初編 品川より川崎へ

原文

うち興(けう)じて、ほどなく品川(しながわ)へつく。弥次郎兵へ

海辺(うみべ)をばなどしな川といふやらん

と難(なん)じたる上(かみ)の句(く)に、きた八とりあへず

さればさみづのあるにまかせて

いとおもしろく歩(あゆ)むともなしに、鈴(すず)ヶ森(もり)にいたり、弥次郎兵衛

おそろしや罪(つみ)ある人のくびだまにつけたる名(な)なれ鈴(すず)がもりとは

大森(おおもり)といへるは麦藁(むぎはら)ざいくの名物(めいぶつ)にて、家(いへ)ごとにあきなふ

飯(めし)にたくむぎはらざいく買(かい)たまへこれは子(こ)どもをすかし屁(べ)のため

それより六郷(ろくごう)の渉(わたし)をこへて、

現代語訳

品川より川崎へ

さんざん面白がって、間もなく品川に着く。弥次郎兵衛、

海辺をばなどしな川といふやらん

と難しい上の句に、北八とりあえず

されば鮫洲(さみず)のあるにまかせて

愉快でたまらず、歩むも軽かった。いつの間にか鈴ヶ森に着き、弥次郎兵衛

恐ろしや罪ある人の首につけたる名なれ鈴ヶ森とは

大森という所は麦藁細工が名物で、家ごとに商いをしている

飯に焚く麦藁細工買いたまえこれは子どもをすかし屁(へ)のため

それから六郷川の渡しを越えた。

語句

■品川-日本橋から二里、江戸から第一番目の宿駅(今は品川区)。以下宿駅間の距離は一九の序にある文化二年(1805)刊の『早見道中記』による。■さみず-品川の海晏寺の門前の鮫洲(品川区東大井)という立場(たてば)。訛って「さみづ」とも。建長の頃ここで大きな鮫を取ったゆえと。江戸より旅人を送る人は遠くはここに至った。「さみづ」を真水(まみづ)に当てて、品川の称もよかろうと洒落たもの。■鈴が森-品川宿の南のはずれで、御仕置場・晒場があった所(今の南大井二~四丁目)。日本橋より南、南関東から西の者を処刑した。(花智留作登)。■くびだま-首筋と頸輪の両意あるを利用して「首縄をかける」を「頸輪の鈴」にかけた詠。■大森-品川の南に続いた村(大田区大森東)。名物に和中散・海道茶漬。■麦藁(むぎはら)ざいく-大森第一の名産。籠、彩色した麦藁をはった箱・舟・馬などの形を作ったものなどさまざま(『東海道名所図会』に図あり)。■飯にたく-「飯にたく」は枕詞的修辞。「麦」と「屁」は縁語。子どもをなだめすかすために、麦藁細工を買いたまえの意。■六郷-『諸国道中記』(天明四年刊)。解説参照)に「六がう・・・昔は大橋有しが今は舟わたし也、武家の外は舟ちん十文(文化二年は十二文)出る、此川玉川と云ふ」。東京都川崎の間の川。ここを渡れば川崎宿(今の川崎市)。品川より二里半。

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朗読・解説:左大臣光永