四編下 宮より桑名へ(海上)
原文
はや日ぐれ前にて、棒鼻より家毎に、客をとどむる出女の声姦し。「あなたがたアおとまりじやおませんか。お湯もちんとわいておます。おあいきやくはおません。おとまりなされませ、おとまりなされませ
弥次「とまりはどこにしよふ。銭屋か、ひやうたん屋か
北八「向ふのうちはなんだ。鍵屋か
女「モシおとまりかな
北八「ヲイ泊りやせう。はたごはいくらだ
女「ヲホホホホホホよふおます。おとまりなさんせ
北「なんだいいとか。ただでとめるか
弥次「むしのいい
トかさをとつてはいる。
やどのていしゆ「おゆをあげうず。おあしがよごれてなけらにや、すぐにおふろへおめしなされませ
トにもつをざしきへはこぶ。此内弥次郎北八もわらじをぬぎ、おくへとをる。女ちやをもち来り
「おちやあがりませ
ざとうのあんま「おりやうぢをなされませぬか
北八「りやうぢもしてへが、マアはらがへつた
弥次「うどんでもくつてきや。ここのめいぶつだ
あんま「さやうならのちに来ませず
ト立て行あとより二三人づれにて、ゆみはりてうちんをともし
「ハイおとまりでおざりますか。是は当駅のおんばこさま、手水鉢の建立、お心ざしをおたのみ申ます
弥次「ハイきた八そけへあげてくりや
北八「是はすこしながら
現代語訳
宮より桑名へ(海上)
早くも日暮れ前で、棒鼻から家ごとに客引きをする出女の声が姦しい。「あなたがたあお泊りじゃおませんか。お湯もちゃんと沸いておます。お相客はおません。お泊りなされませ。お泊りなされませ」
弥次「泊りはどこにしよう。銭屋か、瓢箪屋か」
北八「向うの家は何だ。鍵屋か」
女「もし、お泊りかな」
北八「おい、泊りやしょう。宿賃はいくらだ」
女「おほほほほほほ、ようおます。お泊りなさんせ」
北八「なんだいいのか。ただで泊めるか」
弥次「ずうずうしい」
と笠を取って入る。
宿の亭主「お湯をあげましょう。お足が汚れてなけりゃ、すぐにお風呂をお召しなされませ」
と荷物を座敷へ運ぶ。そのうちに弥次郎北八も草鞋を脱ぎ、奥へ通る。女が茶を持って来る。
「お茶あがりませ」
座頭の按摩「お療治をなされませぬか」
北八「療治もしてえが、まあ、腹が減った」
弥次「うどんでも食って来や。ここの名物だ」
按摩「左様なら後で来ますわ」
と立って行く。その後からニ三人連れで、弓張り提灯を灯し
「はい、お泊りでおざりますか。ここは当駅のおんばこさまで手水鉢の建立のためのお志をお頼み申します」
弥次「はい、北八そこへ上げてくれや」
北八「これは少しながら」
語句
■棒鼻-宿駅の外れで、その宿名の標示杭が立っている所。■出女-留女。街道の宿屋で、旅人の袖を留めて、客を引くために道筋に出しておく女。■ちんと-ちゃんと。■あいきやく-相客。同室に、初めて他人と宿泊すること。またその客。■銭屋-道中記類に、銭谷与兵衛と見える。以下も実在であろう。■はたご-宿泊代。■むしのいい-図々しい。■ざとうのあんま-ここは盲人のあんまの意。■おりやうじ-もみ療治。あんま。■うどんでもくつてきや-名物のうどんを食べて、腹やしないをせよの意。■ゆみはりてうちん-弓張提灯。弓の形の竹や金属の付いたもので、底部の提灯を伸ばして、上部のとめ具にかけて使用する。■おんばこさま-『金鱗九十九之塵』に「姥堂、伝馬町(熱田)の東、裁断橋西詰、南側にあり、優婆の座像、安阿弥作、時宗円福寺末とし、、『熱田旧記』を引いて、溺死の僧の衣類を剥ぎ取った貪欲な老母の罪障消滅のために、三途川の姥の像を安置したものという。■建立、お心ざしを-手水鉢を建立するための寄進を求めた。
原文
トぜに八文出してやると、帳にしるし出て行、入かはりてぼうさまが一人
「ハイわたしは六十六部の石碑をたてます。お心もちしだい、お施主につかつせへて下されませ
弥次「なんだ石塔(せきとう)のせしゆにつけ。いめへましいことをいつている。ソレもつていきなせへ
トおなじく八文ほうり出してやる。人かはりて此うちのていしゆ、ひよつくりかほを出せば
弥次「エエ又八文か。きさまはなんのこんりうだ
ていしゆ「イヤ明日はおふねでおざりますか。又佐屋廻りをなされますか
北八「すぐに爰から舟(ふね)にしやせう
弥次「舟はいいが、おいらアどふも、ふねではなぜか小便をするがこはくて、そしてねつから出ねへにはこまる。七里のるといふもんだから、こらへてはゐられず、どふしたものだろふ。左屋へまはろふか、ノウ北八
ていしゆ「イヤそれにはよいものをあげうず。さやうのおかたには、わたくしがいつも竹のつつをきつてあげますから、それでおせうようなされるがよふおざります
弥次「そんならそれをおたのみ申やす
ていしゆ「ハイハイ、先御ぜんをあげう
トたつて行、此内 女ぜんをもつてやつてくる。ここにてもいろいろあれどもりやくす。やがてぜんもすみたるころ、さきほどのあんまきたり
「だんながたいたしましよかいな
弥次「サアやらかしてくんなせへ
トこれより弥次郎あんまにもませる。このうちとなりざしきにとまり合せし、ごぜふたりが、なぐさみに三味線を出し、いせおんどをうたふこへする。
うた「はなもつくろふあだ人の、うはきも恋(こひ)といはしろの、むすびふくさのときほどきハリサコリヤサよいよいよいよいとなア、ツテチレツテチレ
北八「イヤこいついいこへだ。ナントあんまさん、わしはおどりが上手(じやうず)だ。おめへ目が見へると、あのうたでひとつおどつてみせてへもんだがなア
あんま「わしもすきだがなア、おどらつせるおとをきかアず。ひとつやらつしやらまいか
北八「やるはやろうが、ほめてもらはにやアはりやいがねへから、こうしやせう。わしがおどりしまつた所で、おめへのつむりをちよいとなでよふから、それをきつかけに、やんやアとほめてくんな。よしかよしか、ソレおどるぞ
現代語訳
と銭八文を出してやると、帳に記し出て行く。入れ替わりに坊様が一人
「はい、私は六十六部の石碑を建てます。お心もち次第。施主になってくだされませ」
弥次「何だ、石塔の施主になれと。縁起でもないことを言ってくる。それ、持って行きなせえ」
と同じく八文放り出してやる。入れ代わって、この家の亭主がひょっころ顔を出すと
弥次「ええぃ、又八文か、貴様は何の建立だ」
亭主「いや、明日はお舟でおざりますか。又佐屋廻りをなされますか」
北八「すぐにここから船にしよう」
弥次「舟はいいが、おらあどうも、舟では何故か小便をするのが怖くて、そしてねっから出ねえのにはまいるわい。七里乗るというもんだから、こらえてはおられず、どうしたものだろう。佐屋へ廻ろうか、のう北八」
亭主「いや、それには良い物をあげましょう。そのようなお方には、私がいつも竹の筒を切ってあげますから、それで小用なされるのがようおざります」
弥次「そんならそれをお頼み申しやす」
亭主「はいはい、先に御前をあげましょう」
と立って行くと、そのうちに女が夕餉の膳を運んでやってくる。ここでもいろいろあったが略す。やがて膳も済んだころ、先ほどの按摩がやって来た。
「旦那方肩を揉みましょうかいな」
弥次「さあ、やらかしてくんなせえ」
とこれより弥次郎は按摩に揉ませる。そのうちに、隣座敷に泊り合せた、ごぜ二人が、なぐさみに三味線を出し、伊勢音頭を唄う声がする。
唄「はなもつくろふあだ人の、うはきも恋(こひ)といはしろの、むすびふくさのときほどきハリサコリヤサよいよいよいよいとなア、ツテチレツテチレ」
北八「いや、こいつはいい声だ。なんと按摩さん、わしは踊りが上手だ。おめえ目が見えるなら、あの唄でひとつ踊って見せてえもんだがなあ」
按摩「わしも好きだがなあ、踊らっしゃる音を聞きましょうよ。ひとつ、踊らっしゃらまいか」
北八「踊りは踊りましょうが、褒めてもらわにゃあ張り合いがねえから、こうしやしょう。わしが踊り終わったところで、おめえの頭をちょいと撫でようから、それをきっかけに、やんやああと褒めてくんな。良しか、良しか、それ躍るぞ」
語句
■帳-奉加帳。■六十六部の石碑-六十六部の途中で没した人の墓石であろうか。それとも、あいまいな事で銭を集めたのであろうか。■お施主につかつせへて下されませ-寄進者になってください。■佐屋廻り-熱田から陸路、尾張国海部郡佐屋へ行き、それから木曽川を水路桑名に至る路。『諸国道中記』に「みや二り半、まんば一り半九丁、かもり一り廿七丁、さやよりくわなへ三り川舟」。■七里のる-宮から桑名まで海上七里の船渡し。ただし宮及び佐屋から四日市までの船(海上十里)もあった。■竹のつつを-以下海上の滑稽の伏線。これは貫筒(かんづつ)の略式のもの。■おせうよう-小用。小便。■いたしましよかいな-肩を揉みましょうか。■ごぜ-瞽女。門付け芸をもって地方を遊行する盲女の称。これらは瞽女屋敷なる頭(かしら)をもつ仲間を作り、段級や、遊行の土地も定まっていた。東海道筋では、沼津・駿府・金谷・西尾などに屋敷があった。瞽女は連れをなして行動した。(加藤康明『日本盲人社会史研究』)。■帳-奉加帳。■六十六部の石碑-六十六部の途中で没した人の墓石であろうか。それとも、あいまいな事で銭を集めたのであろうか。■お施主につかつせへて下されませ-寄進者になってください。■いせおんど-伊勢音頭。伊勢河崎から流行しだした音頭の一。俳人梅路らが詩章をを作り、御師の奥山桃雲らが節付けした。集に『二見真砂』がある(高野辰之『日本歌謡史』など)。■はなもつくろふ~-後の天保年間の富本節「浪葩准朝妻(なみのはなみたてのあさづま)」の一部に入っている。岩代の結松を、茶道の結袱紗に続けている修辞。
原文
となりのうた「とけぬおもひはふたつ箱(ばこ)みつよついつもとまり舟、それがくがいのゆきちがひハリサコリヤサ
ト三味せんにあはせて北八手をたたきをどるまねをして
北八「よいよいよいよいやさア
トおどりしまい、ざとうのあたまをちよいとあしにてなでると
あんま「ヤンヤアゑらいゑらいハハハハハ
北八「なんとおもしろかろふ。もひとつやろふか
又
となりのうた「さす手ひく手にわしやどこまでも、浪のうきねの梶まくら
北八「よいよいよいよいやなア
ト又あしにてざとうのあたまをなでる
あんま「ヤンヤヤンヤ
北八「ハハハハハハおもしろへおもしろへ
ト此うちやどのおんな「おゆにおめしなされませ
北八「弥次さんもふしめへか。しめへなら湯にいりなせへ。あんまさんが、おどりをほめてくれたかはりに、是からわつちももんでもらをふ
弥次「ドレそんならはいつてこよふ
ト弥次郎はゆに入に行。あとにてあんまは、北八をもみにかかり
あんま「ときに旦那がたは、ちと当宿のおつるでもおよびなされ
北八「イヤそれよりかア となりの三味はここの娘か。何人だの
あんま「あれはニ三日まへから、ここの内にとまつてゐる、瞽女(ごぜ)でおますが、よいこへだなもし。しかしまんだ、わしがじんくを、旦那がたへきかせたい
北八「コリヤよかろふ。やらかしねへ
あんま「そのかはり、わしもほめてがなけらにや、はりあいがない。うたひしまつたら、だんなほめて下さるかな
現代語訳
隣の唄「解けぬ想いは二つ箱三つ四つ五つも泊り舟、それが苦界の行き違いハリサコリヤサ」
と三味線に合せて北八は手を叩き、踊る真似をして
北八「よいよいよいよいやさア」
と踊り終わり、座頭の頭をちょいと足で撫でると
按摩「ヤンヤアゑらいゑらいハハハハハ」
北八「なんと面白かろう。もひとつ踊ろうか」
又
隣の唄「さす手ひく手にわしやどこまでも、浪のうきねの梶まくら」
北八「よいよいよいよいやなア」
と又足で座頭の頭を撫でる。
按摩「ヤンヤヤンヤ」
北八「はははははは、面しれえ面しれえ」
とそうしているうちに
宿の女「お湯をお召しなされませ」
北八「弥次さん、もう終(しめ)えか。終へなら湯に入りなせえ。按摩さんが踊りを褒めてくれた代りに、これからわっちも揉んでもらおう」
弥次「どれ、そんなら入ってこよう」
と弥次郎は湯には入りに行く。後に残った按摩は、北八を揉みにかかり、
按摩「時に旦那方は、とち当宿のおつる女郎でも呼びなされ」
北八「いや、それよりか、隣の三味はここの娘か。何者だね」
按摩「あれはニ三日前から、この家に泊まっている瞽女でおますが、いい声だなもし。しかしまだ、わしの甚句を、旦那方へ聞かせたい」
北八「こりゃよかろう。やらかしねえ」
按摩「その代り、わしも褒め手がなけらにゃ、張り合いが無い。唄い終わったら、旦那褒めて下さるかな」
語句
■とけぬおもひは~-同じく「浪葩准朝妻」の一部に入っている。ただし第一句「とけた思ひは」。このほうが、苦界の恋のやるせない意が出ている。■あしにてなでると-このところは、聾の太郎冠者と座頭の菊市が、一緒に留守番をして、相手をからかう狂言「聾座頭」によった趣向。足で撫でられる菊市は按摩、罵られる太郎冠者が北八に当る。■さす手ひく手-「さす手ひく手」舞の手であるが、ここは浪のさし引きにかかり、往来の客を意味し、「梶まくら」は船中の旅寝の意であるが、浮川竹の勤め女を意味する。■おつる-鳴海の駅の飯盛の称。遊女。■何人だの-「なにびと」と呼ぶ。■じんく-甚句。俗謡の一。諸方に「甚句」と称される短詩型で、民謡調を存したものが存在し、中には越後甚句(米山甚句)のごとく、中央まで流行したものもある。
原文
北八「ヲツトしやうちしやうち
あんま「ドレやりからかさふ
ト北八がつむりをもみながら ひやうしをとりてあたまをぴしやぴしや
あんま「ジヤンジヤンジヤンジヤンエエエエエエよふたよたよた五しやくの酒に、壱合のんだらさままたよかろ
トうたひさして北八がみみのなかへぐつとゆびをつつこみ
こいつがさいぜん、われらがあたまを、あしげにひろいだ はつつけやろうめ。かつたいやろうめ。うぬがよなやろうは、ろくではゆくまい。あげくのはてには、くびでもつるじやろ
トいいさして、耳のあなよりゆびをぬけば、みみはポンとなる
あんま「やとせのさやとせのさ
北八みみのあなをふさがれて、うぬがことを、わるくいはれてたをもしらず
北八「ヤンヤヤンヤ
あんま「ジヤジジヤンジヤジジヤン
トひようしにかかつて、きた八があたまをぴしやぴしやとたたく、北八かほをしかめて
「おもしれへおもしれへ
あんま「もひとつやろかいな
北八「イヤもう御めんだ。あたまがたまらぬ
あんま「ハハハハハハゑろふおもしろかつた
此内弥次郎、ふろよりあがり、このよふすをちらと見て
弥次「おしやう、もつとやらかしねへ
北八「イヤおいらはもふ、湯にはいつてこよふ。あんまさんもふいいによ
トいいすててふろばへ行。あんまはいとまごひしてかへると、うちの女、とこをとりに来り、ふとんをしきてかつてへ行。弥次郎ははや、そのままねかける。此内北八もふろばよりかへりて
現代語訳
北八「おっと、承知、承知」
按摩「どれ、やらかしましょうか」
と北八の頭を揉みながら、拍子を取って頭をぴしゃぴしゃたたく。
按摩「じゃんじゃんじゃんじゃん、えええええ、酔うたよたよた五勺の酒に、一合飲んだらそりゃまたよかろ」
と唄う途中から聞えぬように北八の耳の中へぐっと指を突っ込み、
「こいつが最前、我らが頭を足蹴にした。磔(はりつけ)野郎め。癩(かったい)野郎め。うぬがような野郎は、ろくな生活はできまい。最後には首でも吊って死ぬじゃろう」
と言い終って、耳の穴から指を抜くと、耳がポン鳴る。
按摩「やとせのさやとせのさ」
北八は耳の穴を塞がれて、自分の事を悪く言われたとも知らず、
北八「やんややんや」
按摩「じゃじゃんじゃじやじゃん」
と拍子をとって北八の頭をぴしゃぴしゃ叩くと、北八は顔をしかめて、
「面しれえ面しれえ」
按摩「もひとつやろかいな」
北八「いや、もう御免だ。頭がたまらぬ」
按摩「はははははは、えろう面白かった」
そのうちに弥次郎が風呂から上がりこの様子をちらっと見て、
弥次「和尚、もっとやらかしねえ」
北八「いや、おいらはもう、湯に入ってこよう。按摩さんもういいよ」
と言い捨てて風呂場へ行く。按摩は暇乞いして帰ると、宿の女が床を取りに来て、蒲団を敷いて帰って行く。弥次郎は早くも、そのまま寝かける。そのうちに北八も風呂場から帰って来て
語句
■よふたよたよた~-常磐津「信田妻容影中富(しのだづますがたのなかとみ)」(寛政五年)のうちに、「足もしどろの越後節、酔ふた酔ふた五勺の酒に、一合のんだら、さまなぢよであろ」とあって、越後甚句である。中間の「さま」ははやし詞。■ひろいだ-「する」の意を罵って言う語。■はりつけやろう-磔(はりつけ)野郎。人を罵る語。■かったいやろう-癩(かったい)野郎。ハンセン病患者の事。これも当時の人を罵る語。■ろくではゆくまい-満足に生活はできまい。■あげくのはてには、くびでもつるじやろ-最後には、首を括って死ぬだろう。■おしやう-和尚。江戸の通人などが、僧侶ではなくて坊主頭の者、例えば医者のごときを、気取って呼ぶ語。
原文
「ヲヤ弥次さんもふねかけたの。ときにおめへ、となりざしきのしろものを見たか。とんだうつくしい瞽女だ
弥次「ごぜなら目があるめへ
北八「目はねへがまんざらじやアねへ。今湯からあがつてくるとき、ひとりのごぜめが、手水場にまごついてゐたから、小あたりにあたつておいた、なかなかやぼでねへしろ物よ
弥次「ドレドレ
トはひおきてのり出し、ふすまの間からさしのぞき
「ハハアうしろすがたはなかなかいきなふうぞくだ コリヤアこのままではおかれぬはへ
北八「イヤそふはならぬ
トいいつつよぎを引かぶり、心のうちには、おのれ今にはひかけちゃろうと、わざとねるふりにて、よこになるとじきにそらいびきをかく。此内となりざしきもひそまり、ふたりのござもねたよふす、夜もしんしんとふけわたり、後夜のかね
「ゴヲンゴヲン
弥次郎、そつとおきあがり見れば、きた八はほんとうにねいりしよふす。してやつたりと、そろそろはひかけ、ふすまをそつとあけて、となりざしきへはいり見れば、ごぜふたりはぜんごもしらずねいりばな、弥次郎ごぜのふところへ、はいらんとせしに、さすがは目のみへぬものとて、用心きびしく、ふろしきづつみを、両手にしつかりかかへてねているゆへ、これがじやまになりて、はいりにくく、弥次郎そろそろ此ふろしきづつみを、とりのけよふとすると、ごぜめをさまし、かた手につつみをかかへ、かた手にて弥次郎が手をぐつととらへて
ごぜ「ぬす人よぬす人よ、おやどのしゆおやどのしゆ
トわめきちらされ、弥次郎は、あてがちがひ、じゆばんひとつのこのなりを、見つけられてはごうさらしと、ごぜが手をたたきはなして、そうそうにこなたのざしきへかへり、よぎをかぶり、そしらぬふりしてねている。北八はとくより目をさまし、くつくつとわらつてゐると、此うち、かつ手より、ていしゆかけつけて
「ごぜさまどふさせへました
ごぜ「わしが此かかへてゐるつつみを、いんまだれやらとろふとしおりました。雨戸でもあいてあるか、見てくれなされ
ていしゆ「イヤどこもあいてはゐおりませぬ
現代語訳
「おや、弥次さん、もう寝かけたの。時にお前(めえ)、隣座敷の女を見たか。とてつもなく美しい瞽女だ」
弥次「瞽女なら目は見えめえ」
北八「目は見えねえが満更じゃねえ。今湯から上がって来る時、一人の瞽女が、手水場でまごついていたから、ちょっとあたっておいた。なかなかの気があるような女よ」
弥次「どれどれ」
と這い起きて乗り出し、襖の間から覗いて、
「ははあ、後姿はなかなか粋な風俗だ。こりゃあ、このままではおかれねわ」
北八「いや、そうはならぬ」
と言いつつ夜着を引き被り、心の中では、おのれ今に夜這いをしかけてやろうと、わざと寝るふりをして、横になるとすぐに空鼾をかく。そのうちに隣座敷も静かになり、二人の瞽女も寝た様子である。夜もしんしんと更け渡り、後夜の鐘が鳴り響く。
「ごおんごおん」
弥次郎がそっと起き上がって見ると、北八は本当に熟睡した様子である。してやったりと、そろそろと這いかけ、襖をそっと開けて、隣座敷へ入って見ると、瞽女二人は前後不覚の寝入りばなである。弥次郎は瞽女の懐へ、入ろうとしたが、さすがに目が見えぬ者として、用心深く、風呂敷包みを、両手にしっかり抱えて寝ているので、これが邪魔になって、入りにくく、弥次郎はそろそろとこの風呂敷包みを取り退けようとすると、瞽女が目を覚まし、片手に包みを抱え、片手で弥次郎の手をぐっと掴んで、
瞽女「盗人(ぬすっと)よ、盗人よ。お宿の衆、お屋戸の衆」
と喚き散らされ、弥次郎は当てが外れ、襦袢一つの格好でいるのを見つけられては恥さらしだと、瞽女の手を叩き、放して、早々に自分の座敷に帰って夜着を被り、そ知らぬ振りをして寝ている。北八は早くから目を覚ましており、くっくっと笑っていると、そのうちに、勝手から亭主が駈けつけて来て
「瞽女さまどうなさいました」
瞽女「わしがここに抱えている包を今誰やらが取ろうとしおりました。雨戸でも開いているか、見てくれなされ」
亭主「いや、何処も開いてはおりませぬ」
語句
■しろもの-ここは女性をさす。■まごついてゐた-瞽女だから、うろうろしているさま。■小あたりにあたつておいた-意の有無しを、ちょっとうかがってみた。■やぼでねへ-情がわかる様子がある意。■いきな-洗練されている。■はひかけてやろう-夜這いを試みよう。■後夜のかね-仏教では一日を六つにわけて、最朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜とし、六時という。その夜半から朝までの間。その後夜の定まった時に撞く鐘。後夜の初めに撞けば午前二時頃となる。■ねいりばな-熟睡した時。
原文
ごぜ「それでもいんまの盗人(ぬすびと)は、どこから来おりましたろうな
ていしゆ「ハハアふすまがあいてある。モシモシおとなりのおきやくさまがた。およつてござらつせるか
弥次「アアウウムニヤムニヤ
ていしゆ「ハハアここにおちてあるはなんじや。イヤふんどしじやそふな。モシおきやくさまがた、これはあなたがたのではおざりませんか
ト大きなこへするに、弥次郎ははつとおもひ そつとあたまをあげて見れば、わがふんどしが、ごぜのまくらもとから、しきゐごしに、わがまくらもとまで、ながくなつておちているゆへ、おかしさもおかしく、さすがおれがのだともいわれず、もじもじしていると、きた八わざといぢわるくおきあがり
「なんだへそうぞうしい。ふんどしがおちてあるとは、ドレドレそれか。コリヤア弥次さん、おめへのふんどしじやアねへか
弥次「エエなさけないことをぬかしやアがる
トきた八がよぎのそでをひく。ていしゆもさてはとしゃうちして、こころのうちにおかしく、思ひながら
「イヤもふ旅の事でおざりますから、おたがひにお気をつけて、御用心なさるがよい。ごぜさまもふお休みなされ
ごぜ「きみがわるくてねつかれませぬ。よふしめていつて下さりませ
ていしゆ「さやうなら
トそこらをたてまはして出て行 弥次郎そつと手をのばして、ふんどしをたぐりよせる。きた八おかしく、ふきいだしながら
瞽女どのにおもひこみしは是もまた恋に目のなき人にこそあれ
すでに夜もいたく更(ふけ)わたれば、みなみなやうやく一すいの夢をむすぶ。あかつきの風樹木をならし、浪のおと枕にひびきて、つきいだす鐘におどろき、目ざめてみれば、はや明方の烏(からす)「カアカア
馬のいななき「ヒインヒイン
長もち人足のうた「さかはなアてるてるナアエ、すずかはくもるナアンアエ どつこいどつこい
出ふねをよぶこへ「ふねが出るヤアイ出るヤアイ
此ときやどやの女おこしにきたり「モシいんま壱番ぶねでおます。御ぜんをあげましよ
弥次「ヲイヲイ北八サアおきや
トふたりはおき出て、手水つかふ内ぜんも出、くひしまひ、かれこれするうちやどのていしゆ
現代語訳
瞽女「それでも今の盗人は、何処から来おりましたろうな」
亭主「ははあ、襖が開いている。もしもし、お隣のお客様方、お休みになっていますか」
弥次「ああ、ううむ、むにゃむにゃ」
亭主「ははあ、ここに落ちているのは何じゃ。いやぁ、褌じゃそうな。もし、お客様方、これは貴方がたのではありませんか」
と大声を出すので、弥次郎ははっと思い、頭を上げて見ると、自分の褌が、瞽女の枕元から敷居越しに自分の枕元まで、長くなって落ちているので、可笑しさも可笑しく、さすがに自分のものだとは言いだせずに、もじもじしていると、北八がわざと意地悪く起き上がり
「何だえ、騒々しい。褌が落ちているとはどれどれ、それか。こりゃあ弥次さん、おめえの褌じゃあねえか」
弥次「なんと情ないことを抜かしやぁがる」
と北八の夜着の袖を引っ張る。亭主もさてはと合点して、心の中で可笑しく思いながら
「いや、もう旅の事でおざりますから、お互いにお気をつけて、御用心なさるがよい。瞽女様もうお休みなされ」
瞽女「気味が悪くて寝付かれませぬ。よく閉めていって下さりませ」
亭主「さようなら」
とそこらを整理し直して出て行く。弥次郎はそっと手を伸ばして、褌を手繰り寄せる。北八は可笑しくなり、吹き出しながら
瞽女どのにおもひこみしは是もまた恋に目のなき人にこそあれ
すでに夜もたいそう更けてきており、皆々ようやくひと寝入りする。明け方の風が樹木を鳴らし、波の音が枕に響いて、突き出す鐘の音に驚き、目覚めて見ると、早くも明け方の烏の声がする。
「かあかあ」
また、馬も嘶く。
「ひいんひいん」
「さかはなアてるてるナアエ、すずかはくもるナアンアエ どつこいどつこい」と人足の唄も聞えて来る。
「舟がでるぞう、舟が出るぞう」と船が出ることを知らせる声がする。
弥次「おいおい、北八、さあ起きや」
と二人が起き出して、手水を使ううちに朝餉の膳も出て、食い終わり、あれこれしているうちに宿屋の亭主
語句
■およつてござらつせるか-おやすみになっていますか。■しきゐごしに-敷居越しに。敷居の上を通って。■ふきいだしながら-こらえかねて、笑いだすこと。■瞽女どのに~-
「目のない」は「瞽女」の縁で、意は「甚だ好む」、瞽女にまでも執心して、夜這いを試みたのは、これもまた色事に目のない、すきなお人だの歌意。■一すいの夢をむすぶ-ひと寝入りする。■浪のおと枕にひびきて-渡し場に近い宿なることを示す。『東海道宿村大概帳』によれば宮の町は、「東海道之方築出町端入口より、渡海路船場迄、宿往還長拾壱町拾五間五尺」。■つきいだす鐘-明け六ツ(午前六時頃)の鐘である。■長もち人足のうた-もと道中の長持を運ぶ時の唄。後には道中雲助の唄と混じる。■さかはなアてるてるナアエ~-馬士唄として有名なもの。■壱番ぶね-桑名へ朝一番に出る船。
原文
「おしたくはよふおざりますか。舟場へご案内いたしましよ
北八「それは御苦労サア弥次さん、出かけやせう
トそこそこにしたくして、おもての方へ出かける。やどの女ぼう おんな
「御きげんよふ。又おくだりに
弥次「アイおせはになりやした
トいとまごひしてふなばへ行、ていしゆここまでおくり来り
「せんどうしゆ、おふたりさまじや、たのみますぞ
弥次「ときにわすれた。御ていしゆさん。夕部おやくそくのかの小便(せうべん)の竹のつつは
ていしゆ「ホンニちんときらしておきましたに、ドリヤ取(と)てまいりましよかい
トていしゆかの竹のつつをとりにかへる。此わたし船 七里のかいしやう、一人まへ四十五文づつ、其外駄荷のりものみなそれぞれにちんせんをはらひ、ふねにのる。此ときていしゆ、竹のつつをとつて来り
「サアサアお客さま、そこへなげますぞ
北八「なんだ火吹竹(ひふきだけ)か
弥次「これをあてがつてナ、とやらかすのだ。よしよし。イヤ御ていしゆさん、大きにおせは。サア是で大丈夫だ。ハハハハハハ
おのづから祈(いの)らずとても神(かみ)ゐます宮(みや)のわたしは浪風(なみかぜ)もなし
かく祝しければ、乗合みなみないさみたち、やがて舟を乗出して、順風に帆をあげ、海上をはしること矢のごとく、されで浪たひらかなれば、船中思ひ思ひの雑談に、あごのかけがねもはづるるばかり、声高(かうしやう)に笑ひののしり行ほどに、あきなひ舟、いくそうとなく漕(こぎ)ちがひて
「酒のまつせんかいな。めいぶつかばやきのやきたて、だんごよいかな。ならづけでめしくはつせんっかいなくはつせんかいな
弥次「アアよくねたは。いつのまにやらごうぎに来たぞ、時に小便(せうべん)もるよふだ
トやどやのていしゆがくれたる竹のつつをいだし、ここでこそと、まへにあてがひ小べんをする。此竹のつつは、火ふきだけのごとく、さきのほうにあなをあけたるなれば、ふねのふちにもたせかけて、せうべんをするつもりの所、弥次郎の心には、あなのあいてあるには心づかず、しゆびんのよふにおもひ、竹のつつへせうべんをしこみて、あとでうちあける事とこころへ、ふねの中にて、すぐに竹のつつへしこみければ、さきのあなより、せうべんがながれ出て、せんちうせうべんだらけとなり、のり合みなみなきもをつぶし
現代語訳
「お支度はようおざりますか。船着場へご案内いたしましょ」
北八「それは御苦労。さあ、弥次さん、出かけやしょう」
とそこそこに支度して、表の方へ出かける。宿の女
「ごきげんよう。又、江戸へお帰りの時に」
弥次「あい、お世話になりやした」
と暇乞いをして舟着場へ行く。亭主はここまで送って来て、
「船頭衆、お二人様じゃ、頼みますぞ」
弥次「時に忘れ物をした。御亭主さん、昨夜お約束の小便の竹の筒は」
亭主「ほんに、ちゃんと切らせて用意しておきましたに、どりゃ、取ってまいりましょうかい」
と亭主は約束の竹の筒を取りに帰る。この渡し舟は七里の海を渡り、一人前、船賃四十五文づつである。その他の荷駄、乗物はそれぞれに賃銭を払い、船に乗る。この時、亭主がかの竹の筒を取って帰って来た。
「さあさあ、お客様、そこへ投げますぞ」
北八「なんだ。火吹竹か」
弥次「これを当てがってな、とやらかすんだ。よしよし。いや御亭主さん、大きにお世話。さあ、これで大丈夫だ。はははははは」
おのづから祈(いの)らずとても神(かみ)ゐます宮(みや)のわたしは浪風(なみかぜ)もなし
やがて船は順風に帆を上げて七里の海上を矢の如く走る。そのうえ、波は静かで、船中では思い思いの雑談に、頤が外れんばかりに語りあっている。声高に笑い騒ぎながら行くと、商売人の舟が何艘も漕ぎ交して
「酒を飲まんかいな、名物蒲焼の焼き立て、団子は良いかな。奈良漬で飯を食わっせい、食わっせい」
弥次「ああ、良く寝たわ。いつのまにやら、えらく突っ走ってしまった。時に小便が漏れそうだ」
と宿屋の亭主がくれた竹筒を取り出し、ここでこそと、前にあてがい小便をする。この竹の筒は、火吹竹のように、先の方に穴をあけてあり、船の縁に持たせかけて、小便をすべきところを、弥次郎の気持ちの中では、穴が開いているのに気付かず、しびんのように思い、竹の筒中へ小便をして、後で捨てるものだと勘違いをして、船の中で、すぐに竹の中に小便をすると、先の穴から、小便が流れ出て、船中小便だらけになり、乗合の舟客は皆、驚いて、
語句
■おくだりに-江戸へお帰りの時に。■ふなば-『大概帳』によると、「熱田船着場、一石垣、長七拾間、高三間」。「宿内海辺築地町船高札場壱ケ所、船会所壱ケ所之有、右船役人、船年寄五人、帳付四人、船肝煎四人、小使六人之有、何れも隔日に割合、日々会所江相詰る」。広重の行書東海道、隷書東海道に、この所の図がある。■ちんときらしておきました-ちゃんと切らせて用意しておいた。■かいしやう-「かいしやう」は「海上」、澄んで読む。■四十五文づつ云々-『早見道中記』(一九序)に「のり合一人四十五文、のり物一てうは六人まへ、駕篭四人まへ、荷一駄三人前、のり下二人まへ、はさみ箱一人前也」また「荷一駄百三十文、馬一疋百三十四文、人足五十四文」と見える。■火吹竹-この言葉で「火吹竹」のようなものと知れる。『道具字引図解』二に「火吹竹は、火を起す器也、末(こまかく)細く穴あり」。■これをあてがつてナ、とやらかすのだ-これは小便する仕方をしてみせる言葉である。■おのづから~-「心だに誠の道にかなひけなば、祈らずとても神や守らん」(謡曲「班女」などに見える古歌)を利用して、宮の渡しは、ちゃんと熱田の神が自らついている。浪風なくとも平穏な保証つきだの意。■あごのかけがねもはづるるばかり-大笑いをすることをいう。■笑ひののしり-ひどく笑うの意。■かばやき-鰻の蒲焼。鰻は熱田の名物(尾陽産物志、東海道宿村大概帳)。■ならづけ-奈良漬。■竹のつつ-享和二年(1802)刊、一九の「旅眼石」に、公卿が儀式の時、使用するためにする貫筒を、知らないでこれに酒をたくわえ、人に飲ませた滑稽を述べて、「東都にても、青き竹を火吹竹ほどに切はべりて、国の守などの使用にもたせ給ふ事はべるよし、慥なる方にて聞はべりし」と、ある人の説明の中にある。これも実否は不明ながら、これらから案を得たものであろう。この貫筒はまた、この後も一九は膝栗毛物にたびたび使用した趣向である。■しびん-溲瓶。しびん。老人・病人などが、寝具の近くで、小便をとる瓶。陶製で取っ手などがつく。■どびん-土瓶。■どふしたものだ-困ったことをしてくれる。どうしたからか。■しこむ-小便を出して入れる。
原文
「コリヤコリヤなんじやいな。水がゑろうながれる
のり合「たれかどびんをうちこかいたそふな。ソレソレたばこ入も紙入もびつしよりじや。コリヤたまらんは。ヤアおまへ小便(せうべん)じやな
トとがめられて、弥次郎竹のつつをかくし所にうろたへて、まごまごする
北八「エエ弥次さん、どふしたものだ。おめへ小便をするなら、そけへあがつて、竹のつつのさきのほうを、海へ出してしこむのだはな。めつそふな。船の中がせうべんだらけになつた。エエきたねへきたねへ
弥次「おれはまたここでしこんで 、あとでぶちまけるのかとおもつた
のり合「イヤはやとほうもない。コリヤアくさくてならんはい。船頭衆船頭衆、もふしきものは外にはないか
せんどう「だれじゃぞい。せうべんをしたのは 舟玉さまがけがれる。はやうコレふかつせいな
北八「エエ気のきかねへ人だ
せんどう「エエソレ、まだ竹のつつからおちる。それもほかしてしまわつせへな
弥次「イヤこれはそつちへやろふ。火吹竹になろふから
北八「エエおめへが小便したものを、ナニ火ふきだけになるもんだ。はやくふきなせへ。らちのあかぬ
トいぢめられて、弥次郎ふんどしをはづし、そこらをふくうち、北八はうすべりをひつくりかへしてしきなをし
「サアサア是でいい。どなたもおすはりなせへ
弥次「コリヤみなさま御めんなせへ。とんだばんくるはせをいたしやした
トついにないしょげかへりて、そこらとりかたづける。のり合みなみなにがわらひして だんまりでゐる。此内はやくも舟はくわなのきしにいたる
のり合「来たぞ来たぞ。小便にこそぬれたれ、舟はつつがなく桑名へきた。めでたいめでたい
トみなみなこれよりあがりて此しゆくによろこびの酒くみかはしぬ
東海道中 膝栗毛四編 下終
現代語訳
「こりゃこりゃ何じゃいな。水がえろう流れとる」
乗合「誰か土瓶をぶっ壊したそうな。それそれ、煙草入れも紙入れもびっしょりじゃ。こりゃたまらんわ。やあ、お前、こりゃ小便の匂いじゃな」
と咎められて、弥次郎は竹の筒の隠し所に困り、うろたえる。
北八「ええい、弥次さん、どうしたんだ。おめえ小便するなら、其処(そけ)へ上って竹筒の先の方を、海へ出して仕込むのだわな。とんでもねえ。船の中が小便だらけになった。ええい。きたねえ、きたねえ」
弥次「俺はまたここで仕込んで後でぶちまけるのかと思ったよ」
乗合「いやはやとほうもないことだ。こりゃあ臭くてならんわい。船頭衆、船頭衆、もう敷物は外にはないか」
船頭「誰じゃぞい。小便をしたのは、舟玉様が汚れる。早うこれを拭きなされ」
北八「ええぃ、気の利かねえ人だ」
船頭「ええっ、それ、まだ竹の筒から落ちる。それも捨ててしまわっせえな」
弥次「いや、これはそっちへやろう。火吹竹になろうから」
北八「ええぃ、お前(めえ)が小便したものを、なんで、火吹竹になるもんだ。早く拭きなせえ。埒のあかねえ」
といじめられ、弥次郎は褌を外し、そこらを拭く。北八は薄べりをひっくり返して敷き直し
「さあさあこれでいい。どなたもお座りなせえ」
弥次「こりゃあ、皆さま御免なせえ。とんだばんくるわせを致しやした」
といつにない悄気かえりようで、そこらを取り片付ける。乗合客は皆々苦笑いして、だんまりを決め込んでいる。そのうちに、はやくも舟は桑名の岸に到着する。
乗客「着いたぞ、着いたぞ。小便には濡れたが、舟はつつがなく桑名に来た。目出度い、目出度い」
と皆々これより陸へ上り、この宿で喜びの酒を酌み交わした。
東海道中 膝栗毛四編 下終
語句
■めつそふな-とんでもない。■舟玉さま-船中に祀る、海上安全の神。改まって祀らずとも、それぞれの船には、船玉がついているものとして、汚れたことを忌む習慣があった。■ばんくるわせ-予想もしない出来事。■ついにない-いつもには似合わぬ。■くわな-伊勢国桑名郡の宿駅(今の桑名市)。宮より海上七里、佐屋との間は川路三里。
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