五編序
原文
膝栗毛五編序
歌人(かじん)は居(ゐ)ながら名所(めいしよ)をしり、雅人(がじん)は行(ゆき)て名所(めいしよ)を探(さぐ)る。今年五篇目(ことしごへんめ)の膝栗毛(ひざくりげ)を十編舎(ぺんしや)の主(しゆ)人、心(こころ)の手綱(たづな)をかいくりかいくりくりかけ見れば、伊勢(いせ)の海千尋(うみちひろ)の浜(はま)に深(ふか)くうがちて 洒落(しやれ)を花なる貝尽(かひづく)し、古跡(こせき)を温(たづね)て新(あたら)しき、趣向(しゆかう)を見する筆(ふで)のすさみに、予(よ)も寝(ね)ながら名所(めいしよ)をしり馬(むま)、はねる顔(かほ)にて序(じよ)すること、是作者(これさくしや)の需(もとめ)に応(おふ)じてとはうその皮(かは)、もとめもせぬに筆(ふで)を採(とり)しは、跡(あと)の一杯(ぱい)がすぎ田(た)のむめの、香(か)にひかれたるうかれ心(ごころ)、これも亦余慶(またよけい)の仕事(しごと)と謂(いわ)ん歟
文化丙寅春
亀山人蘭衣誌
現代語訳
膝栗毛五編序
歌読みは、居ながらにして名所を知り、雅人は行って名所を探る。今年五編目の膝栗毛を十辺舎の主人、手綱を締めつ緩めつして心を込めて書いてみたが、伊勢ノ海千尋の浜を遠回りして、洒落を花とする貝合せ、古跡を尋ねて新しい趣向を見せる筆の荒れに、私も寝ながら名所を知り、馬が跳ねるような顔で、この序文を書くのは、是即ち作者の求めに応じてとは嘘の皮、求めもしないのに筆を取ったのは、後の一杯が過ぎたときの娘の香に引かれた浮れ心で、これも又余計な仕事と言うのであろうか。
文化丙寅春
亀山人蘭衣誌
語句
■歌人~-『平家物語』巻九や『毛吹草』などに見える諺。歌人のまだ見ぬ名所を詠じ出す巧みをいったもの。■雅人~-「歌人」との語呂合せ。風流人。当時名所探訪の流行した世相をいう。■五篇目-下の十辺舎(わざわざ十編舎と書いた)に応じる。■十篇舎-一九も寛政頃には『十編舎戯作種本』(寛政十年)などのごとく、「遍」の字を書いたこともある。■手綱を-「膝栗毛」の縁で、手綱をしめつゆるめつして、馬の足を進める語を用いたが、心をひきしめて著作する意。■千尋の浜-歌枕。伊勢から志摩にかけての海辺を言う。「伊勢の海」は序詞で、合せて、「深く」の序詞。■貝尽し-貝合せこと。貝の波に洗われて美しくなるのを、「しやれ」貝というと、「海」の縁語。また貝合せの古風な遊びなので、「古跡」に続く。■古跡(こせき)を温(たづね)て-『論語』の為政篇「故キヲ温ネテ新シキヲ知ル、以テ師ト為スベシ」。ここで「古跡」は、伊勢神宮をさし、伊勢詣でに新趣向を示したの意。■予(よ)も寝(ね)ながら-歌人ならぬこの序者は、この書を寝転んで読んで名所を知り、の意を「膝栗毛」の縁で「しり馬」といい、「はねる」の縁語とする。■はねる顔にて-得意顔で。■うその皮-嘘の甚だしいもの。■跡の一杯-一しきり終わった後での一杯の酒が過ぎたに、杉田(今の横浜市磯子区)にあって江戸人士のよく見物に行った梅林をかけたもの。事実序者は、梅見の後に筆をとったのかもしれない。■うかれ心-うきうきした心。■余慶(またよけい)の仕事(しごと)と-いらない無用の仕事に、『膝栗毛』流行のせいで、序者も心いさんで書いた意をかねた文字づかい。■亀山人蘭衣誌-未詳。文化三年刊黄表紙『虚気の早替』は、「蘭衣戯作」と署名し、一九の贈ったその書の序に「只亀山の化物が飛んだり刎たり替る狂言、此春の新趣向は蘭衣大人の著作にして」とある。この作者と同一人で、従来いわれる芍薬亭長根ではない。この『膝栗毛』の長根の序の版下には、彼自らのものがあるが、蘭衣の序は別筆である。
原文
付言併凡例
予今年神無月廿日あまり、六日の朝おもひたちて、東海道に(とうかいだう)に杖(つえ)をはせ、伊勢路に赴(おもむ)き、内外(うちと)の宮巡(みやめぐ)りして帰りしは、雪見(ゆきみ)つきの五日になん。そよりして此五編目の著述(ちょじゆつ)にかかり、膝栗毛続編といへるもの、皇都(みやこ)の書肆(しよし)より下したりとて、上総(かづさ)屋忠助なる人のもとより、予が方におこせたり。予是を閲(けみ)するに其排設(はいせつ)つづまやかにして、滑稽(こつけい)もとも工(たく)みなり。おしむらくは、かかる筆(ふで)の文(あや)をもて、などて自立(じりう)せざるこそ不審(いぶかし)けれ。そは名を素(もとむ)る人に非(あら)ず、欲(よく)にはするの徒(と)なるべき歟。されど予が為の引札にして思はざるの幸甚(かうじん)なりき。此故に今五編目にいたるまで、頓(やが)て見んことを競(きそ)ひ給へる人のあなりと、書肆の喜(よろこ)びは、益(ますます)膝栗毛の尾(を)に尾をひかんことを、おしはかれるにやおぼつかなし
或人曰、此書初編より四編に及ぶ迄、弥次郎兵衛北八なるものの、髪結月代(かみゆひさかやき)をせし所を見ず。こは大江都を立出しより以来(このかた)、其事なきはいかにぞや。予答(こたへて)曰、こたび旅行の刻(きざみ)しばしばその光景(くはうけい)を見るに、風土人情の差別(しやべつ)、方言(ほうげん)のおかしみ、其漏(もれ)たること、欠(かけ)たること、算(かぞ)ふるに十指を出たり。さればその足(たら)ざるを穿難(うがちなん)じ給はるこそ、予が為の幸(さいはい)なれば、取あへず其ことをもて追加(ついか)に出せり
羇中飯盛(ぎちうめしもり)おじやれの戯(たはふ)れは、巻中毎に粗(ほぼ)あたはして事ふりたれど、こたび作者の旅宿にて、実(じつ)に夜這(よばひ)といへることを、仕損(しそん)じたることのあなれば、其事をもて、弥次郎兵衛北八が、四日市泊の趣向(しゆかう)とす
東海道追分までを上巻とし、其余伊世路にかかりて、事繁(しげ)く記すに遑(いとま)あらず。漸(やうやく)山田に此巻の筆をとどめて、続編(ぞくへん)に妙見町の寄宿(きしゆく)古市の遊楽、相の山の宮めぐり等をあらはし、続(つづゐ)て出板す
兼々聞及貴公才
一遍相遭親十回
探得神都神代穴
翩々乗膝栗毛来
右
初遭十返舎一九生自勢州還戯賦以送
漱芳園艸
現代語訳
付言併凡例
私は今年十月二十六日の朝思い立って、東海道に杖を馳せ、伊勢路に赴き、内宮・外宮の宮巡りをして帰ったのは、十一月の五日である。それから此の五篇目の著述に取り掛かり、版木を彫る職人が来るのを机の所で待っていて、しばらくも筆を置くことは無い。しかるにいずれ人が作った膝栗毛続編といえるもの、都の書肆から依頼されたといって、上総屋忠助という人の所から私の宅へ送ってきたのである。私がこれを読んで確認すると、その文の構成は慎み深くて、滑稽もっとも上手である。惜しいのはこれ程の才筆を持ちながら、どうして自分一本立の作品を作らないのかと不思議であった。それは自分の名誉を求める人ではなく、利益を目的とする連中であろうか。しかし私の為の広告を載せたものであり、思いもしない幸せである。このため、今五篇目に至るまで、出版元の本屋が、争って『膝栗毛』の続きを見たいと思う人があると、予想したのであろうか。どうだろうか。
或る人が言った。この本は初編から四編に及ぶまで、弥次郎兵衛北八という人物が、髪結月代をしたした所を見た事が無い。これは、大江戸を出立して以来、この事に触れていないのは何故だろうか。私は答えて言う。このたびの伊勢参詣の旅行しばしばその光景を見たが、この描写を漏らしたことに加えて、風土人情の違い、方言の可笑しさ等、その漏れた描写、欠けた描写は数えて両手に余る。それでその不足部分を穿鑿して批判していただけることこそ、私の為の幸なので、とりあえずそのことをもって追加を出したのである。
旅の途中での飯盛女や女郎等の遊び女との戯れは、巻中毎にほぼ著して珍しくなくなったが、こんどは作者の旅宿で、実際に夜這いという経験に失敗したことがあったので、そのことで、弥次郎北八の四日市泊の趣向にする。
東海道追分迄を上巻とし、その夜、伊勢路にかかって、忙しく著述する隙が無かった。ようやく山田にこの巻の筆を終りにして、続編に妙見町の奇宿古市の遊楽、相の山の宮巡り等を著し、続けて出版する。
語句
■今年神無月-文化二年(1805)十月。■雪見月の五日-十一月五日。■彫工-彫師。ここは書物の版木を彫る人。この編は自作で自ら版下を書いているから、それを待っていること。■膝栗毛続編-未詳。■上総屋忠助-江戸日本橋通四丁目の書肆。優賀堂。文化元年刊一九著の『吉原青楼年中行事』を刊行した。■排設(はいせつ)-文の構成。■つづまやか-慎み深い。■もとも-もっとも。■かかる筆の文をもて-これ程の才筆を持ちながら。■自立せざるこそ-自分一本立の作品を作らないのかと。■そは~-それは自分の名誉を得たいと欲する人でなく、利得を目的とする連中であろうか。■引札-商品を売り広めるためにくばる、広告文を載せた摺物。■尾に尾をひかん-長く続くことを、「馬」の縁で「尾をひく」といった。■おしはかれるにやおぼつかなし-主語は書肆で、出版元の本屋が、争って『膝栗毛』の続きを見たいと思う人があると、予想したのであろうか。どうだろうか。■月代-成人男子が髷を結った時、頭上の中央部を剃るのを、「さかやき」という。髪結いの時、またはその中間に、「さかやき」のみを剃ることもある。■大江都-大江戸。■こたび旅行の刻み-このたびの伊勢参宮の旅行で。■其漏れたること-これまでの『膝栗毛』で、材としなかったこと。■十指を出たり-数えて両手に余る。■穿難(うがちなん)じ-穿鑿(せんさく)して批判する。
■羇中-旅中。■事ふりたれど-珍しくなくなったが。■四日市-伊勢国三重郡で桑名から三里八丁の宿駅(今の四日市市)。天領で代官の管轄。■追分-東海道から神宮へは、西から来て関の追分があるが、ここは日永(ひなが)の追分をさす。『東海道名所図絵』に「追分参宮道、此所関東より太神宮参宮道の別れなり。これより神戸・白子・上野・津へ出るなり。山田まで十六里」。■伊世路-伊勢路。日永村から外宮へ十六里、内宮へ十六里五十丁(東海道宿村大概帳)。■山田-小保より一里半の宿駅。外宮の門前町にある当る(今の伊勢市内)。■妙見町-『伊勢参宮細見大全』に、間(あい)の山の北、「妙見町、妙見山のふもとの町なる故に名とす」と、山田の一町である。宇治領の古市に隣合っている。■寄宿-この字、草体で、「寄」とも「奇」とも読める。「寄」のつもりであったろう。宿泊。■古市の遊楽-古市場とも称し、古来市のあった所(今は伊勢市古市町)。常明寺門前・中の地蔵町・古市を古市郭と、遊郭・芝居の集まった、神都の歓楽街であった。花代は大◎(大見世)八匁、中見世四匁、小格子(小見世)二匁である(宇治山田市史)。遊郭での遊楽である。■相の山-『伊勢参宮名所図絵』に「妙見町の東の坂なり。・・・両宮の間の山なれば間の山といふなり」■兼々聞及貴公才-「兼々聞キ及ブ貴公ノ才、一遍相遭ヒテ親シムコト十回、探リ得タリ神都神代ノ穴、翩々ヘンペン(得意のさま)トシテ膝栗毛ニ乗リテ来タル。右、初メテ十返舎一九生ニ逢ヒ、勢州ヨリ還リテ、戯レニ賦シテ以テ送ル 漱芳園艸」。漱芳園は未詳。■兼々聞及貴公才一遍相遭親十回探得神都神代穴翩々乗膝栗毛来-「兼々聞キ及ブ貴公ノ才、一遍相逢ヒテ親シムコト十回、探リ得タリ神都神代ノ穴、翩々(へんぺん)(得意の様)トシテ膝栗毛ニ乗リテ来タル。右、初メテ十辺舎一九生に逢ヒ、勢州ヨリ還リテ、戯レニ賦シテ以テ送ル 漱芳園艸」。 漱芳園艸は未詳。
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