初編 小田原より箱根へ

原文

女「おとまりなさいませおとまりなさいませ

トよびたつるこへかしましく、弥二郎しばらくかんがへ

梅漬(むめづけ)の名物(めいぶつ)とてやとめおんなくちをすくして旅人(たびびと)をよぶ

此しゆくのめいぶつういろうみせちかくなりて

北「ヨヤここの内は、屋根(やね)にでへぶでくまひくまのある内だ

弥「これがめいぶつのういろうだ

北「ひとつ買(かつ)てみよふ。味(うめ)へかの

弥二「うめへだんか。頤がおちらア

北「ヲヤ餅かとおもつたら、くすりみせだな

弥二「ハハハハハハこうもあろふか

ういろうを餅(もち)かとうまくだまされてこは薬(くすり)じやと苦(にが)いかほする

やがてやどやへつきければ、ていしゆさきへかけだして、はいりながら

「サアおとまりだよ。おさんおさん、お湯(ゆ)をとつてあげろ

現代語訳

小田原より箱根(はこね)へ

女「お泊りなさいませ、お泊りなさいませ」

呼び立てる金切声(かなきりごえ)がすごくやかましく、何を思ったか弥次郎、しばらく頭をひねって、

梅漬(うめづけ)の名物とてやとめをんなくちをすくして旅人をよぶ

小田原名物透頂香(とうちょうこう)ういろう屋が近くに見えてきた。

北八「おやおや、この家は、屋根(やね)の角がだいぶ凸凹(でこぼこ)しているのう」

弥次「これが名物、八ツ棟(むね)のういろう屋だ」

北八「ひとつ買ってみよう。ほんとに旨(うめ)えか」

弥次「旨えのなんのって、ここのは頤(あご)が落ちらあ」

北八「おや、変だぜ。餅(もち)かと思ったら、薬店(くすりみせ)だぜ。透頂香御調整所と、書いてあらあ」

弥次「はははは、こりゃどうじゃ」

ういらうを餅かとうまく騙(だま)されてこは薬じゃと苦(にが)い顔する

やがて宿屋に着いたので、亭主先へ駆け出して、わが店に入りこみ、

亭主「さあさあ、お泊りだよ。おさん、おさん。早いとこお湯を持ってこんかい。おさん、おさん」

語句

■梅漬-小田原名物の青梅の柏漬(『金の草履』二編)。■くちをすくして-たびたびにおなじ事を言う時の形容。狂歌は、「梅」の縁で「すく」を出し、留女のやかましく同じ言葉を繰り返すのを詠じた。■ういろう-虎屋藤右衛門で販売した丸薬「外郎」こと透頂香(とうちんこう)。痰を出し、喉をまもる。江戸にも出店あり、市川団十郎家の外郎売の口上で広告された。「東海道名所図絵」に、この八つ棟作りの店頭の図があり、「北条氏綱の時、京都西洞院錦小路外郎(ういろう)といふ者、此地に下り、家方透頂香を製して氏綱へ献ず。其由緒は、鎌倉建長寺の開山大覚禅師来朝の時供奉し、日本に渡り家方を弘む」と(『本朝世事談き』などにも説あり)。■でくまひくまおある内だ-出たり引っ込んだりの所。■頤がおちらア-甚だうまい物を食した時の形容。■餅-甚だ菓子の「ういろう餅」(一九編『餅菓子即席増補手製集』に「うゐらう餅仕法、一餅米の粉一升、一粳米の粉一升、一小麦の二合、一砂糖一斤、右くちなしの汁にて、ゆるゆるとこねあはせ、蒸籠にかけてむし上げ、さまして切なり。尤布をしくべし」)と混じたことにする。■こは薬じやと-これは薬じゃと、にがい薬を飲んで困るの意。『稿本蒸都枝折』に「一粒呑んで小田原のうそ」。

原文

宿の女ぼう「おはやうございます

ト茶をふたつくんでもつてくる 此内下女たらゐに、ゆをいれてもつてくると、弥二郎女のかほをよこめに、ちらと見て、小ごへに北をよびかけ

弥二「見さつし。まんざらでもねへの

北「あいつ今宵(こよい)ぶつてしめよふ

弥二「ふてへことをぬかせ。おれがしめるは

北「ソレおめへ、わらぢもとかずに足(あし)を洗(あら)ふか

弥二「ヲヤほんにハハハハハハ

北「エエでへなしに、湯(ゆ)をまつくろにした

トこごとをいいながら、あしをあらひ、すぐにざしきへとふると、女柳ごりさんどがさをもちきたり、とこの間におく

北「コレコレ女中(ぢよちう)、たばこぼんに火(ひ)をいれてきてくんな

弥二「ヲヤてめへもとんだことをいふもんだ

北「なぜなぜ

弥二「たばこぼんへ火を入れたらこげてしまはア。たばこ盆(ぼん)の中(なか)にある、火入のうちへ、火をいれてこいといふもんだ

北「エエおめへも、詞咎(ことばとがめ)をするもんだ。それじやア日の短(みじか)い時にやア、たばこをのまずにゐにやアならねへ

弥二「ときに腹(はら)がきた山だ。今飯(いまめし)をたくよふすだ。埒(らち)のあかねへ

北「コレ弥二さん、おいらよりやアおめへ文盲(もんもう)なもんだ

弥二「なぜ

北「めしをたいたら、粥(かゆ)になつてしまうわな。米(こめ)を焚(たく)といへばいいに

現代語訳

宿の女房「おはやいお着きでございます」

と手まわしよく茶をふたつ持って来る。じきに女が洗湯を盥(たらい)に入れて持ってくると、弥次郎は女の顔を横目に、ちらっと見て、小声で北八に呼びかけ、

弥次「見ろやい、いただけますね」

北八「ありゃ。今晩おれのと決めた」

弥次「ふてえ事を抜かすな。その大役は、このおれよ」

北八「そうれ、もう慌(あわ)てた。手めえ、草鞋(わらじ)もとかずに足を洗うか」

弥次「慌てん坊のとんま野郎か。はははは」

北八「そりゃあ、おめえの事よ。見ろ、湯が泥(どろ)で真黒(まっくろ)だ」

と小言を言いながら、足を洗い、すぐに座敷へ通ると、女が柳行李(やなぎごり)、三度笠(さんどがさ)などを持って来て、床の間に置く。

北八「これこれお女中。煙草盆(たばこぼん)に火を入れてきてくんな」

弥次「おや、手めえもとんだことを言うもんだ」

北八「なぜ。なぜ」

弥次「煙草盆に火を入れたら焦げてしまわあ。煙草盆の中にある、火入れの中へ、火を入れて来いと言うもんだ」

北八「詞咎(ことばとが)めをする御仁(おひと)だ。それじゃあ日の短い時にゃあ、煙草も飲まずにおらざあなるめえ」

弥次「時に腹が北山だ。いま飯(めし)を炊(た)く様子だから、しまつが悪い」

北八「わかった。弥次さんおいらよりおめえの方がよっぽど文盲(もんもう)だあ」

弥次「なにがよう」

北八「飯を焚いたら、粥(かゆ)になってしまうわな。米を焚くと言えばいいのに」

語句

■まんざらでもねへ-全く見られぬ程、みにくくもない。■ぶつてしめよふ-抱いて寝よう。■ふてへこと-太いこと。けしからぬこと。

※弥二は女に夢中になって、足を洗うのを忘れているさまを、北八の語で描写したもの。落語などの技法を取り入れた方法。

■でへなし-だいなし。湯を泥だらけにして、むだにした。■柳ごり-旅行荷物を入れたもの。■さんどがさ-『守貞漫稿』に「菅笠の一種也、三度飛脚之を用、故に名とす。深くすることは、誤って落馬することある時、面部を痢せざる備欺、又は四時風を防ぐを要す・・・」と。また「大深」とも。■火入-煙草盆の中に置く陶器の小さい壷のようなもの。火を入れる。■詞咎-言葉の端々の誤りを注意すること。■腹がきた山-腹がすいた意の「腹がきた」に、通言で動詞の末につける「山」を付した語。「ただとり山のほととぎす」などの類。■埒があかねへ-事が片付かない。■文盲-文字が読めない。無学。

原文

弥二「ばかアぬかせハハハハハハ

ト此内女たばこぼんをもつてくる

北「モシあねさん。湯(ゆ)がわいたらへへりやせう

弥二「ソリヤ人のことをいふ、うぬがなんにもしらねへな。湯(ゆ)がわいたらあつくてはいられるものか。それも、水が湯にわいたら、へへりやしやうとぬかしおれ

此内やどのおんな「モシおゆがわきました。おめしなさいませ

弥二「ヲイ水がわいたかドレはいりやせう

トすぐに手ぬぐひをさげ、ふろばへゆきて見るに、このはたごやのていしゆ、かみがたものとみへて、すいふろおけは、上がたにはやる五右衛門風呂といふふろなり。土をもつてかまをつきたて、そのうへへもちやのどらやきをやくごときの、うすべらなるなべをかけて、それにすいふろおけをきけ、まはりをゆのもらぬよふに、しつくひをもつて、ぬりかためる風呂なり。これゆへ湯をわかすに、たきぎ多分にいらず、りかただいいちのすいふろなり。くさつ大津あたりより。みな此ふろ也。すべて此ふろには、ふたといふものなく、底板うへにうきているゆへ、ふたのかはりにもなりて、はやくゆのわくりかた也。湯に入ときは、底を下へしづめてはいる。弥次郎このふろのかつてをしらねば、そこのういているを、ふたとこころへ、何ごころなくとつてのけ、ずつとかたあしをふんこんだところが、かまがじきにあるゆへ、大きにあしをやけどして、きもをつぶし

弥二「アツアツアツアツアツアツこいつはとんだすいふろだ

トいろいろかんがへ、これはどふしてはいるのだと、きくもばかばかしくそとであらひながら、そこらを見れば、せつちんのそばに、下駄があるゆへ、こいつおもくろいと、かのげたをはきて、ゆのなかへはいり、あらつていると、北まちかねてゆどのをのぞきみれば、ゆふゆふとじやうるり

弥二「おはんなみだのつゆちりほども

北「エエあきれらア。どうりで長湯(ながゆ)だとおもつた。いいかげんにあがらねへか

弥二「コレちよつと、おれが手をいぢつて見てくれろ

現代語訳

弥次「ばかあぬかせ。はははは」

とそのうちに女が煙草盆を持ってくる。

北山「もしあねさん。湯が沸いたらはいりやしょう」

弥次「そう、おいでなさると思った。手めえは何にも知らねえな。湯が沸いたら熱すぎてはいられねえぜ。そいつあ、水が湯に沸いたら、へえりやしよう、と言うもんだ」

しばらくすると、宿の女がまた、やって来て、

「もし、お湯が沸きました。お召しなさいませ」

弥次「ようし、水が沸いたか。そんなら入りやしょう」

とすぐに手拭を下げ、風呂場へ行って見ると、水風呂桶は、上方ではやっている五右衛門風呂という風呂だ。粘土で土竈を築き、その上に、餅屋のどら焼きを焼くような、薄っぺらな鍋を掛けて、その上に水風呂桶を乗せ、周りを湯の漏らぬように、漆喰を使って、塗り固めた風呂である。これゆえ湯を沸かすのに、薪はそれほど必要でなく利便第一の水風呂である。草津大津あたりから、みなこの風呂である。すべてこの風呂には、蓋という物は無く、底板が上に浮いているので、蓋の代わりにもなって、早く湯の沸く理屈である。湯に入る時は、浮いている底板を下へ沈めて入る。弥次郎はこの風呂の勝手を知らず、底板が浮いているのを蓋と思い込み、なんの気も無く取って退け、ずっと片足を踏み込んだところが、釜がすぐにあるので、ひどく足を火傷して、大変驚き、

「あつ、つつつ・・・・。こいつあ、とんだ、すい風呂だ」

腹立ちざまに考えたすえ、まさか、風呂入りの作法を誰かに聞くのも業腹(ごうはら)で、洗いながら、その辺りを見まわすと、便所の傍に下駄がある。それを早速(さっそく)つっかけてわが意を得たりと湯に入る。そこへ、さっきから待ちかねていた北八がそっと覗(のぞ)きにくる。見れば弥次郎は顎(あご)まで、とっぷりつかって浄瑠璃(じょうるり)のひとくさり。

「おはんなみだのつゆちりほども」

北八「あきれたもんだ。どうりで、長え湯だと思った。いいかげんにあがらねえか」

弥次「すまねえのう。ついでに、おれの手をいじって見てくれ」

語句

■かみがたもの-上方者。関西の出身者。■五右衛門風呂-『守貞漫稿』の居風呂の条に「京坂専用は、桶に底を付せず、この代わりに平釜を用ひ、土竈の上に之を置ひて薪および古材古器械朽木之類之を焚く、故に湯屋に之を与えず也、此風呂を五右衛門風呂と号ることは、昔の強盗石川五右衛門なる者、油煮の刑、俗の釜煮と云ふに行るると云伝へ、理相似たるを以て也」。■どらやき-銅羅焼。鉄板上で、うどん粉をねったもんを焼き、餡(あん)をそれで巻き、またははさんだ菓子。■きけ-載せて。■しつくひ-漆喰。石灰・砂などを混ぜて、布海苔(ふのり)の汁でこねたもの。石・金などの隙間をふさぎ、壁面を塗るなどの材。■りかた-利便、利益の法。■くさつ-草津(滋賀県草津市)。五十三駅の一。■大津-大津(大津市)。京都より一つ東の宿駅。即ち「近江路より西は」の意。■底板-五右衛門風呂に入る時、脚下に踏んで、釜である桶の底となる板。■りかた-理屈。理方。■かつて-勝手。様子。■とんだ-とんでもない。■せつちん-雲隠。厠(かわや)。便所。下駄は雲隠用のもののつもりであろう。■おもくろい-反対語にかえた洒落言葉の一。「おもしろい」の「しろ」を「白」とみて、逆に「黒」に変じたもの。■ゆどの-風呂場。■じやうるり-浄瑠璃。諸流派があったが、この頃には大体、義太夫節などの上方発生ものと、河東節・常磐津節などの江戸浄瑠璃と大別された。■おはんなみだのつゆちりほども-江戸浄瑠璃の富本節の「道行瀬川の仇浪」中の文句。「クドキ下ギン、お半は涙のつゆウちりほども、お前の無理じやあるまいけれど、・・・」。

原文

北「なぜに

弥二「もふゆだつたかしらん

北「いいきぜんな

トざしきへはいる。此内弥次ゆからあがり、かのげたをかたかげへかくし、そしらぬかほにて

弥二「サアへへらねへか

北「ヲツトしめた

トそうそうはだかになり、いちもくさんに、すいふろへかたあしつつこみ

北「アツアツアツアツアツアツ弥次さん弥次さん、たいへんだちよつときてくんな

弥二「そうぞうしいなんだ

北「コレおめへこの風呂(ふろ)へは、どふしてはいつた

弥二「馬鹿(ばか)め、すいふろへはいるに、別(べつ)にはいりよふが有ものか。先(まづ)そとで金玉(きんたま)をよくあらつて、そして足(あし)からさきへ、どんぶりこすつこつこ

北「エエしやれなんな。かまがじきにあつて、これがはいられるものか

弥二「はいられりやアこそ、手めへの見たとふり、今までおれがはいつてゐた

北「おめへどふしてはいつた

弥二「ハテしつこいおとこだ。水風呂へはいるのに、どふしてはいつたとはなんのことだ

北「ハテめんよふな

現代語訳

北八「なぜよ」

弥次「もう湯だったかもしれん」

北八「いい気なものだよ。長生きすらあね」

北八が座敷に帰ると、弥次郎は湯からあがり、自分のはいていた下駄を物かげにそっと隠し、知らぬ顔であがってきた。

弥次「お先に。さあ、はいらねえか」

北八「おっと、しめた」

と早々裸になり、一目散に、すい風呂へ片足を突っ込み

北八「助けて。弥次さん。大変だ。きてくれ」

弥次「やいやい。騒々しいぜ」

北八「おめえ。この風呂にどうやって入った」

弥次「頓馬め、風呂にへえるに、流儀なんざああるもんか。まず外で金玉をよっく洗って、次は、足から、どぶりこ、すっこっこさ」

北八「洒落(しゃれ)なさんなよ。釜がじきにあって、はいれるものかよ」

弥次「と言ったって、おまえの見たとおり、今までおれがはいってたんだ」

北八「だがおまえ、いったいどうして入った」

弥次「しっこい男だ。すい風呂に、どうしてお入りになりました、とはなんのこった」

と心の中では、可笑しさに応えられず、座敷へ帰る。北八はいろいろと考え、そこらを見廻し、弥次郎が隠しておいた下駄を見つけて、ははあ、読めたと、心でうなずき、すぐにその下駄を履いて、すい風呂の中へ入り

北八「どうも奇怪(きっかい)。どうも怪しい」

語句

■ゆだつた-野菜などをゆでる時に、その端をつまんで、柔らかさで、ゆで具合をたしかめるに真似た洒落。■いいきぜん-よい気なもんだ。「きぜん」は、性質、気分を意味する語。■いちもくさん-わき目もふらずに、いそいで。■どんぶりこすつこつこ-桃太郎の昔話で、桃が川上から流れて来るさまの形容にいう語。■じきに-直接に。じかに。■めんよふな-面妖な。不思議な。

原文

弥二「むつかしいこたアねへ。初(はじ)めの内ちつとあついのを、しんぼうすると、後(のち)にはよくなる

北「ばかアいいなせへ。しんぼうしてゐるうちにやア、足がまつくろにこげてしまはア

弥二「エエ埒(らち)のあかねへ男だ

ト心の内はおかしさ、こたへられずざしきへかへる。北八いろいろとかんがへ、そこらを見廻し、弥二郎がかくしておいたる下駄を見つけて、ハハアよめたと、心にうなずき、すぐにその下駄をはいて、すいふろのうちへはいり

北「弥二さん弥二さん

弥二「なんだ又呼(よぶ)か

北「なるほどおめへのいふとふり、入しめて見るとあつくはねへ。アアいいこころもちだ。あはれなるかな石どう丸は、ヅレレンヅレレン

此内弥二郎あたりをみれば、かくしておいたる下駄がなきゆへ、さてはこいつみつけたなと、おかしくおもつているうち、北八はさすがにしりがあつく、たつたりすわつたりいろいろして、あまり下駄にてぐはたぐはたとふみちらし、つゐにかまのそこをふみぬき、べつたりとしりもちをつきければ、湯はみなながれてシウシウシウシウシウ

北「ヤアイたすけぶねたすけぶね

弥二「どふしたどふしたハハハハハハハ

やどのていしゆこのおとにおどろき、うら口よりゆどのへまはりきもをつぶし

亭主「どふなさいました

北「イヤモウ命(いのち)に別条(べつじやう)はねへが、かまのそこがぬけてアイタタタタタタ

てい主「コレハ又どふしてそこがぬけました

現代語訳

弥次「むずかしいこたあねえ、初めは熱いが、我慢するんだ。じきに、からだは湯になれる」

北八「馬鹿あ言いなさんな。辛抱してちゃあ足は真黒焦げになってしまわあ」

弥次「これほど言っても、わからねえたあ、埒(らち)のあかねえ男だ」

あまりの可笑しさを隠している心中を見破られぬよう、おちつきはらって座敷へ引き上げてくる。北八もそこで長考一番した。そこらを見回していると、あった。あった。弥次郎が隠しておいた下駄だ。矢治さんの腹中たしかに読めたと、すぐに、下駄をつっかけて風呂にはいる。

北八「弥次さん、弥次さん」

弥次「なんだ。又、呼ぶのか」

北八「なるほど、おめえの言うとおり、じっくり入っていると、熱くはねえ。ああ、いい気持だ。哀れなるかな石堂丸は、づれれんづれれん」

ははあと弥次郎が辺りを見ると、隠しておいた下駄が無いので、さてはこいつを見つけたなと、可笑しく思っているうちに、北八はさすがに尻が熱くなり、立ったり座ったりいろいろして、しまいには、下駄で足踏みをする程にガタガタと踏みちらし、ついに、釜の底を踏み破った。土釜の燠(おき)の中にべったりと尻もちをついたので、湯はみな流れ出てしゅうしゅうしゅう

北八「やあい助け舟、助け舟」

弥次「どうした、どうした。はははは」

やがて亭主はこの物音に驚き、裏口から湯殿へまわり、この惨状を見て二度びっくり、

亭主「どうなさいました」

北八「いや、もう、命に別状はねえが、釜の底が抜けて、あいたたたた」

亭主「これは又、どうして底が抜けました」

語句

■埒のあかねへ男-始末の悪い男。■よめた-読めた。わけがわかった。■入しめて見ると-じっくり入っておると。■あはれなるかな石どう丸は、ヅレレンヅレレン-でろれん祭文の石堂丸の詞章。「ヅレレンヅレレン」は、祭文の合の手に小さい錫杖を振って囃す音の口真似。この音から、でろれん祭文の称が出た。■たすけぶね-水の流れる中なので、助けを求めるにも、「助け舟」と称する。■うら口-ここでは客用の風呂、即ち前出の「お上」の風呂へ、勝手から庭伝いに来る時に通る、木戸のようなものと思われる。

原文

北八「つい、下駄で、ガタガタやったから」

トいふにていしゆはふしぎそふに、北八があしをみれば、下太をはいているゆへ

てい「イヤアおまいは、とほうもないお人だ。すいふろへはいるに、下駄をはいているといふ事があるものでございますか。らつちもないこんだ

北「イヤわつちも、初手(しよて)ははだしではいつて見たが、あんまりあついからさ

てい「イヤはやにがにがしいこんだ

ト大きにはらをたてる。北八もきのどくさ、こそこそとからだをふいていろいろいいわけする。弥次郎きのどくにおもひければ、中へはいり、かまのなをしちん、なんりやう一ぺんつかはし、やうやうとわびごとして

水風呂(すいふろ)の釜(かま)をぬきたる科(とが)ゆへにやど屋の亭主尻(ていしゆしり)をよこした

北「いめへましい

トおもひがけなく、弐朱ひとつぼうにふつて、大きにふさぎいる。此内膳も出、そこそこにくつてしまい、しやれもむだもいつかういはず、ただぼうぜんとだまりんなり

弥二「コレ手めへ、なにもふさぐこたアねへ。大きに徳をしたは

北「なにがとくだ

弥「かまをぬいて、弐朱(にしゆ)ではやすい。よし町へいつてみや、そんなこつちやアねへ

北「エエぶしやれなんな、人の心もしらずに

現代語訳

北八「つい、つい、下駄で足踏みのはて」

と言うので亭主は不思議そうに、北八の足元を見ると、下駄を履いているので、

亭主「いやあ、お前様は途方も無いお人だ。すい風呂へ入るのに、下駄を履いているという事があるものでございますか。とんでもないこんだ」

北八「いや、わっちも初めは裸足で入ってみたが、あんまり熱いからさ」

亭主「いやはや、こまった、こまった。こりゃ大きな出銭じゃわい」

と、大きに腹を立てる。北八も恥ずかしくなり、こそこそと体を拭いていろいろと言い訳をする。弥次郎は気の毒に思ったので、仲裁に入り、釜の修理代として南鐐銀一つということにして、やっとのこと丸くおさめた。

水風呂(すいふろ)の釜(かま)をぬきたる科(とが)ゆゑにやど屋の亭主尻(ていしゆしり)をよこした

北八「いまいましい。」

と思いがけなく、二朱銀一つ無駄に消えて、大変塞いでいる。夕食が出てもあっさり手早くかっこんで、洒落も無駄口も、一言も言わず、まじめくさって、気抜けしたようにだんまりだ。

弥次「これ、手めえ、何も塞ぐこたあねえ。これで、たいそう得をしたのさ」

北八「何が得だ」

弥次「釜を抜いて、二朱では安い。葭町(よしちょう)へ行ってみろ。もっとぼられるぞ」

北八「ええい、不洒落なさんな。人の気も知らないで」

語句

■下太-底本のまま。「下駄」の誤写誤刻。■とほうもない-とんでもない。■らつちのないこんだ-ここでは、不埒の意。けしからぬことだ。■初手-初め頃。■にがにがしい-困ったこと。不埒なこと。■なんりやう一ぺん-南鐐一片。一片は一枚。南鐐は、安永元年(1772)に初めて鋳造された銀貨幣の一。後、寛政十二年(1780)・文政七年(1824)などにも鋳造があった。表に「以南八片換小判一両」とあるので、二朱銀とも称された。南鐐とは、品質のすぐれた銀をいう語。■尻(しり)をよこした-『俚言集覧』に「尻が来る、詰責の来るを云ふ。しりみやが来るとも云ふ」。男色の戯れを「釜を掘る」ということで、「尻」と「釜」は縁語。一首の意は、水風呂の釜を抜いて壊した罰で、宿屋の亭主に詰責をうけた。■ぼうにふつて-財産や地位などを失い、なくすことをいう。■だまりんなり-無言でいること。■かまをぬいて-男色で、房時を行うことをいう。■弐朱-一両の八分の一。■よし町-江戸堀江六軒町の別称(東京都中央区日本橋)。陰間茶屋があって男色をひさいだ。ただし女客もあったという。揚代は寛政頃で、一分(一両の四分の一)。■ぶしやれなんな-冗談どころではないの意で、先方の洒落を止める言葉。

原文

弥二「イヤそれでも、手めへがそんなにしていると、おらアきのどくな事がある

北「なにが

弥二「さつきの女が後(のち)に忍(しの)んでくるはづに、ふづくつておいたから、側(そば)で手めへが気(き)をわるくして、なをの事ふさぐだろふと、それがどふもきのどくだ

北「ヲヤほんにか。いつの間に約束した

弥二「そんなことに、じよさいのあるのじやアねへ。さつき手めへが湯(ゆ)へはいつている時、げんなまでさきへおつとめを渡(わた)しておいたから。もふ手つけの口印(こうじるし)までやらかしておいた。なんときついもんか、ヘヘヘヘヘヘそふいつても色男はうるせへのハハハハハハ もふねよふか

ト手水にたつて行 此内女きたりとこをとる

北「コレあねさん、おめへおらが連(つれ)の男(おとこ)に、なにか約束(やくそく)をしたじやアねへか

女「イイエヲホホホホホホ

北「イヤわらひごとじやアねへ。コリヤアないしやうのことだが、あの男はおへねへ瘡(かさ)かきだから、うつらぬよふにしなせへ。おめへがしよつては、きのどくだから言ってきかすが、かならずさたなしだよ

ひそひそものでまことらしくいへば、女きもをつぶせしよふすに、北八づにのり

そして足(あし)は年中(ねんじう) 鴈瘡(がんがさ)で、なんのことはねへ、乞食坊主(こじきぼうず)の菅笠(すげがさ)を見るよふに、所々に油紙(あぶらがみ)のふたがしてある。それに又アノ男の 胡臭(わきが)のくささ。そのくせひつつこい男で、かぢりついたらはなしやアしねへ。めんよふアノかさつかきといふものは、口中(こうちう)のわるくさいもので、おいらもならんで飯(めし)をくうさへ、いやでならねへがしかたがねへ。おもいだしてもむしづがはしるペツペツ

ト此内はや弥二郎てうずより出てくるよふすに

現代語訳

弥次「いや、それでも手めえがいつまでもそんなに塞いでいると、おらあ、ますます気の毒になるわけがあるのよ」

北八「なにが」

弥次「さっきの女が後で忍んで来る筈に、手をうっておいたから、傍で手めへが気を悪くして、なおの事塞ぎこむんじゃねえかと、それが気の毒だ」

北八「おや、ほんにかいつの間に約束した」

弥次「そこは、抜け目のある俺じゃねえ。さっき、手めえが湯へ入っている時に、現金(げんなま)を先に握らせておいたから、手つけの口づけまで万端完了さ。なんと、大したもんだろう、へへへへ。とかく言っても自分のような色男は、女の方からほうってはおかないのでうるさいことだ。はははは。もう寝ようか」

と手水に立って行く。そうしている間に、うかぬ顔の北八ひとりの部屋へ、女が蒲団(ふとん)をのべに来た。

北八「おねさん。おめえは、俺の連れの男に、何か、おりいって約束したんじゃないか」

女「あら、いいえ、そんなこと。おほほほほ」

北八「笑いごっちゃねえ。こりゃあお前と俺との内証の話だが、あの男は手に負えない、瘡(かさ)かきだから、うつらないようにしなせえよ。ひょんなことで、おめえが背負い込んでは、気の毒だから言っておきますよ。それにしても、重ねて内証のここだけの話だよ」

声を低めて、真実(まこと)らしく言うと、女が驚いた様子に、北八は図に乗り、

北八「そして、足は年中、鴈瘡(がんがさ)でなんのこたあねえ、乞食(こじき)坊主の菅笠(すげがさ)を見るように、所々に油紙の蓋(ふた)がしてある。それに又、あの男は腋臭(わきが)の臭さったら。そのくせ、しつっこい男で噛(かじ)り付いたら放しゃしねえ。それに、これも不思議なことに、瘡かきってえと、口臭もぷうん、おいらも並んで飯を食うのさえ、嫌でならねえが仕方がねえ。思い出しても虫唾(むしず)が走る。ペッペッ」

とそうしていると早や弥二郎が手水から出て来る様子に、

語句

■きのどくな事-お前に申し訳ないこと。■ふづくつておいた-巧く手はずをつけておいた。■気をわるくして-ここは他人の房事を、側で聞いて変な気になるをいう。■じよさい-手ぬかり。■げんなま-現金。■おつとめ-花代。■口印(こうじるし)-口づけ、当時は普通、「くちくち」という。ふりがなは「こう」と読めるが、あるいは「くち」の誤刻か。語の一部分に、「印」をつけて略称とすることは、通語として行われていた。ここの「手つけ」は、本実行の前に、ちょっと試みてみるの意。■きつい-大したもんだろう。えらいもんだろうの意で、人に誇る言葉。■そふいつても色男はうるせへの-とかくいっても、自分のごとき色男は、女のほうからほうってはおかないので、うるさいことだと、これも誇ってみせた体。■おへねへ-手におえない。仕方のない。■瘡(かさ)かき-『俚言集覧』に「かさは皮膚に生ずる病の総名なり。又専ら微毒にいふ」。ここは梅毒患者。■しょつては-引受けては。感染しては。■さたなし-自分の言ったことは内証にせよの意。■きもをつぶせし~-大きに驚いたさま。■づにのり-調子にのって。■鴈瘡-脚絆を当てる所にできる皮膚病で、皮薄く治り難い。梅毒と関係あるともいう。鴈瘡の名は、鴈の日本に居る期間に出るゆえと(病家須知・病名彙解・類船集)。■菅笠-菅で製した笠。普通道中に使用。いたんだところに雨の漏らぬように、油紙を当ててあるのをいう。■油紙-皮膚病につける膏薬が外に出ないように上に貼る油紙。■胡臭(わきが)-一九の『諸用附会案文』に「わきががあつてくさければ」「かさつかきにはきはまつた」とある。■ひつつこい-情事にしつこいこと。■めんよふ-不思議に。■むしづがはしる-胃液が口へ逆上してくる。ここは吐き気をもよおすことをいった。

原文

女「もふおやすみなさいませ

トそうそうたつて行、弥二郎ざしきへはいり、すぐによぎをかぶつて

弥二「ドレふところを、あつためておいてやろう

北「いめへましい、こんやのよふにうまらねへことはねへ。やけどをして弐朱かねはふんだくられる。そのうへ、アノうつくしいやつを、そばで抱(だい)てねられて、ほんにふんだりけたりな目にあふは

弥「ヘヘヘヘかんにさつし。こんやアちつとうけにくからう。ちくるいめ、こたへられぬハハハハハハ コレ北八、もふ手めへねるか。もつとおきてゐねへ

北八はいさいかまわず

北「ゴウゴウゴウ 

弥二「もふきそふなもんだ

トひとりまじくじして、まてどもまてどもおともなし。なま中さきぜにをやつて、ぼうにふるかと気がきではなく、こらへかねてむしやうに、手をたたきたてると 、やどやのかみさまきたり

女房「およびなさいましたか

弥二「イヤおめへではわかるめへ。さつきここの女中(ぢよちう)に、ちつと頼(たの)んでおいたことがあるから、どふぞちよつとよこしてくんねへ

女房「ハイあなた方のほうへ出ました女は、雇人(やとひど)でございますから、もふ宿(やど)へ帰(かへり)ました

弥二「エエほんにか。そんならよしよし

女房「ハイお休(やすみ)なさいませ

トかつてへゆく

現代語訳

女「もうお休みなさいませ」

と落着きを失くした女は、早々と立ち去る。弥次郎は座敷へ入るとすぐに夜着(やぎ)を被(かぶ)って、

弥次「どれ、ふところをあっためておいてやろう」

北八「いまいましい。今夜のように割りの合わねえ夜はめったにねえ。火傷をして、二朱はふんだくられる。そのうえ、あのきれいな奴を抱いたまま、傍で寝られるんじゃ、ほんに踏んだり蹴ったりだ」

弥次「へへへへ。堪忍しなよ。今夜はちったあ話が聞きにくかろうって、畜生め、ひひひひひ。たまらねえ。北八よ、もう手めえ寝るのか。もっと起きていねえ」

北八は一切かまわず、

北八「ごう、ごうごう・・・・・」

弥次「もう来そうなもんだ」

と独りまじまじして、待てども待てども音沙汰無し。なまじっか先に銭をやって、棒に振るのかと気が気でなく、こらえかねて、夢中になって、激しく手をたたくと、のっそりと、現れたのは、宿屋の女房で、

女房「なんぞ、お呼びなさいましたか」

弥次「いや、おめえではわかるめえ。さっき、ここの女中に、ちっと頼んでおいたことがあるから、どうぞちょっとよこしてくんねえ」

女房「はい、こちらに出しました受付の女中は、雇い人でございますから、もう自分の家(うち)へ帰しましたが」

弥次「ほんとうにそうなら、もういいよ、もういいよ」                       

女房「ははあ。お休みなさいませ」

と勝手の方へ立ち去る。

語句

■うまらねへ-つまらない。わりの悪い。■ふんだりけたりな目にあふ-重ね重ねひどい目にあうこと。■かんにさつし-堪忍なさいの意。すまんすまん。■うけにくからう-話を聞かされてはかなわぬの意。ただし人ののろけを聞き、色事に立ち合されるなどの時に使用する語。■ちくるいめ-畜生め。畜生と同じ。ここは「たまらぬ」という場合の、感情を示した語。■まじくじ-「まじまじ」に同じ。眠られず目をしばたたたくさま。■なか中-なまじっか。かえって。■ぼうにふる-せっかくの金や努力が無駄になる。■雇人(やとひど)-臨時雇い。よって、この宿屋に寝泊まりせずに通いである。■宿-自宅の意。

原文

北「ハハハハハハワハハハハハハハハハ

弥二「べらぼうめ何がおかしい

北「ハハハハハハハハ イヤこれで地(ぢ)にした。もふ安堵(あんど)してねよふか

弥二「かつ手にしやアがれ

ト哀(あはれ)なるかな弥二郎兵へ、北八が奸計(かんけい)とは露(つゆ)しらず、弐百恋(こひ)しやうらめしのおじやれか無洒落(ぶじやれ)かあたら夜を、是非(ぜひ)なくころりとつつぶしければ、北八おかしく又一首(いつしゆ)

ごま塩(しほ)のそのからき目を見よとてやおこわにかけし女うらめし

彼是興(かれこれけう)じてふしたりけるに、はやくも聞ゆる遠寺(えんじ)のかねに、一睡(いつすい)の夢(ゆめ)は覚(さめ)て、夜明(よあけ)ければやがておき出、そこそこに支度(したく)して立出けるに、けふは名にあふ筥根(はこね)八里、はやそろそろと、つま上りの石高道(いしだかみち)をただり行ほどに、風(かざ)まつりちかくなりて弥次郎兵へ

人のあしにふめどたたけど箱根やま本堅地(ほんかたぢ)なる石だかのみち

北「コレコレ明松(たいまつ)を買(か)はねへか。ここの名物だ

弥「べらぼうめ、もふ日の出る時分、明松がナニいるものか

現代語訳

北八「ははははは。わははははは」

弥次「べらぼうめ。何がおかしい」

北八「ははははは、いや、これでお相子だ。もう安心して寝ようか」

弥次「勝手にしやがれ」

哀れなるかな、弥次郎兵衛は、北八の奸計(かんけい)とはつゆ知らず、手つけの現金二百が逆上するほど恋しく、恨めしいのは、自分を袖にしたお洒落女か無洒落女かは知らないが、あったら惜しい一夜をば取り逃がしたわが身がいたわしいと、顔もあげず、枕を相手に伏しているから、北八はおかしくなって又一首

ごま塩(しほ)のそのからき目を見よとてやおこわにかけし女うらめし

面白がったり、悔んだりでそれぞれの夢路(ゆめじ)をたどるが、早くも聞えて来た遠くの寺の鐘の音に、一睡の夢は覚めて、夜が明けた。やがて二人は起きだして、そこそこに支度をして出立したが、今日は有名な箱根八里を目指して、早(はや)、そろそろと爪先登りの石ころ道を、辿って行く。風祭近くになり弥次郎兵衛、

人のあしにふめどたたけど箱根やま本堅地(ほんかたぢ)なる石だかのみち

北八「明松(たいまつ)を買わねえか、ここの名物だ」

弥次「べらぼうめ、もう日の出る時分、明松なんかいるもんか」

語句

■地(ぢ)にした-「持」の当て字。歌合せなどで二つの勝負を定める時に、勝負なしの場合に使用。碁にもいう。相共に損をしたことになる。■哀(あはれ)なるかな-祭文のくどきの初めの文句。以下「哀なるかな誰々」を模した、祭文もじりの文。■弐百恋しや-飯盛女の揚代二百文。■おぢやれ-飯盛女の別称。以下は「おじゃれ」相手と洒落こんだが、案に相違して、洒落にもならぬ失敗で終わったの意。■あたら夜-もったいない。せっかく期待した夜。■つつぶしければ-「打臥した」の転。■ごま塩-胡麻をすりつぶして塩をまぜたもの。「からき」の枕詞風に働き、強飯(おこわ)にふりかけるものなので、下の「おこわにかけし」の縁語。■からき目-手痛い境遇(または待遇)。■おこわにかけし-人を一杯くわすこと、うまうまだますことをいう通言。下のうらめし(飯)は、また縁語。■遠寺のかね-ここは遠寺でつく明け(六ツ、午前六時ごろ)の鐘。■支度して-食事をすませ。■名にあふ-有名な。■筥根八里-天下の険で有名であるが、八里とは、小田原駅から箱根駅まで上り四里八丁、箱根から三島駅まで下り三里二十八丁の計である。■つま上り-爪先あがり。しだいに上りになってゆくさま。■石高道-石の多く高く出ていて歩行しにくい道。■風まつり-村名(今、小田原市内)。■本堅地-上製の漆器。器物に布をぴっしりと着せ、せしめ漆をかけ、その上を、さつま石でとぎ、せしめ漆をかけ、炭粉でみがくことを何回も重ねた製品(『万金産業袋』三)。「箱」の縁語。狂歌は甚だ堅い石高道の箱根の上りを詠じた。■明松(たいまつ)-小田原早立ちの人の、山間の暗きを行くに求めたものである。

原文

北「夜があけてもいいはな。おめへかつてとぼせばいい。ゆふべのかわりに

弥「おきやアがれ

北「ハハハハハハ、ハハハハハハ

又ここに湯本(ゆもと)の宿(しゆく)といふは、両側(りやうがは)の家作(やづくり)きらびやかにして、いづれの内にも美目(みめ)よき女ニ三人ヅツ、店(みせ)さきに出て名物(めいぶつ)の挽(ひき)もの細工(ざいく)をあきなふ。北八壱軒(いつけん)壱軒にのぞき見て

北「ヲヤヲヤあらひ粉(こ)のかんばんをみるよふに、顔(かほ)と手さきばかり、しろひ女がゐらア

弥「なんぞ買(かを)ふか

娘「おみやげおめしなさいませ。おはいりなさいやんせ

弥「コウあねさん。そこにあるものを見せなせへ

トいふにむすめは、又外のきやくと、あい手になつてあきなひしている。かつてよりばばあ、はしりいで

ばば「ハイハイこれでおんざりますか

ばばあではふしやうちのかほつきにて

弥「それじやアねへ。コウ姉(あね)さんそつちらのをみせな

ばば「ハイハイこれでおんざりますか

弥「エエそれでもねへ。コウあねさん、おめへの手にもつているはなんだ

娘「ハイハイおたばこ入でおざりやんす

弥「コレコレこのことさ。時にいくらだ

現代語訳

北八「夜があけてもかまうこたあねえ。おめえ買って、とぼせばいい。昨夜(ゆうべ)のかわりに」

弥次「おきやがれ」

北八「はははは、はははは」

又この湯本の宿という所は、両側の家構えもあでやかに飾ってあり、どの家にも綺麗な女が二、三人づつ店先に出ていて、名物の挽(ひき)もの細工を商っている。物珍しくて北八は一軒一軒覗いて見て、

北八「おやおや、洗い粉の看板みたいに、顔と手先ばかりが、白い女がいらあ」

弥次「何を買おうか」

娘「お土産(みやげ)いかがでございます。お入りなさいませ」

弥次「あねさん。そこにあるのをちょっと拝見」

と言うのに、娘は、又、外の客の相手になって商売をしている。勝手から婆(ばばあ)が走り出て来て、

婆「はい、はい。おまたせいたしまして、これでおんざりますか」

弥次郎は、婆では不満な顔つきで、

弥次「それじゃねえよ。もし、ちょいと、あねさん、おめえの前にあるのを見せてくれ」

婆「はい、はい。これでござりやすか。はい、はい」

弥次「いや、それでもねえ。あねさん、おめえの手に持っているものはなんだい」

娘「はいはいお煙草入れでございます」

弥次「これ、これ。このことさ。 時にいくらだ」

語句

■とぼせ-『海録』十一に「此頃、青楼の流行言葉に、交合をトボスといふ事・・・」。俗に「蝋燭をとぼす」の略といわれていた。■湯本の宿-小田原・箱根間の立場。箱根温泉の中心地。■挽もの細工-ろくろ細工の器具。箱根一帯の名物ながら、湯本が最も有名(東海道名所図会)。蜀山人の『改元紀行』も「ここに轆轤もて挽ものせし器あまた、ささやかなる玩ひものなど、店に列ねて、めせめせとすすむ」。■あらひ粉-洗眼洗髪の時の化粧用の粉。『広益秘事大全』「あらひ粉の方」の条に、一垢小豆五合、一滑石二匁(もんめ)、一白壇一両(丁子もよし)、右細末にして用ゆべし。但し、滑石を去て狗杞の葉を加ふるもよし」(『都風俗化粧法』にも処方が見える)。江戸には門之助洗粉(照降町滝野屋)などの商品もあった。■しろひ女-形容詞の語尾の「い」を「ひ」と表記することは、近世を通じて多いが、その規則のごときものは、見出し難い。■おんざります-次の「おざりやんす」と共に、この地の方言として使用したもの。

原文

娘「ハイ三百でおざりやんす

弥「百ばかりにしなせへ

娘「おまいさんもあんまりな。あなた方のおかげで、かやうにいたしておりますものを、かけねはもふしやんせぬ

ト弥次郎をじろりとみる。たちまちのろくなりて

弥「そんなら二百よ

娘「もふちつとおめしなさつて下さいやせヲホホホホホホ

トねつからおかしくもないことをわらつて、弥二郎がかほを又じろりと見る

弥「そんなら三百三百

娘「もふそつとでござりやんすヲホホホホホ

弥「めんどうな四百四百

ト壱本をほうり出してかい取

北八サアいかふ

娘「よふお出なさいやんした

北「ハハハハハハ三百のものを、四百に買(か)うとはあたらしいあたらしい

弥「それでもおかしくねへ。アノ娘はよつぽどおれに、きがあつたとみへる

北「おきやアがれハハハハハ

弥「それでも初手(しよて)から、おれが顔(かほ)ばかり見ていたは

現代語訳

娘「はい三百でございます」

弥次「百ぐらいにしときな」

娘「お前さんもあんまりな。あなた方のおかげで、今日の日を無事暮らせますのに、掛値(かけね)なんかもういたしませぬ」

と弥次郎をじろりと見る。弥次郎はたちまち甘くなって、

弥次「そんなら二百よ」

娘「も少し、色をつけてくださいやせ。おほほほほほ」

と根っからおかしくもない事を笑って、弥次郎の顔をじろりと見る。

弥次「そんなら三百、三百」

娘「もうちょっとでございやんす。おほほほほほ」

弥次「面倒な、それじゃ四百、四百」

と四文銭百ざしを一本を放り出して買ってしまう。思い入れよろしく、

北八「さあ、行こうぜ」

娘「ようお出しやさいやんした」

北八「はははは、三百の物を、四百で買うとは、剛毅なものよ、剛毅、剛毅」

弥次「それでも惜しくはねえ。あの娘はよっぽど俺に、気があったと見える」

北八「おきやがれ。はっはっはっはっ」

弥次「だが、初手から、俺の顔ばかり見てたじゃないか」

語句

■かやうにいたしております-このように商売をしている。■のろくなりて-『俚言集覧』に「のろし ノロイとも云ふ。愚鈍を云ふ。又ヌルイと同じ言歟(げんよ)」。ここは女に甘いこと。■おめしなさって-買ってください。も少し高値で・・・。■壱本-ここは四文の波銭を百枚一本の銭さしに通したもの。四百文。■あたらしい-珍しい。■初手-最初。そもそも。

原文

北「見ていたはづだ。アノ娘の目を見たか。やぶにらめだハハハハハ

ここにいがぐりあたまの子供四五人ゐて

子供「権現(ごんげん)様へ御代参(ごだいさん)、壱文やって下されチヤ

北「ナニ御代参とはなんだ

子供「こんたしゆのかはりに参(まい)るは

北「ナニおいらがかわりに。いづれを見ても山家(さんが)そだち、身(み)がはりにするつらがあるものか。ろくなくびはひとつもない。イヤ時にアノ鉦(かね)はなんだ

弥「さいのかはらへきたぞきたぞ

辻堂(つぢどう)はさすがにさいのかはら屋根(やね)されども鬼(おに)はみへぬ極楽(ごくらく)

お茶漬(ちやづけ)のさいのかはらの辻堂(つぢどう)ににしめたよふななりの坊さま

それより 御関所を打過て

春風(はるかぜ)の手形(てがた)をあけて君(きみ)が代(よ)の戸(と)ざさぬ関(せき)をこゆるめでたさ

斯祝(かくしゆく)して峠(とうげ)の宿(しゆく)に悦(よろこ)びの酒(さけ)くみかはしぬ

現代語訳

北八「見ていたはずさ。ありゃ藪(やぶ)にらみだ。はははは」

そこでいが栗頭(ぐりあたま)の子どもが四、五人遊んでいる。

子供「権現様へ御代参。一文やってくだされちゃ」

北八「ごだいさん、とはなんだ」

子供「あんたらのかわりに、参ってあげるわ」

北八「なに、かわりに。てめえあきれたね。いずれを見ても山家(やまが)育ち、身がわりにする面(つら)があるもんかい。おや、ありゃなんだ、鉦(かね)を叩いてら」

弥次「やれやれ、やっとこさ、賽(さい)の河原(かわら)。賽の河原」

辻堂(つじどう)はさすがにさいのかはら屋根(やね)されども鬼(おに)はみへぬ極楽(ごくらく)

お茶漬(ちやづけ)のさいのかはらの辻堂(つぢどう)ににしめたよふななりの坊さま

それより、箱根の御関所もとどこおりなく、無事に過ぎて、

春風(はるかぜ)の手形(てがた)をあけて君(きみ)が代(よ)の戸(と)ざさぬ関(せき)をこゆるめでたさ

このように祝福して、峠(とうげ)の宿で、喜びの酒をくみかわした次第(しだい)であった。

語句

■やぶにらみ-斜視。■いがぐりあたま-髪を結わないで、頭全体に毛をはやして、短く切っているさまが、栗のいがに似ているからの称。■権現-箱根権現社。別当の箱根山金剛王院東福寺で祀った。今の箱根神社。『曽我物語』では、五郎の箱王がいた所で有名。街道から少し右手(江戸から来て)に入っているので、代参と称して、金を乞う者がいたのである。■こんたしゆ-あなた方。■いづれ-浄瑠璃「菅原伝授手習鑑」四の寺子屋に段に、武部源蔵が、菅秀才(菅原道真の子の)身代りを、寺子の中に求めた時の語「いづれを見ても山家育、世話甲斐もなき役に立たず」。箱根の子どもなれば、「山家そだち」はそのまま通る。■ろくなくびはひとつもない-見られるような満足な顔だちはない。■さいのかはら-賽の河原。箱根で街道筋から、湖水の東岸に沿って、権現社へ行く道の傍らにあって、地蔵を安置する。『改元紀行』に「地蔵堂の前にいづ。さいの河原とかいひて、法師の鐘打ち鳴らし、念仏唱ふる声けうとし」。■辻堂-街道の辻に立つ地蔵堂は、名のとおりに賽の河原の瓦屋根だけれども、地獄の賽の河原で、石積む子どもをさいなむ鬼は、ここには現れないで、念仏の声に極楽のていたらくであるの意。■にしめたよふななり-油で煮しめたような垢だらけの衣を着けたしみったれた姿。狂歌は、賽を采ととって「お茶漬け」のを枕詞風にし、その縁で、采の煮しめ(魚や野菜などを煮て味付けしたもの)を出し、それと垢だらけの衣の形容をかけて、僧侶の体を描いた。■御関所-箱根の関所。『諸国道中記に』「入口(箱根駅の江戸から来た側)に御関所有り。上りに手形上る。小田原城主より勤番也。女人と武具は御証文なくては不通。鑓もたざる者は、主人の手形、或は所の庄官の手形持参して通る」。下りは不要。■手形-ここは関手形。通り手形とも。町人では名主など。武士は組頭などが出した。当人の姓名・旅行目的などを記した一種の身分証明書。「あけて」は手形を役人に見せるを「差上げ」(旅行用心集)るというにかける。「風の手」の語による、「春風の」は「手」の枕詞的用法。「君が代の戸ざさぬ」は、国に盗人なく戸締りの要がないというが原義。転じて関所も打開かれた太平の世をいう。手形を差上げて、関所も事なく通りゆくとはめでたい限りと、当時の作品の例でもあり、この偏の初めの文句とも首尾して、太平をことほいだ詠。■峠の宿駅-箱根の宿駅。小田原より四里八丁。箱根の峠にあるからかく称した。■悦に通過した旅を祝っての祝杯。

次の章「膝栗毛後編序

朗読・解説:左大臣光永

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