【源氏物語】現代語訳をつくってます【経過報告1】

こんにちは。左大臣光永です。

『源氏物語』の現代語訳を作っています。

第三帖「空蝉」まで終わりました。今日はその経過報告です。

これから定期的に経過報告を上げていきます。

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まあ『源氏物語』の訳はいろいろありますよね。

与謝野晶子訳・谷崎潤一郎訳・瀬戸内寂聴訳の三つがとくに有名です。

とくに瀬戸内寂聴さんの訳は、とても読みやすく、しかも風情があり、すばらしいです。

これら有名どころの他にもさまざまな方が『源氏物語』の現代語訳をつくっています。

ウェブの文章とは?

ただし、今ある『源氏物語』の現代語訳は、ほとんどが、紙の本で読まれることを前提としています。

ウェブで読まれることを前提としていません。ウェブで読まれることを前提とした源氏物語の現代語訳は、まだほとんど無いと思います。

ウェブの文章の特徴は、まず、改行が多いことです。

パソコンやスマホの画面上で見ますから、紙の本のように、ダーと文章がぎっしり並んでいると、どこを読んでるかわからなくなります。

それが、適度に改行がはいることによって、視認性がますって言うんですかね…

自分が今どこを読んでいるのか?

空白行を適度にはさむことによって、

相対的な位置が、把握しやすくなるわけです。

空白行がないと、「あれ、今どこ読んでるんだっけ?」と迷子になってしまう…

それが改行を適度にはさむことで、ずいぶん読みやすくなります。

そして、ウェブの文章は基本的に「読まれない」ことを前提に書きますので、

■なるべく代名詞を使わない。

■主語や目的語を省略しない。

ことを心がけるべきです。

空白と空白で囲まれたひとまとまりの文章の中に、前の文章からの情報を持ち込まないということですよ。

ひとまとまりの文章の中だけで、意味がとれるように書くということですね。

「彼はそのことでひどく落ち込んだ」

などと書いては、ウェブの文章としては「失格」です。

「源氏の君は空蝉に拒絶されたことでひどく落ち込んだ」

と書くべきです。「源氏の君」て何度も何度も出てくるので、書くほうとしては省略したい、さすがにわかっとるやろ?しつこいかな…という気になりますが、

ウェブというものは、一字一字まじめに読むものじゃないですから、さらさら~と流し読みすることがほとんどですので、

しつこいくらいでちょうどいいんです。

ひとまとまりの文章の中だけで意味が通じるように、主語と目的語を、しつこいくらいに、しっかりと、明記すべきです。

現代語訳は解釈

私はいままで、『おくのほそ道』や『徒然草』『伊勢物語』などの現代語訳をつくってきましたが、結局、どう解釈するか?ということにつながっていくんですね。

学校の古文の授業だと、一つの問題に対して、かならず一つの答えが対応してるじゃないですか。

Aという古文に対してA'という現代語訳がある、みたいな。

しかし。

実際にはそんな、一対一で対応していることはまれです。

「これはどういう意味なんだろう?」

「どう解釈すべきなのか?」

21世紀の今日になっても、諸説分かれる、あるいはまったくわからない、意味不明であるといった部分も、多々あるんですよ。

学校の古文の授業は、受験を、テストを想定しています。テストには答えがなければなりません。だから、比較的解釈が定まっている部分だけを、抜き出して、使ってるわけです。

だから、学校の古文だけ知ってると、なにか古文とはそういうものだ、一対一で、問いと答えが対応してるんだと、思いがちなんですが、まったく、ちがいます。

かならずしも答えが決まっていない。解釈が定まっていないということが、いくらもあります。

たとえば『伊勢物語』初段「初冠」。

むかし、男初冠《ういこうぶり》して、奈良の京春日の里に、しるよしして、狩りに往《い》にけり。 その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。

昔、男が元服をすませて、奈良の春日の里に領有する土地の縁があって狩に行った。その里で「女はらから」と出会ったと。

で、この「女はらから」に惚れた男が、若さにまかせて情熱的な歌をよむ、というのが伊勢物語初段の内容ですが、

この「女はらから」という言葉を、

一般的には「姉妹」ととります。だから主人公の男が、美しい姉妹に恋心を抱いたという話になるんです。

しかし、「女はらから」という言葉は、「女の親類」とも取れます。

すると、主人公の「男」は、親類筋にあたる女…たとえば従姉妹なんかに対して、情熱的な恋心をいだいて歌を詠んだ、という話になります。

姉妹…二人と恋愛するのか、親類筋の一人の女と恋愛するのか、まったく話がちがってきますよね。

「女はらから」という言葉をどう取るかによって、話の内容まで変わってくるという例です。

たとえば『日本書紀』には、壬申の乱に敗れた大友皇子が、最終決戦、瀬田橋の合戦にやぶれて撤退していき、父天智天皇の築いた大津京は攻め落とされ、味方は次々と逃げていく。ほとんど残らない。

結局、大友皇子は首をくくり自害するようすが描かれています。

是《ここ》に大友皇子《おおとものみこ》、走《に》げて入らむ所無く、乃《すなは》ち還《かへ》りて山前《やまさき》に隠れて、自ら縊《くび》れぬ。

大友皇子は「山前」に隠れて、そこで自ら首をくくったと。

この「山前」という言葉を、文字通り、「山の手前」ととって、滋賀県大津市の三井寺のある、長等山の手前あたりとするのが定説です。

「山前=山の前=長等山の手前」というこの説にもとづいて、滋賀県大津市御陵町《ごりょうちょう》の、大津市役所の裏手に、弘文天皇稜として大友皇子のお墓があります。

瀬田橋の合戦にやぶれた大友皇子は、わずかなお供とともに、このあたりまで逃げてきて、首をくくったと…

ところで近江大津京の中心地、大津宮の跡地は、それよりやや北方、滋賀県大津市錦織《にしごおり》の住宅街に発掘されています。

もしかしたら、大友皇子は、死ぬ直前に、大津の宮殿のある北の方をうちながめて、「ああ…父の築いた大津の都が…私は何をしてきたのだ…」なんてつぶやいたかなと思うと、私は、涙を禁じえないですね。

それはさておき、

「山前」で首をくくったと『日本書紀』にある、この「山前」という言葉を、文字通り「山の前」ととって、滋賀県大津市長等山の手前あたりととるのが定説で、その定説にもとづいて大津市役所の裏手に大友皇子の陵があるんですが、

大阪にも山崎という地名があります。

宇治川と桂川と木津川が合流してやがて淀川に流れこむあたりです。京都と大阪の境あたり、たいへん水がゆたかなところです。明智光秀と羽柴秀吉が戦った「山崎の合戦」で有名ですね。

サントリー 山崎蒸溜所があります。

『日本書紀』の「山前」という言葉が、大阪の「山崎」をさしているという説もあるらしいんですね。

すると、大友皇子は、瀬田橋の合戦に破れた後、大津から山越えして、山科に抜けて、京都盆地に出て、桂川をわたって、山崎まで行って首をくくったことになります。たいへんな道のりです。

「山前」という単語ひとつをどう取るかによって、ぜんぜん話しが違ってくるという例です。

このように、現代語「訳」とはいっても、たとえば英語を日本語に訳す、日本語を英語に訳す、という場合とは、かなり軸のちがう作業といえます。

そこが難しく、同時におもしろいところだと思います。

『源氏物語』第一帖「桐壷」冒頭の原文と、つづけて現代語訳です。

いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。はじめより我はと思ひあがりたまへる御方々、めざましきものにおとしめそねみたまふ。同じほど、それより下臈の更衣たちは、ましてやすからず。朝夕の宮仕につけても、人の心をのみ動かし、恨みを負るつもりにやありけん、いとあつしくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよあかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえ憚らせたまはず、世の例にもなりぬべき御もてなしなり。上達部上人なども、あいなく目を側めつつ、いとまばゆき人の御おぼえなり。唐土にも、かかる事の起りにこそ、世も乱れあしかりけれと、やうやう、天の下にも、あぢきなう人のもてなやみぐさになりて、楊貴妃の例も引き出でつべくなりゆくに、いとはしたなきこと多かれど、かたじけなき御心ばへのたぐひなきを頼みにてまじらひたまふ。

父の大納言は亡くなりて、母北の方なむ、いにしへの人のよしあるにて、親うち具し、さしあたりて世のおばえはなやかなる御方々にもいたう劣らず、何ごとの儀式をもてなしたまひけれど、取りたてて、はかばかしき後見しなければ、事ある時は、なほ拠りどころなく心細げなり。

どの天皇の御代であったか、女御更衣が多くお仕えなさっている中に、それほど高いな身分ではないが、たいそう帝の寵愛を得ておられる方があった。

宮仕えのはじめから、自分こそはと思い上がっておられる御方々は、目障りなものに見下して憎まれる。

同じ程度の身分か、それより下の身分の更衣たちは、なおさら心おだやかでない。

朝夕の宮仕えにつけても、人の心ばかりを動かし、恨みを負って、その恨みが積もったからだろうか、たいそう病弱になっていって、なんとなく心細げに里に引きこもりがちであるのを、帝は、いよいよたまらなく不憫なものに思われて、人のそしりをもおはばかりなさらず、世の噂ともなりかねない御もてなしである。

上達部・殿上人なども、感心できないとして目をそらしつつも、たいそうまばゆいばかりの、帝のご寵愛ぶりである。

唐土(中国)にも、このような発端で、世が乱れて悪くなったのだと、次第に、世間にも、面白くないこととして、人の持てあましの種となって、楊貴妃の例も引用するようなことになってゆくので、その寵愛を受けている更衣は、消え入るような思いをすることが多いけれど、帝の畏れ多い御心ぐあいの他にたぐいもないのを頼みにして、宮中の人々と交際なさっていた。

更衣の父である大納言は亡くなって、母である北の方は、昔かたぎの人で教養がそなわっていたので、両親が健在で、さしあたって世のおぼえはなやかである御方々にもそれほど劣らず、どんな儀式をもこなされていたが、取り立てて、しっかりした後見がないので、なにかあった時は、やはり拠り所がなく心細げである。

……

桐壺更衣が身分は低いながら、帝の寵愛を受ける、それを周りの女房たちがねたんでいるという、おなじみの書き出し部分でした。

朗読・解説:左大臣光永