後編坤 鞠子より岡部へ

原文

ここにて支度(したく)せんと茶(ちや)やへはいり

北八「コウ飯(めし)をくをふか 爰はとろろ汁(じる)の名物だの

弥二「そふよモシ御ていしゆ、とろろ汁はありやすか

ていしゆ「ハイ今できず

弥二「ナニできねへか、しまつた

ていしゆ「ハレじつきにこしらへずに、ちいとまちなさろ

トにはかに、いものかはもむかずして、さつさつとおろしかかり

てい主「おなべヤノヤノこのいそがしいのに、あによヲしている。ちよつくりこいこい

トけはしくよびたつるに、こごとをいひながらくるは、女房と見へ、かみはおどろのよふにふりかぶりたるが、せなかにちのみ子をせをひ、わらぞうりひきずり来り

「今、アのとこのおんばあどんと、はなしよヲしてゐたに、やかましい人だヤア

ていしゆ「アニハイやかましいもんだ。コリヤそこへお膳を二ぜんこしらへろ。エエソレ前垂がひきずらア

女房「おまい箸のあらつたのウしらずか

ていしゆ「アニおれがしるもんか。コリヤヤイ、そのはしよヲよこせヤア

女房「これかい

てい「エエはしで、いもがすられるもんか。すりこ木のことだは。コリヤ扨まごつくな。その膳へつけるのじやアないは。ここへよこせといふことよ。エエらちのあかない女だ。

トすりこ木をとつてごろごろといもをする

女房「ソレおまい、すりこ木がさかさまだ

てい主「かまうな。おれが事より、うぬがソリヤのりがこげらア

女房「ヤレヤレやかましい人だ。コノ又がきやアおんなじよふにほへらア

てい主「コリヤ擂鉢をつかまへてくれろ。エエそふもつちやアすられないは。おへないひゃうたくれめだ

女房「アニこんたがひやうたくれだ

現代語訳

鞠子より岡部へ

雨宿りに心せかれて、茶屋のあるのを幸い駆け込む

北八「降っている間に、飯を食おうか。ここはとろろ汁が名物だったなあ」

弥二「そうよ。もし、亭主、とろろ汁はありやすか」

亭主「はい、すぐにはできませんが」

弥次「なにできねえか、しまった」

亭主「はい。じっきにこしらえずに、ちいっと待ちなさろ」

にわかの客に、芋の皮は剥かずに、さっさっと摺りおろす。

亭主「おなべやい、おなべやい、この忙しい最中に、なにをしているだ。ちょっくり、こんかい、こんかいのう」

大声で怒鳴りつけると、裏口から口の中でぶつぶつ叱言(こごと)を言いながら来るのは、女房と見え、髪は乱れ放題に乱れたのが、背中に乳飲み子を背負い、藁草履をひきずりながらやって来る。

女房「今、弥太あの所のおん婆どんと、話をしていたに、やかましい人だやあ」

亭主「やかましいがどうしただ。こりゃ、そこへお膳を二膳こしらえろ。おいおい、それしっかりせんかい。前垂れを引きずってらあ」

女房「おまい、洗った箸を知らないずらあ」

亭主「なに、俺が知るもんか。こりゃ、やい、その箸をこっちへよこせやあ」

女房「この洗ってない箸かい」

亭主「ええ、箸で芋が摺られるもんか。すりこ木のことだあ。勘が悪いのなんのって、ありゃ又まごつく。その膳につけるのじゃないわ。ここへ寄越せということよ。ええ埒のあかねえ女だ。

と、すりこ木を取ってごろごろと芋を摺る。

女房「それ、おまい、すりこ木が逆さまだ。そそっかしい亭主だあ」

亭主「構うな。俺が事より、うぬが事よ。そりゃ海苔が焦げらあ」

女房「やれやれ、つべこべとやかましい人だあ。そのうえ又、この餓鬼も親に似てよう吼えくさるわ」

亭主「こりゃ、擂鉢を押えといてくれろ。ええ、そんな風にもっちゃあこっちはちっとも摺られないだあ。手のつけられない、うすのろめ」

女房「言わせておきゃあいい気になりやがって、ふん、おめえの方が、ひょうろく玉だあ」

語句

■とろろ汁-『東海道宿村大概帳』にも「薯蕷のとろろ汁を商ふ、此宿の名物なり」、『東行話説』に「芭蕉が、梅若奈まりこの宿のとろろ汁と言ひたるは、今此旅の時節にかなひおもしろし。名だかきとろろ汁とはいかなるものぞと取寄せて見れば、山薬は此山の名産と見えて、いかにも色白く、青海苔も近浦よりかつぎ上げたりとおぼしくて色も香もうるはし。梅若奈に並べたるも理り也。只恐らくは味噌のあしきに鼻も開きがたく、舌もちぢみてそぞろ音をはる咽の関も是はゆるさぬ斗也、梅若奈いもが心を語らんも見初めし旅のしるべすくなし」。広重の保永堂版東海道の「丸子」に、とろろ汁店の図があり、二客と子どもを負う女は本書の主人公達と見ても良い風体。■できねへか-例の助語の「ず」を、打消しの助動詞と聞き違った滑稽。■ちよつくり-ちょっと。■おどろ-草木がまじりあい乱れ合って叢製しているさま。櫛を長く入れず乱れている頭髪の形容。

※以下も、その粗忽(そこつ)で善良な夫婦の滑稽を二面描写で描いている。擂鉢と擂粉木の夫婦喧嘩は古いが、とろろ汁を入れたところが、それこそ味噌で、一九一流の読者の下卑た想像をねらったものであろう。

■すりこ木-ここでは薯蕷(ヤマイモ科の多年草蔓草の根茎)をつきくだき、味噌などで味をつけて汁にするための擂鉢用の小棒。■らちのあかない-事のはかどらぬ事。■のり-汁に入れる青海苔。■おんなじよふにほへらア-亭主同様に大声を出す。子どもの泣くことをいう。■おへない-手におえない。どうにもならない。■ひやうたくれ-人を罵る語。『俚言集覧』は「ひやうきん」と並べ、「へうきん」の条には、『物類呼称』の「物事軽率に騒しき事を東国にて、ひやうきんと云ふ」をあるを引く。ここはその意に相当する。

原文

ていしゆ「イヤこのあまア

トすりこ木でひとつくらはせると、女ぼうやつきとなりて

「コノやらうめは

トすりばちをとつてなげると、そこらあたりへとろろがこぼれる

てい主「ヒヤアうぬ

トすりこ木をふりまはして、立かかりしが、とろろ汁にすべつて、どつさりところぶ

女房「こんたにまけているもんか

トつかみかかりしが、これもとろろにすべりこける。むかふのかみさまがかけてきたり

「ヤレチヤ、又見たくでもないいさかいか。マアしづまりなさろ

トりやうほうをなだめにかかり、是もすべりころんで

「コリヤハイ、あんたるこんだ

ト三人がからだ中、とろろだらけに、ぬるぬるしてあつちへすべり、こつちへころげて、大さわぎとなる

弥二「こいつははじまらねへ。さきへいかふか

トおかしさをこらへて、ここをたちいで

北八「とんだ手やいだ。アノとろろ汁でいつしゆみやした

けんくはする夫婦(ふうふ)は口(くち)をとがらして鳶(とんび)とろろにすべりこそすれ

それより宇津(うつ)の山にさしかかりたるに、雨(あめ)は次第(しだい)に篠(しの)を乱(みだ)し、蔦(つた)のほそ道心ぼそくも、杖(つえ)をちからに十団子の茶屋ちかくなりて、弥次郎おもはず、さかみちにすべりころびければ

現代語訳

亭主「ええい、このあまぁ」

とすりこ木で一発食らわせると、女房は躍起になって

「この野郎め

と擂鉢を取って投げつけると、あたり一面にとろろ汁がこぼれ散る。

亭主「ひゃあぁ、うぬぅ」

とすりこ木を振り回して、打ちかかったが、とろろ汁で足をすくわれ、滑ってどさっと転ぶ。

女房「お前に負けてなるもんか」

と掴みかかったが、こちらも亭主同様、とろろに足をすくわれ、滑ってこける。お向かいのかみさんが駈けて来た。

「やれやれ、又、みっともないいさかいかい。まあ、落ち着きなさろ」

と両方を宥めにかかったが、これも滑って転び

「こりゃあぁ、なんたるこんだ」

と三人とも体中(からだじゅう)、とろろだらけで、ぬるぬるして、あっちへ滑り、こっちへ転げて、大騒ぎになる。

弥次「こりゃあ、どうしようもねえ。先へ行こう」

と可笑しさをこらえて、ここを後にする。

北八「とんでねえ連中だ。あのとろろ汁で一首詠みやした。

喧嘩する夫婦(ふうふ)は口(くち)をとがらして鳶(とんび)とろろにすべりこそすれ    

それから宇津の山にさしかかると、雨は次第に篠をつき、蔦のからまる細道を心細く、杖にすがって行くうちに、十団子の茶屋に近づき、弥次郎は思わず、坂道に術って転んだので

語句

■あま-女を罵る語。■こんた-こなた。お前。■かみさま-主婦。ただし『物類呼称』に「かみさま」は江戸では他の妻の称であるが、尾張では老女の称とある。ここは後者に用いたか。■見たくでもない-みっともない。■手やい-連中。■鳶とろろに~-「とろろ」は鳶の鳴き声。合せて鳶をいう小児語。狂歌は「口をとがらす」から「鳶」を出して、「とろろ」汁に続けたもの。中川芳雄氏示教に、この地方の諺に「鳶はとろろのお師匠さん、烏は鍛冶屋のかねたたき」(鳶の輪を描くごとく、とろろをするべしの意)とあり、一九は駿府の人、この諺を下にふむかと。■宇津-駿河国有渡郡宇津谷村(静岡市)は立場があり、宇津の山は「鳶の細道」とて、『伊勢物語』以来の歌枕の峠。上り下り十六丁(諸国道中記)。■篠(しの)を乱(みだ)し-雨のひどく降る形容。■蔦(つた)のほそ道-この文章では、「心ぼそく」の序詞と見てよい。『伊勢物語』九段に「宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、蔦かへでは茂り、もの心ぼそく」。ただし旧道は、『東海道名所図会』に「蔦細道、宇津の山にあり、海道より右の方(下りの場合)に狭道あり。これ古の細道なり(以下に著者がそこに入った記事がある)と。■十団子-

原文

降りしきる雨やあられの十だんごころげて腰(こし)をうつの山みち

おあかべのしゆくのやど引まちうけて「おとまりでございますか

弥二「イヤわつちらアけふ、川をこさにやアならねへ

やど引「大井川はとまりました

北八「なむさん、川がつかへやしたか

やど引「さやうでございます。さきへお出なさつても、お大名が五ツかしら、嶋田(しまだ)と藤枝(ふぢえだ)に、おとまりでございますから、あなた方のおやどはござりませぬ。先岡部(まづおかべ)へおとまりなさいませ

弥二「そんなら、そふしようか

北八「おめへなにやだ

やど引「相良屋(さがらや)と申ます。すぐにお供(とも)いたしませう

ト打つれていそぎゆくほどに、はやくも大寺かわらのさか道をうちこへて、おかべのしゆくにいたりければ

豆腐(とうふ)なるおかべの宿につきてげりあしに出来たる豆(まめ)をつぶして

先この駅にやどをとりて 川のあくまでしばらくたびのつかれをぞやすめける

道中膝栗毛 後編 大尾

現代語訳

語句

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朗読・解説:左大臣光永