初編 戸塚より藤沢へ

原文

北「とつさんや

弥二「なんだ

北「ここじやアねつから、お泊(とまり)なせへといつて、ひつぱらねへの

弥二「ほんにそのはづだ。爰(ここ)はどなたかおとまりと見へて、みな宿屋(やどや)に札(ふだ)がはつてある

きた「コウむかふの内がいきだぜ

弥二「コレあねさん。とめてくれる気はなしか

はたご女

「イエ今晩(こんばん)はおとまりで、あいやどはなりませぬ

弥二「なむさんそふだろふ

トだんだんやどをさがせども、みなふさがりとめぬゆへ大きにこまり、まごつきあるき

とめざるは宿(やど)を疝気(せんき)としられたり大(おほ)きんたまの名(な)ある戸塚(とつか)に

それより宿(しゆく)はづれにいたるに、漸(やうや)くはたごやの合宿(あいやど)なきていにみゆるあれば、やがてここにたよりて

弥二「なんとわしらをとめてくんなせへ

てい主「おふたりかへ、おとまりなされませ。当宿(とうしゆく)はやどやはみなふさがりましたが、私(わたくし)かたばかりあたりませぬ

弥二「こんなにきれいな内を、なぜあてねへの

現代語訳

戸塚より藤沢へ

北八「とっさんや」

弥次「なんじゃいな」

北八「ここでは、ちっとも、お泊りお泊りといって、ひっぱらねえ」

弥次「それもそのはずよ、どなた様かのお泊りとみえ、ほれ、何々様御宿の札が貼ってあるわ」

北八「気に入った。こう、向こうの家が粋(いき)だぜ」

弥次「そこなおねえちゃん。泊めてはくれまいか」

はたごやの女「今晩は貸し切り。合宿はお断わり」

弥次「南無三(なむさん)。そういうわけなのかい」

探せど探せど、宿はいずれも満員で断られ、困り果てて、うろうろする。

とめざるは宿を疝気(せんき)としられたり大きんたまの名ある戸塚に

そこで、宿の場末に、やっとのこと、合宿のなさそうな旅籠(はたご)を見つけだし、

弥次「どうでも、わしらを泊めてくんなせえよ」

亭主「お二人かえ。さあさあお泊りくださいませい。当宿場(しゅくば)は、旅籠屋みな満員ですが、当店ばかりは御下命をいただきませぬ」

弥次「こんなきれいな家を、なんで御下命とやら、しねえのかのう」

語句

■ねつから-少しも。■どなたか-どなた様か。どこかの参勤交代中の大名。■宿屋に札-大名の宿駅での泊りは、本陣または脇本陣であるが、供の人数が多いとその他の旅籠屋または町屋に分宿する。本陣に関札と称する門札(作法がある)を打ち、分宿の者も、その氏名を記して貼ったものである(大熊喜邦『本陣の研究』)。■いき-気がきいてさっぱりしている。■おとまりで-大名とその供の宿泊。■あいやど-行きづりの人々が、宿屋で、同じ部屋に泊まること。■なむさん-「南無三宝」の略。驚いたり、失敗したりした時に発する語。■疝気-『洋漢病名一覧』に「疝」は説文に腹痛也とありて、腹中に発作する所の疼痛(とうつう)を謂(い)ふ。・・腸間膜神経叢(そう)に非常の刺衝(ししょう)を受るに因る。而して其痛処は、大概臍辺りにあり、強く之を按ずれば即ち、却(かえっ)て軽快を来たす」。寒冷や食積によって起る。昔はその一つに狼疝といって、下腸から陰へかけて痛むものあり、疝気で睾丸が大になるとされた。『鍼灸重宝記』の疝気の条に「陰卵偏(かたかた)大なるは、関元に灸百荘すべし」。■大きんたま-戸塚に大睾丸の乞食があり、元禄頃から幕末まで何代もあった。三代目と思われるは、睾丸の上に鉦を置いてこれを打ち、金を乞うたという(三田村鳶魚ほか『膝栗毛輪講』所収「大金玉代々記」など)。この狂歌は、「疝気」と「睾丸」の縁語仕立て。■あたりませぬ-大名の供の宿泊に当らなかった。

                                                          

原文

てい主「わたくし方は、新宅(しんたく)でござります。ソレおなべ、お湯(ゆ)はどふだ

ト此内女たらゐに湯をくんで来り、やなぎごりふろしきづつみをざしきへはこぶ

北「コウ弥次さん、じやアねへとつさん。おめへわらぢも、いつしよにしておかふ

弥二「ヲヲそして、おれが脚絆(きやはん)も、ざつといすいでおきや

北「ナニ脚絆をいすげか

トかほを見ると、弥二郎兵へ目つきでしらせるゆへ、口こごとをいひながら、きやはんをあらひしまひ

北「あねさん、ちやをひとつヅツくんな

トざしきへとをる女ぼんにちやをふたつもつてきたり

女「すぐにおゆにおめしなさいやせ

弥二「コウあの女のつらアみたか。真中(まんなか)がへこんで、なんのことはねへ、ふみけへしの馬蹄石(ばていせき)といふもんだ

北「そりやそふと、弥次さん

弥二「ソレ女がきたは

北「ヲツトとつさん、湯へはいらねへか

ト此内女さかづきをもつてくる

弥二「ヲヤさけか、ゑどものと見ると、どこでもこふするにはあやまる

北「ナゼ、酒(さけ)を出しやア、別(べつ)に銭(ぜに)をとるか

現代語訳

亭主「当方御宿は、新規開店でござります。おおい、おなべ、洗い湯はすぐにさしあげなくちゃあ」

女中が盥(たらい)に、湯をなみなみと持って来たついでに、かっさらうように、柳行李、風呂敷包を座敷へ運び去る。

北八「おい弥治さん。じゃあねえ、とっさん。草鞋(わらじ)もいっしょにくくっておこうか」

弥次「ついでにおらが脚絆(きゃはん)も、ざっと、すすいどきな」

北八「なにい、脚絆も洗ええ」

顔を見返すと、弥次郎兵衛が目顔で合図するから、不平をつぶやきながらも、脚絆を濯(すす)いでしまう。

北八「あねさん。茶は一人あて、別々にくんな。きっとだぜ」

座敷へは、女が注文どおり、茶道具は二揃い持って来た。

女「すぐ、お風呂をおめしなさいやせ」

弥次「こう、あの女の面(つら)見たかね。真中がへこんで、なんのことはねえ、庭石にする馬蹄石(ばていせき)てえとこさ」

北八「そりゃそうと、弥次さん」

弥次「おっと。来た、来た、女だ」

北八「合点。とっさん、湯へはいらねえか」

お面は踏石の女が、まず盃を、かしこまって持って来た。

弥次「へえ、もう酒か。江戸者とふまれたら、どこでも、こう、おいでなさるから、恐れ入るよ」

北八「なぜよ。酒代は別勘定で取るのかね」

語句

■新宅-新しくできた家で(一説に古い宿屋の分家)、帳簿から外れたの意。■脚絆-旅行・労働の時に、脛にまといつける布。木綿製で、上下に紐でくくるように製する。白または浅黄・紺色など。■いすいで-「ゆすぐ」の訛。■口こごと-ぶつぶつ口中でこぼしながら。■ふみけへし-踏返し。沓脱石。縁先の庭に据えて、庭下駄などをのせる石。■馬蹄石-『雲根志後編』三に「(馬蹄の形が)或は片面にあり、或は両面践むが如し、色黒く甚堅き美石也、是を破れば石中不残金星なり」と。東海道では、相模国府中(静岡市)藁科川・大井川・安倍川などに産す。馬蹄石は庭石などにするものではないが、真中が凹形であることの比喩。■ゑどもの-江戸者は気前が良く気が大きいと思われていた。■こふする-酒を出す。■あやまる-恐れ入る。困る。上にもあるごとく、酒は宿賃とは別。

                                                          

原文

弥二「しれたことよ

トいいながら手ぬぐひを取湯へは入ル女すずりぶたとてうしをもちいで

女「おひとつめしあがりませ

北「是は御ちそうだ。コウおいらが親父(おやじ)に、はやくあがらつせへといつてくんな

女「ハイさやう申ませふ

と立て行此内弥二郎兵へ湯よりあがりて

弥二「ハハアなんだ、コリヤアのめるは。コレ手めへ、はやく湯に入つてきや

北「イヤのんでからいろふ

弥二「エエてめへも、いぢのきたねへもんだ。這(ヘエ)つてきやな

此内きたも湯へはいる

てい主出て

「是は何もござりませぬが、ひとつめしあがりませ

弥二「イヤ御亭主(ごていし)さん、是ではめいわくだ

てい「イエ時にかよふでござります。わたくしかたは今まで、外商売(ほかしようばい)をいたしておりましたが、こんどはたごやになりまして、すなはち今日(こんにち)がみせ開(びらき)でござります。あなた方ははじめてのおきやくゆへ、それで祝(いは)つて、ひとつさし上ますのでござりますから、別(べつ)に御酒代(ごじゆだい)を、いただくのではござりませぬ。おこころおきなく、めしあがつて下さりませ

弥二「イヤそれは先おめでたい。しかし御ちそうになつては、ちかごろきのどくだ

現代語訳

弥次「あたりめえよ。ばかばかしい」

大得意で手ぬぐいを下げて湯へ。そこへ、口取りと銚子を用意して来た女が、

「おひとついかが」

北八「おおきに、御馳走様。おいらが親父に、早くあがれと言ってくんな」

女「はい。さよう申すでございます」

入れかわりに、弥次郎兵衛が風呂から戻った。

弥次「ははあ、やってるね。こりゃあ、じっくり飲めるわ。おい、てめえ、早いとこ湯にはいってこい」

北八「いや。飲んでから入ろうよ」

弥次「どうもてめえは、飲み意地が張ってやがる。入(へぇ)ってこいってことよ」

しぶしぶ北八も湯へ入るが、宿の亭主がまかりいでて平つくばる。

「これは、これは。お口にあう珍肴(ちんこう)とて何もござりませぬが、まず、一献(いっこん)召してくださりませ」

弥次「あいや、御亭主、それでは、こちらが恐縮だ」

亭主「いやなに、これは御挨拶(ごあいさつ)でござります。私どもは、今まで他の商売をいたしおりましたところ、このたび、旅籠屋に転業いたし、すなわち、その本日が開店第一日にてござります。あなた方は、はじめてのお客様ゆえ、内祝いの心づもり、まずは一献たてまつるのでござります。別に御酒代を頂戴するわけではござりませぬ。お心おきなく、召し上がってくださりませ」

弥次「それはまずもっておめでたい。が、御馳走になるばかりじゃ、近頃になくお気の毒千万」

語句

※この初編は、こんな細かい所から、途中の風景の描写まで入れて、大いに旅の気分を出すことに務めているのが、一特色である。

■すずりぶた-近世に行われて、酒の肴や菓子などのせて客席に出す浅い長方形の盆(山東京伝『骨董集』中)。■いぢのきたねへ-食い意地のはった、ここでは飲食にだらしのないの意。■時にかよふでござります-突然にあらたまった話をきりだす語句。突然ながら、事情は次のごとくです。■みせ開-(宿屋)を開店した最初の日。■ひとつさし上げます-一献さしあげます。■おこころおきなく-ご遠慮なく。■ちかごろきのどくだ-近頃になく心苦しいことだ。

                                                         

原文

てい「ナニサ御遠慮(えんりよ)なふ。今におすいものもできます

弥二「イヤもふおかまひなさるな

てい「ハイ御ゆるりと

トいいすててたつて行きた八ふろより出て

北「よふすは残(のこ)らず、あれにてきいた。おや方ただとはありがてへ

弥二「コレしやれずと、もふいつぺん湯(ゆ)へ這入(へえ)つてきや。そのうちに、みなおれがのんでしまはア

北「そふだろふとおもつて、湯へはいつていても、あらうそらアねへ。ヲヤ足(あし)はまだつちだらけだ。ままよサアはじめねへ

弥二「もふとつくに初(はじめ)ていらア。ドレもふひとつ、初直(はじめなほ)してからさそふ

北「イヤおいらはこれだ

トちやわんについでいきなしにぐつぐつとやらかし

北「アアいいさけだ。時にさかなは、ははアかまぼこも白板(しらいた)だ。さめじやアあんめへ。漬(つけ)せうがにくるまゑび、やぼじやアねへ。コウとつさん、このしそのみがいつちうめへ。おめへは是ばつかりくひなせへ

弥二「ばかアいへ。そりやアあとへのこるにきまつたもんだ。時にもふ、吸(すい)ものが出そふなものだ

北「まちなよ

トふすまのあいだから、かつての方をのぞき

北「でるでる。今よそつていらア。ヲヤなぬさん、神(かみ)さまへあげるのだ、イヤアくるぞくるぞ

トひざをなをしているとやがておんなすいものをもつていで

現代語訳

亭主「なにさま、御遠慮なく、もう、お吸物もできます時分」

弥次「いや、もう。おかまいなさるな」

亭主「では。ごゆるりと」

と言い捨てておいて腰を挙げると、北八が風呂から戻る。

北八「様子は残らずあれにて聞いた。親方ただとはありがてえ」

弥次「これ、洒落ずに、もういっぺん湯に這入(へえ)ってこいよ。そのうち、みんな飲むなあ、俺一人だ」

北八「そうだろうと思って、風呂で洗うのも上の空。おや、足はまだ泥(どろ)だらけだ。ままよ、さあ、ぐいっと一杯のはじまり」

弥次「もうとっくに始めてらあ。そんなら、もう一度、始め直しをやらかそう」

北八「おめえは盃、おいらはこれで」

茶碗(ちゃわん)に注いだ、と見る間も早く、ぐいぐいと、がぶ飲みする。

北八「ああ、いい酒だ。ところで肴は、かまぼこも特製白板(しらいた)。鮫(さめ)じゃああるめえな。漬け生姜(しょうが)に車海老(くるまえび)は、気がきいてるね。とっさんや、この紫蘇(しそ)の実がなによりもうまいぜ。おめえは、こればかり、ひろって食いなせえ」

弥次「ばかいえ。そりゃあ、食い残すに決まってるもんだ。時にそろそろ吸物が出そうなものだが」

北八「ちょいと、待ちねぇ」

と襖(ふすま)のすきまから、台所の方を覗(のぞ)きながら、

北八「持ってくる持ってくる。いまよそってらあ。南無三、ちがった。神様にお供(そな)えだ。いや今度は、こっちに来るぞ、来るぞ」

行儀よく坐り直していると、やがて女が吸物を持ってくる。

語句

■よふすは~-歌舞伎芝居の文句であって、ここは声色でいった気持であるので、次に「しゃれず」とうけているが、何の芝居で、誰の声色かは未詳。■あらうそらアねへ-洗っていても、酒の事が気にかかって、本気で洗えない。■初直~-再び初めということで、自分が飲んでから、お前に盃をあげよう。■いきなしに-息もつかずに。一息に。■かまぼこ-蒲鉾。その創始や形に諸説があるが、文化頃では、現在の板のついたものと同じ形である。■白板(しらいた)-『守貞漫稿』ニ十八に「今製は図の如く、三都ともに杉板面に魚肉を推し蒸す。蓋し京坂には蒸したるままを、しらいたと云ふ。板の焦ざる故也。多くは蒸して後焼きて売る。江戸にては焼きて売ること之なし、皆蒸したるのみを売る。・・・江戸は百文・百四十八文、二百文・二百四十八を常とす。蓋し二百文以上多くは櫛形の焼いていない物也」。これによると、白板で、江戸風などを、二人はよろこんだこととなる。■さめじやアあんめへ-前書に「三都とも精製は鯛、ひらめ等を専らとす。又京坂は鱧製を良とす。江戸は虎きすを良とす。凡製のものは三都とも鮫の類を専らとす。鮫の類数種あり名を略す」。■漬せうが-生姜(しょうが)を干し水気を去って、梅酢につけて、赤く色を出したもの。■くるまゑび-『本朝食鑑』に車鰕をあげて、「孟江及び相豆房総、皆多シ」とある。この土地産の新しいものであるとしてある。よって、白板に続き、野暮でないとなる。■しそのみ-紫蘇の実は、(塩漬)にし、または干して食する(本朝食鑑)。ここは肴のつまにして出したものである。■いつちうめへ-一番うまい。冗談を言っている。

                                                          

原文

女「おてうしをかへませふ

トもつてゆく、ふたりながらすぐにすいもののふたをとつて

北「ヲヤ赤(あか)みそたアしやれるは。よもや玉(たま)みそじやアあんめへ。時にてうしはどふだ

弥二「せわしねへ。たつた今もつていつたは

北「もふきそうなものだ

ト此内女がてうしをもつてくると、ふたりながらなるくちゆへ、あいのおさへのとのみかけ、だんだんさけがまはつて、おやこのあいさつも、なんだかむちやくちやとなる

北「コウあねさん、ちつとあいをしてくんな

女「わたしはいつかうたべませぬ

北「はてさコレそふいはずと、そしてこんやおめへと、ちよつとナ、是がかための盃だ、ノウとつさん

弥二「せがれめは、もふよつたそふな

北「ナニよつたもきがつゑゑ。アノ親父のつらはよハハハハハハ

トまきじたにてしやれる、女はきもをつぶしながら、うけたさかづきをほして、弥二郎へかたへさす

北「エエおやぢのちくしようめ、思ひざしにあづかつたな。コウ女中、のちにたのみます

トしなだれかかる。女はあきれてそうそうににげだして行

弥二「コウきさまアわりいおとこだ。女の前(まへ)で、あんなことをいふなへ

北「ナゼいつちやアわりいか。わるかアいふめへ。おらアアノ太へもんめが、おかしな目つきをするので、もふおやこのゑんがきりたくなつた

ト此内に膳も出て、いろいろあれども、あまりことながければここに略す。なま中おやこのあいさつにて、はたごやの女まこととおもひ、何をいつてもとりあげねば、今更(いまさら)ひとりねの枕(まくら)さみしく打ふしけるが、夜もふけゆくままに、勝手(かつて)もしづまり、やまの神の小言いふ声のみきこへて、此ふたり寝もやらず、着たる夜着のあかつきかけて、千手観音の利生あらたに、かゆき所へふすまもる、風の手のとどくもうるさく、ほろ酔いの酒もさめて、今おもひ廻らせばひとりねにおはちのまはらざるも、めしもりの杓子あたりわるきゆへにや。仮の親子の遠慮ありしは、かへつて鳥目の徳つきたりとおかしくて

一筋に親子とおもふおんなより只二すじの銭まうけせり

現代語訳

女「お銚子を変えましょう」

立ち去るのも待ちかねて、二人はすぐ吸物の蓋(ふた)を取ったが、

北八「赤味噌(あかみそ)たあ、洒落てるよ。まさか、まずい玉味噌じゃあなかろうね。お銚子はまだはいってるかい」

弥次「心配しなさんな。たったいま、取り替えに行ったじゃないか」

北八「ああ、じれったい」

そこへ女が、新しい銚子を運んで来たのを幸い、呑兵衛(のんべえ)の御両人、さしつ、さされつそのうちに、酔いがまわって、親子の口調もなんだか怪しくなってきた。

北八「ちょいと、あねさん、少々おあいてをしてくんな」

女「私は、ちっともいけません」

北八「はてさ、さした盃、そうは言わさぬ。それに今夜は、おめえと、内証の話。これが、そもそも、かための盃だ。なあ、とっさん」

弥次「倅奴(せがれめ)は、もう酔っぱらってさ」

北八「な、なんだ。酔ったんで気が立つよ。あの親父のとっちゃん面よ。はははは」

巻舌になってふざけると、女はびっくりしながら、さされた盃は干したものの生酔(なまよ)いの北八にかえさずに、弥次郎兵衛の方へかえす。

北八「親父の、こん畜生め。思いざしにあずかりやがったな。これお女中、のちほど頼みますよ」

しなだれかかられて、女はあきれて早々に逃げだす。

弥次「貴様はしょうのない男だ。女の前であんなことを言うもんじゃねえ」

北八「なぜ悪いか。悪けりゃあ、言うまいよ。おらあ、あの女が、思わせぶりの目つきをするんで、さっそくながらだ、もう、親だの子だの縁を切りたくなった」

中途半端(ちゅうとはんぱ)な親子ぶりに、宿の女は真実親子と思うのか、どう口説(くど)いても相手にしないし、この期(ご)に及んで、独(ひと)り寝(ね)は肌寂しいが、夜更けになると、台所も静まり、旅籠のおかみさんの叱言言う声だけ聞えて、こっちの二人は寝つかれず垢(あか)じみた夜着にくるまり、観音様(虱(しらみ))はお出ましだし、痒(かゆ)い所には手が届かず、遠慮なく慕いよるのは、うるさく吹き込む隙間風で、生酔いの酒もとっくに冷(さ)めた今、つくづく思い返すと、なる程、ひとりねにおはちのまわらざるは、飯盛女の杓子(しゃくし)あたり悪きが如しか。さては、仮の親子の気兼ねがあったればこそ、女郎買いの無駄遣いもせずすんで、福徳にもあずかったんだと、かえって面白くなり、

一筋(ひとすじ)に親子とおもふをんなよりただ二すじの銭まうけせり

語句

■赤みそ-白味噌は上品であるが関西風、江戸の民間では赤味噌がよろこばれたので、洒落たという。■玉みそ-『本朝食鑑』に「玉味噌ト云フ者有リ。煮豆半熟ニシテ包丁ヲ以テ打砕キ、麁細ニシテ之ヲ合サシメ、麹少ク塩多ク揉合セテ丸ト為シ、打麹ノ大サナラシム。之ヲ裹(つつ)ムニ稲草ヲ以テシ、縄ヲ用ヒテ縛ヒ定メ之ヲ簷間ニ繋ケ、年ヲ経テ之ヲ用ユ、此亦タ下品ナリ。或ハ大豆煮熟スヲ用ヒテ、麹塩ヲ交ヘ、米糠ヲ合シテ造成ス、此レ最モ下品ナリ。其ノ下品ナル者、経年能ク保ツテ敗セザルヲ以テ好ト為ス也」。■なるくちゆ-一つ成る口。酒のいけること。■あいのおさへ-「あい」はさした盃を第三者が飲むこと。「おさへ」はさした盃を相手に戻すことだが、ここは「さしつさされつ」の意。■いつかうたべませぬ-全く酒を飲まない。■かための盃-夫婦約束の盃。ここは一夜妻の約束の盃。■きがつゑゑ-あつかましい。人のことをよい加減に評するを罵った。■まきじた-古くは「切口上」のこと。ここでは酒を飲んで、ろれつのまわらぬ口のきき方。■思ひざしに~-相手に思いをかけて盃をさすこと。■太へもん-娘の隠語。■おかしな目つき-情を含んだ目つき。ウインク。■おやこのゑん-仮の親子の縁を切って、色事をしてみたいの意。■なま中-なまじいに。■あいさつ-話合い。関係。■やまの神-一家の主婦。ここは宿の女房。『俚言集覧』に「妻を奥と云ふ。おくはいろはの内やまけの上に、やまの上といふとぞ。然れどもさにあらず、ただとり乱したる姿を喩へていふなるべし」。■夜着-大型の衣類の体で綿を入れた寝具。宿の夜着の垢の付いた意で下にかかる。■あかつき-『千載集』冬「高砂の尾上の鐘の音すなりあかつきかけて霜やおくらむ」(大江匡房)。歌語で「朝まで」の意。■千手観音-手の多いところが似て、虱の異称。■利生-御利益ならぬ祟りもあらわに痒いと続く。■かゆき所-諺に「かゆい所へ手の届くよう」とは、十分ゆき届くこと。ここはその反対に、痒くて寝られぬ上に、襖(夜具の衾でなかろう)の隙間風が入ってきてうるさく。■おはち-飯櫃のこと。「おはちがまはる」とは順番が来るの意。飯盛がまわって来なかった。「おはち」「めしもり」「杓子」は縁語。■杓子あたり-「杓子あたり」とは飯盛る分量の多いこと。ここは飯盛の待遇が悪い意。■鳥目-穴明き銭が鳶鳥の目に似たとて、銭の異称。金銭上の得になった。■一筋に-ひたすら親子と誤解した飯盛から、二百文もうけたの意。■二すじ-一筋は銅銭百文(ただし九十六文で百とする習慣)。二百文は飯盛一人の代。この頃は「旅日記此二百はえ二百はえ」の柳句のごとく二百文。後は高くなる(上林豊明『かくれさと雑考』)。

                                                         

原文

斯口(かくくち)づさみて、打わらひつつかたむけし、箱(はこ)まくらも耳(みみ)の根(ね)に、いたくもひびく夜明(よあけ)の鐘(かね)、はやおもてには助郷馬(すけごうむま)の嘶(いなな)く声「ヒインヒイン 馬の屁のおと ブウブウブウ 長もちにんそくのうた

人「竹にさあ引すずめはアなアんあへ、ヲイヲイ、どうするどうする

此内「弥二「北もおきでれば、やがて膳も出、ここにもいろいろあれども、あまりくだくだしければりやくす。それよりふたりはそこそこにしたくして、ここを立出ると、向ふよりつづいてくるお大名の長持、引きもきらず

人足「はこねさア引八里イはアなあんあへアツアツどうだかどうだか

北「弥二さん、見ねへ。おもそふなものをよくかつぐぜ。アノ尻(けつ)をふるざまア

弥「あのてやいが尻(しり)をふりまはすのを見たら、チトふさいできた

北「なぜなぜ

弥「死んだ女房(かかあ)がことをおもひだして

北「おきやアがれハハハハハハ

ト此内むかふより、ちよんがれぼうず、やぶれたあふぎにて手をたたきながら

坊主「ヒヤア御はんじやうの旦那方(だんながた)、壱文やつて下しやいませ

弥「つくなつくな

坊「とことことこよいとこな

北「コレつくなといふに。銭(ぜに)はねへは

坊「ナニなことがござりやしよ。道中(だうちう)なさるおかたには、なくて叶(かな)はぬぜにと金(かね)、まだも杖笠(つへかさ)蓑桐油(みのとうゆ)、なんぼしまつな旦那(だんな)でも、足一本(あしいつぽん)ではあるかれぬ。その上田町(たまち)の反魂丹(はんごんたん)、コリヤさつてやのしらみ紐(ひも)、ゑつちうふどしのかけがへも、なくてはならぬそのかはり、古(ふる)いやつは手ぬぐひに、おつかひなさるが御徳用(おとくよう)

弥「エエやかましい。ソレやろう

トはやみちより壱文ほふりだす

坊「コリヤ四文銭(なみせん)とはありがたい

弥「ヤ四文ぜにか。なむさんぼう、三文つりをよこせ

坊「ハハハハハハ

弥「いめへましい

現代語訳

なにぶんにも、一寝入りする箱枕(はこまくら)は、耳のつけ根もいやに堅く、夜明けをつげる鐘の音は、その耳元に、痛く鳴り響き、表にはもう、助郷馬(すけごううま)のヒヒインヒヒインといななく声、屁(へ)の音に混じって聞える。

長もち人足の歌「竹にさあ雀はアなアんあえ、おいおいどうするどうする」

そこで二人は、朝飯もそこそこに、急いで道中の支度(したく)をして、ここを出発する。向こうからは引きもきらず、お大名の長持(ながもち)行列。

人足「はこねさア八里イはアなあんあえ、あつあつどうだかどうだか」

北八「弥次さん、ちょいと。重そうな物をよく担(かつ)ぐぜ。お尻を振るざまあったらねえや」

弥次「あの手あいが、尻を振り回すのを見ちゃ、ちっと鬱(ふさ)いできた」

北八「なぜよう」

弥次「死んだ女房(かかあ)が思い出さるる」

北八「おきゃあがれ。はははは」

すると向こうから、ちょんがれ坊主が、破(やぶ)れ扇子(せんす)で掌(たなごころ)を叩(たた)き、拍子(ひょうし)をとりながら、

坊主「待ってました、大金持。一文めぐんでくだしゃんせ」

弥次「あっちい、行った、行った」

坊主「とことことこ、よい、とこな」

北八「おい。傍に寄るなと言うのに、文(もん)無しよう」

坊主「なあに、ないこと、ござりやしょう。道中なさるお方には、なくてかなわぬ、銭と金。またも、杖笠蓑桐油(つえかさみのとうゆ)。なんぼしまつな旦那でも、足一本では歩かれぬ。そのうえ田町の反魂丹(はんごんたん)、こりゃあ幸手屋(さってや)の虱紐(しらみひも)。越中(えっちゅう)ふんどしのかけがえも、なくてはならぬ、そのかわり、古いやつは手拭(てぬぐい)に、お使いなさるがお徳用」

弥次「ええ、やかましい。そうれ、やろう」

はや財布から一文銭を投げ与える。

坊主「ありがたや、四文銭」

弥次「あっ、四文銭か。南無三、しくじった。三文のつりをけえせ」

坊主「はははは大金持」

弥次「くそ、いまいましい」

語句

■かたむけし-枕をして寝た。■箱まくら-箱のように板で組んだ粗末な枕。■耳の根に-男女共髷を結えば、耳の付け根を枕に当てて寝る。■ひびく-耳にひびくと続く

■夜明-明六ツ(午前六時ごろ)。■助郷馬-宿駅に常備の人馬で不足の時、各駅近くの農村(これを助郷村という)より、人馬を補充した制度があって、その人馬。■長もち-長持入りの荷を運ぶ人足、長持は一棹三十貫目を基準とし、人足一人五貫目で、六人が一棹につく。■竹にさあ~馬士唄の代表的なもの。■どうするどうする-はやし詞。次の「どうだか」も同じ。■はこねさア~-代表的馬士唄「箱根八里は馬でも越すが、超すに越されぬ大井川」。■てやい-連中。■ふさいで来た-気がつまる。■死んだ女房~-一九はこの落ちをたびたび使用している。■ちよんがれぼうず-「ちょんがれ」を語る坊主。願人坊主が、祭文の如き発声法で、滑稽な文句を早口で唱えて、門口に立って銭を乞うたもの。小さい錫杖と扇を持ち、何々尽しの文句が多かった。享保末の江戸に起り、上方で洗練されて浪花節の源流となる(中村「ちょぼくれ・ちょんがれ考」『山辺路』三号)。■つくな-ついてくるな。■道中なさるおかたには~-これも道中で必要な物尽しとなっている。■ぜに-銅(真鍮・鉄)銭と金銀貨幣。■桐油-桐油紙(油桐から製した油を引いた紙)製の雨合羽。道中用。■なんぼしまつな-どれほど倹約な。■田町の反魂丹-江戸芝田町の堺屋長兵衛店販売の丸薬で、霍乱(かくらん)・腹痛など急病に効く道中薬(『江戸名物狂詩選』など)。■さつてやのしらみ紐-江戸小伝馬町三丁目幸手屋茂兵衛の虱うせ薬を塗った腹帯ようの紐(『江戸塵捨』など)。■ゑつちうふどし-三尺の布の一端に紐をつけた簡略な褌。「越中」と名付ける由緒に諸説がある。■かけがへ-とり替え用。■はやみち-「或は此(刺袋)形を用ふ。早道と名付けて、銭袋にありて、幅二寸計に縫ひて、帯に挟む物を移し、一幅を以て之を製す。故に幅四寸余あり。前後を袋とし、央に口ありて、両方に雑物を納む。袷袋(あはせふくろ)也」(守貞漫稿)。■四文銭-背面に波紋のある四文相当の銅貨幣。■なむさんぼう-南無三宝。失敗した時などに発する語。

※自称江戸っ子にしみったらせるのも、この作での滑稽の一技法。

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朗読・解説:左大臣光永