三編序

原文

東海道中膝栗毛三編 上・下

東海道中膝栗毛三編序

予多年東海道(たねんとうかいだう)に遊歴(ゆうれき)し、其行路中(こうろちう)、山川の佳境勝景(かきやうしゃうけい)なるを仮書(かりがき)して、旅袖(りよしう)に蔵(おさめ)おけるあり、それが中に風土(ふうど)の異(こと)なる遺風(いふう)を録(しる)し、亦土人(どじん)の言語都会(げんぎよとくはい)に替(かは)れる草々の多かる中に、往来旅客(りょかく)の光景(くほうけい)、或は貴遊(きゆう)或は卑賤(ひせん)の患苦(かんく)、雲駕馬士(くもかごまご)の木訥(むくつけ)なる、出女(でおんな)の姿けはひ、なべて鄙情(ひじやう)のおかしげなる有増(あらまし)を、白地(あからさま)にかいつけたる道中の滑稽(こつけい)を、膝栗毛(ひざくりげ)と題号(だいがう)し、初編二編祥(さいはい)にして世に行れ、撰者(せんじや)が偶中(ぐうちう)の怡(よろこび)稍(すくな)からず、由是(これによりて)今書肆(しよし)の需(もとめ)に、三編を輯作(しうさく)し、同志(どすい)の人の覧(らん)に備ふ。将(はた)其文の拙(つたなさ)は、予が短才(たんさい)の及ざるを、視(み)ゆるし給へとしかいふ

干旹享和四載

甲子蒼陽日

十返舎一九

現代語訳

私は長年東海道の各地を巡り歩き、その旅の途中、山や川の素晴らしい景色の所々を、手帳に控えて、旅行着の袖に納め置いたのである。その中には各々の土地での、変わった昔からの風習を記録し、又、田舎の人の言葉づかいが都会の言葉とは違って多種多様に多い中で、往来する旅人の目に映る景色や物事のありさま、或は高貴な方の旅行または下層の民の苦しい旅行、各宿駅での雲助の武骨な様子、客引きに出る女たちの姿気配、総じてひなびた趣(おもむき)の可笑しい有様を、明白に書きつけた道中の滑稽を、膝栗毛と題し、初編二編を幸いにして世に出したところ、たまたま当たった時の喜びを、著者は、少なからず感じたのである。これによって今読者の求めに応じて、三編を材料を集めてまとめ、読者の購読に備える。しかし、その文の拙さは、私の才が乏しいためであると見て、お許し願いたい。

語句

■旹-「旹」は「時」の古字で、「時ニ」と読む。■蒼陽-青陽。春、または正月のこと。

凡例

原文

此編(このへん)は、道中岡部駅(おかべえき)より、舞阪(まひざか)に至り、荒井渡船(あらいとせん)にして一集終(おは)る。其余草稿大概(そうかうおほむね)出来あれども、急迫(きうはく)していまだ校正(けうせい)するに遑(いとま)なし。因(よつて)而(しかして)四編に悉(ことごと)く著(あらは)し、嗣(つぎ)に出す。都而(すべて)初編二篇より、長途(ちやうど)の滑稽(こちけい)、其趣一にして珍(めづら)しからず、好士(こうし)の見るに倦(うま)ん事を恐(おそれ)て、聊(いささか)趣向(しゆかう)の転変(てんぺん)せることを輯(あつ)む。猶四編に至ては事繁(しげ)くして、舞坂駅より漸(やうやく)四日市に至て終る。其次五篇は伊勢路(いせぢ)にかかり、古(ふる)市の遊楽(ゆうらく)、相(あい)の山の光景(くほうけい)を尽(つく)し其余奈良越(らごへ)より、大阪へ出る迄を記(しる)して、全冊此(ここ)に満尾(まんび)せしむ

現代語訳

この編は、その道中が岡部駅から舞阪まで至り、渡船にて荒井まで渡り、一つの話しを終る。残りの草稿もおおむね出来上がってはいるが、忙しくてまだ校正する暇だ無い現状である。それで、四編にてそのほとんどを著すこととし、次に発刊する。すべて、初編の二篇より、長い道中での滑稽な出来事を著す事を、その趣の第一としていて、個々の滑稽な出来事も全般を通して見ると特に、珍しいものでもない。滑稽な話を好む人が読むのに飽きることを恐れて、聊(いささ)か、趣向が変化したものを集めた。尚、四編にいたっては、滑稽な出来ごとを多く盛り込み、舞阪駅よりようやく四日市に至って終る。其の次の五篇は伊勢路にかかり、古市の遊楽、相の山の光景などを多く盛り込み、その残りは奈良越えより、大阪に出る迄を記述して、全冊ここでこの物語が完結することになる。

語句

■舞阪(まひざか)-「舞坂」に同じ。浜松より一つ西の宿駅。遠江国敷知郡(静岡県浜名郡舞阪町)。ここから浜名湖の口を、対岸の荒井へ渡船がある。■荒井-舞坂から海上一里の宿駅。遠江国敷知郡(浜名郡新居町)。■好士(こうし)-好事の人。■四日市-伊勢国三重郡の宿駅(今の三重県四日市市)。ここから西に行った追分の所で、東海道から、伊勢大神宮参詣の道が分れる。■古(ふる)市-宇治山田での繁華街、遊里・劇場のある地。■相(あい)の山-外宮と内宮の間にあって、お杉お玉など有名な物乞いの出る所。■此(ここ)に満尾(まんび)せしむ-この時は、伊勢から奈良へ出て大阪へ行く予定であったことを物語る一節。

次の章「三編上 岡部より藤枝へ

朗読・解説:左大臣光永