三編上 藤枝より島田へ
原文
此しゆくの入口にて、ふろしき包ちよいとかたにつけたる、田舎のおやぢ、馬のはねたるにおどろき、にげるひやうしにきた八へつきあたると、きた八水たまりの中へころげて、大きにあつくなり、おきあがつて、田舎ものをひつとらへて
北八「このおやじめ、まなこが見へねへか。寒烏(かんがらす)の黒焼(くろやき)でもくらやアがれ
おやぢ「コリヤハイ、御めんなさい
北八「ヤイ、御めんなさいじやアすまねへわへ。コレやろうは小粒(こつぶ)でも、ぎやつといふから金(きん)の鯱(しやちほこ)をにらんで、産湯(うぶゆ)から水道(すいどう)の水をあびた男だ
おやぢ「インネハイ、水をあびたならよふござるが、そんたのこけた所はおま(馬)の小便(せうべん)たまりだもし
北八「エエその小便のたまつた所へ、なぜ つつこかしやアがつたへ
おやぢ「そりやハイ、わしもがらい、おまにつつぱねられて、そんたにいきやつたのだ。どふもせずことがない。かんにんさつしやい
北八「なんだ堪忍(かんにん)しろ。いやだわへ。ほんのこつたが、大江(おおえ)山の親分(おやぶん)が鉄棒(かなぼう)ひいてわたりにこよふが、石尊(せきそん)さまが猪の熊の似づらをかかせた、てうちんで、路地口から溝板のうへへ、はいかがんできても、きかねへといつちやア、久米(くめ)の平内を居(ゐ)ざいそくにやつたよりかア、まだびくつともせぬやつこさまだア
おやぢ「ソリヤハイ、あにかしちむづかしいことをいわつしやるが、わしらにやアハイ、かいもくにしれ申さぬ。わしもハイ、此近在の長田村じやア、名のしやくも勤(つとめ)た家筋(いへすじ)だんで、今でもお地頭(ぢとう)さまの年頭(ねんどう)にやア上席(じやうせき)ノウせる男だ。あにもがいにけけれ(心)なく、雑言(ざうごん)ノウしめさるこたアござんないヤア
北八「エエわるくしやれらア。尻(けつ)がかいいわへ、あたまのかけでも、ひろわせてやろふか
おやぢ「エレエレそんたアづない人だヤア。わしにもハイ荒神さまがついてゐずに、がいに頤(おとがい)ノウたたかしやんな
北八「エエ此すりこ木め
トくらはせにかかる 弥次郎兵へ見かねてやうやうにひきわけ
「きた八もふりやうけんしろへ。とつさんおめへがぜんてへ、麁相(そそう)しながら気がつゑゑ。もふいいからいきなせへ
トきた八をなだめるうち、おやぢはつらをふくらかし、ふせうぶせうに行過ると弥次郎兵へ
現代語訳
藤枝より島田へ
この宿の入口で、風呂敷包をちょっと肩に担いだ田舎のおやじが、馬が跳ねたのに驚き、そこから逃げる拍子に北八にぶつかると、北八は水溜りの中へ転げて、大いに怒り、起き上がって、田舎者を捕まえて
北八「このおやじめ、目が見えねえのか。寒烏(かんがらす)の黒焼(くろやき)でも食らいやあがれ」
おやじ「こりゃはい、御免なさい」
北八「やい、御免なさいじゃ済まねえわい。こちとらは小粒でも、おぎゃあと産声をあげた声から、金の鯱を睨んで、産湯から江戸の上水道の水を浴びた男だ」 おやじ「いんねはい、水を浴びたならようござるが、そんたのこけた所は、馬の小便溜りだもし」
北八「ええ、その小便の溜った所へ、何故、つっこかしやがったへ」
おやじ「そりゃはい、わしも馬にひどいこと突っ跳ねられてあんたに突き当ったのだ。どうにも仕方がない。堪忍さっしゃい」
北八「なんだ、堪忍しろ。嫌だわえ。◎◎◎大江山の親分が鉄棒を引きずって、渡に来ようが石尊(せきそん)様が猪の熊の似顔絵を描いた提灯を持って、路地裏から溝板の上へ這い屈んで来ても、聞かねえと言っちゃあ、久米の平内を坐り込んでの居催促にやったよりかあ、まだびくっともしねえ奴さまだあ」
おやじ「そりゃはい、何かしち面倒くさい事を言わっしゃるが、わしらにゃあ、はい、全く分かり申さぬ。わしもはい、この近在の長田村じゃあ、名主役も勤めた家筋だんで、今でもお地頭様の年賀に出る時には上席につく男だ。なにもこう酷い雑言を浴びせられるこたあござんないやあ」
北八「ええ、悪く洒落らあ。尻(けつ)が痒いわえ、頭を打ち割って、その一片を拾わせようか。
おやじ「えれえれ、そんたあひどい人だやあ。わしにもはい荒神様がついていますので負けるものか。ひどい、勝手な口をきくな」
北八「ええ、このすりこ木め」
と拳を振り上げ、打ち据えようとする。弥次郎兵衛は見かねてようやく間に入り、
「北八、もう了簡しろえ、 とっさん、おめえがだいたい粗相をしながら 気が強え。もういいから行きなせえ」
と北八をなだめるうちに、おやじは 面を膨らませて、不承不承に行き過ぎると弥次郎兵衛
語句
■寒烏(かんがらす)の黒焼(くろやき)-寒い時の烏。眼病・血の道・癇などに効用ありとされた薬。■小粒-小柄。「山椒は小粒でも辛い」の諺もある。■金の鯱-江戸城の屋上の金の鯱。ただし江戸城には金色の物はない。景気よくいったもの。■産湯-お産で取り上げた初めに浴びせる湯。■水道-江戸の上水道。■水をあびたならよふござるが-水道の産湯とは全く逆に、馬の小便につかった滑稽。■つつこかしやアがつたへ-押しこかした。■いきやつた-つき当った。■どふもせずことがない-どうも仕方がない。■大江山の親分-酒呑童子を、こわい親分に見立てた。■鉄棒(かなぼう)ひいて-祭の行列などの時、親方が、錫杖のごとく頭部に金輪がついて、音のする鉄棒をついて先導する。ここは改まった風体をしての意。■わたり-交渉。掛け合い。江戸の勇連の語。■石尊(せきそん)-相模国(神奈川県)雨降神社の石尊大権現。これはこわい神威の神である。■猪の熊の似づら-歌舞伎の猪の熊入道の似顔絵。隈取りがすごい。■てうちんで-提灯を持って。■路地口-長屋の入口。ここに門がある。■溝板(どぶいた)-長屋の中央にあった下水の溝を覆った板。■久米の平内-浅草観音の境内。仁王門の前左側に安置してある石像の主。ただし、『江戸名所図絵』には俗説として否定する。石像から動かぬの意。■居ざいそく-坐り込んで、じっくり催促する体。■びくつともせぬ-少しも動じない。■あにかしちむづかしい-何かしちむずかしい。田舎者に江戸と江戸風の洒落た比喩は全く通じない。■かいもくに-全く。皆目。■長田村-未詳。■名のしやく-名主役。村方三役(名主・組頭・百姓代)の一。村政全体を管掌する最要職。世襲・旧家の輪番・選挙推薦などで定まるが、名望家でなければならなかった。■地頭-近世では代官やその土地を領地とする者の総称。■年頭(ねんどう)にやア上席(じやうせき)ノウせる男-年賀に出る時には上席につく男。■けけれなく-心なく。■雑言-憎らしい言葉。罵語。■尻(けつ)がかいいわへ-尻がかゆい。ちゃんちゃらおかしい。■あたまのかけでも-頭を打ち割って、その一片を拾わせようか。■づない-ひどい。■荒神さまがついてゐずに-私は私で一家の守護神荒神様が付いているので、負けるものか。■がいに-「非常に」「大いに」「たいそう」「とても」「ひどく」といった意味合いの強意表現。■頤(おとがい)ノウたたかしやんな-勝手な口をきくな。■すりこ木-人を罵る語。手足も無いも同然の意か。■りやうけんしろ-勘弁せよ。
原文
頭(づ)にのつてきた八に今たたかれし薬鑵(やくはん)あたまの親父(おやぢ)へこんだ
打笑(わら)ひつつ瀬戸川を打越 それよりしだ村大木のはしをわたり、瀬戸といふ所にいたる。爰はたて場にて染飯(そめいい)の名物(めいぶつ)なれば
やきものの名にあふせとの名物はさてこそ米もそめつけにして
斯(かく)てこの町はづれの茶(ちや)屋に、さきの田舎親父休みいたりけるが、二人を見つけて呼(よび)かけ
おやぢ「エレエレさつきヤア無礼(ぶれい)ノウしました。わしもハイ、ありよふは、一ぱいのんだ元気(げんき)で、づない(無上)事もいいもふしたが、そんたしゆが了簡(りやうけん)ノウしてくれさつたから、へこたらずに帰村(きそん)ノウしますは。マアあんでも、礼(れい)にさけウひとつしんぜませう。ここへよらつしやいまし
弥二「ナニわつちらあ酒(さけ)ものんで来やした
おやぢ「エレチヤア、せつかくわしがおもひだアのし。ぜつぴ一ツよからずに。コリヤコリヤ御亭(ごてい)の、味よいさけウ出さつしやいまし
北「イヤお心ざしは忝(かたじけな)いが、サア弥次郎さんいかふ
おやぢ「ハテコリヤ、じやうのこわい人だやア。じつきにやらずに、ちょつくりよつてくれされヤア
トむりに弥次郎きた八が手をとつてひきづりこむ。ふたりもなる口ゆへ、酒とききて少しこころひかされて
弥次「ゑいは、北八いつぱいやらかさふ。しかし親父(おやぢ)さん、おめへの御ちそうじやアきのどくだ
おやぢ「ハテコリヤよいといふのに。御ていの御ていの、肴(さかな)アじやうにつん出してくんさい。時にコリヤハイ、爰(ここ)はあんまりはしつぽだ。おくざしきへいかずかヤア
ちや屋のおんな「サアあつちイござらしやいまし
ト出しかけたてうしさかづきをおくへもつてゆくと、三人もなかにはからまはり、おくざしきのゑんがはに、わらじのままあぐらをかき、弥次郎兵へ
「サアおやぢさん、はじめなせへ
おやぢ「アイすんだら毒味ノウしませず。ヲトトトトトよからずよからず。さて先若(まずわか)いのへしんぜませう
北「アイわつちあア酒よりかア腹が減った
おやぢ「アニはらがへつた。ソリヤア飯(めし)を食はつしやい。じつきによくなる
北「イヤ先酒にしよふ。ヲットありますあります。時にこの吸物はなんだ。たたみ鰯(いわし)のせんば煮か。おほかたこのあとじやア、かぼちやのごま汁か、さつまいものよごしが出るだろう
現代語訳
頭(づ)にのつてきた八に今たたかれし薬鑵(やくはん)あたまの親父(おやぢ)へこんだ
笑いながら、瀬戸川を越え、それから志太村の大木の橋を渡り、瀬戸という所に着く。ここは立場で染飯(そめいい)が名物なので
やきものの名にあふせとの名物はさてこそ米もそめつけにして
こうして町外れの茶屋に、さっきの田舎親父が休んでいたが、二人を見つけて呼びかける。
親父「やれやれ、さっきは御無礼をいたしました。わしもはい、実のところ、一杯ひっかけた勢いでひどい事も言いましたが、其方様方(そなたさまがた)が勘弁してくれさったから、へこたれずに村に帰りますは。まあ何でも、お礼に酒を一献進ぜましょう。ここへ寄らっしゃいまし」
弥次「なに、わっちらあ酒も飲んで来やした」
親父「やれやれ、せっかくのわしの志だあのし。ぜひ一つよいでしょうが。こりゃこりゃ御亭主よう、美味い酒を出さっしゃいまし」
北八「いや、お志はかたじけないが、さあ、弥次郎さん行こうぜ」
親父「はて、こりゃ、良いと言うのに。強情な人だやあ。直(じき)にしますからちょっくら寄ってくれされやあ」
と無理やり弥次郎と北八の手を取って、引きずり込む。二人も酒が好きなので、酒と聞いて少し心動かされ
弥次「えいは、北八いっぱいやらかそう。しかし親父さん、おめえのご馳走じゃあ気の毒だ」
親父「はえ、こりゃ、良いと言うのに。御亭主よう、御亭主よう、肴をたくさんに出してくんさい。時にこりゃはい、ここはあんまり端っこ過ぎる。奥座敷へ行きましょうかやあ」
茶屋の女「さあ、あっちへござらっしゃいまし」
と出しかけた銚子・盃を奥へ持って行くと、三人も中庭から回り、奥座敷の縁側に、草鞋(わらじ)のまま胡坐(あぐら)をかき、
弥次郎兵衛「さあ、親父さん。始めなせえ」
親父「はい、そしたら毒味をいたしましょう。おっとっとっとこれはお酌お上手で。まずお若い方から進ぜましょう」
北八「あい、わっちは酒よりか腹減った」
親父「なに、腹が減った。それじゃあ、飯を食わっしゃい。直になおる」
北八「いや、まず酒にしよう。おっと、まだあります。あります。時にこの吸物は何だあ。たたみ鰯のせんば煮か。おおかたこの後にゃあ、かぼちゃのごま汁か、さつまいもの
あえ物が出るだろう」
語句
■頭(づ)にのつて-図にのる。つけ上ってきた。「頭」と書いて「あたま」の縁。「薬鑵(やくはん)あたま」は禿げあがって渋色になった頭。「薬鑵」と「へこんだ」は縁。つけ上ってきたやかん頭の親父が、北八に今叩かれて、勢いが挫けただけの意。■瀬戸川-藤枝宿の西側を流れる川。■しだ村-駿河国志太郡(藤枝市志太一~五丁目)。■大木のはし-『諸国道中記』に「しだ村、大木のはし」。天明六年『道中記』に「おおぎばし」。『大概帳』は「青木橋」とさまざまである。志太郡稲川村と南新屋村の間。■瀬戸(せと)-『大概帳』に「瀬戸新屋村二而は黄なる染飯を売る。瀬戸の染飯とて此所之名物也」。『東海道名所図絵』に「強飯(こわいひ)を山梔子(くちなし)に染めて、それを摺り潰し、小判形(なり)に薄く干乾してうるなり」。■たて場-『大概帳』などでは立てばでなく、上青島村地内字三軒屋(藤枝しない)が立場。■やきもの-瀬戸焼(磁器)と同じ名をもっているこの瀬戸の名物は、米の飯だが、焼物同様染付(藍色の絵模様を描いて、釉薬(うわぐすり)をかけた磁器、ここは色でなく、「染」の縁でいう)たものであるの意。■エレエレ-やれやれ。■ありよふは-実のところ。■そんたしゆ-其方様方(そなたさまがた)。■へこたらずに-まいってしまわず。動けなくならず。■エレチヤア-やれまあ。■おもひ-こころざし。■ぜつぴ一ツよからずに-ぜひ一つよいでしょうが。■御亭の-御亭主よう。■じやうのこわい-強情な。■じつきにやらずに-直にしますから。■なる口-「一つなる口」の略。酒の飲める方だから。■じやうにつん出してくれさい-仰山。たくさんに出してください。■はしつぽ-端近。はしっこ。■なかには-中庭。本屋と裏座敷との間にある庭。■すんだら毒味ノウしませず-そしたら毒味をいたしましょう。客より先に亭主が酒を飲むときの挨拶。■ありますあります-酒のまだある盃の中へ、更に多く酒をつがれる時の挨拶。■たたみ鰯(いわし)-鱊(いさざ又しらす)をうす板の如く拵へ乾したるを、しらすぼし(江戸)と云ひ、又たたみいはし(同上=江戸)と云ふ」(重訂本草綱目啓蒙)。■せんば煮-塩を強くした魚鳥の肉に大根などを添え、だしを加えて作った汁(『江戸料理集』など)。ここのは肉を簡略に畳鰯にしたもの。■かぼちや-南瓜を実にした。■ごま汁-『料理三編山家集』に「ごま汁、白ごまには白みそ、黒ごまは常のみそにすりまぜ、すいのうにてかた漉(ごし)にして、だしにてのべ煮たてる」。■よごし-あえもの。『年中番菜録』に「さつまいも、向、あへもの」。共に野暮なものである。
原文
弥二「サアわるくいふぜ。此海老(ゑび)を見や、こうはねかへつた所は、ごうてんじやうの天人(てんにん)といふ身(み)がある
北「イヤ豊後(ぶんご)ぶしの、ことかアいなアアアアといふところもありやす。ハハハハハ。時におやぢさん、あげやせう
おやぢ「インネ、へさいましやう。今さかながこずに、コリヤあんねいあんねい、さつきからハイへしおれるほど、腕(うで)をたたくに、あぜさかなアつん出さない
女「ハイハイ、ただ今あげずに
トやうやうに大ひらとはちざかなをもつてくる
おやぢ「やらやつともつて来た。平はなんだ。たまごのぶはぶはか
弥二「おそいはづだ。今うむのをまつてゐたと見へた
北八「こいつは無塩(ぶゑん)だ。きめうきめう
おやぢ「たんとのんでくれさつしやい。そんたアわしがた(為)にヤ命の親(おや)だ。よくさつき(先刻)やア了簡(りゃうけん)してくれさつたのし
北八「イヤわつちも、ツイむしの居所(いどころ)がわるくていい過(すご)しました。まつぴら御めん
弥二「そこは旦那(だんな)どんも野暮(やぼ)じやアねへ。モシこいつは、どふぜ味噌(みそ)べつたり焼(やき)せうがといふおとこだから、しやうどはなしさ
トただのむさけゆへ、ついしやうたらしやうたら、やみくもにひつかける。このうちかつてよりもいろいろもちだし、ぜんも出て、弥次郎きた八すこしはきのどくながら、これもくつてしまふと、おやぢせうべんに立て行あとにて
北八「コウ弥次さん、おめへここのわり合をおれによこしなせへ。おいらがアノおやぢを、いぢめたればこそ、おめへ、ごうてきにやらかしたぜ
弥二「おきやアがれ。そふいつてもまんざらじやアねへ。アノ親父のこぬうち、後(のち)にのむぶんもやらかそふ
北八「おらア此茶碗(このちやわん)についでくんな。ヲツトきたきた。きたさのきたさのきたさの讃岐(さぬき)のこんぴら、たかが高瀬(たかせ)の船頭(せんど)の子じやもの、おさへてどふする、ジヤジヤジヤンジヤン
弥二「エエエエ、山にきつころばした、松(まつ)の木丸太(まるた)のよ(様)でも、妻とさだめたら、まんざらにくくもあるまいし、やとさのせやとさのせ。おもしろへおもしろへ。時にこの親仁(おやぢ)のべらさくめはどふした
北八「ホンニながい雪隠(せつちん)だ。モシ女中、爰(ここ)に居(ゐ)たぢいさまはどけ(何処)へいつたの
女{たしかおもてのほうへ
現代語訳
弥次「何と悪く言うぜ。この海老を見ろよ。こう跳ね返った姿は、格子天井の天女様が反り返ったってえ風情だ」
北八「いや、豊後節のことかいなああというところもありやす。ははははは。時に親父さん、一杯あげやしょう」
親父「いんね。それは遠慮しましょう。そうおっしゃらず飲んで下され。今肴が来ますで。姉ちゃんやあい、姉ちゃんやあい、さっきからはい、へし折れるほど手を叩くに、なんで肴をつん出さない」
女「はいはい、今あげますだ」
とようやく大皿と鉢盛を持って来る。
親父「ほれやっと持って来た。大皿に盛ったのは何だ。卵のぷわぷわか」
弥次「遅いはずだ。今産むのを待っていたと見えた」
北八「うん、こいつはいける。こんな田舎に新鮮な魚とは思いがけねえ」
親父「たんと飲んでくれさっしゃい。貴方方はわしにとっちゃあ命の親だ。さっきはよくよく了解してくれしゃったのし」
北八「いや、わっちも、つい虫の居所が悪くて言い過ぎました。まっぴら御免なさって」
弥次「そこは旦那どんも野暮じゃねえ。もし、こいつは味噌べったり焼き生姜ってぇいうしみったれた男だから、だらしがないことよ」
とただで飲む酒なので、つい追従口をたたきながら、無暗に飲みまくる。そのうちに勝手からもいろいろ持ち出し、食膳も出て、弥次郎北八は少しは気が引けるがこれも食ってしまうと、親父は小便に立って行く。後になって
北八「これ、弥次さん、おめえここの費用相当分を俺に寄こしなせえ。おいらがあの親父を、いじめたればこそ、おめえ、豪気に飲み食いできたんだぜ」
弥次「おきやあがれ。そいってもまんざら悪い気はしねえ。あの親父の来ぬうちに、残った分も飲み食いしてしまおうぜ」
北八「おらあ、この茶碗についでくんな。おっときたきた。きたさのきたさのきたさの讃岐の金比羅、たかが高瀬の船頭の子じゃもの、押えてどうする、じゃじゃじゃんじゃん」
弥次「ええええ、山にきっころばした(切りこかした)松の木丸太のよ(様)でも、妻と決めたら、満更憎くもあるまいし、やとさのせやとさのせ。おもしれえ、おもしれえ。時にこの親父のべらさくめはどうした」
北八「ほんに、長い雪隠だ。もしお女中、ここに居た爺様はどけ(何処)へ行ったの」
女「確か表の方へ」
語句
■ごうてんじやう-格天井。寺などの天井に格子のごとく木を組み合せ、その間を羽目板で張ったもの。その天井に天人の画など彩色で描く。■天人-仏教で天界にいる人間的なものをいうが、天井に描くのは、天上から舞さがり羽衣をひるがえし楽など奏する天女で、煮た海老ののびたさまにも似ている。■身-スタイル、風体。■豊後(ぶんご)ぶし-ここは宮古路豊後堟系の江戸浄瑠璃(常磐津・富本・清元)をさす。■ことかアいなアアアア-この文句を語る時、前に高く身をのりだしたさま。この文句は咄本『楽牽頭』(明和九年)の「「天人」にかりた。「(天井の天人を見て)あれか、あれは豊後節よ。そふ言わしやつてはのみこめぬ。ハテ野暮め、ことかいなあの御姿」。■あげやせう-相手に盃をさす時の挨拶。■へさいましやう-「おさえる」の訛。さされた盃を、逆に相手に返して、もう一杯飲めという挨拶。■大ひら-「平」と称される平たい皿(または椀)の大きなもの。重肴と称して膳部以外に出す肴などに使用。■はちざかな-鉢に盛って膳と別に出す肴。■やらやつと-どうやらこうやら。やっとのことで。■平はなんだ-ここは、出た大平をさす。■ぶはぶは-「ぷわぷわ」の訛。卵をまぜ煎り、汁多く煮たもの。『料理三編山家集』に「玉子をいくつにてもうちわけ、かきまぜ、その玉子のかさに三分の一だしたまりを入れて吉」。■無塩-塩をしていない新鮮な魚。鉢肴を見ての言。■むしの居所(いどころ)がわるく-気が立っていて。心持がむしゃくしゃしていて。■味噌(みそ)べつたり焼(やき)せうがといふおとこ-諸説あるが未詳。「焼せうが」は味噌をつけてするので付言しただけ。意味は、べったり即ち始終。「味噌」は失敗。何かと言えばしそこなう男の意か。■しやうど-正体が無い。だらしがない。■ついしやうたらたら-追従口をいろいろ述べる。■やみくもに-無暗に。■ぜん-食膳。食事の膳。■きのどくながら-気が引けるけれど。■わり合-割前。費用の相当分。■ごうてきに~-豪気に。すこぶるたくさん飲食した。■まんざらじやアねへ-まんざら悪い気もしない。■ヲットきたきた-盃を受けた言葉に続ける。明和・安永年間流行の金比羅船(安永元年『さのさ金比羅節』なる青本刊)のはやし詞。この歌の流行の止んだ後は、潮来節のはやしとして長く使用された。■たかが高瀬の~-以下もおそらく潮来節などのはやし詞であろう。せいぜい高瀬舟(川船の一で、底は平たい)の船頭の子じゃものの意。■きつころばした-切りこかした。この歌を一九は『田舎草紙』五にも使用。『花暦八笑人』初の一にも見える。■べらさくめ-「べらぼう」の擬人語で、人を罵る語。■へんちき-おかしい。変だ。
原文
弥二「ハテノ、こいつどふかへんちくだはへ
トまてどもまてども此おやぢどこへいつたかいつかうにかへらず、せつちんをさがせ共ゆきがたしれず
北八「モシ女中、今の親仁が爰のはらひをしていつたかの
女「イイエまだいただきませぬ
弥二「ヤアヤアヤア
北八「いつぺいおこはにかきやアがつたな。おつかけてぶちのめそふ
トとんで出たれども、どつちへ行しやら、いつかうくもをつかむがごとく、ことにおやぢは此近在のものゆへ、わき道へはいりしにや、さらにゆくゑしれず、北八しよげて立帰り
北八「弥次さんどふもしれねえ。とんだ目にあつた
弥二「しかたがねへ、手めへの払ひをしや。アノ親仁めがくやしんぼうで、手めへに意趣(いしゆ)げへしをしたのだはな
北八「それでも、ナニおればかりがかぶるもんだ。いまいましい。せつかく酔(よつ)た酒が、みんなさめてしまった
弥二「次郎どんの犬と、太郎どんの犬と、みんなさめてしまつたか
北八「エエしゃれなさんな。それ所じやねへ。まあなんにしろ、いくらだね
てい主「ハイハイ九百長(てう)五十でござります
北八「かたりにあつたとおもつて往生(わうじやう)して払(はら)ひやせう。いやアいふほどちゑのねへはなしだ
弥二「そふいつてもおつなおやぢだ。いいことをしやアがつた。コウ北八、手めへの顔(かほ)で一首うかんだ
御馳走(ごちそう)とおもひの外の始末(しまつ)にて腹(はら)もふくれた頬(つら)もふくれた
北八「へへ、ごうはらな、生馬(いきむま)の目をぬいやアがつた
有(あり)がたいかたじけないと礼(れい)いふていつぱいたべし酒(さけ)の御ちそう
かくよみて北八も笑ひをもよほし、田舎(いなか)ものとあなどりて、とんだ意趣がへしをしられたるもおかしく、爰を出て行ほどに、大井川の手前なる、嶋田(しまだ)の駅にいたりけるに、川越(かはごし)ども出むかひて、
現代語訳
弥次「はての、こいつはどうもへんちくりんだわえ」
と待てでも待てどもこの親父何処へ行ったのかいっこうに帰って来る気配がない。雪隠を探して見るが行方がわからない。
北八「もしお女中、今の親父はここの払いをして行ったのか」
女「いえいえまだいただいておりやせぬ」
弥次「やあやあやあ」
北八「一杯食わせやがったな。追っかけてぶちのめしてやろう」
と飛び出したが、どっちへ行ったのか一向に雲をつかむようで、ことに親父はこの近在の者なので、脇道へ入ったのか、さらに行方がわからず、北八はしょげかえって立ち帰り
北八「弥次さんどうにも見つからねえ。とんだ目にあった」
弥次「仕方がねえ、手前(てめえ)の払いをしな。あの親父めが食いしん坊でてめえへ仕返しをしたんだわな」
北八「それでも、なんで俺ばかりが被らにゃならねえ。いまいましい。せっかく酔った酒が、みんな醒めてしまったわ」
弥次「次郎どんの犬と、太郎どんの犬と、みんな醒めてしまったか」
北八「ええ洒落なさんな。それどころじゃねえ。まあなんにしろ、いくらだね」
亭主「はいはい九百五十丁度でござります」
北八「詐欺に遇ったと思ってあきらめて払いやしょう。いやあ言えば言うほど智恵のねえ話だ」
弥次「そういっても気の利いた親父だ。いいことをしやがった。これ北八、手前(てめえ)の顔見て一首浮んだ
御馳走(ごちそう)とおもひの外の始末(しまつ)にて腹(はら)もふくれた頬(つら)もふくれた
北八「へへへ、癪の種だ。生き馬の目を抜きやがった」
有(あり)がたいかたじけないと礼(れい)いふていつぱいたべし酒(さけ)の御ちそう
こう詠んで北八も笑を催し、田舎者とあなどって、とんだ仕返しをされたのも可笑しくて、笑いながらここを出てしばらく行くと、大井川の手前になる島田の宿に着いた。川越どもが出迎える。
語句
■へんちきだ-おかしい。変だ。■おこはにかくやアがつた-食わせやがった。■くもをつかむがごとく-見当もつかないことのたとえ。■くやしんぼう-くやしがる人に擬人名を作る場合の「坊」を付した語。■意趣げへし-仕返し。■かぶる-引っかぶる。損を引き受ける。■次郎どんの犬と~江戸の童話。『動揺集』に「お月さまいくつ、十三七つ、まだとしやわかいな、あの子を産んで、この子を産んで、だれにだかしよ、お万にだかしよ、お万どこいた、油買ひに、油屋の橡(えん)で、氷がはつて、すべつてころんで、油一升こぼして、次郎どんの犬と、太郎どんの犬とみんななめてしまつた。その犬どうした。太鼓にはつて、あつちむいちやどんどこどん、こつちむいちやどんどこどん」。「なめて」を「さめて」と地口った。■九百長五十文-九百五十文。当時は貨幣交換の都合上、九十六文を百文に、四十八文を五十文に通用させた。ここは四十八文ではなく、丁度五十文の意。■かたり-詐欺。■往生して-あきらめて。■ちゑのねえ-馬鹿げた。■おつな-気の利いた。
※この老爺に一杯食わされた話は、浮世草子『千尋日本織』(宝永四年)の巻五の四「大小を抜せぬ間の文作」で、芝居で町人に乱暴した侍が、仲裁の若男に、酒遊をおごられたと思ってたかりに合う一件を利用。
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