『源氏物語』の現代語訳つくってます~諸人、柏木を悼む

こんにちは。左大臣光永です。

本日は、『源氏物語』の現代語訳をつくっていますということで、その経過報告のような話です。13回目です。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

https://roudokus.com/mp3/GenjiR13.mp3

■女三の宮の出家
■柏木の臨終
■若君(薫)の五十日の祝
■夕霧、柏木の遺言の意味を考える
■夕霧、致仕大臣邸を訪ね、故人をしのぶ
■夕霧、一条邸を見舞う
■夕霧、致仕の大臣と柏木の思い出を語る
■夕霧、一条御息所と柏木の思い出を語る
■夕霧、落葉の宮に懸想する

といった内容で語っていきます。帖でいうと第三十六帖「柏木」の後半にあたります。

過去の配信ぶん
https://roudokus.com/Genji/index.html#r

女三の宮の出家

源氏物語の現代語訳を作っています。出産後の女三の宮が「出家したい」と言い出したところに、朱雀院が山をおりてきて、結局、出家させてしまうという場面です。

なんですかこれは。出家者というものは、肉親の情を断ち切らなければならないのですよ。もちろん人間なので、そうキッパリとはいかないまでも、少なくとも肉親の情を断ち切って、仏道修行に専念するようとつめなければならないはずです。

にもかかわらず、朱雀院は出家後も源氏の女三の宮の夫婦生活にあれこれちょっかいを出してきて、あげくに山をおりてきて出家の手助けをするとか。イライラします。

朱雀院の根っこには源氏に対する憎しみがあるのでしょう。幼い頃から何をやっても弟の源氏に勝てなかった。いつもコンプレックスを抱いていた。単なる憎しみとはちがう愛憎入り乱れる複雑な気持ちを、朱雀院は源氏に対して懐いてきたわけです。その思いを朱雀院は、まず女三の宮をおしつけ、次に奪い取るという形で結実させるわけです。

男の嫉妬はおそろしい……

女三の宮が出家したいと言い出す件も、生まれたばかりの子(薫)をほったらかしにして、あまりにも無責任です。貴族だから、本人は育てないで、乳母にまかせっきりにすりゃいいんでしょうが、それにしても、あまりに自分本位です。

登場人物の描かれ方

源氏物語の特徴として、登場人物の公人としての面がほとんど描かれないということがあります。公人としての面をばっさり切り捨てて、私人としての面にのみ注目しています。

恋愛とか家庭生活に重点が置かれていて、朝廷における仕事っぷりなどは、ほとんど描かれない。たとえば夕霧は近衛大将なので、近衛府における武官としての仕事があるはずですが、そういう公人としての仕事っぷりは、ほとんど描かれません。

この時代女性が政治を論ずるのははしたないないという価値観があったので、作者もそこは遠慮して、筆を置いたのでしょう。だから源氏物語の登場人物は、誰も彼も恋愛か家庭生活ばっかりで、身の丈三寸のことしか見ていない、ひどく視野の狭い人たちのように思えてしまいますが、そうではないのだと。公人としての生活は、描かれていないだけで裏にはあるのだ、という前提で読まなければと思います。

ゆったりした語り口

源氏物語の現代語訳を作っています。源氏物語は1000年以上昔の作品ですし、とてもゆったりした語り口です。なかなか話が進みません。もどかしくはありますが、その分、登場人間の心の変化に、無理がないです。

なるほど、こういう風に人間変わっていくよねと、納得でます。柏木が、女三の宮に惹かれて、ああなんと素晴らしい人だ。あの人と一緒になりたいと、悶々と、気持ちを高ぶらせていく。その、思い詰めていくようすが、ゆっくりゆっくり、描かるので、いざ柏木が女三の宮の寝込みを襲ったときに、まあそうなるよね、気持ち的には無理がないなーと、納得できるんですね。

ゆっくり、じっくり、人の心の変化を描いているから、説得力があります。これに比べると現在の漫画やアニメは、人間の心の変化が大急ぎです。

私も漫画を描いていたからわかりますが…、たとえば16ページとかそれくらいで、主人公がハッとなにかに気づいて、成長して、以前よりも一回り大きくならないといけない。

挑戦して、失敗して、なんかアドバイスを受けて、はっと気づいて、そうか。なるほどそれでうまくいって、ハッピーエンドみたいな。安直な展開になりがちです。分量的な制限から、人の変化を急激に描かざるをえないです。

実際の人間はそんなちょっと言われたぐらいで変わらないし、同じところをぐるぐるまわりつづけるもので、時に後ろにさがったりしながら、たまにほんのすこし、成長したりするものだとおもいます。

その点源氏物語は、大らかな時代の物語ですので、ゆっくりゆっくり、もう過剰なまでにゆっくり物語っていくので人間心理の動きに全く無理がないです。その点は、すばらしいと思います。

柏木の臨終

源氏物語の現代語訳を作っています。柏木の臨終の場面です。親友の夕霧を枕元に呼んで、わが一生の後悔を、せつせつと語ります。

私は六条院と行き違いがあって、恨まれることになった。機会があったら君の方で、私の死後にでも六条院にお取りなしをお願いしたいと。

そういうことを語るわけです。この場面はものすごく長くて、何度も挫折して放り出しました。

そもそも柏木が源氏に憎まれるようになったのは女三の宮と密通したからですが、それについての謝罪は一つもなく、とにかく六条院が私のことを逆恨みしていると。世間の人が讒言をしてると。反省がないです。真摯な謝罪の言葉がない。死の間際までどんだけクズなんだと、読んでてイライラしました。

ただしですね、同じ場面を漫画の『あさきゆめみし』で読むと、柏木が憂いをたたえた、ものすごいイケメンに描いてあるので…こう額を押さえて、「ああ…私は何と儚い恋に身をやつしたことだろう」なんていってるのが、絵ならではの説得力があって、うん。…この柏木ならゆるせるよねっていう。

同じ行為をやっても、ぜんぜん説得力がちがうのですよ。見かけがいいと。そういうもんです。

昔『涼宮ハルヒの憂鬱』ってアニメがあったじゃないですか。あれ見て、当時のオタクは皆思ったわけですよ。ああこんな女の子に振り回されたい!こんな女の子の尻に敷かれたい!と。

でもハルヒって、わがままで、暴力女で、他人に対する配慮が全くないし、いいところが何もない。それがなんで魅力的に見えたかというと、一にもニにも、いとういのぢ氏のイラストが、めちゃくちゃ魅力的だったからです。つまり、見かけが可愛いいからです。見かけが可愛いからぜんぶ許される。

だから柏木のクズっぷりも、原文で読むとイライラするだけですが、漫画の『あさきゆめみし』を読んだら、許せました。

若君(薫)の五十日の祝

源氏物語の現代語役を作っています。若君の五十日の祝いの場面です。若君というのは源氏と女三宮の間に生まれた男子と表向きには見せているが、実は柏木と女三の宮が密通した結果、生まれた子で、後の薫です。その五十日の祝い…生後五十日を祝う儀式の場面です。

こうした平安時代の儀式が細かく描いていることは、源氏物語は資料的価値が高いといわれるゆえんです。フィクションではあっても、そこに描かれている宮中行事などは、とても詳しく、事実にのっとって書かれており、平安時代の貴族社会の空気感が伝わってきます。

五十日の祝いでは、子供の前にずらりと供え物をならべて、父親などが、子供の口に餅を含ませる動作をします。儀式の準備にあたる女房たちが、女三宮さまは出家しているので、いかがいたしましょう、通常どおりの作法で行きますか、などと源氏に質問する。そういう細かなセリフなどが、とてもリアリティがあって、平安時代の空気感がいきいきと伝わってきます。

続いて源氏が出家した女三の宮に対して、ねちねちイヤミを言います。あなたは私を見限って出家してしまったとか、この子をなんとなさるおつもりかとか、あれこれ言っても、ようするに自分を裏切って柏木と不倫したことを恨んでいるわけです。そうとはっきり言えばいいのに、遠回しにねちねちイヤミを言う。実に見苦しいです。中年以降、源氏はひがみっぽくなる一方で、見ていられないです。人が年取って衰えていくさまを、容赦なく描ききってます。

しかし、源氏が若君を抱きしめたとき、ああ…なんと美しく薫り立つような子であろうと、しみじみ感慨にかられる。この子は私の実子ではないが、かわいいことには変わりがないと、…そういう感慨を抱くのです。源氏が、薫に対して父親らしい愛情を抱いている。これは、暗い場面ばかりつづく源氏物語後半の中で、せめてもの救いだと思います。一方、母親である女三の宮は薫にほとんど興味をしめさず、愛情も感じてないようすが、読んでいて悲しくなります。

夕霧、柏木の遺言の意味を考える

源氏物語の現代語訳を作っています。夕霧が柏木の臨終の際の言葉について「あれはどういう意味だったんだ」と、推理する場面です。柏木の臨終のときの言葉とは「私は六条院とすれ違いがあった。

機会があれば君から六条院にお取りなしをしてほしい」と、柏木が遺言めいたことを夕霧に言い残したのです。つくづく考えるにつけ、女三宮が突然出家したことが気にかかる。紫の上さまが危篤状態におちいった時でさえ、父は出家を許さなかったのに。まして正妻の女三の宮さまを、あんな簡単に出家を許すなんて、おかしい。

柏木は、前々から女三の宮さまに惹かれていた。よほど思いつめていたようだ。もしかして女三の宮さまの出家は、柏木と関係があるのではないか…。夕霧の中でぼんやりとしていた考えがしだいに形になっていく。しかしまだ二人が密通を犯したとまでは考えが及ばず、疑いが確信に変わっていくさまが、他のエピソードと並行して、ゆっくりと描かれます。

感情に溺れやすく、もろいところのある柏木と、どこか冷めた目で世の中を見わたしている夕霧。二人の性格のちがいが見事に描かれています。宇治十帖における匂宮と薫の関係にもかさなっていくものです。世代を超えて、同じ人間関係の「型」が繰り返すのは、『源氏物語』の大きな見どころです。

夕霧、致仕大臣邸を訪ね、故人をしのぶ

源氏物語の現代語訳を作っています。柏木なき後、親友の夕霧が柏木の父である致仕の大臣を訪ねていき、二人で故人をしのぶ場面です。

最愛の息子を失った致仕の大臣は、どうして親より先に先立ってしまったのかと…すっかり意気消沈して、何も手につかなくなっています。

致仕の大臣は、もともと派手好みで社交的で、陽気な人物として描かれてきました。それだけに、すっかりやつれ果てているようすが、いよいよ悲しくいたたまれないです。

すっかり意気消沈している致仕の大臣に、死後七日ごとの法事の際に、周囲のものが注意をうながします。すると致仕の大臣は「いや私にそんなことを知らせないでくれ。私がこんなにも思い悩んでいるのだから、かえって柏木が極楽往生することの妨げになってしまう」

実に父親としての実感が出ているなあと。しかもあの明るく、派手好きだった元頭中将が、こういうことを言うことに、胸打たれます。

夕霧、一条邸を見舞う

源氏物語の現代語訳を作っています。夕霧が、柏木亡き後の一条邸を訪ねていく場面です。

一条邸は柏木の妻・落葉の宮の実家です。落葉の宮は皇女ですので、高貴な身分でありますから、夫と一緒にはすまず、実家である一条邸に住んでいます。

一条邸には柏木の未亡人となった落葉の宮と、その母である一条御息所が住んでいます。そこに、夕霧がお見舞いにたずねていくのです。御殿の中はひっそり静まり返って、女房たちも喪服を着ており、お弔いの空気が満ちて、春の花も景色も、悲しみにくれているような、しみじみとした場面です。

御前《おまへ》の木立《こだち》いたうけぶりて、花は時を忘れぬけしきなるをながめつつ、もの悲しく、さぶらふ人々も鈍色《にびいろ》にやつれつつ、さびしうつれづれなる昼つ方、前駆《さき》はなやかに追ふ音してここにとまりぬる人あり。「あはれ、故殿の御けはひとこそ、うち忘れては思ひつれ」とて泣くもあり。大将殿のおはしたるなりけり。

御庭前の木立がよく芽吹いて、花は咲くべき時を忘れぬようすである。それをぼんやりと物思いに沈んでながめつつ、なんとなく悲しい気持ちになり、お仕えしている女房たちも鈍色の衣にやつれてさびしく所在なく過ごしている、そんな昼ごろ、前駆のにぎやかに先払いする声がして、この御邸の前にとまった人がある。「ああ何という…故殿(柏木)の御気配だと、もうお亡くなりになられたことも忘れてそう思ってしまいました」といって泣く者もある。大将殿(夕霧)がいらしたのであった。

夕霧、致仕の大臣と柏木の思い出を語る

源氏物語の現代語訳を作っています。夕霧が致仕の大臣の館を訪れ、生前の柏木の思い出を、しみじみと語りあう場面です。

致仕の大臣が、涙ながらに言うことに、柏木はふつつかものではありましたが、朝廷からの覚えも熱く、人からも頼られてきておりました。ようやく一人前となりつつあった。しかし私はそのような、柏木の人望とか、官位といったことを惜しんでいるのではないですのですよ。ただあの子の、べつだん世間にめずらしくもない、そのままの人柄が、たまらなく懐かしく、恋しいのです。どうやってこの気持ちを癒やせば良いのでしょうかと…。

しみじみと胸を打たれる場面です。あの明るく派手好きだった致仕の大臣がこういうことを言うことに、いよいよ心打たれます。

夕霧、一条御息所と柏木の思い出を語る

続いて夕霧が一条御息所と亡き柏木の思い出を語り合う場面です。夕霧は親友の柏木のことを、とても深いところまで理解していたんだなと。柏木の性格をよく掴んでいたんだなと思います。

あまり世のことわりを思ひ知り、もの深うなりぬる人の、すみ過ぎて、かかる例《ためし》、心うつくしからず、かへりてはあざやかなる方のおぼえ薄らぐものなりとなん、

あまりにも世間の道理を思い知り、思慮深くなった人は、悟りすぎてしまい、世間でこういう場合の例として、心がねじけて、はつらつとした気持ちが薄らぐものらしいと、

うーん…夕霧の観察は、深いですねえ。作中で、いちばん冷静な目で人間を見れている人物だと思います。

そして故人の思い出に浸った後、庭先に桜が咲いている。そこで夕霧が「今年ばかりは」と思いつきます。関白藤原基経がなくなった時に作者が呼んだ歌です。現在もこの歌にちなみ、伏見の伏見の深草には、墨染寺というお寺があり、境内に「墨染桜」があります。この歌をよもうとしたところ、あまりに不吉だということで思いとどまり、かわりに自作の歌を読みます。

時しあればかはらぬ色ににほひけり片枝《かたへ》枯れにし宿の桜も
(毎年春がめぐってくれば変わらぬ色に美しく咲くのだなあ。片方の枝が枯れてしまった宿の桜も)

これに対して一条御息所が答えて、

この春は柳のめにぞ玉はぬく咲き散る花のゆくへ知らねば
(今年の春は柳の芽に露の玉を抜くように、目に涙を流しています。いつ花が咲いて散っていくのか、そのゆくえさえ知らないので)

柏木が生きている間は、こいつ本当どうしようもないな、救いようのないやつだなと、私は思ってたんですが、亡くなってみると、こんなにも周囲から愛され慕われていたんだなと、胸打たれます。

人が亡くなった後、親類縁者がひたすら悲しんでいるという…あらすじを聞くとちっとも面白くなさそうですが、これが実に風情があり共感でき、いい文章だなあ…と思えます。柏木が死んだあたりから、源氏物語、がぜん面白くなってきます。

昔から日本人は、亡き人を悼む文芸が得意だったんですね。万葉集でも亡き人を悼む「挽歌」というものが一つのジャンルをなしているぐらいで。亡き人を悼むということが、日本の古典においては一つの大きなテーマであるのです。源氏物語の柏木追悼のくだりも、古事記や万葉集の昔からの伝統にのっとったものといえます。

夕霧、落葉の宮に懸想する

源氏物語の現代語訳を作っています。夕霧が一条邸をおとずれ、亡き柏木の未亡人、落葉の宮を見舞う場面です。前回のお見舞いは3月でしたが、今度は4月です。しかもその間にも、何度か訪問している様子です。夕霧は、落葉の宮に対して、すでに恋心を抱いて抱いているのです。

夕霧は真面目で色恋沙汰とは縁遠い人物でしたが、ここにいたり、新たな恋物語のはじまりが、予感されます。夕霧と落葉の宮のロマンスは源氏物語後半の大きな山場です。

まだ一周忌にもなっていなのに、友人の未亡人にちょっかいを出すという…見ようによっては呆れた話ですが、文章がとても美しく、初夏の爽やかな風情がでています。三月(晩春)と四月(初夏)の季節感を、はっきり描きわけていて見事です。また一条邸の、喪に服して悲しみに沈んでいるようすも、しっとりしていて、よいです。

【新発売】iOS/Windows用アプリ 解説『古事記』1話2分
https://sirdaizine.com/CD/speedMyth-hyb99.html

『古事記』(日本神話)【全編】を、【1話2分】ていどで、解説したiOS/Windows用アプリです。

『古事記』【全編を】通して語っていますので、部分的な切り抜きにならず、『古事記』の全体像を知ることができます。

詳しくは
↓↓
https://sirdaizine.com/CD/speedMyth-hyb99.html

朗読・解説:左大臣光永