四編上 吉田より御油へ

原文

旅(たび)人をまねく薄(すすき)のほくちかと爰(ここ)もよし田の宿(しゆく)のよねたち

此しゆくはづれより、遠国同者とは見ゆれ共、少しきいたふうしやべる手合五六人、高声にはなして行をきけば、中にもめひきのたてじまに、肩の所しまがらかはりたるきれをあてたる、あはせをひつぱり、ふろしきづつみと、いとだてをせおひしおとこ、あとのほうをふりかへりて

「ヲヲイ源(げん)九郎義経(よしつね)、ヤアイヤアイ、はやく来さいのはやく来さいの

トよぶこへに、弥次郎北八おかしく、このよしつねとよばるる男をみれば、紺の紋つきのひろそであはせに、これもつつみといとだてをせおひ、かほは大あばたにて少しかたこびんはげたるおとこ

「かめ井せなアや、片岡(かたおか)せなアは、やくと足(あし)が達者(たつしや)だアのし。うらアあくとのあかぎれさアへ、石ころがつつぱいつて、あるかれ申さぬ

かめ井「しづか御ぜんはどふしさつたアのし

よしつね「ヤレさてききなさろ。あとの建場(たてば)で、静御前(しづかごぜん)が持病(ぢびやう)の疝気(せんき)さアおこつたと、金玉ノウつりあげて、うつち(死)ぬべいと、あげへ(西風)こげへ(東風)にさはぎやることよ。それにハア六代御前(ろくだいごぜん)が、牡丹餅(ぼたもち)さア三十べし(斗)もうちくつたげで、食傷(しやくしやう)のウして、じたんばたん、せつながりやる。まんだそれに、弁慶(べんけい)は団子(だんご)のくしさア喉笛(のどぶへ)のウつついたと、涙(なみだ)アこぼしてなきやつたげで、うらが新屋(にいや)の友盛(とももり)どのが、三人のウ介抱(かいほう)して、やらやつとあとからつるんで来申すは。にし(主)たちやア、あに(何)もしらずに、うつぱし(走)つて仕合だアのし

弥次郎このはなしをおかしくあとになりさきになりて

「おめへがたアどけ(何処)へいきなさる

よしつね「お伊勢(いせ)さまへまいり申すは

弥次「さつきからきけば、おめへがたア義経(よしつね)だの、弁慶(べんけい)だのといいなさるが、どふいふこつたね

よしつね「ハアそんたしゆ(其方衆)の聞きやつたらおかしかんべい。コリヤハアわし共が国(くに)さアつん出てくるまへに、祭礼(さいれい)があり申て、千本桜(せんぼんざくら)といふ芝居(しばや)のウ申たから、それでハアよしつねだアの、弁慶だアのと、狂言さアおつぱじめた時、忘れないよふにと、その名をやつぺしいいつけたくせさア。今でもおどけにいふのでおざるは

現代語訳

吉田より御油へ

旅(たび)人をまねく薄(すすき)のほくちかと爰(ここ)もよし田の宿(しゆく)のよねたち

この宿外れから、遠くからの社寺参詣者と見えるが、少し気の利いた口をきく連中が五六人、声高に話して行くのを聞いていると、中でも目引縦縞に、肩の所だけ違った布をあてた、袷を着て、風呂敷包みと糸立のむしろ雨具を背負った男が、後ろの方を振り帰って

「おおい、源九郎義経、やあい早く来い、早く来い」

と呼ぶ声を聞くと、弥次郎北八はおかしくなって、この義経と呼ばれた男を見ると、紺の紋付きの広袖袷に、これも包と糸立を背負い、顔は大あばたで片小鬢も少し禿げている。

「亀井兄貴や、片岡兄貴は、やけに足が達者だあ。おらあ踵のあかぎれさへ、石ころが入り込んで歩かれませぬ」

亀井「静御前はどうしなさった」

義経「まあ、聞いてくんろう。前の建場で、静御前が、持病の疝気が起こったと、金玉吊り上げて、もう死んでしまうわいとあっちこっちと騒ぎまわるのよ。それに六代御前が、ぼたもちを三十ばっかし食ったようで、食当りを起してじたんばたんと苦しがるのよ。まだそれに、弁慶は団子の串で喉をつついたと、涙流して泣いたそうで、おらが別宅の友盛殿が、三人を介抱して、やっとこさ後から連れだってやって来ますわ。主たちは、何を知らずに、突っ走って幸せだあ」

弥次郎兵衛はこの話が面白くて、後になり先になりながら

「おめえがたあ何処へ行きなさる」

義経「お伊勢様へお参りに行きます」

弥次「さっきから聞いていると、おめえがたあ義経だの、弁慶だのと言いなさるが、どういうこったね」

義経「貴方たちが聞かれたらおかしかろうな。これは、わし共が田舎を出て来る前に、お祭りがありまして、千本桜という芝居が催されたんです。それで義経だの、弁慶だのと、狂言をする時、忘れないようにと、その名を何度も言いつけた癖さあね。今でもおどけて言うのですわ」

語句

■「まねく」(薄が秋風に動くさま)が直に「薄」にかかり、「薄の穂」から、吉田名産の「火口」(ほくち。火打石の火をつけるもの。イチビの幹などで作る。『東海道宿村大概帳』に「火口を商ふ家々多し」)に続く、また「まねく」は「よね」(女郎)に応ずる。吉田の女郎は歌にもなって(「吉田通れば二階からひょいと招く、しかも鹿子の振袖が」)東海道の、これまた名物。歌の意は、女郎と火口が吉田の名物だぐらいのこと。■遠国同者-「おんごくどうじゃ」。遠隔の地からの社寺参詣者。ここは東国の田舎からの伊勢参り。■きいたふうしやべる手合-気の利いた口をきく連中。■めひき-汚れた衣服などを、再び染めて、縞模様などはっきり出したもの。■しまがらかはりたるきれをあてたる-労働などによって、肩の部分がいたんだところを別の布で補ったもの。■ひつぱり-略式に着ること。■いとだて-藁や藺を並べて、麻糸で織った筵の一で、旅中の雨具などにした。■ひろそで-広袖。袖の口に縫い合わせの無い製のもの。■かめ井せな、片岡せな-亀井兄貴・片岡兄貴。亀井六郎・片岡八郎は、共に義経の郎党。「せな」は「兄貴」の田舎言葉。■やくと-ここは、甚だしく。やけに。■あくと-かかと。■疝気-男子の病とされる。ここは男性だが静御前(義経の妾)が疝気というが滑稽。■金玉-睾丸。■あげへこげへ-『物類呼称』に「あのようにこのようにといふを、総州にて、あげエへにこげエにへにといふ」。■六代御前-平維盛の子息。「義経千本桜」三段目に登場。■牡丹餅-ぼたもち。■べし-斗。■食傷-食あたり。■せつながりやる-苦しがる。■弁慶-義経の郎党。弁慶は泣かないので有名(浄瑠璃「御所桜堀川夜討」など)なのに、ここでは涙を流すのが滑稽。■新屋-新宅。分家。■友盛-平知盛。「義経千本桜」二段目に、渡海屋銀平として登場。■やらやつと-ようやく。■つるんで-連れだって。■千本桜-浄瑠璃「義経千本桜」。延享四年(1747)十一月竹本座初演。竹田出雲・三好松洛・並木千柳作。歌舞伎にもなって、広く行われた。以上の人物ももちろん登場する。

※一九は浄瑠璃作者の経験があって詳しく、かつ文化元年(1804)刊『風流田舎草紙』で、「忠臣蔵」を利用して、田舎の芝居の滑稽を材としたが、ここはその余流を見せたものである。

■芝居-ここは歌舞伎芝居のこと。次の「狂言」も同意。■やつぺし-やっぱり。

原文

弥次「きこへやした。そんならおめへは義経になつたお方とみへる

よしつね「そふでござる。其まへにわしどもが国さアへ、江戸しばやが来て、天神さまの狂言のウ申たが、ききなさろ、たまげたりくづ(理屈)よ。あにがハア時平(しへい)とやら五兵衛とやらいふ悪(あく)人どのが、讒言(ざんげん)のウせられたげで、天神さまの島(しま)ながしにならしやます時、輿(こし)にのつてお出やると、あにがハア見物(けんぶつ)のウしておる、ばあさまたちもかつ(嬶)さまたちも、ヤレヤレいとぼいこんだと涙(なみだ)アこぼして、御門跡(ごもんぜき)さまの通(とを)らしやますよふに、米(こめ)だアの銭(ぜに)だアのと、舞台(ぶたい)さアへまきちらかいて悲(かな)しがりやる。そこでハア見物の中から、博労(ばくろう)の与五左といふづないふと(無上人)が、舞台さアへ、かけだいていやるにやア、このしばやアならないぞならないぞ。あぜ天神さまア島(しま)ながしにせるのだ。最前(さいぜん)お出やつた、長楽寺(ちやうらくじ)さまのゑんまさまア見るよふな、お公家(くげ)どのが悪(あく)人だア。あにも天神さまに科(とが)アない。いがにしばやだアとつて、ふと(人)を馬鹿(ばか)にしたこんだア。天神さまのしり(尻)やア、此博労(ばくろう)の与五左がもつは、時平(しへい)どのはうらがあいてだと、あにハア、御年貢米(ねんぐまい)の二俵(ひやう)べしも、さし(差)やア(上)げる力(ちから)のあるせな(兄)アだんで、誰(だれ)もうつたまげて、挨拶(あいさつ)のウせるふた(人)アなし、見物もくちやうぐちやうに、与五左どのそふだ。その時平とやらアしよびき出して、ぶつたたけと、あにハア村中の若いふとたちが、楽屋さアへ刎(はね)こんで、らんごくをやるとおもひなさろ。そふせると、ゑど役者の時平どのは、コリヤたまらないと、尻(けつ)のウおつぱしよつて、つんぬげ申た。それからハア名のしどんへ寄合つけて、もふ此村へゑど役者アいれさるなと、談合のウして、わしどもが其跡のしばやさアで、狂言のウおつぱじめ申たが、ゑどしばやよりかア、ぶちわれるほどはやり申た

トいきせいはつてのとはずかたり、じまんらしくはなしもてゆくままに、いつのまにかは、大雲寺にいたる。このところはあまざけのめいぶつなれば、かの人々は打つれて、此ちや屋にやすむ。弥次郎兵へきた八は、いそぎここをうちすぐるとて

いや高き御寺のまへの名物はこれも仏になれしあまざけ

斯(かく)て此あたりより、はや日も傾(かたむ)き、暮(くるる)に近ければ、いざや急(いそが)んとて、草臥(くたびれ)し足(あし)をはやめて、たどり行道すがら

北八「どふだ弥次さん、埒があかねへの

弥次「大きにくたびれた

北八「なんと夕部の泊は中ぐらゐな宿で有ツたが、今夜はこうしやせう。赤坂までわつちがさきへいつて、いい宿をとりやせう。おめへくたびれたなら跡(あと)からしづかに来なせへ。宿から向ひの人を出させておきやせう

現代語訳

弥次「わかりました。そんならおめえは義経になったお方と見える」

義経「そうでござる。その前にわしどもの国さあへ、江戸芝居が来て、天神様の狂言をし申したが、聞きなさろ、たまげた理屈よ。時平とやら五兵衛とやら悪人が、讒言したそうで、天神様が島流しにならしゃった時、輿に乗ってお出になると見物衆の婆様たちも嚊様たちも、お気の毒なこんだと涙を流して、本願寺の御門跡様が通らっしゃるように米だの銭だのと舞台さへ撒き散らかして悲しがるんですわ。それではあ、見物衆の中から博労の与五左という暴れ者が舞台へ駈け出して言いやるには、この芝居は止めろう、止めろう。何故天神様を島流しにするんだ。最前お出やった長楽寺の閻魔さまあ見るようなお公家殿がほんとの悪人だあ。天神様には何も罪は無い。いかに芝居だかとらといって人を馬鹿にしたこんだあ。天神様の後にやあ、この博労がついているわい。時平殿がおいらのけんか相手だあ。と真っ赤になって怒るので、何せはあ、 年貢米を二俵も差し上げる力のある兄貴だもんで、誰もがうったまげて、引き留める人も無し。見物衆も口々に与五左どのそうだそうだと囃したてる。その時平とやらアしょっ引きだしてぶっ叩けと、村中の若い者が楽屋さへ飛び込んで 手当たり次第に乱暴したと思いなさろ。そうすると江戸役者の時平殿は、こりゃあ堪らないと、尻をおっぱしょってちん逃げ申した。それからはあ、名主の家で集会を開いて、もうこの村へは入れなさるなと、相談をして、わし共がその跡の芝居小屋で、狂言をおっ始めた申したが、江戸芝居よりかあ、小屋がやぶれ壊れる程の大入りであった。

と大いにりきんでの話がたり、自慢話に花を咲かせながら行くうちに、いつの間にか、大雲寺に着いた。此処は甘酒が名物なので、その人たちは連れだって、この茶屋で休息をとる。弥次郎兵衛と北八は、ここは急いで通り過ぎるのだと詩を詠む。

いや高き御寺のまへの名物はこれも仏になれしあまざけ

かくてこの辺りから早くも日も傾き、暮れが近付いて来たので、いざや急ごうと、草臥れた足を速めて、辿り行く道すがら

北八「どうだ弥次さん、埒があかねえな」

弥次「たいそう草臥れたわ」

北八「なんと、昨夜の泊は中ぐらいの宿であったが、今夜はこうしやしょう。赤坂までわっちが先へ行って、いい宿をとりやしょう。おめえ草臥れたなら後から静かに来なせえ。宿から迎えの人を出させておきやしょう」

語句

■きこへやした-よくわかった。■江戸しばや-江戸芝居。江戸の役者たちの演ずる芝居の一座。もちろん田舎回りの有名でない連中である。■天神さまの狂言-延享三年八月、竹本座初演の浄瑠璃「菅原伝授手習鑑」(竹田出雲・並木千柳・三好松洛・竹田小出雲作)を、歌舞伎にして演じたこと。「天神さま」即ち菅原道真流謫をめぐる筋。■時平-左大臣藤原時平。悪役である。時平を四兵衛として五兵衛と洒落た。■島ながし-大宰府へ流されることになった。以下は「手習鑑」二段目の場面である。■かつさまたち-女房達。■いとしぼいこんだ-お気の毒なことだ。■くちやうぐちやうに-「口々に」の訛り。■御門跡-門跡とは、普通は皇族や公卿の子弟の入った寺またはその主のことであるが、ここは准門跡であるので、本願寺の法主を、その信徒が尊んで称したもの。地方へ出るとことに信仰厚く、以下の如きも事実であった。■博労-馬の売買をする商人。気荒い職業の一。■づないふと-ここは、甚だ強い人の意。■長楽寺-未詳。でたらめに称したとみてもよい。

※時平の衣冠束帯で、笏を持った姿を、閻魔に見立てたのである。が時平は青い隈取りで、青い閻魔は見たことはない。その間のチグハグのおかしさも、一九は計算しているのである。

■いがに-「いかに」の訛。■しりやア-「しりをもつ」とは後援すること。■御年貢米-年貢(田租)として、お上(かみ)や地主に納める米の俵。四斗俵であろう。■挨拶のウせる-ここは口をきくこと。仲裁するの意。■くちやうぐちやう-「口々」の訛。■楽屋-芝居で役者の溜り部屋。■刎ねこんで-飛び込んで。■らんごく-乱暴狼藉。■名のしどんへ寄合つけて-名主の家で集会を開いて。■いれさるな-入れなさるな。■談合-相談。■ぶちわれるほどははやり申た-小屋がやぶれ壊れる程の大入りであった。■いきせいはつて-息精はって。大いにりきんで。

原文

弥次「それよかろふ。しかし宿はどふでもいいから、たぼのありそうな内にしやれ

きた八「のみこみ山のみこみ山

ト此ところよりかけぬけてさきへ行。弥次郎あとよりたどりゆくに、ほどなく御油のしゆくにいりたるころは、

現代語訳

弥次「それはよかろう。しかし宿はどうでもいいから、飯盛女が居そうな家にしやれ」

北八「わかった、わかった」

と、ここから抜けて先へ行く。弥次郎は後から辿って行くが、まもなく御油の宿に至る。

語句

■たぼ-飯盛女。■のみこみ山-のみこんだ(ぐっと承知したの意)に、洒落て「山」をつけたもの。江戸では早くからの通言の型。「腹がきた山」の類。■御油-三河国宝飯郡の宿駅(今の豊川市御油町)、吉田から二里半四丁。

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朗読・解説:左大臣光永