三編下 浜松より舞阪へ

原文

さつさつとあゆむにつれて旅衣(たびごろも)ふきつけられしはままつの風

やど引さきへかけぬけて

「サアサアおつきだアよ

やどのていしゆ「おはやくおざいました。ソレおさん、おちやとお湯(ゆ)だアよ

弥二「イヤそんなに足はよごれもせぬ

ていしゆ「そんならすぐにおふろにおめしなさいまし

北八「湯灌場(ゆくはんば)はどこだ。弥次さんまアさきへやらかしねへ

弥二「いまいましいことをいふ男だ。手めへさきへはいれ

やどの女「こつちイお出なさりまし

トすぐにゆどのへあんないする。此内にもつもざしきへはこばせ、弥次郎兵へおくへとふると

ぜにや「ハイ両替(りやうふがへ)はよふおざりますか

あんま「おりやうじをなさいませぬか

弥二「ヲツトもんで下さい。イヤ、きさま目があるの

あんま「ハイ仕合(しやわせ)とかたつぽ(片方)はよく見へます。十ねんばかしもあとに風眼(ふうがん)とやらをわづらひおりまして、両眼ともにかいもくおつつぶしてしまいおりましたが、それからこつちイいろいろとりやうぢをして、やうやつと此あいだ、左リのほうがよくなりました

弥二「ひさしぶりで目があいたら、みんなしらぬ人ばかりだろふ

あんま「おさやうでおざります

弥二「見へないほうもずいぶんりやうじぢをしなさい なをりさへすりやア見へるもんだ。時に北八、湯はどふだ

きた八ふろよりあがり

「アアいい湯だ。あんまりあつくて骸(からだ)が半分水引のよふになつた

女「ハイ御ぜんをあげませう

現代語訳

浜松より舞阪へ

さつさつとあゆむにつれて旅衣(たびごろも)ふきつけられしはままつの風

客引は先に掛け抜けて

「さあさあお着きだあよ」

宿の亭主「お早くお出でになりました。それ、おさん、お茶とお湯だあよ」

弥次「いや、そんなに足は汚れてはおらぬよ」

亭主「そんならすぐにお風呂をおめしなさいませ」

北八「湯灌場はどこだ。弥次さん、まあ先へやらかしねえ」

弥次「いまいましいことを言う男だ。手めえが先へ入れ」

宿の女「こっちにお出でなさりまし」

とすぐに湯殿へ案内する。そのうちに荷物も座敷へ運ばせ、弥次郎兵衛は奥へ通ると

銭屋「はい、両替はようおざりますか」

按摩「揉み治療をなさいませんか」

弥次「おっと、揉んでください。いや、貴様目が見えるのかい」

按摩「はい、幸いにも片っぽは良く見えます。十年ほど前に風眼とやらを患いまして、両目とも全く見えなくなりましたが、それからずっと色々と治療をして、ようやっとこの間、左の方が良くなりました」

弥次「久しぶりで目が開いたら、皆知らぬ人ばかりだろう」

按摩「左様でございます」

弥治「見えない方もしっかりと治療しなさい。治りさえすりゃあ見えるもんだ。時に北八、湯はどうだ」

北八は風呂からあがり

「ああ、いい湯だ。あんまり熱くて体が半分水引のようになった」

女「はい、御膳を上げましょう」

語句

■さつさつ-急いで歩く擬態語と、松風の「颯颯」の擬声語がかけてある。速く歩いたので、颯颯の浜松風に吹き付けられるごとくに浜松の宿に着いた。『東海道名所図絵』に引野馬の松林を「ざざんざの松」とか「颯々松」という由見える。『東海道宿村大概帳』には、八幡村八幡の神木を特にいう。今は枯れてその跡に小宮を建て、颯々大明神と称すとある。■湯灌場(ゆくはんば)-葬式の時、寺で死体を湯で洗う場所。ここは体を洗う風呂場を洒落ていった。■いまいましい-湯灌場を先に使えとは、早く死ねの意となるので、忌々しいと縁起をかついだ。■ぜにや-両替屋の小規模な店。浜松は、『諸国道中記』では、井上河内守知行七万石の城下町。藩札など藩特有の貨幣制度があるので、宿に両替に来たのである。■おりやうじ-揉み治療。■風眼-『病名〇解』に、「病源(諸病源候論)に云う、風熱の気、目を傷り、眥瞼(まなぢりまぶた)皆赤くただれ、風を見ればいよいよ甚し。これを風眼と云へり」。今の膿漏性結膜炎。■かいもくおつつぶしてしまいおりました-全く盲目にならせてしまった。■それからこつち-それから以来。■やうやつと-ようやく。■みんなしらぬ人ばかりだろふ-笑話本によったごとくである。人のことだと思って、勝手なことを言っている滑稽。「なをりさへ・・・」も、わかりきったことで、滑稽みをもたせた。■水引-紅白の水引。半身が熱い湯で赤くなったの比喩。

原文

トここにてぜんも出、いろいろあれ共りやくす やがてぜんもすみ、弥二郎ゆにも入てしまひ

弥二「サアあんまさんやらかしてくんな。イヤ時に今、ゆどのから見れば、ここの内のかみさまかしらぬが、病人と見へてとりみだしてゐるが、なかなかうつくしいしろものだ

あんま「ソリヤア気違いおざるはのし

北八「きちげへでもでへじ(大事)ねへの

あんま「イヤききなさい。今にねんぶつがはなりますは

ト此内かつてのかたにて チヤンチヤンとかねのおとして百万べんはじまる

あんま「ソレお見さい あの気ちがひどのは、ここの下女でおざつたが、御ていしゆがふつと、手をつけられたを、かみさまがひどいやきもちやきで あの女をぶつたりはたいたりして、とうとうさらけ出しおりましたが とかく御ていしゆは不便(ふべん)がつて、それからわきにかこつておきおりましたを、なを(猶)ぜかし(又)かみさまがやかましくいつて、とうどうきがちがひ、首(くび)をくくつて死(し)にやりました。そふすると御ていしゆは又よいことにして、あの女をうちへいれると、其晩からかみさまのゆうれいがとつついて、あの女が又、かみさまのよふに気ちがひになつたもんだんで、それであんなに、毎晩(まいばん)百万べんをくりおります

トひそほそはなすに、弥二郎北八もくちはたつしやなれども、しやうはおくびやうもの

北八「なんだ幽霊(ゆうれい)がとつついたとは、ここのうちへ其ゆうれいが出るかの

あんま「出るだんか

弥二「うそをつくぜ

あんま「ネニうそじやおざらぬ。まいばんこの屋ねのうへに、しろいものがたつてゐるのを見たものがおざります

北八「ヤアコリヤとんだ所にとまり合せた

あんま「それにそのかみさまがくびをくくつた時の顔色(がんしよく)といふものは、目まなこをくるりとあいて、青涕(あをばな)をたらし歯をくひしばつて、それはそれは、いきているよふな顔(かほ)であつた

北八「ソリヤアどこで

あんま「しかもソレおまいのうしろのゑんさきで

北八「ヤアコリヤたまらぬ。どふかくびすじがぞくぞくするよふだ

現代語訳

とここで膳も出て、いろいろあるが略す。やがて膳も済み、弥二郎も湯へ入ってしまい

弥次「さあ、按摩さんひと揉みやらかしてくんな。いや、時に今、湯殿から見ていると、この家のかみさんか知らぬが、病人と見えて取り乱している様子だが、なかなか美しいしろものだね」

按摩「そりゃああなた、気違いでおざはのし」

北八「この男は気違いでも間違いでもかまわないのさ。のう弥次さん」

按摩「いやいや私の因果話を聞きなさい。今に念仏が始まりますわい」

とこのうちに、かっての方角でチャンチャンと鉦の音がして、百万遍の南無阿弥陀仏が始まる。

按摩「それ、見なさい。あの気違い殿は、ここの下女でござったが、御亭主がふっと手をつけられたのを、かみさんが酷い焼餅焼きで、あの女を打ったり叩いたりして、とうとう追出してしまいましたがとっかう。御亭主は不便がって、それから別の所で囲っておきおりましたのを、なおさらに又、かみさんがやかましく言って、とうとう気が違い、首をくくって死んでしまいやした。そうすると御亭主は又それをいいことにして、あの女を家に入れると、その晩からかみさんの幽霊が取り憑いて、あの女が又、かみさんのように気違いになったものなので、それであんなに、毎晩百万遍を繰り返しておりやす」

とひそひそと話すので、弥二郎北八も口は達者なれども、根は臆病者、

北八「何だ幽霊がとっついたとは、ここの家に幽霊が出るのかの」

按摩「出る出ないどころではなくて、出るのですよ」

弥次「嘘をつくぜ」

按摩「嘘じゃおざらぬ。毎晩この屋根の上に、白い物が立っているのを見た者がおざります」

北八「やあ、こりゃあとんだ所に泊まり合せたもんだ」

按摩「それにそのかみさんが首を括った時の顔色というものは、眼をくるりと剥き開き、青洟を垂らして歯を食いしばって、それはそれは生きているような顔だったそうですよ」

北八「そりゃあ、どこでだい」

按摩「しかもそれお前様の後ろの縁先で」

北八「やあ、こりゃあたまらん。何だか首筋のところがぞくぞくするようだ」

語句

■のし-終助詞の「の」に強めの「し」が付いたものだが、浜松方言かどうか。これも大略で使用。■でへじねへの-かまわない。美人ならば気違いでもの意。■はなります-始まる意の地方語。■百万べん-南無阿弥陀仏の称号を百万回唱えると往生するとは、『伽才浄土論』などに見えるが、民間では、千八十顆(つぶ)の大きな数珠を多数円座して回し繰り、鉦を打ち、称号を唱える。難病(憑物)などや流行病などを去るためにとて行った。祐天上人の勘化を受けたという下総国羽生村の累(かさね)の死霊話などでも有名である。■ぶつたりはたいたり-打ったり叩いたり。■さらけ出し-追出し。■かこって-囲っておく。妾宅を造っておく。■なをぜかし-なおさらに又。■とつついて-ここも累(かさね)の場合の如く、亡霊が祟って、憑いたとするものである。■もんだんで-「ものなので」の訛のつもり。■しやう-本性。性質。■出るだんか-出る出ないどころではない、出るだの意。これは方言ではないがそのように使用。■どふか-何だか。どうやら首筋のところが薄ら寒い。恐怖の時の状態。

原文

弥二「あやにく、しよぼしよぼ雨(あめ)がふり出したは、なさけない

あんま「こんやなどはきつと出そふなこんだ

北八「イヤコレあんまどの、もふけへつて下さい

弥二「アノ又たたき鉦(がね)のおとで、いちばん気がひきいれるよふだ

北八「なんにしてもいまいましいやどをとつた

あんま「エエ臆病なお衆だハハハハハハ

弥二「もふしめへか。北八はどふだ

北八「おらアもふねよふ

あんま「さやうなら御きげによく

トあんまはいとまごひしてたつてゆく 此内女夜具をもち出、とこをとりてゆく、ふたりともにいつにない、しやれもむだもいでばこそ、ただまじくじもねいりもやらず

弥二「エエいつそのこと、北八今からたとうじやアねへか

北八「ナニとんだことをいふ。今のはなしでどう、夜具があるかれるもんだ

弥二「それにここの内は、なんだかだだぴろいばつかりで、人がすくないから、うそきみのわるいうちだ

トめばかりぱちぱちしていると、ねづみがてんじやうをかけるおと、からからから

「チウチウチウチウ

北八「エエ鼠までがばかにしやアがつて、小便をしかけた

弥二「そのねずみがうら山しい。おらアさつきから、小べんをしたくてもこらへてゐるに、ヤアなんだかやわらかなものが、あしにさはつた

北八「なんだなんだ

ねこ「ニヤアン

弥二「コノちくしようめ、シツシツ

百まんべんのかねのおと「チヤアン

現代語訳

弥次「あいにく、しょぼしょぼと雨が降り出したは、情ない」

按摩「今夜などはきっと出そうなもんだ」

北八「いや、これ、按摩殿、もう帰ってください」

弥治「あの又叩き鉦の音で、一番気が滅入るようだ」

北八「なんにしてもいまいましい宿をとったもんだ」

按摩「ええ、臆病な方たちだ」

弥次「もう按摩は終(しめ)えか、北八はどうだ」

北八「おらあももう寝よう」

按摩「さようなら御機嫌よう」

と按摩は暇乞いをして立って行く。このうちに女が夜具を持出し、床をとって出て行く。二人とも、いつになく、洒落口も無駄口もたたかず、只まじくじして寝入りも出来ず、

弥次「ええい、いっそのこと、北八今から立とうじゃねえか」

北八「なに、とんだことを言う。今の話でどう、夜具が歩かれるものか」

弥次「それに、ここの家は何だかだだっぴろいだけで、人が少ないから薄気味の悪い家だ」

と目ばかりぱちぱちしていると、鼠が天井を駈ける音、からからから

「チウチウチウチウ」

北八「ええぃ、鼠までが馬鹿にしやあがって、小便をしかけたわい」

弥次「その鼠が羨ましい。おらあさっきから、小便をしたくてもこらえているに、やあ、なんだかやわらかいものが、足に触ったわ」

北八「なんだなんだ」

猫「ニャアン」

弥次「こん畜生め、しっしっ」

百万遍の鉦の音「チャアン」

語句

■あやにく-あいにく。折悪く。■しよぼしよぼ-細い静かな寂しい雨。幽霊妖怪の付き物である。■たたき鉦-鉦。撞具で打って鳴らす仏具。底が空洞になって足が付いているを座に伏せてく。「ふせがね」ともいう。■気がひきいれる-気がめいる。陰気になる。■まじくじも-まじくじして。■たとう-立つ。宿屋を出て、旅をすること。■うそきみのわるい-薄気味の悪い。■目ばかりぱちぱちしている-寝入られないさま。

原文

のきにおちるあまだれ

「ぽたりぽたり

おりもおりとまよひ子をたづぬるこゑ

「まよひ子の長太やアいチヤチヤチヤチヤチヤン

ふたりともよぎのうちへもぐりこみ、きた八よぎのそでからさしのぞき

「どふだ矢治さん、まだいきてゐるか

弥二「なんまいだなんまいだ。アア時にこまつたことがある。もふ小べんがもるよふだ

北八「おたがいになんぎな目にあつた

弥二「なんとおもひきつていつしよにいかふか

北八「あま戸をあけてやらかすべい

トふたりいつしよにこはごはおきて  そろそろとしやうじをあけ

北八「サア弥次さん

弥二「イヤ手めへさきへ

北八「なにが出るもんだ

トあまどをさらりとあけたところが、なにかにはのすみに、しろいものがちうとにふはふは、北八きやつといつてたをれる

弥二「ヤアどふしたどふした

北八「どふした所か、あれを見ねへ

弥二「あれとは

北八「しろいものがたつていらア。そして、こしから下が見へぬ

弥二「ドレドレ

とふるへながら、こはいものは見たくなり、あまどのそとをそつとのぞき、これもきやつといつて、ざしきへはいこみたをれる

現代語訳

軒に落ちる雨だれの音

「ぽたりぽたり」

折も折、迷子を捜す声

「迷子の長太やあいチヤチヤチヤチヤチヤン」

二人とも夜着の中へ潜り込み、北八が夜着の袖から差し覗き、

「どうだ弥治さん、まだ生きているか」

弥治「なんまいだなんまいだ。ああ、時に困った事がある。もう小便が漏れそうだ」

北八「お互いに難儀な目に遭ったなあ」

弥治「なんと思い切って一緒に行こうか」

北八「雨戸を開けてやらかすべい」

と二人一緒に恐々(こわごわ)起きて、そろそろと障子を開け、

北八「さあ弥治さん」

弥治「イヤ手めえ先にしろや」

北八「何も、妖怪など出りゃしねえよ」

と雨戸をさらりと開けたところが、何か庭の隅に、白い物が中途半端にふわふわと浮いている。北八は「きゃっ」と言って倒れる。

弥治「やあ、どうしたどうした」

北八「どうしたどころか、あれを見ねえ」

弥治「どれどれ」

と震えながら、怖い物を見たくなり、雨戸の外をそっと覗き、これも「きゃっ」と言って、座敷へ這い込み倒れる。

語句

■まよひ子-当時、迷子が出ると、近所の者が、夜おそくまで鉦や太鼓をたたいて、名を呼んで尋ねまわる風習があった。『酣中清話』に、中国の『金石萃編』中に類似の文章があるとて「今世俗の太鼓をうつて迷子を尋ねることなり。西土にてもしたりしことと見ゆ」。遠く聞えるのは、寂しいものであったろう。■なんまいだなんまいだ-百万遍に引き入れられたように、念仏を唱えるのがおかしい。■何がでるもんだ-何の妖怪など出るものか。強がりを言っている。■こはいものは見たくなり-俗言に「こわいもの見たさ」。

原文

北八「コリヤ弥次さんどふした。ヲヲイ、矢次さんヤアイ

トこのさはぎに、かつ手よりていしゆかけいで、このていを見て、さまざまかいほうし、やふやふ弥次郎しやうきづきければ

ていしゆ「ヤレどふなさいました

北八「イヤせうべんにいつた所が、あそこになにか、しろいものがいたと、それでこのとふり、おくびやうな人さ

ていしゆゑんさきへ出これを見て

「イヤあれは襦袢(じばん)でおざります。コリヤコリヤおさんやいろいろ、日がくれたに、やつぱりほしものをなぜとりこまぬ。そしてさつきから、雨がぼろついてきたに  らつしくちもない女どもだ。しかしコリヤア、おきのどくさまでおざります

弥二「ナニサわつちらア、こわいといふこたアしらねへものだが、なぜか今夜は、虫の居どころがわるかつたそふな

ていしゆ「ハイおやすみなさいまし

トかつてへゆく

弥二「エエいまいましい。大にきもをひやした

トやうやうに心おちつきゑんさきへ出て見れば、なるほど女がじゆばんをとりこんでいる。ふたりとも、小用をたしてざしきへかへり、よぎひきかぶりて

ゆうれいとおもひの外にせんだくのじゆばんののりがこわくおぼへた

はじめてわらひを催し、心おちつきてとろとろと、一すいの夢をむすぶに、ほどなくやこゑの鶏のこゑ、家毎にうたひつるるいさましさ。早出の馬のすずのおと、シヤンシヤン

まごのうた「ばんにござらばナアうらからござれよヲ、おもてくろろ戸で、おとがするよヲエ~~

馬「ヒインヒイン

からすがいたやねをつつくおと

「コトコトコトコト

弥二「もふ夜があけたそふな

ト北八もともにおき出れば、やがてかつてよりぜんもいで、いそぎしたくして立出、此しゆくにすは明神の社をおがみて

梅干のすはのやしろときくからにまもらせたまへ皺(しは)のよるまで

斯(かく)てわかばやしの郷(ごう)をうちすぎ、篠腹(しのはら)のとりつきにて

北八「ヲヤ味(うま)そふなぼたもちがある。ヲツトばあさん、ひとつくんな

現代語訳

北八「こりゃ、弥次さんどうしたんだ。おお~い弥次さんやあ~い」

とこの騒ぎに、宿の亭主が勝手より駆け出し、この体を見て、色々と介抱し、ようやく弥二郎が正気づいたので

亭主「やれ、どうなさいました」

北八「いや、小便に行ったところが、あそこに何か白い物が居たと、それでこのとうり、臆病な人さ」

亭主縁先へ出てこれを見て、

「いや、あれは襦袢でおざります。こりゃこりゃ、おさんや、色々なものを干しているが日が暮れたに何故取り込まぬ。そして、さっきから雨がぱらついてきたに、埒も無い女どもだ。しかし、こりゃあ、お気の毒さまでおざります」

弥次「なに、わっちらあ、怖いというこたあ知らねえもんだが、何故か今夜は虫の居所が悪かったそうだ」

亭主「はい、お休みなさいまし」

と勝手へ戻って行く。

弥次「ええ、いまいましい。たいそう怖い思いをしたぞ」

とようやく心の落ち着きを取り戻し、縁先に出て見ると、なるほど女が襦袢を取り込んでいる。二人とも、小用をたして座敷へ帰り、夜着を引き被って

ゆうれいとおもひの外にせんだくのじゆばんののりがこわくおぼへた

初めて笑いを催し、心落ち着いて、とろとろと一眠りの夢を見るが、間もなく朝を告げる鶏の声、家毎に声をあげて喧(やかま)しい。早出の馬の鈴の音、シャンシャン。

馬士の唄「晩にござらばナア裏からござれよヲ、表くろろ戸で、音がするよヲエ~~」

馬「ヒインヒイン」

烏が板屋根をつつく音

「コトコトコトコト」

弥次「もう夜が明けたそうな」

と北八も共に起き出れば、やがて勝手より、膳も出て、急いで朝餉を済ませ出立する。この宿の諏訪神社の社を拝んで、

梅干のすはのやしろときくからにまもらせたまへ皺(しは)のよるまで

かくて若林の郷を過ぎ、篠原の入口にて

北八「おや、うまそうな牡丹餅がある。おっと婆さん、一つくんな」

語句

■しやうきづき-正気づく。気絶から気がつくこと。■ぼろついて-少し降ること。■らつしくちもない-『俚言集覧』に「埒もない 埒口もないとも云ふ。備後福山のわたり、やつちもないと云ふ。又〇次(らつし)ないとも書けり。[和訓栞]らつし、〇次と書けり。◎◎に同じ。しまりがない。■虫の居どころがわるかつた-ここは、気分のようすがいつもと違って、こわかったと、負け惜しみの言。■きもをひやした-恐れを抱いたこと。■小用をたして-小便を済ませて。■ゆうれい-洗濯して付けた糊が固く付いたのと、法(のり)の力に幽霊が恐れる意を掛けたもの。幽霊が百万遍の法力に小さくなったのではなくて、幽霊かとこわがったのは、糊のこわい洗濯で干した襦袢であった。■一すい-ひとねむり。■やこゑ-八声の鶏。鶏の明け方を告げる声。宿駅が朝の生気をおびて、妖怪騒ぎもほっとしたさま。■くろろ戸-「枢(くるる)」の訛。近世俗間では「くろろ」のほうが普通。扉の端の上下に突出部を作り、それを取りつけた部分に差し込み、開閉するように作ったもの。開閉の時、ギイギイと音がする。歌の意は、晩に忍んで来るなら裏からにせよ。表の方は枢で音がして人に知られる。■すは明神-浜松城大手先にあった。永禄年中徳川氏入場以来崇敬の社で、代々の将軍家が修復したという由緒ある神社(東海道名所図絵)。■梅干-「梅干の」は「す」(すっぱい)の枕詞的に使用し、「梅干」の縁で「皺」を出し、「皺のよるまで」は長命を祈ったもの。■わかばやし-『諸国道中記』に「わかばやしのごう。・・・篠原新田、道の左右は松なり」。若林村・篠原村は共に敷知(ふち)郡(浜松市)。■とりつき-入口。■ぼたもち-牡丹餅。『町人◎』二に「今のぼたもちと号するものは、禁中がたにては、萩の花といひて、女中などもきこしめすと也。いにしへの、かいもちひといへるも、萩の花の事也。最明寺入道殿、足利佐馬頭義氏の許へ、鶴岡社参の次手に立よらせ給ひし時も、一献にうちあゆび、二献に海老、三献にはかひもちにてやみぬと、つれづれ草にあり。今の世に少し慇懃なる客人などには、ぼたもちなどは中々恥かしくて出されぬ事におぼへたり」。

原文

トたちながらみせさきのぼたもちをつまんでがつちり

ヤアこいつはくへぬ

ばば「ソリヤアぼたもちのかんばんでおざるは

北八「イヤほんに木でこしらへたのであつた。どうりでかたい

ばば「いつしんぜます

北八「ナニ三ツばかりくんな

トぜにをはらひぼたもちをくひながらよびかけ

北八「ヲヲイヲヲイ、弥次さん弥次さん

弥二「なんだ、うめへものならちつとくれろ

北八「ごうぎにうめへ

弥二「ドレひとつ

北八「イヤそれから御らうじろ

ト手のひらへのせてさしあぐると、とんびが来りちよいとさらつてゆく

弥二「ハハハハハハ

北八「いまいましい、こちらの鳶(とんび)は、みな下戸(げこ)だそふな

トうらめしそふにそらをながめて

あいた口ふさがれもせぬそのうへにはなをあかせしとびのにくさよ

ほどなく蓮沼(はすぬま)、つぼ井むらを打過、舞坂(まひざか)の駅(ゑき)にいたる。

現代語訳

語句

■がつちり-堅い物を噛んだ形容。■

次の章「三編下 舞坂より荒井へ

朗読・解説:左大臣光永

【古典・歴史】メールマガジンはこちら