつて置(おき)を、棚(たな)からおろして如斯(かくのごとし)。

千時文化

甲戍初春

十返舎一九

現代語訳

鬼門関外は遠いという事なかれ、五十三駅是みな帝都なり、と言った中国の文化人山谷の詩にヒントを得て、東海道を五十三次と、決められたということを聞いた。私はこの街道に筆を馳せて、膝栗毛の書を著す。もとより野飼いの暴れ馬のような洗練されぬ粗悪な作品ではあるが、出来の悪い作品でも読んでくれる人がおり、調子を合わせて宣伝してくれたので、幸に愛読者があって、出版数も多くなり、この作品は江戸から京・大阪及び広島県までの範囲での広範囲な作品になった。江戸へ帰るついでに今年続編五編を出刊し、木曽路に至る。弥次郎兵衛北八の名は諺にいう千里を走る名馬と同じように、広く知れ渡ってきて、彼らの出所を尋ねる人がでてきた。依って今その起りを著し、江戸を鹿島立ちの前冊とし、遅ればせながら曳き出した、今迄にない新鮮な趣向のとっておきを、棚から下して披露するのである。

語句

■鬼門関-中国の南方、広西省にある関所。■皇州-① 帝都およびその付近の一帯② 天皇のくに。日本をいう。■山谷-宋代の文人黄庭堅(1045~1105)の号。■五十三次-徳川時代、江戸から京都に至る街道に配せられた五十三個の宿駅をいい、「次」とは各駅で、伝馬・飛脚の継立を行った呼称で、幕府がこれを定めたのが慶長三年である。■膝栗毛-膝を栗毛の馬に代えて歩く意。徒歩で旅行すること。■邪々馬(じやじやむま)-人に馴れない暴れ馬。洗練されぬ粗悪な作品。■人喰(ひとくひ)馬-人に噛みつく悪癖のある馬。■相口の版元-それに相応する版元。■人喰(ひとくひ)馬にも相口の版元-出来の悪い作でも読んでくれる人がいる、の意。■太鼓をうつて売弘(うりひろめ)たる-調子を合わせて宣伝した。■乗手-読者。■通し馬-この作品が江戸から京・大阪まで続いたのをいう。■藝州宮嶋-安芸国(広島県)の厳島神社の地。■長丁場-宿場間の長いこと。ここは長旅の続くことをいう。■帰(かへり)がけの駄賃(だちん)に-江戸へ帰るついでに。■今年続(ことしぞく)五篇-文化十一年(1814)、『続膝栗毛』五編刊。■岐蘇路-広くは中仙道、狭くは中仙道のうち、信濃(長野県)の部分をさす。■龍馬-名馬。駿馬をいう。狭義の時、黄河から八卦を背負うて竜馬が現れたという。■千里の外-一日に千里を走る馬を千里の馬という。弥次郎北八の名が広くひろがったことをいう。■出所-出身・素性。■東都-江戸。■鹿島立-旅の出発。鹿島の明須波明神に、旅に出る時安全を祈るゆえ、また鹿島・香取の二神が天孫降臨の先駆をしたゆえともいう(『和訓栞』など)。■おくれ走に-遅れて駆け付けること。『膝栗毛』発行以来十三年目の発端の出刊をいう。■馬の耳(みみ)に風もひかさぬ趣向(しゆかう)-諺「馬の耳に風」を利用して、「風を引く」即ち薬などが、空気に触れて効かなく古くなるごとくではないと続けた。つまり、新鮮な趣向、という意。■とつて置(おき)-大切にしまっておいたもの。■棚からおろして-棚の上にしまってあったのを披露する意。■甲戍-文化十一年。

原文

累解

或人問(あるひととふ)、弥次郎兵衛、喜多八は、原(もと)何者ぞや。答曰(こたへていはく)何でもなし、弥治唯の親仁(おやぢ)なり、喜多八これも駿州江尻(すんしうゑじり)の産(さん)、尻喰観音(しりくらひくはんのん)の地尻(ぢじり)にて、生(うま)れたる因縁(いんえん)によりてか、旅役者(たびやくしや)、花水多羅(たら)四郎が弟子(でし)として、串童(かげま)となる。されど尻癖わるく、其所に尻すはらず、尻の仕廻(しまひ)は尻に帆(ほ)をかけて、弥治に随(したが)ひ出奔(しゆつぽん)し、供に戯気(たはけ)を尽す而己(のみ)。此書(このほん)、両士(ふたり)が東都(ゑど)神田(かんだ)の八丁堀に、店借(たながり)し居(ゐ)たりし中(うち)のことを著(あらは)し、終(つゐ)に旅行(りよかう)の発起(ほつき)とする所以(ゆえん)の、馬鹿(ばか)らしきことを、作者(さくしや)が寝酒(ねざけ)の飲料(のみしろ)に、余計(よけい)の著述(しごと)をなすものならし

現代語訳

ある人が尋ねる。弥次郎兵衛と喜多八は、もともと何者なのかと。答えて言う。何者でもない。矢治は只の親仁である。喜多八これも弥治と同じく駿河国江尻の生まれで、どうでもいい所で生まれた因縁によるものか旅役者、花水多羅四郎の弟子として、陰間となる。しかし、落着きが無く、一ヵ所に落ち着くという事がなく、最後には尻に帆かけて弥次に従って出奔し、供に戯けた事をするだけ。この本は、二人が江戸神田の八丁堀で店借をして住んでいた時のことを明らかにし、終には旅立つ事になる所以となった馬鹿らしいことを、作者の寝酒の飲み代として著述したものである。

語句

■累解-重ねて説明するぐらいの意に用いたか。■駿州江尻-駿河国(静岡県清水市)、五十三次宿駅の一。「尻」は陰間の縁語。一九は弥次郎兵衛を、自らの親兄の住地府中(今の静岡市)の人としたので、その近くで「尻」のつく地を選ぶ。■尻喰観音-諺。困った時は観音を念じても、窮地を脱すると「尻食え」と言って観音を罵る。どうともなりやがれの意。「江尻」から「尻喰」を出した。■地尻-ある地域(ここは観音境内)の奥の地面。

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朗読・解説:左大臣光永