三編下 掛川より袋井へ

原文

道中膝栗毛三編 下

しののめまだき駅路(むまやぢ)のいそがしげに、ひきつるる朝出の馬の嘶(いななき)に旅労(たびづか)れの目をこすりながら、弥次郎兵衛北八おき出て支度(したく)するうち、相宿(あいやど)のいち子が、顔ふくらかしゐるもおかしく、爰を立出 ふるみや誉田(こんだ)の八幡(はちまん)を打過、右にしうとの畑嫁が田といへる見ゆれば、弥次郎兵衛

干(ひ)からびししうとの畑にひきかへて水沢山のよめが田ぞよき

それより塩井(しほゐ)川といふ所にいたりけるに、昨日(きのふ)の雨(あめ)強くして橋(はし)おちけるにや、行かふ人みづから股引(ももひき)をとり、裾(すそ)まくりあげて爰をわたるに、弥次郎北八も、いざや引つれて渉(わたり)りなんとする折柄京上(おりからきやうのぼ)りの座頭二人づれ、此川の徒渡(かちわた)りなることを聞(ききい)けるにや、壱人の座頭

犬一「モシ川はひざきりもござりますかな

北八「さやうさやう、しかし水が早(はや)いから、おめへがたアあぶない。用心(ようじん)してわたりなせへ

犬一「ハアなるほど、水のおとがよつぽどはやい

トいいつつ石をひろい、川のなかへなげこんでかんがへ

犬一「イヤここらが、どふかあさいよふだ。コリヤ猿一、ふたりながら脚絆(きやはん)をとるもねんどうだ。おぬし若役(わかやく)に、おれをおぶつてくれ

さる一「ハハハハハハづるいことをぬかす。◎でまいろう。なんでもまけたものが、おぶつてわたるのだがよしか

犬市「コリヤおもしろい サアこんさんなむめで

さる市「りやん、ごうさいごうさい

トかた手でけんをうちながら、両ほうから左の手を出して、たがひにけんをうつ手をにぎりあひ

犬市「サアかつたぞかつたぞ

さる市「エエいまいましい、そんなら此ふろしきづつみを、きさまいつしよにしよわつせへ。ソレよしか。サアこいこい

トしたくしてせなかをむける。弥次郎これはありがたいと、さる市におぶされば、さる市はつれのいぬ市とこころへて、さつさつと川へはいり、なんなくむかふへわたると、こなたのきしにのこりたるいぬ市

「ヤイ猿(さる)よ、どふする。はやく川をわたさぬか

現代語訳

掛川より袋井へ

朝早くから宿駅の往来が忙しい。引き連れて、早朝から出る馬の嘶きに旅疲れの目をこすりながら、弥次郎兵衛北八は起きだして支度しているうちに相宿の、巫女が不平そうにしているのがおかしい。ここを出立し、古宮、誉田の八幡を通り過ぎ、右に姑の畑嫁が田といわれる所が見えて弥次郎兵衛が一首詠む。

干(ひ)からびししうとの畑にひきかへて水沢山のよめが田ぞよき

それから塩井川という所に着いたが、昨日の雨が強くて橋が落ちたのか、往来する人自ら股引をつまみあげ、裾を繰り上げてここを渡っている。弥次郎北八も、さあと連れだって渡ろうとしている時、京上りの座頭二人連れがこの川は徒歩で渡らなければいけないということを聞きつけたのだろうか、一人の座頭が

犬市「もし、この川は膝の高さまで水はありましょうか」

北八「さようさよう、しかし流れが速いから、おめえ方は危ない。用心して渡りなせえ」

犬市「はあ、なるほど。水の音がそうとう早い」

と言いながら石を拾い、川の中へ投げ込んで考え、

犬市「いやここらがどうやら浅いようだ。こりゃ猿市、二人とも脚絆を取るのも面倒だ。お主、年が若いので俺をおぶってくれ」

猿市「はははははは、ずるい事をぬかす。◎でまいろう。なんでも負けた者がおぶって渡るのだがいいか」

犬市「こりゃ面白い。さあ三、五で」

猿市「二、五」

途片手を拳を叩きながら両方から左の手を出して、互に拳を打つ手を握り合い、

犬市「さあ勝ったぞ勝ったぞ」

猿市「ええ、いまいましい。そんならこの風呂敷包みを、貴様一緒にしょわっせえ。それでいいか。さあこいこい」

と支度して背中を向ける。弥次郎これは有難いと、猿市におぶさると、猿市は連れの犬市思って、さっさと川へ入り、なんなく向こう岸へ渡ると、こちらの岸に残された犬市は、

「やい、猿よ、どうしたんだ。早く川を渡さぬか」

語句

■しののめまだき-暁のまだ早くから。■駅路(むまやぢ)のいそがしげに-宿駅の往来の忙しそうに。■ひきつるる朝出の馬-引き連れて、早朝から出る駄馬・人馬の群れ。■旅労(たびづか)れ-旅行での疲労の意であるが、ここは昨夜の変な大活躍の疲れを含む。■相宿(あいやど)-同じ宿に泊り合せること。またその人。■顔ふくらかしゐる-不平そうな顔つきをしている。■ふるみや-遠江国佐野郡宮村(静岡県掛川市八坂)。『早見道中記』(一九序)に「ふるみや、茶や有り」。■誉田(こんだ)-『東海道名所図絵』に「己等乃麻知神社(ことのまちのじんじゃ)、日坂の少し西の方宮村にあり、今誉田八幡宮と称す。延喜式内佐野郡に属す(ただし、この神社については異説ありと)。此所の少し西に塩井川といふあり」。■しうとの-『早見道中記』(一九序)に「よめが田しうとのはたといふ所あり」。姑が嫁につらく当り、一畝(むね)の田を朝に植えさせたので、嫁は石に腰かけて死ぬ。姑は後に畑に出たところ、雷にうたれて死んだという(『東海道名所記』など)。■干からびし~畑は老齢の姑のごとくひからび、田は若い嫁のごとくぴちぴちとしていてよいの意。「水沢山」は、品の悪いことを想像させるために挿入した。■塩井(しほゐ)川-『東海道宿村大概帳』に、海老名村と伊達方村の間。「宇塩井河原、板橋、長五尺、横二間半、是は自普請出来」(今は掛川市)。■座頭-ここは盲人一般の称。江戸から京都へのぼるのは、京都の公卿久峩家へ金を納めて、盲官(下から、座頭、勾当、別当、検校の四階で、その間をまた十六官に分ける)を与えられんためである。検校になるには千両を要したといわれる。■徒渡(かちわた)り-徒歩で川を渡る定めの所。■ひざきりもござりますかな-膝の高さまで水がありましょうか。■石をひろい-このところから、弥次郎・北八と座頭二人との交渉は、酒の失敗まで、狂言「どぶかつちり」に趣向を得ている。石で川の深浅を測るところも狂言にある。■どふか-どうやら。■猿一-座頭には「市」、「一」と称する者が多い。前述の狂言も「菊一」。■脚絆-労働・旅行の時などに下脚部に当てる布。木綿に裏を付けた一幅のものにひだを付け、上下に紐を付けたもの。■若役に-年の若い者の役として。■◎-中国から輸入した、主に酒間の遊戯の一。本挙は手の指で数を示し、掛け声をして出し合い、規則によって勝負を定めるもの。これを定まった回数試みる。床屋拳など日本で考案されたものもある。(『風月外伝』『拳会角力図絵』『拳独稽古』など)。■こんさんなぬ-数を言う時に主に唐音を使用する。「こん」は掛け声。「さん」(「な」は付けた語)は「三」、「むめ」(「で」は付けた語)は「五」(後には使用止む)。■りやん、ごうさい-「りやん」は「二」、「ごうさい」は「五」。

原文

さる市むかふのきしにてききつけはらをたて

「コリヤじやうだんなやつだ。たつた今おぶつてわたしたに、又そつちへいつて、おれをなぶるな

犬市「ばかアいへ。おのればかりわたつて、ふといやつだ

さる市「イヤふといとはそつちのことだ

犬市「コリヤおのれ兄弟子(あにでし)にむかつて、言語道断(ごんごどうだん)な。はやく来てわたさぬか

トしろい目をむきだし、はらたつるゆへ、さる市しかたなく、又こちらへわたりてかへり

さる市「サアそんなら、おぶりなさろ

トせなかをいだす。きた八しめたと、手をかけておぶされば、さる市さつさつと川へはいる。犬市おおきにせきこみ

「コレさる市、どこにゐる

さる市川中にて

「イヤこいつはだれだ

ト北八を川の中へ、どんぶりおとす

北八「ヤアイたすけてくれたすけてくれ

ト手あしをもがきながれるゆへ、弥次郎とびこみ引上れば、あたまからほねまでくさるほどぬれ

北八「エエ座頭めが、とんだ目にあはしやアがつた

弥二「ハハハハハハまづ着物をぬぎやれ。しぼつてやろふ

きた八「ぜんてへ(全体)弥次さんがわるい。なんのおぶさらずともいいことに、おめへが手本を出したから、ツイおれも

弥次「川へはまつたか。きのどくな。ハハハハハハ、それで一首(いつしゆ)やらかした

はまりけり目のなき人とあなどりしむくひははやき川のながれに

現代語訳

猿市は向う岸で聞きつけて腹をたて、

「こりゃあ、ふざけた奴だ。たった今おぶって渡したに、又そっちへ行って、俺をなめるな」

犬市「馬鹿あ言え。おのればかり渡りおって、太い奴だ」

猿市「いや、太いとはそっちのことだ」

犬市「こりゃ、おのれ兄弟子に向って、とんでもねえ。早く来て渡さぬか」

と白目を剥き出して、腹を立てるので、猿市はしかたなく、又こちらへ渡って帰り、

猿市「さあ、そんならおぶりなさろ」

と背中を出す。北八しめたと、手をかけておぶさると、猿市さっさと川へ入る。犬市はたいそう慌てて

「これ、猿市どこにおる」

猿市は川中にて

「いや、こいつは誰だ」

と北八を川の中へ勢いつけて落す。

北八「やあい、助けてくれ助けてくれ」

と手足をもがきながら流されるので、弥二郎が飛び込み引き上げると全身ずぶぬれになっており

北八「ええい、座頭めが、とんだ目に逢わせやぁがった」

弥次「はははははは先ず着物を脱ぎやれ。絞ってやろう」

北八「ぜんてえ弥次さんが悪い。おぶさることもないのに、おめえが手本を示したから、つい俺も」

弥次「川へはまったか。気の毒な。はははははは、それで一首思いついた。

はまりけり目のなき人とあなどりしむくひははやき川のながれに

語句

■じやうだんなやつ-ふざけたやつ。■言語道断-口では表現できぬ程の、けしからぬことだ。■せきこみ-あせる。■どんぶりおとす-勢いづいて水中に落ちたさま。■はまりけり~-盲人を馬鹿にした報いが早くも来て、流れの速い川にはまった。人を計略にかけようとして、自分のほうがはまったのが、おかしいの意。

原文

北八「エエききたくもねへよしてくんな。アアさむいさむい

トはだかになりがたがたふるいながら、きものをしぼる 此内ざとうは川をわたり行過る

弥二「ここでほしてもゐられめへから、着替(きがへ)を出してきやれ。どこぞで火をたいてもらつてあぶるがいい

きた八「エエいまいましい 風をひいた。ハアクツシヤミ

トぶつぶつこごとをいいながら きがへを出してきかへ、くさつたきものは、しぼつて引さげ出かけると、ほどなくかけ川の宿にいたる

棒鼻の茶屋おんな「おめしよヲあがりまアし。鰺(あぢ)とこんにやくと、干大根のおすいものもおざりまアす。おやすみなさいまアしおやすみなさいまアし

ながもち人足のうた「ふけばナア、ふくほどナアアンエ、もつもなかるいナアンエ、わたをサア、いれたやナア、長持(ながもち)にわたをナアアンエヨウ、しつたかどふだかどふだか

馬のいななき「ヒインヒイン

弥二「ヲヤきた八見さつし。さつきの座頭(ざとう)めらが、あそこに呑(のん)でけつかるは

北八「こいつはいいことがある。おいらを川へはめた意趣返(いしゆげへ)しをしてやろふ

トつくりごへにて、かのざとうのさけをのんでいる、ちや屋へはいる

北八「ヲイ御めんなせへ

ちややの女「おいでなさいまし

トちやをくんでくる。北八かのざとうのわきへこしをかける

女「おしたくでもなさいますか

弥二「まだまだ腹がぽんぽこなだ

先刻のざとう二人、この所にやすみさけをのみいたるが、かの二人とはきもつかず

犬市「ハアねつから酒(さけ)がたらぬよふだ。もう二合やらかそふ

さる市「いかさまなア、御ていしゆ御ていしゆ、もふちつと頼(たのみ)ます

女「ハイハイ

犬市「ときに今の川へはまつた、べらぼうどもはどふしたろふ

現代語訳

北八「ええぃ聞きたくもねえ止してくんな。ああ寒い寒い」

と裸になりがたがた震えながら、着物を絞る。そのうちに座頭は川を渡り行き過ぎる。

矢治「ここで干してもいられねえから、着替えを出して着やれ。どこぞで火を焚いてもらって焙るがいい」

北八「ええぃいまいましい。風邪を引いた。はっくしょん」

とぶつぶつ小言を言いながら、着替えを出して着替え、びしょびしょに濡れた着物は、絞って引き下げ出掛けると、まもなく掛川の宿に着く。

棒鼻の茶屋女「お飯をあがりまあし。鰺(あじ)と蒟蒻(こんにゃく)と、干し大根のお吸物もおざりまあす。お休みなさいまあしお休みなさいまあし」

長持人足の歌「吹けばなぁあ吹くほどなあんえ、持つ者は軽いなあんえ、綿をさあ、入れたやなあ、長持に綿をなあんえよう、知ったかどうだかどうだか」

馬のいななき「ひいんひいん」

矢治「おや、北八見さっし。さっきの座頭めらが、あそこに飲んでけつかるは」

北八「こいつはいいことがある。おいらを川へはめた仕返しをしてやろう」

と作り声で、かの座頭が酒を飲んでいる茶屋へ入る。

北八「おい、御免なせえ」

茶屋の女「おいでなさいまし」

と茶を酌んで来る。北八かの座頭の脇へ腰かける。

女「お支度でもなさいますか」

矢治「まだまだ腹がいっぱいだ」

先刻の座頭二人、ここで休み酒を飲んでいたが、あの二人を気付かず

犬市「はあ、ねっから酒が足らぬようだ。もう二合飲もう」

猿市「もっともだ、御亭主御亭主、もうちっと頼みます」

女「はいはい」

犬市「時に今川へはまった、べらぼうどもはどうしたろう」

語句

■着替-道中する者は、背負った風呂敷の中に着替えの衣類を所持している。それをいう。■くさった着物-びしょびしょに濡れた着物。■かけ川のしゅく-日坂より一里二十九丁の宿駅。遠江国佐野郡(今の掛川市)。■棒鼻-宿はずれの榜示(ぼうじ)杭(境界のしるしに立てる杭)のある所。■干大根-『年中番菜録』に「干大根、汁、ふときは小口きり、嫁菜など取り合わせて良し。上品なり」。■せんば煮-塩を強くした魚鳥の肉に大根などを添え、だしを加えて作った汁(『江戸料理集』など)。■ながもち人足-長持を運搬する人足。長持一棹(さお)は三十貫目が基準で、六人掛かりで運ぶ。重量が超過した場合は特別に賃を出す定め(駅逓志稿)。■意趣返し-恨みを晴らすこおt。仕返し。■つくりごへ-自分の平常の会話とは違った話し方とか発声。■ぽんぽこな-『膝栗毛輪講』によると、歌のはやし詞にあったという。ただし狸の腹鼓から出たので、ここも満腹の意。■ねつから-根から。元来。■いかさまナア-もっともです。

原文

さる市「それよハハハハハ先(まづ)かわりめをやらかそふ

トちよくにいつぱいついで一口のみ、下におくと、きた八そつと手を出し、ちよくのさけをのんでしまい、ちやつともとの所におく

さる市「イヤふといやつらであつた  ちやんとおれにおぶさるやアがつて、其代(そのかはり)水をくらやアがつた時は、たすけてくれろと、かなしいおとぼけを出しおつた。なんでもかすりをとる事ばかり、心がけてゐるやつだから、おほかたあいつは、ごまの灰だろふよ

犬市「そふさ。どふでろくなもんじやアない。ああいふやつは、こんな所へ来ても、ゐてはくひにげをして、ぶちのめされるもんだ。イヤ時に盃はどふした

さる市「ホンニわすれた

トちよくをとりあげて、のまうとしたところが、さけはいつすいもなし

「ヲヤこぼしたそふな

トそこらあたりをさぐりまはし

「ハテねいよふな。あらためてさそふ

トまた一ぱいつぎ、ひとくちのんでしたにおくと、        

犬市「かうしている所へ、さつきのやつらが来たらおかしかろふ

さる市「ナニあいつらはおほかた着物を、しぼつたりほしたりして、まだあつちにまごついてゐるだろふ。ちゑのないべらぼう共だ

トいいながら、さかづきをとりあげた所が、またさけはいつすいもなし

さる市「これはどふだ

犬市「又こぼしたか。いくぢのない

さる市「イヤこぼしはせぬが、ハテきめうてうらいな

犬市「イヤ手めへ、そんなことばかりいつて、ひとりでのむな

ト此内北八、てうしをとり、じぶんがのんだ、ちやのみぢやわんふたつにあけて、そつとてうしを、もとのところにおく

犬市「こりや猿(さる)よ、さかづきをまはさぬか

トひつたくりてうしをとつてついで見て

「ヤアこのさる市め、ひとりでくらつてしまやアがつた

さる市「ナアニ、とんだことを

犬市「それでも銚子(てうし)がさつぱりだ

さる市「なんでてうしがない。イヤここの御ていしゆ御ていしゆ、わしらを盲(めくら)とあなどつて、こんな横着をさしやるか。二合の酒がたつた二口のむと、もふないはどふしたもんだ

現代語訳

猿市「それよ、はははははは。先ずは新しく持って来た酒の最初の一杯を飲もう」

と猪口に一杯ついで一口飲み、下に置くと、北八はそっと手を出し、猪口の酒を飲んでしまい、そっと元の所に置く。

猿市「いやぁ、ふてえ奴等であったわい。ちゃんと俺におぶさりやあがって、その代わり、水を被った時は助けてくれろと、悲しいおとぼけ声を出しおった。何でも掠め取ることばかり、考えている奴だから、大方あいつは、ごまの灰だろうよ」

犬市「そうさ。どうでもまっとうな者じゃない。ああいう奴は、こんな所へ来ても、えてして、食い逃げをして、ぶちのめされるもんだ。いや、時に盃はどうした」

猿市「ほんに忘れてた」

と猪口を取り上げて、飲もうとしたところが、酒は一滴も入っていない。

「おや、こぼしたそうな」

とそこら辺りを探り廻し、

「はて、ねえようだ。あらためてさそう」

とまた一杯注ぎ、一口飲んで下に置くと、

犬市「こうしている所へ、さっきの奴等が来たらおかしかろうな」

猿市「なに、あいつらはおおかた着物を、絞ったり干したりして、まだあっちでまごついているだろう。智慧の無いべらぼうどもだ」

と言いながら、盃を取り上げたところが、又酒は一滴もなく、すっからかん。

猿市「これはどうだ」

犬市「又こぼしたか。だらしのない」

猿市「いや、こぼしはせぬが、はて、奇妙頂礼な」

犬市「いや、てめえ、そんなことばかり言って、一人で飲んでおるのだな」

とそのうちに北八、銚子を取り上げ、自分が飲んだ酒を茶飲茶碗二つにあけて、そっと銚子を元の所に置く。

犬市「こりゃ猿よ。盃を廻さぬか」

とひったくり、銚子を取って、注いでみて、

「やあ、この猿市め、一人で飲んでしまいやがった」

猿市「なあに、とんだことを」

犬市「それでも銚子が空っぽだ」

猿市「なんで銚子がない。いや、ここの御亭主御亭主、わし等を盲と侮って、こんな横着をさしやるか。二合の酒がたった二口飲んだだけでもう無いとはどういうことだ」

語句

■かわりめをやらかそふ-新しく持って来た酒の最初の一杯を飲もう。■ちよく-猪口。ここは盃でなく、陶磁器の酒器である。■ちやつと-素早く。■おとぼね-音骨。声を出し、物をいうことを罵っていう語。■かすりをとる-うわ前をはねる(人の収入の一部分を横から取ること)。理由のない利益を得ることにもいう。■ごまの灰-道中で、善良の旅人の風体をして、金品を奪う小賊のこと。■ろくなもん-まっとうな者。■ゑては-えてして。ややもすると。■盃-前に「ちよく」とあり、ここに「盃」とある。一九もすでに混用している。■いつすい-一水。一滴。■めいよふな-面妖な。不思議な。座頭達のほうも、知らぬが仏で、勝手な熱で、罵っているのが滑稽。■いくぢのない-だらしない。■きめうてうらいな-不思議だの意味の「奇妙」を、仏語の「帰命頂礼」(仏を拝する時の語)にかけていった。■ひとりでのむな-一人で飲んでおるのだな。■てうし-銚子。ここは古来の長い柄付きの酒器でなく、広く酒を盃または猪口につぐ器の総称。■さつぱりだ-全く空になっている。■てうしがない-銚子に酒が無いの意。■横着-こずるいこと。平気でする悪事。

原文

ていしゆ「ハイそれは二合、しかもたつぷりついであげましたに、大かたこぼしなさつたもんだんで

さる市「ナニこぼすもんだ。商人(あきんど)に似合(にあは)ぬことをさしやるから、此酒代(このさかだい)ははらひませぬぞ

ト大きにはらをたてる。此ときかどぐちに、あそんでいる子もりが、さいぜんより見ていたりしが、北八のほうへゆびざしをして

子もり「ワアイ座頭(ざとう)どんのさけウ、みんなあの人がちやわんへついでしまはつせいた

北八「ヲヤこの子はとんだおとをいふ  コリヤア茶だ茶だ

トいいながらのみさしたちやわんの酒をのんでしもふ

ていしゆ「イヤおまいさけくさいは。そして顔(かほ)があかくならしやつたは。大かたあの衆(しゆ)の酒をのましやつたな

北八「エエこの人も、おなじよふにとほうもねへ。わしが顔のあかくなつたのは、茶に酔(よつ)たのだ。わしはかわつたことで、ちゃをたんとのむと酔ます。酒によつた人はくだをまくが、茶によつた証拠(せうこ)には、ちやばかりいふがくせでならぬ。そこでちやばかりながら、どなたもちやよふ。チヤハハハハハハ

さる市「イヤその手はくはぬ。子共は正直(しやうじき)だ。コリヤアこんたしゆが、よこどりしてのんだにちがひはない。酒代をはらはしやれ

北八「ちやれやれ、ちやりとはちやわいもないことを、ちやべらしやる。ちやつきからのんだはちやばかり。ちやとうしゆのちやけを、ちやくぶくしたおぼへはごちやらぬ。わるいちやれだチヤハハハハハハ

犬市「イヤ是(これ)  目の見へぬものだとおもつて、そのちやらくらおかつしやれ。ハテ見てゐた子どもが証拠人(しやうこにん)だ

さる市「まだ慥(たしか)なことは、御ていしゆあの衆の呑んだちやわんが、さけくさいかかいで見さしやれ

トうごかぬ所へ気をつけられ北八ちやつと、ちやわんをかくそふとするを、ていしゆひつとりいで見て

「ヒヤアくさいくさい。そして酒でにちやにちやする。コリヤハイ、おまいちがのましやつたにちがひはない。酒代をおかつしやいまし

トいはれてきた八こいつはおさまらぬとおもひ

「イヤちやけはのまぬから、ちやか代は払(はら)はぬ。茶代ならなんぼでもはらをふ。いくらだ

ていしゆ「そんなら茶代をおかしやいまし 茶が二合で六十四文

北八「ヤなんだ。ちやを二合のんだ。とほうもねへ

弥二「エエめんどうな、はらつてしまつたがいい。手めへのするこたア、なんでもおさまらねへ。あしもとのあかるいうち、はらつてしまや

現代語訳

亭主「はい、それは二合、しかもたっぷり注いであげましたに、大方こぼしやったもんで」

猿市「なに、こぼすもんだ。商人には似合わぬことをさっしゃるから、この酒代は払いませぬぞ」

と大いに腹を立てる。この時、門口に遊んでいる子守が、最前から見ていたのだが、北八の方を指差しして

子守「わあい、座頭どんの酒を、みんなあの人が茶碗へ注いでしまわっしゃった」

北八「おやこの子はとんだことを言う。こりゃあ茶だ。茶だよ」

と言いながら飲みかけた茶碗の酒を飲んでしまう。

亭主「いや、お前さん酒臭いわ。そして顔が赤くならしゃったわ。おおかたあの衆の酒を飲ましゃったな」

北八「ええぃ、この人も同じように途方もねえ。わしの顔が赤くなったのは、茶に酔ったのだ。わしは変わった男で、茶をたんと飲むと酔うんですよ。酒に酔った人はくだを巻くが、茶に酔った証拠にはいい加減なことを言うのが癖で申し訳ない。そこではばかりばがら、どなたも左様に思ってください。あははははは」

猿市「いや、その手はくわぬ。子供は正直だ。こりゃあこの人が、横取りして飲んだに違いはないな。酒代を払わっしゃれ」

北八「やれやれ、さりとはたわいもないことを、しゃべらっしゃる。さっきから飲んだのは茶ばかり。座頭衆の酒をこっそり飲んだ覚えはござらぬ。悪い洒落だ。あははははは」

犬市「いや、これは。わし等が、目が見えぬ者だと思って出鱈目を言うのは止めてくれ。」さあ、見ていた子どもが証人だ」

猿市「まだ確かなことは、御亭主あの衆の飲んだ茶碗が、酒臭いか嗅いでみさっしゃれ」

と動かぬ証拠をつきつけられ北八はそっと茶碗を隠そうとするが、亭主が奪い取って見て

「ひゃあぁ臭い臭い。そして酒でにちゃにちゃする。こりゃはい、お前さんが飲ましゃったに違いはない。酒代をおかっしゃいまし」

と言われて北八、こいつは治まりがつまぬと思い

「いや、酒は飲まぬから、酒代は払わぬ。茶代ならなんぼでも払おう。いくらだ」

亭主「そんなら茶代をおかっしゃいまし。茶が二合で六十四文になります」

北八「や、なんだ。茶を二合飲んだ。途方もねえ」

弥次「ええ、面倒な、払ってしまったほうがいい。てめえのするこたあ、なんでもひと悶着だ。事が大きくなる前に払ってしまえ」

語句

■もんだんで-ものなのではありませんかの意。■子もり-子守。小児の守りをしている少女。■しまはつせいた-しまわしゃったの意。■おなじよふに-子守のいうところと同様なことをいう。■茶に酔た-茶を飲み過ぎると酔うこと。■くだをまく-酔った者が多言になること。■ちやばかりいふ-よい加減なことを言う。ごまかすようなことをいう(中村幸彦『戯作論』など)。■ちやばかりながら-はばかりながら。■どなたもちやよふ-どなたも左様。下に「思ってください」の意を補って解す。■その手-そんなごまかしの方法には、のせられない。■こんたしゆ-此方衆。■よこどりして-横から奪って。■ちやくぶく-着服。こっそりと自分のものにする。■ちやらくら-『俚言集覧』に「人を眩惑するを云ふ。チャラとばかりもいふ」。でたらめ。■おかつしやれ-やめてくれ。■うごかぬ所-確かな証拠となる点。■ひつとり-引っ執り。人の手から取って。■おまいち-お前たち。■おさまらぬとおもひ-そのままでは済むまいと思い。■茶が二合で六十四文-酒代で勘定されて、上手に出られた滑稽。■おさまらねへ-ただでは済まぬ。■あしもとのあかるいうち-事の大事に至らない前にの意の成語。

原文

トめがほでしらせると、北八もせうことなし、六十四文はらつてやると

さる市「イヤはやとんだ人たちだ。さつきおぶさつたも、こんた衆であろふ。人のかつた酒をよこどりしてのむといふは、マアどろしうといふものだ

北八「ナニどろぼうだ。このどうめくらが

トりきみかかる。弥二郎おしとめ

弥二「ハテこつちがわるい。モシりやうけんしてくんなせへ。こいつは茶に酔うと、気がつよくてなりやせぬ。サアちやつちやつといかふ。アイおちやらばおちやらば

トいいすててきた八をむりにひつたてここを立出 あしばやに此しゆくを打過

北八「エエいまいましい。けふはとんだ間(ま)がわるい。銭(ぜに)を出して酒をのみながら、へこまされたがうまらねへ

弥二「ハハハハハハおれよりはよつぽど、ちゑのねへ男だ

することもなすこともみなあしぼやちやにしられたる人のしがなさ

斯興(かくえう)じ打わらひつつ、やがて秋葉(あきば)三尺坊へのわかれ道にいたり、弥次郎兵へ遥拝(ようはい)して

脇差の弐尺五寸もなにかせん三尺ぼうの誓(ちか)ひたのめば

それより沢田細田(さはだほそだ)を打すぎ、砂川(すながは)の坂道にかかりけるに、両方より木立生茂(こだちおひしげ)りて日の陰(かげ)くらく、折ふしゆききもとだへたるに、誰(だれ)ともしれず

「コヲレコヲレ、たびの人ヲ たびの人ヲ

トよびかけられ、両人うしろをふりかへりみれば、かたわらの木かげより、のさのさとふところ手にて出来るは、どてらぬの一こしぼつこみ、山をかづきんをかぶりたる、ひげだらけのむさくろしき男、弥次郎北八がむかふへまはりたちはだかる。ふたりはびつくりし、こはごはながら

弥二「コリヤ昼日中(ひるひなか)になんの用だ

かの男「イヤさか手を壱文下さいませハハハハハハ

北八「なんのこつた。それでおちついた。ソレ壱文

弥二「あつたら肝をつぶさしやアがつて、いまいましい乞食(こじき)めだ

トつぶやきながら原川を打すぎ、はやくもなくりのたてばにつく、ここは花ござをおりてあきなふ

道ばたにひらくさくらの枝ならでみなめいめいにをれる花ござ

程なく袋井の宿に入るに、

現代語訳

と目顔で知らせると、北八もしょうことなし、六十四文を払ってやると

猿市「

語句

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朗読・解説:左大臣光永