初編 程ケ谷より戸塚へ

原文

両側(りやうがは)より旅雀(たびすずめ)の餌鳥(おとり)に出しておく留(とめ)おんなの顔(かほ)は、さながら面(めん)をかぶりたるごとく、真白(まつしろ)にぬりたて、いづれも井(い)の字(じ)がすりの紺(こん)の前垂(まえだれ)を〆たるは、扨(さて)こそいにしへ、爰(ここ)は帷子(かたびら)の宿(しゆく)と、いひたる所となん聞(きこ)へし

たび人をのせたる馬士なまけたるこへにて「ふじの人穴(ひとあな)馬でもはいるなぜにお方(かた)にや穴(あな)がないドウドウ

とめ女「馬士(まご)どんおとまりかな

馬士「イヤだんなはむさしやだが、おまへのかほを見たら、ソレこのちくしやうめがとまりたがらア。ソレソレ

馬「ヒヒヒンヒヒヒン

ト行過ぎると又後より旅人ニ三人

とめ女「もしおとまりかへ

ト引とらへて引ぱる

旅人「コレ手がもげらア

とめ女「手はもげてもよふございます。おとまりなさいませ

たび人「ばかアいへ。手がなくちやアおまんまがくはれねへ

とめ女「おめしのあがられねへほうが、おとめ申ちやア猶かつてさ

たび人「エエいめへましい、はなさぬか

とやうやうにふり切て行と又あとからくるは旅僧

とめ女「おとまりかへ

現代語訳

程ケ谷より戸塚(とつか)へ

両側の宿屋から、旅雀(たびすずめ)をつる餌鳥(おとり)に出しておく、客引女の顔は真白に塗りたくって、お面さながら。どいつも井の字絣(いのじがすり)の紺前垂れをしめているのは、なるほど、その昔、ここは帷子(かたびら)の宿(しゅく)と呼ばれたという話なのだ。旅人を乗せた馬方も間抜けた声で、

「ふじの人穴(ひとあな)、馬でも入る、なぜにお方にゃ穴がない、どうどう」

とめ女「馬方どん。お泊りさんかい」

馬方「いいや。旦那はむさし屋だが、おまえの顔を見たら、それこの畜生めが泊りたがらあ。それそれ」

馬「ヒヒヒン、ヒヒヒン」

行ってしまうと、またあとから旅人二、三人

とめ女「ちょいと。お泊りよね」

と、ひっつかまえて、引っ張り込むのを、

旅人「おっと、と、と、手がもげらあ」

とめ女「手はもげてもいいから、泊まっておいでよ」

旅人「ばかいえ。手なしじゃあ、おまんまが食えねえや」

とめ女「おめしをいただかないほうが、泊めても都合がいいってさ」

旅人「ええ、いまいましい。はなさねえか」

やっとのことに振り放して、逃げ出すそこへ、今度は旅僧だ。

とめ女「お泊りでしょうか」

語句

■旅雀-所定めぬゆえに、旅人を雀にたとえた話。旅烏とも。■餌鳥(おとり)-ほかの鳥を捕らえるために、籠に入れて鳴かせたり同種の鳥。ここでは客を誘い込むための女をいう。■留(とめ)おんな-街道の宿屋で、旅人の袖を留めて、客を引くために道筋に出しておく女。■前垂-薩摩上布の帷子の前垂をしていることに作ってある。『守貞漫稿』の帷子の条「今世薩摩上布を流布とする也、多くは紺がすり也」。同書のかすりの条に「十字井字のかすりは算を以て会せしめ」。■なまけたるこへ-しまりのない声で。■ふじの穴~-馬士唄の文句。『諸国道中記』程谷の条に「小家のかたはらに、穴二ツ有り、ふじの人穴と云ふ。建仁三年六月、源の頼家、につたの四郎忠常をもって、富士のふもとの人あなを見せしむ、是あさま大ぼさつのおはします所也」(『東海道名所図会』は誤説とする)。■お方-主婦から女性一般をいう場合などに当る語。ここは思いをよせる女性をさす。■穴がない-情がこわくて思いを入れてくれないことを、具体的にいったもの。■むさしや-当時実在した宿屋であろう。■ちくしやうめ-馬のこと。■おとめ申ちやア猶かつてさ-お泊めするにはなお都合がよい。

                                                           

原文

旅僧この女のかほを見て

「イヤもちつとさきへまいろふ

トこのあとよりくるは田舎同者

とめ女「おとまりなさいませ

田舎「はたごさア安(やす)かアとまりますべい

とめ女「おはたごは弐百ヅツ

田舎「イヤイヤそふは出し申さない。そんだい湯(ゆ)はぬるくてもよくござる。平(ひら)はついぞ、かへてくつたこたアござらないが、めしと汁(しる)は、たつた六七はいヅツも喰(く)やアそれでよくござるは。そんだいにやアあしたの昼食(ちうじき)は、この柳(やなぎ)ごりにいつぱい、つめてもらへば、もふほかになんにも入申さない。はたごは百十六文ヅツも出し申そふ

とめ女「そんなら、外へおとまりなさいませさ

田舎「ハアとめざアいきますべい

トゆき過ぎる。弥二郎兵へきた八この体を見て、始終(しじう)興(けう)に入、弥次又こぢつけるうた

おとまりはよい程谷(ほどがや)ととめ女戸塚前(とつかまへ)てははなさざりけり

と打わらひ過(すぎ)行ほどに、品野坂(しなのざか)といふところにいたる。是なん武州相州(ぶしうさうしう)の境(さかい)なりときけば

玉くしげふたつにわかる国境所(くにざかいところ)かはればしなの坂より

現代語訳

旅の僧、この女の面(つら)をつくづく眺(なが)めて、

「いや、いや。南無阿弥陀仏(なみあみだぶつ)。も少し先へまいろう」

入れかわり、あとから田舎者が二人、

とめ女「お泊りなさいませよ」

田舎「宿泊料さあ安かあ泊まりますべい」

とめ女「ご宿泊は二百ずつ」

田舎「いやいや。そんなに出し申さない。そのかわり、風呂の湯はぬるくともようござる。御前(ごぜん)の皿は、これまで一度も、お替りして食ったこたあござらないが、飯に汁はせいぜい六、七杯ずつも食やあ、ほかに御馳走はなくてもよし。そのかわりにゃあ、明日の昼弁当は、この柳行李(やなぎごり)に、一杯詰めてもらえば、そのうえ何にももう、いり申さない。そうさのう。百十六文ずつも払おうか」

とめ女「そんなら、ほかへお泊りなさいよだ」

田舎「ははあ、泊めなきゃ行くべい」

弥次郎も北八もこの有様を見て、べらぼうに面白がった。

おとまりはよい程ケ谷ととめ女戸塚まへでははなさざりけり

と笑いながら行くうちに、品野坂という所に着いた。ここが武州相州の国境だときかされて

玉くしげふたつにわかる国境所かはればしなの坂より

語句

■はたごさア-ここは旅籠代。宿賃。■弐百ヅツ-天明六年(1786)の記では、東海道の旅籠代は百五十文前後。寛政十一年(1799)の二割増しで、二百文前後になった。東海道以外は一割半で、やや少ない。それで田舎同者は値切るのである。■そんだい-「その代り」の田舎言葉。■平-平椀。膳の前に据えて、煮物などの副食物を入れる浅く平たい椀。『守貞漫稿』に、平はおかわりをするものではないと見える。■柳(やなぎ)ごり-柳の枝の皮をむいてさらし干ししたものを編んで、籠風で、かぶせ合せるように作った具。小さいものは弁当入れとした。■百十六文ヅツ-享和からは大分以前の宿賃(安永三年刊『太平国恩俚談』所見)。

※旅籠屋に宿る時の駆引きを、誇張して写した滑稽。

■おとまりは~-お泊りはちょうど程(時間)もよいと留める留女を取っかまえて離さない。程谷と、その一つ前の宿戸塚を地口で詠みこんだ歌。■品野坂-『早見道中記』(十九序)に「やきもち坂しなの坂くはんをん堂あり、此所むさしがみのさかい也」(今、横浜市保土ケ谷区境木町(さかいぎちよう)にある)。■玉くしげ-「玉くしげ」は「ふた」(蓋)の枕詞。「所かはれば品かはる」の諺をはさみ、二国にわたるこの国境、品野坂からは、武蔵が相模にかわるの意。

                                                           

原文

すでにはや、日も西(にし)の山のはにちかづきければ、戸塚(とつか)の駅(ゑき)になんとまるべしと、いそぎ行道すがら

弥二「コレきたや、またつせへ。はなしがあらア。なんでも道中(だうちう)は飯盛(めしもり)をすすめてうるせへから、ここにひとつはかりごとがある。おいらは親仁(おやぢ)なりぬしやア廿代(はたちだい)といふもんだから、親子(おやこ)といつても、いいくらいだによつて、是から泊々(とまりとまり)では、なんと、おや子のぶんに、しよふじやアねへか

きた「ヲヲこれは妙(めう)だ。なるほどそれじやア、すすめねへでいい。そんならおとつさんといふのか

弥二「そふさ。貴様(きさま)は諸事(しよじ)を息子(むすこ)きどりだが、承知之助(しやうちのすけ)か

きた「よしよし、そふいつて又、いいたぼでもあつたら、此むすこをだしぬくめへよ

弥二「エエばかアいわつし。ヲヤもふ戸塚だ。笹屋(ささや)にしよふか

現代語訳

はやくも陽ざしは西山に傾き、夕景色となったので、戸塚の駅に、長旅の第一夜を求めようと、足早に急ぐその道々、

弥次「これ北八よ、まちな。相談があらあ。そもそも、道中はとかく飯盛女をしつこくすすめてうるせえ、で、おらが親父(おやじ)になりすます。おぬしは、若くて二十代に見られるから、親だ、子だ、といってもいいくらいだ。これからの泊り泊りでは、どうだい、親子のふりをしようじゃねえか」

北八「これは妙計。なるほど、押し売りされねえでいい。そんなら、もうし親父さま」

弥次「その調子だ。貴様は万事を息子っぷりよろしゅう、承知の助か」

北八「よしはよしだが。その合間に、好いたらしい女でもいたら、こっちの息子をごまかすまいよ」

弥次「でも、阿保(あほう)なこと、おやもう戸塚だ。笹屋(ささや)にしようか」

語句

■戸塚-程谷より二里九丁の宿駅(今は横浜市戸塚区)。■飯盛-宿駅の宿屋で、給仕女の名目で置き、客の希望により売色をもした女。法令では一軒に二人の定めであったが、事実は多数になっていた。揚代は、文化頃の川柳に「飯盛が寝ぼけて二百棒に振り」などあって当時は二百文。親の前、子の前では、人も色事も慎むという当時の風習によっての発言。■親仁なり-高年配である。■貴様-ここでは今の「あんた」ぐらいの意味。この語は時代により尊敬度が低下していった。■諸事-万事に息子の気持ちで振舞うことになるが。■承知之助-「承知」という語を洒落て人名化したもの。■たぼ-女の髷の後ろに出た部分の称。転じて女性の意の洒落言葉。■笹屋-これも実在の宿屋であろう。

次の章「初編 戸塚より藤沢へ

朗読・解説:左大臣光永

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