初篇 日本橋より品川へ

原文

浮世道中膝栗毛完

浮世道中膝栗毛初篇(うきよだうちうひざくりげしよへん)

十偏舎一九著

発 語

富貴自在冥加(ふきじざいみやうが)あれとや、営(いとなみ)たてし門(かど)の松風(まつかぜ)、琴(こと)に通(かよ)ふ、春(はる)の日(ひ)の麗(うららか)さ、げにや大道(だいだう)は髪(はつ)のごとしと、毛すじ程(ほど)も、ゆるがぬ御代(みよ)のためしには、鳥(とり)が鳴吾妻錦絵(なくあづまにしきゑ)に、鎧武者(よろひむしや)の美名(びめい)を残(のこ)し、弓(ゆみ)も木太刀(きだち)も額(がく)にして、千早振神(ちはやぶるかみ)の広前(ひろまへ)に、おさまれる豊津国(とよつくに)のいさほしは、尭舜(げうしゆん)のいにしへ、延喜(ゑんぎ)のむかしも、目撃(まのあたり)見る心地(ここち)になん。いざや此(この)とき、国々(くにぐに)の名山勝地(めいざんしやうぢ)をも巡検(じゆんけん)して、月代(さかやき)にぬる、聖代(せいたい)の御徳(おほんとく)を、薬鑵頭(やくはんあたま)の茶呑(ちやのみ)ばなしに、貯(たくは)へんものをと、玉(たま)くしげふたりの友(とも)どちいざなひつれて、山鳥(やまどり)の尾(を)の長旅(ながたび)なれば、臍(ほぞ)のあたりに打(うち)がへのかねをあたため、花(はな)のお江戸を立出(たちいづ)るは、神田(かんだ)の八丁堀辺(はつてうぼりへん)に、独住(ひとりずみ)の弥次郎兵(やじろべい)へといふのふらくもの、食客(いそうろう)の北八(きたはち)もろとも、朽木草鞋(くつきわらじ)の足(あし)もと軽(かる)く、千里膏(せんりかう)のたくわへは、何貝(なんかい)となく、はまぐりのむきみしぼりに対(つい)のゆかたを吹(ふき)おくる、神風(かみかぜ)や伊勢参宮(いせさんぐう)より、足引(あしびき)のやまとめぐりして、花(はな)の都(みやこ)に梅(うめ)の浪速(なには)へと、心ざして出行ほどに、はやくも高なはの町に来かかり、川柳点(せんりうでん)の前句集(ぜんくしう)をおもひいだせば

高(たか)なはへ来(き)てわすれたることばかり

とよみたれ共、我々(われわれ)は何ひとつ、心(こころ)がかりの事もなく、独身(ひとりみ)のきさんじは、鼠(ねずみ)の店賃(たなちん)いだすも費(ついへ)と、身上(しんしやう)のこらず、ふろしき包(づつみ)となしたるも心やすし。去(さり)ながら、旦那寺(だんなでら)の仏餉袋(ぶつしやうぶくろ)を和(やは)らかにつめたれば、外(ほか)に百銅地腹(ひやくどうぢばら)をきつて、往来(わうらい)の切手(きつて)をもらひ、大屋(おほや)へ古借(こしやく)をすましたかわり、御関所(おせきしよ)の手形(てがた)をうけとり、ふめるものは、みたをしやへさづけて金(かね)にかへ、がらくた物は店(たな)うけにしよはせて礼(れい)をうけ、漬菜(つけな)のおもしと、すみかき庖丁(ほうてう)は隣(となり)へのこし、ちぎれたれども、縄(なは)すだれと油坪(あぶらつぼ)は、むかふへゆづりてなにひとつ、取のこしたるものもなく、まだも心がかりは、酒屋(さかや)と米(こめ)やのはらひをせず、だしぬけにしたればさぞやうらみん、きのどくながら、これもふるきうたに

さきのよにかりたをなすか今かすかいづれむくひのありとおもへば

打ちわらひつつ、弥次郎兵へまた狂詩(きやうし)を口づさむ

雖非亡命可奈何(かけおちにあらずといへどもいかんがすべき) 借金不報尻過(しやつきんはらはずしりをはしよつてすぐ)

夫居本貫掛乞衆(そこにござれゑどのかけとりしう) 将是川向戌干戈(まさにこれかはむかいのけんくはなるべし)

現代語訳

日本橋より品川へ

浮世の富貴を思うがままにお授けください、神仏からのお助けがありますようにと家々で祈る。門松の風に琴の音が通う春の日の麗(うらら)らかさ、人としておこなうべき道義は髪のようだ言われるのは本当だろうか。少しも揺るがない時代の前例には、鳥が啼いているのを描画した吾妻錦絵の中でのみ、実在しない鎧武者の姿を見ることができる。弓や太刀も、実際には使用例は少なく、奉納の額に載るのみ、神前に、日本国中を治めた徳川将軍家の功績は、中国古代の理想時代の昔、醍醐帝時代の昔も、目の前に見る心地である。いざ、この時に、国中の名山景勝地をめぐって見て、月代に塗る青墨ならぬ聖代の御徳をぼんくら頭に染み込ませて、優れた天子の治める世の茶飲み話の種として貯えておこうと、誘い合った友達二人連れ、山鳥の尾のような長旅をしようと、虎の子の財布は臍の辺りにしっかりと結び付け、花のお江戸を出発するのは、神田の八丁堀辺りに、一人住まいをしている弥次郎兵衛という怠け者。その食客の北八と共に朽木草鞋の足元軽く、千里膏もしこたま仕込み、蛤の剥き身絞のそろいの浴衣を吹き翻し、まずお伊勢への参宮から初め、大和巡りをして、花の京都から梅の浪速へと、志して出発し、早くも高輪の町に通りかかり川柳点の前句集を思い出すと

高輪へ来て忘れたことばかり

と詠んだが、我々は何一つ、気がかりな事もなく、独身の気楽さは、残るのは鼠のみで家賃を払うのも無駄な出費だと、借家を返し、全財産残らず、ふろしき包にしてしまって心も軽い。そうは言っても菩提寺への供米の袋に平成少なめに入れたので、そのほかに銅銭で百文自腹を切って 往来切手をもらい、大屋へは古くからの借金を払ったかわりに関所手形を受け取り、値踏みが出来て金になりそうなものは、古物商へ譲って金に換え、がらくた物は借家の保証人に任せて礼をうけ、漬物石と、炭掻き包丁は隣家へあげ、ちぎれた縄簾と油壷は、お向かいに譲って何一つ、残ったものは無いといってみたいが、まだの心残りは酒屋と米屋の支払いをせず、機先を制して欺き、旅に出たので、えらく恨んでいるだろう。気の毒だけど、これも古い歌に言う

先の世に借りたをなすか今貸すかいづれ報いのありと思えば 

笑いながら、弥次郎兵衛また狂詩を口ずさむ

駆け落ちにあらずと言えども奈何がすべき 借金払わず大急ぎで逃げた

そこにござれ生れ故郷の賭け取り衆 将に是はとやかく言ってももう遅い

語句

■富貴-金持ちで、かつ地位や身分が高いこと。また、そのさま。■自在-思いのまま。邪魔するものがなく思うとおりになること。■冥加-神仏から知らず知らずに受ける加護(助力)。おかげ。好運であること。■大道-人として行うべき正しい道義。根本の道徳。たいどう。■毛すじ程(ほど)も-少しも。髪の縁語。■吾妻錦絵(あづまにしきゑ)-浮世絵の多色の彩色摺。明和二年(1765)に始まる(一話一言)。■鎧武者-鎧武者は現実には見られず、錦絵にて知るのみ。■弓も木太刀も~-弓や太刀も、実際には使用少なく、奉納の額に載るのみ。■千早振-神の枕詞。■広前-神前。■おさまれる豊津国(とよつくに)のいさほし-日本国中を治めた徳川将軍家の功績。■尭舜(げうしゆん)-中国古代の理想時代。■延喜-日本王朝の善政の代表醍醐帝時代。■月代(さかやき)-頭の中剃りの部分を青く塗る「青黛」を、「聖代」にかけた序詞。■薬鑵-「茶呑話」の序詞。また「月代」の縁語。 ■玉くしげ-「ふた」の枕詞。ふたりを「蓋り」として「薬鑵」の縁語。■山鳥の尾-「長」の序詞。■臍のあたりに-へその辺りに、金入れを巻いたこと。■打ちがへ-金を入れて体に巻いて所持する長い布製の袋。■花のお江戸-繁栄の江戸を形容した語。■のふらくもの-能楽者。のら者。なまけ者(俚言集覧)。■朽木草鞋-『江戸塵捨』五に「朽木土佐守屋敷の中間作兵衛といふもの作り出せり、・・・巌石茨の中を踏むとも其難なく、遠路旅行にも草臥る事なく、足の痛む事なし、道不達者なる者も千里薬を用ひずして、此わらんじをはいて行けば足の軽き事妙なり」。■千里膏(せんりかう)-『江戸買物独案内』に「本家勢州松坂湊町桜井、弘所通二丁目丸屋利助、諸の腫物やけど、きり疵よし、旅行足のうらにぬりて、くたびれすくなし」。■貝-膏薬を貝に入れて売った。次の「はまぐり」は縁語。■むきみしぼり-『守貞漫稿』に「江戸にてむきみ絞りと云ふは、蛤・ばか・あさり等、殻を去りたるを売る。是をむきみと云ふ。此絞、白地幽に藍色あること、むきみ多く器に盛るの形に似たり。故に名とす」。浴衣の模様。■吹きおこる-吹きひるがえす。「神風」に続く。■神風や-「伊勢」の枕詞。■足引-「やま」の枕詞。■花(はな)の都(みやこ)-繁栄する京都を賛美する語。■梅(うめ)の浪速(なには)-王仁の「浪速津に咲くや木(こ)の花・・・」(古今・仮名序)の詠による大阪の美称。■高なはの町-江戸府内の南の口、大木戸のあった一帯(今の港区)の地。高輪(たかなわ)十八丁で品川に続く。ここからの東海道が、いわゆる旅である。■川柳点(せんりうでん)-柄井川柳が点をして選んだ付句の意。「・・・でん」と濁る。■前句集-『古今前句集』。十冊、寛政八・九年、蔦屋重三郎刊。後に「誹風柳多留拾遺」と改題。『古今集』にならい、部立・年号別に配列した川柳集。■高(たか)なはへ来(き)てわすれたることばかり-『前句集』二「羈旅」所収。旅の気分になると、言いおくこと、持物など、あれもこれも忘れたことを思い出すの意。■きさんじ-気楽さ。■鼠の店賃~-残るは鼠のみで家賃を支払うもむだと、借家を返し。■身上-全財産。■旦那寺-菩提寺。仏事のみならず、寺請状や旅行者の証明書を出した。■仏餉袋(ぶつしやうぶくろ)-旦那寺の仏会などに檀家が定期的におくる供米を入れる袋。■和かにつめたれば-平生これを少なめに入れたので。■百銅-銅銭で百文。■地腹をきつて-自費。切手の札を特に奮発して。■往来の切手-寺から出して、旅中の死亡の時などその身元を明らかにする証明書。■大屋-家守。離れた所に住む地主・家持の代理で、町の公用も務め、土地・借家を管理する人。地代・店賃なども集めた。■古借-古くからの借金。■すました-支払った。■御関所の手形-箱根・新井の関所を通行するための身元証明書。名主または大屋が出した。■ふめるもの-値踏みができて金になるもの。■みたをしや-何でも安値で買い取る古物商。家移りの時など残物を引受けたりする。■さづけて-譲って。■がらくた物-値にならない諸道具。■店うけ-借家の時の保証人。■しよはせて-まかせて。■漬菜のおもし-野菜類の漬物に用いる、押えの石。■すみかき包丁-包丁の古くなったので、鍋釜の尻についた煤(すす)をかき落して、火回りをよくするもの。■縄すだれ-縄を並べ下げて製した簾(すだれ)。■油坪-油壷。■だしぬけに-機先を制して。■したれば-欺いたので。■きのどくながら-ここは、多少気がひけるけれどもの意。■さきのよに-上の句は前世に借りたのを返却するかの意。■雖-逐電。■尻過-大急ぎで逃げた。■本貫-『韻会』に「郷籍」とあって生れ故郷の意。初めは弥次郎兵衛を江戸っ子にしていたのである。■川向~利害関係のない意の諺を、とやかく言ってももう遅いの意に転用。

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朗読・解説:左大臣光永

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