五編下 松坂より山田へ

原文

此ところをすぎて、松坂にいたり、まだ夜ふかければ、道づれのかの男をたのみ、ねるばかりのことなれば、あたりまへのはたごを出すもついゑなりと、町の入口に、きちんやどをせはしてもらひ、そこにとまりて、一夜をこそあかしける

かくて月落鳥(おちとり)なきて、時の鐘(かね)明六ツを告(つげ)わたるに、弥次郎北八はやくもおきいで、此所を立出るとて

鳶(とび)も輪になりて舞ふ日ぞたび人のおどり出たる松坂(まつざか)の宿

右のかた、小山の薬師を打すぎ、櫛田(くしだ)といふにいたる。ここにおかん、おもんといへる、二軒の茶屋あり。餅の名物なり

旅(たび)人はいづれにこころうつるやとおもんおかんが売れる焼(やき)もち

それより祓(はらひ)川を打わたり、斎宮(さいぐう)をすぎて、明星(みやうじやう)が茶屋に休みたるとき

ここに上がたものと見へて、はでな大じまの引まはしをきて、帳めんとふろしきづつみをせおひたる男、馬のねをつけてゐたりけるが、馬士

「モシモシおまへがたア其荷(に)をつけて、おひとり、此だんなと、二ほうくはうじんに、のらんせんかいな

上がたもの「おまいがたも、おほかた参宮(さんぐう)じやあろ。わしも古市(ふるいち)まで、掛(かけ)とりに行さかい、いつしよに乗(のり)なされ。はなしもてゆこわいな

弥次「いかさま、ゆうふべの夜道で大つかれだ。北八おらアのつてゆくぞ

北八「そんなら、此荷(に)をつけてもらをふ

ト此所にて馬のそうだんができ、上がたものと弥次郎兵へと、二ほうくはうじんにて出かける

馬「ヒインヒイン

上がたもの「おまいがたア、江戸衆じやあろな

弥次「さやうさ

上方「ゑどはゑいとこじやが、わしや去年いて、ゑらいめにあふたがな。アノゑどに、似合(にやは)ん。どこへいても手水場(てうづば)が、とつともふ、ゑらい、むさくろしうてむさくろしうて、わしや百日ほどおるうち、とんと手水(てうづ)にいたことがないがな。それから江戸をたつて、鈴(すず)が森(もり)たらいふとこへ来て、ヤレ嬉(うれ)しや、ここでこそ小用(せうよう)をしてこまそと、海(うみ)の中へためためた小用を、いつきに三斗八升ばかりしおつたが、ゑらふよかつた。あしこは奇麗(きれい)でゑらいおつきな小用担(たご)であつたわいな。ハハハハハハ

現代語訳

松阪より山田へ

この場所を過ぎて、松坂に着いたが、まだ夜も深かったので道連れのかの男に世話してもらって、寝るばかりのことだったので、当りまえの宿賃を出すのも無駄な費用だと、町の入口に木賃宿を世話してもらい、そこに泊まって一夜を明かした。

このようにして、月は隠れ、鳥ガが鳴きだして、時の鐘が午前六時を告げたので、弥次郎と北八は早くも起き出し、ここを出立するという事で一首

鳶(とび)も輪になりて舞ふ日ぞたび人のおどり出たる松坂(まつざか)の宿

右の方にある小山の薬師を過ぎ、櫛田という所に着く。ここにおかん、おもんが並んで焼餅を売っている二軒の茶屋がある。餅が名物である。

旅(たび)人はいづれにこころうつるやとおもんおかんが売れる焼(やき)もち

そこから祓川を渡り、斎宮を過ぎて、明星の茶屋に休んだ時

ここに上方者と見えて、派手な大縞の引廻しを着て、帳面と風呂敷包みを背負った男が馬の値をつけていたが、馬士

「もしもしお前さんがたあ、その荷をつけて、お一人さまは、この旦那と二宝荒神に乗らせんかいな」

上方者「お前方も、おおかた参宮じゃろう。わしも古市まで、掛け取りに行くさかい、一緒に乗りなされ。話し持ていこわいな」

弥次「いかさま、昨夜の夜道で大疲れだ。北八俺は乗って行くぞ」

北八「そんなら、この荷をつけてもらおう」

とここで馬の値交渉も済み、上方者と弥次郎兵衛は、二宝荒神の相乗りで出かける。

馬「ひいんひいん」

上方者「お前がたあ、江戸衆じゃあろな」

弥次「さようさ」

上方者「江戸はいい所じゃが、わしは去年行って、大変な目に遭うたがな。あの江戸に似合わん、どこに行っても手水場が、とんともう、むさ苦しゅうてむさ苦しゅうて。わしは百日ほど居るうちに、ほとんど手水に行ったことがないがな。それから江戸を立って、鈴ヶ森という所へ来て、やれ嬉しや、ここでこそ小便をしてやろうと、溜め込んでいた小便をいっきに三斗八升ばかりしたが、たいそう気持良かった。あそこは綺麗で、たいそう大きな小便桶であったわいな。はははははは」

語句

■松坂-松阪市。松赤木綿の産地。■ついゑなりと-無駄な費用だと。■月落鳥(おちとり)なきて-『唐詩選』所収、張継の「楓橋夜泊」の詩に、「月落チ鳥啼キテ霜天ニ満ツ、...夜半ノ鐘声客船ニ至ル」による。■明六ツ-午前六時。■二宝荒神-馬上に、左右二方に枠を付けた台をのせて、各々に人を乗せて運ぶ方法を街道筋でいう語。■鳶も輪になりて鳶が輪になってゆうゆうと青空に舞っていることと、松坂に泊まった旅人も、天喜が良いので、宿を踊り出たと両方かけてよんだ。■小山-神山(かやま)の誤読。一乗寺は天台宗で、薬師如来を祀る。神山は伊勢街道からは二十数町離れている。■櫛田-飯南郡櫛田村。■旅(たび)人はいづれにこころうつるやと-旅人はどちらを買ってくれるだろうと、おもん・おかんが並んで焼餅を売っている。「こころうつる」は、どちらの女に心が移るという意を含め、焼餅(嫉妬)はその縁語。■祓川-一名多気(たけ)川。昔、勅使がここで祓いを修する式を行ったのでこの名がある。■斎宮-多気郡斎宮村。今は明星村と合併して、斉明村となる。■明星-多気郡明星村。現在は斉明村という。■大じまの-大縞。太い縞模様の。■引きまはし-坊主合羽。■古市-現在伊勢市古市町。その頃遊郭があって繁華をきわめた。■手水場-江戸の便所の汚いことは、西沢文庫、皇都午睡に詳記されている。■こまそ-上方語。やろう。来よう。■小用担-小便桶。

原文

弥次「京では小便(せうべん)と菜(な)と、とつけへこにするといふことだから、小便も大切(たいせつ)なもんだに、おめへ海の中へおしいことをした。その三斗八升でとりけへたら、菜が馬に、五駄や六駄はくるだろふに。それだから京では、屁(へ)をひるにも、出そふになると、ちやつとうらの畑(はやけ)へかけていつて、はへてある、だいこや菜(な)のうへへ、屁(へ)をひりかけるといふことだが、なるほど是も、こやしになるだろう」

上方「そふじやわいな、其屁をひりかけた菜を、よふ刻(きざん)で土(つち)にまぜて、壁(かべ)をぬりおるがな。京ではその土を、へなつちといふわいな

弥次「そうてへ京といふとこは、あたじけねへ所よ。めへど(前年)わつちがいつた時分は(じぶん)は三月で、花見のさいちう、てんでんに幕(まく)をうつて、けつこうな高蒔絵(たかまきゑ)の重詰(ぢうづめ)なんどを、取ちらしら所はいいが、其重のうちに、何があるとおもへば、かくやの香(かう)のものに、きらずの煎(いつ)たやつは、おそれるおそれる

上方「イヤそれよりかおゑどの衆が、吉原の桜はゑらいと、いこう自慢(じまん)せらるるさかいで、わしやわざわざ吉原へいて見たが、なんのさくらはありやせんがな

弥次「そりやおめへいつごろ、いきなすつた

上方「わしがいたは、たしか十月時分

弥次「なんの十月、さくらがあつてたまるものか

上方「ハアそふかいな。それでも、京の小室(こむろ)やあらし山には、年中さくらがちんとあるがな

弥次「そりやア木ばかりだろふ。花はねんぢうありやアしめへ

上方「さよじやわいな。イヤ又ゑど衆は、吉原のさくらはゑらいと、いこう自慢(じまん)せらるるさかいで、わしやわざわざ吉原へいて見たが、なんのさくらはありやせんがな

弥次「そりやおめへいつごろ、いきなすつた

上方「わしがいたは、たしか十月自分

弥次「なんの十月、さくらがあつて、たまるものか

上方「ハアそふかいな。それでも、京の小室やあらし山には、年中さくらが、ちんとあるがな

弥次「そりやア木ばかりだろふ。花はねんぢうありやアしめへ

上方「さよじやわいな。イヤ又ゑど衆は、長唄(ながうた)をよふうたふてじやが、京の宮園(みやぞの)や、国太夫は又格別なもんじやわいな

現代語訳

弥次「京では小便と野菜を取替えっこするということだから、小便も大切な物だに。お前は海の中に小便をして惜しいことをした。その三斗八升で野菜と取り替えたら、野菜が馬に、五駄や六駄分は乗せられただろうに、だから京では、屁をふるにしても、出そうになると、すぐに裏の畑へ出かけて行って、生えている、大根や野菜の上へ、屁をふりかけるということだが、なるほど是も、肥やしになるだろう」

上方「そうじゃわいな。その屁をふりかけた野菜を良く刻んで土に混ぜて、壁塗りに使っているがな。大体京ではその土を、へなっちと言うわいな」

弥次「だいたい京という所は、あじけねえ所よ。去年わっちが行った時分は三月で、花見の最中で、それぞれ幕を張って、結構な高蒔絵の重箱の弁当なんぞを、取り散らかし、た所はいいが、その重箱の上に何があるかと思えば、香りのいいかくやに、きらずの煎ったものがあるのには閉口する。

上方「いや、それよりかお江戸の衆が、吉原の桜はすごいと、たいそう自慢なさるからで、わしはわざわざ吉原へ行って見たが、なんの桜はありゃせんがな。

弥次「そりゃあおめえいつ頃行なすった」

上方「わしが行ったのは確か十月時分」

弥次「なんの十月に桜があってたまるものか」

上方「はあ、そうかいな。それでも、京の小室や嵐山には、年中桜がちゃんとあるがな」

弥次「そりゃあ、木ばかりだろう。花は年中ありゃしめえ」

上方「そうじゃわいな。いや、又江戸衆は長唄をよう歌うてじゃが、京の宮薗や国太夫は又格別なもんじゃわいな」

語句

■とつけへこにする-取り替える事。■へなつち-「粘土」の上方語。■そうてへ-大体。■あたじけねへ-けちな。■そうてへ-大体。◆高蒔絵-地塗を漆にて書き、その漆の乾き具合で、金銀の粉をまくのが蒔絵、その地を高く塗り上げたのが、高蒔絵(万金産業袋)。■かくや-野菜の古漬物を刻んで、塩出しをい、醤油をかけて食するもの。茶漬けの時に食べる。語源はさまざまある。(松屋筆記・八十四、柳亭記)■きらず-豆腐のしぼりがら。粗食の代表とされた。■煎ったやつ-味付けをして煮詰めたもの。■おそれるおおれる-閉口する。■吉原の桜-江戸吉原で、「毎年三月朔日より、大門のうち中の町通り、左右を除けて中通りへ桜数千本を植うる。常にはこれ往来の地なり。としごとの寒暖によって、花遅ければ朔日より末に植込むこともあり。葉桜になりても、人なほ群集す」(江戸名所花暦)るを、いつも植わっていると思い、見に行った滑稽。■小室-洛北御室の仁和寺で、桜の名所(今は右京区)。■あらし山-これも洛北の花紅葉の名所(右京区)。■ちんと-ちゃんと。■長唄-江戸で享保頃から(その源流は更に遡る)発達した歌舞伎用の俗曲の一。上方の長唄と区別して、江戸長唄と称されやがて一般に広がり、今日に至っている。■宮薗-京都の宮古路園八が始め、二世園八こと宮薗鸞鳳軒が宝暦のころ大成した浄瑠璃の一派。薗八節とも。京都で文化年間まで芝居一般にも行われたが、今日伝わるものは、江戸に伝わった流派である。■国太夫-京都の都国太夫半中、後の宮古路豊後掾が享保頃に創した浄瑠璃の一。名古屋から江戸に下って、江戸の豊後浄瑠璃の諸派、上方でも宮薗など国太夫節系の諸派をも生んだ。豊後掾時代の流行は、風俗を乱すゆえに差止めになったほどである。

原文

弥次「国太夫といふは、どのよふにうたひやす

上方「くに太はこうじやいな

トまじめにこへをはり上てくに太夫

上方「やがてわたしがねんあけて、おまへとめうとになるならば、肩(かた)を裾(すそ)へはまだなこと、足(あし)を耳(みみ)にかけてなりともそひませう、チンチンチンチンチンチリツンチンチリツン

弥次「イヨイヨおもしれへおもしれへ。ナントわつちに、ひとくさり、おしへてくんなさらねへか

上方「そりややすいことじやわいな。わしについてやりなされ

ト此内きた八は、ほそながき竹一本をひろいて、上方ものが、あまりに、かうまんくさいことをいふゆへ、つつきおとしてやらんと、馬のあとから、ねらつてくることをばしらず、上方ものはむちうになり、又国太夫ぶし

上方「チンチリツンチンチリツンチンチン、ほんにおなごはしうねんの、ふかいといふはうそじやない、しんでも呵責(かしやく)の夜叉羅刹(やしやらせつ)、杖(つえ)ふりあげてうどうつ

トいふ所にて、北八手をのばし、かの竹にて上方もののあたまをぴつしやり

上方「ヤアコリヤどやつじやい、人のあたまへ礫(つぶて)うちおるがな

弥次「ハハハハハハもふ一ツぺん、今のもん句(く)を

上方「ほんにおなごはしうねんの、ふかいといふはうそじやない。しんでもかしやくの夜叉羅刹(やしやらせつ)、つえふりあげて

北八うしろより又ぴつしやり

上方「アイタタタタタどやつじやい、どめつそうな、ゑらふつぶてうちくさるがな

トふりかへり見れども、きた八はちやつと、弥次郎がのりたるほうの、馬のかげにかくれて、いつかうみへず

弥次「おもしろいが、どふも、ふしがむつかしい。もふ一ぺんやつてくんなせへ

上方「ソリヤなんぼでも、やるはやるが、又つむりを、うちやしよまいか

弥次「ナニサわつちが見てゐよふ

現代語訳

弥次「国太夫というは、どのように歌いやす」

上方「国太はこうじゃいな」

と真面目に声を張り上げて国太夫を歌いだす。

上方「やがて私が年明けて、お前と夫婦になるならば、肩を裾へはまだなこと。足を耳にかけてなりとも添いましょう、チンチンチンチンチンチリツンチンチリツン」

弥次「ますます面白(おもしれ)え面白(おもしれ)え。なんとわっちに、ひとくさり、教えてくんなさらねえか」

上方「そりゃあ、安いことじゃわいな。わしについてやりなされ」

と、そのうちに北八は、細長い竹を一本拾って、上方ものがあまりに自慢たらしいことを言うので、突き落としてやらんと、馬の後から狙って来ることをば知らず、上方ものは夢中になり、又、国太夫節を歌う。

上方「チンチリツンチンチリツンチンチン、ほんに女子は執念の深いというは、嘘じゃない、死んでも呵責の夜叉羅刹、杖振り上げてちょうと打つ」

という所で、北八は手を伸ばし、かの竹で上方ものの頭をぴしゃり。

上方「やあ、こりゃあ、ど奴じゃい、人の頭へ礫を打ちおるがな」

弥次「はははははは、もういっぺん今の文句を」

上方「ほんに女子は執念の深いというは、嘘じゃない、死んでも呵責の夜叉羅刹、杖振り上げて」

北八、後ろから又ぴしゃり

上方「あいたたたたたた。ど奴じゃい、度滅相な、えろう礫を打ちくさるがな」

と振り返って見るが、北八はさっと、弥次郎が乗ったほうの馬の陰に隠れて、まったく見えない。

弥次「面白いが、どうも節が難しい。もういっぺんやってくんなさせえ」

上方「そりゃあ、なんぼでもやるはやるが、又頭を打ちやしょまいか」

弥次「なにさ、わっちが見ていよう」

語句

■やがてわたしがねんあけて~-この歌詞、出処未詳。■ひとくさり-一段落。ひとしきり。■ほんにおなごは~-この歌詞出拠未詳。■かうまんくさい-自慢たらしい。■呵責-元来は、罪を犯した僧尼に加えられる七種の罪の一。衆の面前で責めて、三十五事の権利を奪うのである。ただしここは、現世で罪を犯した者が、死後地獄へ落ちて、責めさいなまれること。■夜叉-仏説でいう悪鬼の一で、虚空をおかけることが出来て、人を傷害し、人をとり食らう。■羅刹-仏説でいう鬼の一で、男女がある。また人食鬼。■てうどうつ-きびしく打つ形容。■礫うちおるがな-ここは狂言「瓜盗人」で、案山子に似せた畠主が、瓜盗人を打つところで、「杖でちやうど打つ、これはいかな如何なこと、何者やらつぶてを打った」(狂言言記)とあるを、まなんでいる。■どめつそうな-「ど」は下の語を強める意の接頭語。「めっそう」は「滅相」。ひどく途方もないことだ。■ふしが-「ふし」は「節回し」。

原文

上方「そんならまいち度、やりましよかい。しんでもかしやくの、やしやらせつ、つえふりあげて、てうどうつ

トこんどは北八うろたへて、弥次郎があたまをぴしやぴしやぴしやぴしや

弥次「アタタタタタタきた八おれだが、コリヤどふする

上方「ハアさつきから、わしがつもりを、うたんしたのも、こなさんじやな。何としてうたんした

北八「わしはうつたおぼへはない

上方「ナニないとはいはしやせんわいな

北八「ハテおいらアしらねへ。いけしつこいやろうめだは

上方「やろうとはなんじやいな。こなさんは、ゑらいおとがいたたかすんな

北八「なんだ、このべらぼうめ、さつきからそうてへ気にくはねへやろうめだ。あんまりたはことつきやアがるとひきづりおろすぞ

上方「おもしろい。サアおろして見やんせ

北八「ヲヲまつさかさまに、おつことしてやろう

ト馬のしりをぴつしやり。馬おどろひてはね上る

上方「ヤアコリヤたまらん。何するのじや

弥次「おれもたまらん。コリヤコリヤどふするどふする

馬子「エエちくしやうめドウドウ

ト此内しんちや屋あけの原をうち過、小ばたにつく。此所より馬をおりて、三人とも、茶やにやすむ。上方もの北八にむかひて

「コレおまいは、なんとしてわしがつむりをうたんした

弥次「もふいいにしなせへ。おたげへに旅じやアいろいろなことがあるもんだ。了見(りやうけん)しなせへ。わつちが一ぱいかいやせう。モシ女中、何ぞ肴があらば、こけへいつぱい出してくんな

トこれよりさかもりとなり 上方ものもひとつなるくちゆへ だんだんゑひがまはりて

現代語訳

上方「そんなら今一度やりましょかい。死んでも呵責の、夜叉羅刹、杖振り上げて、ちょうと打つ」

と今度は北八うろたえて、弥次郎の頭をぴしゃぴしゃぴしゃぴしゃ

弥次「あたたたたたた、北八おれだが、こりゃ何をする」

上方「はあ、さっきから、わしの頭を打たんしたのも、お前さんじゃな。何として打たんした」

北八「わしは打った覚えはない」

上方「なに、無いとは言わしゃせんわい」

北八「はて、おいらあ知らねえ。ひどくしつこい野郎目だわ」

上方「野郎とは何じゃいな。お前さんは、たいそうに偉そうな物言いをするもんだ」

北八「なんだ、このべらぼうめ、さっきから大体気に食わねえ野郎目だ。あんまり戯言を言いやがると引きづり降ろすぞ」

上方「面白い。さあ、降ろしてみやんせ」

北八「おお、真っ逆さまに、落っことしてやろう」

と馬の尻をぴしゃりと叩く。馬は驚いて跳ね上がる。

上方「やあ、こりゃ、たまらん。こりゃこりゃどうするどうする」

馬子「ええ、畜生目どうどう」

とそうこうしているうちに新茶屋明野原を通り過ぎ、小保(こばた)に着く。ここで馬を降りて、三人とも、茶屋に休む。上方ものが北八に向かって、

「これ、お前は、何としてわしが頭を打たんした」

弥次「もういい加減にしなせえ。お互(たげ)えに旅じゃあ色々なことがあるもんだ。了見しなせえ。わっちが一杯驕りやしょう。もし、お女中、何ぞ肴があれば此処へいっぱい出してくんな」

とこれより酒盛りになり、上方ものも少しは酒が飲めるので、だんだん酔いが回って、

原文

「コリヤゑらふよふたわいな。コレ弥次さんとやら、わしやおまいが、ゑらふすきじやが、此わろはいかんぞや、とんといかんけれど、おまいのつれじやしよことがない。かうしよじやないかいな。これから山田の妙見(めうけん)町にいつしよにとまつて、古市をおごろかいな。わしやあこではゑらふきれるがな。千束(ちつか)屋の鼓(つづみ)の間(ま)、柏(かしは)屋の松の間(ま)、わしが案内(あない)するさかい、いかんせんか、どふじやいな

トやたらにおほふうなことばかりいふゆへ、弥次郎兵へこいつをおだてあげて、あそぶつもりに、むなさんようして

「きめうきめう、どふぞおともいたしてへの

上方「是から世古の松坂やでしたくして、妙見まちの藤屋としよじやないかいな。サアサアもふいこわいな

弥次「ドリヤ出かけやせう

トここの酒代をはらひ、立出る。此まちの出はなれにみや川といふ舟わたしにいたりて

宮川や神に機縁をむすばんとすくへる水のかげのしらゆふ

是より中河原をうちすぎ、堤世古(つつみせこ)をうちこへて、山田のまちにさしかかりける

東海道中 膝栗毛五編 下終

現代語訳

「こりゃ、えろう酔うたわいな。これ、弥次さんとやら、わしはお前がえろう好きじゃが、こいつはいかんぞや。とんといかんけれど、お前の連れじゃあ仕方ない。こうしようじゃないかいな。これから山田の妙見町に一緒に泊まって、古市の遊郭を奢ろかいな。わしはあそこではえろう顔が利くんじゃがな。千束屋の鼓の間あるいは柏屋の松の間、わしが案内するさかい、行かんせんか、どうじゃいな」

とやたらと偉そうに大風呂敷を広げるので、弥次郎兵衛はこいつを煽(おだ)てあげて、遊ぶことを胸算用して、

「奇妙、奇妙。どうかお供したいものじゃ」

上方「これから世古の松坂屋で腹ごしらえをして、妙見町の藤屋としようじゃないかいな。さあさあ、もう行こわいな」

弥次「どりゃ出かけやしょう」

とここの酒代を払い、店を出る。この町のはずれの宮川という渡し場に着いて、一首。

宮川や神に機縁をむすばんとすくへる水のかげのしらゆふ

ここから中河原を過ぎ、堤世古を越えて、山田の町にさしかかった。

東海道中 膝栗毛五編 下終

語句

■ひとつなるくちゆへ-少しは酒が飲めるので。■わろ-上方語で、やや軽んじて言う三人称代名詞。■山田-小保より一里半の宿駅。外宮の門前町に当る(今の伊勢市内)■妙見町-『伊勢参宮細見大全』に、間(あい)の山の北「妙見町、妙見山のふもとの町なる故に名とす」と。山田の一町である。宇治領の古市に隣り合っている。■古市-古市場とも称し、古来市のあった所(今は伊勢市古市町)。常明寺門前・中の地蔵町・古市を古市廓と総称し、遊郭・芝居の集まった、神都の歓楽街であった。花代は大雛(大見世)八匁、中見世四匁、小格子(小見世)二匁である(宇治山田市史)。■きれる-幅が利く。顔が通じる。■千束屋・柏屋-共に古市の遊女屋の名で、それぞれ著名な、伊勢音頭の大踊りをする、大広間を持っていた。■おほふうな-大風な。えらそうな大風呂敷を広げるので。■むなさんよう-胸算用。心の中で思案して。■世古-伊勢では小路の意(物類呼称)。ここは後出の「堤世古」の略。■松坂や-料理屋松坂屋三右衛門(羇旅漫録)。■藤屋-実在の宿屋、藤屋利兵衛。後年、「弥次幾多楼」と号して営業した(膝栗毛論講・中編)。■みや川-豊宮川、また渡会川。大台原山に発して伊勢湾に入る。伊勢神域を区切るごとき形で流れる。『大全』に「此渡し小保口という舟渡し、舟賃なし。風雨満水昼夜の差別なく、滞なし。諸方参宮の入水をあみて身を清む。・・・川上の渡しを田丸口と云ひ、田丸へかかりて熊野へ出る道也」。■しらゆふ-「しらゆふ」は「白木綿」「神」「むすぶ」の縁語。歌意は、宮川で伊勢参宮のために身を清めんと、水を掬(むす)び上げると、水は清くて、白木綿姿の同者の影が映る。■中河原-『大全』に「宮川を渡りて入口の町也。茶店有り。御師より参宮人を迎送する所也。町の入口常夜燈有り、右の方に松の並木有る道本街道にて、京町への道也。今世は多く堤世古へかかる。これ簡便にしたがふ也」。■堤世古-宝永四年(1707)刊の『伊勢参宮按内記』に「中河原の次の町なり。宇良口の領なり。茶店あまたあり。これを直に往けば、山田の本道にでるなり」。

次の章「五編後序

朗読・解説:左大臣光永