六編上編 伊勢から伏見を経て京に入る
原文
東海道中膝栗毛六編 上・下
東海道中膝栗毛六編 上編
諺(ことはざ)に云(いふ) 旅(たび)の恥(はぢ)は、書捨(かきすて)てゆく落(らく)書の国所(くにところ)は欄干(らんかん)にとどまり、おのづから往来同国(わうらいどうこく)の人の目を慰(なぐさ)め、被(かふ)り行聾(つんぼう)の笠印(かさじるし)は、わざとおのれひとりの心を、よろこばしむるも、みな倶(とも)に駅路(むまやぢ)のわざくれ、相宿の木まくらに、結(むす)ぶ縁(えん)は出雲(いづも)の帳外(ちやうぐはい)、二方くはうじんのとなり同士(どし)は、長屋付合(ながやつきあい)の外にして、其心心に出る侭(まま)をしやべり、あくまでに喰(くら)ひ、掛取道連(かけとりみちづれ)にせざれば晦日(みそか)の愁(うれひ)にあはず。米櫃背負(こめびつしよつ)て出ざれば、鼠追ふせはもなく、名にしおふ東男(あづまおとこ)も、さつま芋(いも)に髭(ひげ)を撫(なで)、花まだき京女郎(きやうぢよろう)も、団子(だんご)のくしにつふりをかき、しらぬ火のつくすたはけに欠落(かけおち)して走(はし)るあれば、雲井路(くもゐぢ)のみちくさくふ、遊山旅(ゆさんたび)ののろつくあり。並松(なみまつ)の根にこし打ちかけて、金毘羅(こんぴら)参りの樽(たる)をひらき、街道(かいだう)の真中(まんなか)にひよぐり出して、諸社巡拝(しよしやじゆんぱい)の鈴口(すずぐち)をふる、羇中(ぎちう)のありさま、まことに命(いのち)の洗濯(せんだく)もの引ツぱり、股(もも)引草鞋(わらじ)に何国(いづく)までも、足(あし)にまかする雲水(うんすい)のたのしみえもいはれず、ここに東(あづま)の都神田(みやこかんだ)の八丁堀辺にすむ、弥次郎兵衛北八といへる二人連れのなまけもの、神風や伊勢参宮(いせさんぐう)より足曳(びき)のやまと路をまはり、青丹(あをに)よし奈良街道(ならかいだう)を経(へ)て、山城(やましろ)の宇治(うぢ)にかかり、ここより都(みやこ)におもむかんと急(いそ)ぎけるほどに、やがて伏見(ふしみ)の京ばしにいたりけるに、日も西にかたふき、往来(わうらい)の人足はやく、下り船(ぶね)の人を集(あつむ)る船頭(せんどう)の声々(こへごへ)やかましく
「サア今出るふねじや。のらんせんか。大阪(おさか)の八軒家(けんや)舟じや。のてかんせんかい
弥次「ハハアこれがかの淀(よど)川の夜ぶねだな。ナント北八、京からさきへ見物するつもりで来たが、いつそのこと、此舟にのつて、大阪からさきへやらかそふか
北八「それもよかろう。モシ乗合(のりやい)もありやすか
せんどう「そふはかいの、乗(のる)ならはやうのらんせ。いつきに出すさかい。コレコレわらじといてのらんせ。ゑらいへげたれじやな
北八「エエ何をぬかしやアがる。きのつゑゑべらぼうだ
弥次「コレ北八、手めへのつつみもいつしよに、おれが風呂敷(ふろしき)につつんでおこふ
北八「せんどうさん、コリヤアどけへすはるのだ
せんどう「そこな坊(ぼん)さまのねきへ割込(わりこま)んせ
弥次「御めんなせい。ヤアゑいとな
トふたりながらともの間へわりこみすはる
現代語訳
伊勢から伏見を経て京に入る
「旅の恥は掻き捨て」と諺に言う。欄干に書き残していく国の名は、たまたま往来の同国の旅人の目にとまり、心温まる思いをさせ、聾になりすまして道中をし、わざと自分一人でほくそ笑むのも、みなそれぞれに旅路でのいたずらに過ぎない。相宿となって枕を重ねる契る縁は、出雲の神の予定表の書き落しだし、合乗り馬の隣同士は、長屋付合いとは違って、面倒がなく、めいめいが勝手なことをしやべって行く。食い物は食らい放題、掛け取りを道連れにしないから晦日払いの愁いもなく、米櫃を背負って歩くわけでないので米を食い荒らす鼠を追い払う面倒もなく、名にしおう東男も、旅に出りゃ腹が減り、いじきたなくかじりつく、薩摩芋で 口髭を撫で、花まだ浅き蕾の京女も花より団子のその串で頭の地肌を掻き散らす。不知火の筑紫の果てまで手をたずさえて、いち早く駈け落ちする旅もあれば、遠方への旅であるのにのろのろと道草を食う旅もある。並木の松に腰かけて、金毘羅参りに持ってきたお供え用の酒樽を開いてそれを飲み、酔った挙句に街道の真中で小便を撒き散らし、自分の者の鈴口を、風のまにまに諸社参拝の鈴のように振る奴もいる。すべて旅中のありさまは何かにつけて気晴らしで命の洗濯もの、股引草鞋の支度も身軽にどこどこまでも足に任せて行く旅は楽しいものである。ここに東の都神田八丁堀辺りに住まう弥次郎兵衛北八という二人連れの怠け者、伊勢参宮も無事に済んで、大和路を廻り、奈良街道を経て山城の宇治に着いた。ここから都に向かおうと急ぎ、やがて伏見の京橋に着いたが、日も西に傾き、往来の人の足取りも早くなり、下り船に乗る人の集合を促す船頭の声がやかましく、
「さあさあ、今出る舟じゃ。乗らんせんか。大阪の八軒屋舟じゃ。乗って行かんせんかい」
弥次「ははあ、これがかの淀川の夜船だな。なんと、北八、京から先に見物するつもりで来たが、いっそのこと、この船に乗って、大阪から先に見物しようか」
北八「それもよかろう。もし乗合もありやすか」
船頭「そうですよ。乗るなら早う乗らんせ。直に出すさかい。これこれ、草鞋を脱いで乗らんせ。えらい阿保うじゃの」
北八「ええぃ、つべこべ何をぬかしやあがる。向こう意気のつええ馬鹿だな」
弥次「これ、北八、てめえの包みも一緒に、俺の風呂敷に包んでおこう」
北八「船頭さん、こりゃあ、何処へ座るのだ」
船頭「そこな坊さまの傍に割込まんせ」
弥次「ごめんなせえ。どっこいしょっと」
と二人ともともの間へ割込み座る。
語句
■旅(たび)の恥(はぢ)は、書捨(かきすて)-「旅の恥は掻き捨て」に「書き捨て」をかけた。■落書の国所-寺社の欄干など住所氏名を落書していく旅人の癖を言う■同国の人の~-その落書の住所が同じ国の旅人の目にとまって、心あたたまる思いをさせ。■聾の笠印-笠に書く住所氏名に、「聾」とするのは耳が不自由のほかに、話しかけられるをうるさいとするゆえの者もあったその計が当たって、自ら「しめしめ」と思うの意。■わざくれ-いたずら。■木まくら-木を切ったまま、または長方体に角を取った簡単な枕。■結ぶ縁は~-同宿でつい転び寝の男女は、縁結びの出雲の神の帳面にも書き漏らされている。■二方くはうじん-二宝荒神。そのように隣同士になって旅行しても、長屋同士のような 、面倒な付き合いはいらない。■其心心に出る侭(まま)をしやべり-めいめいが勝手なことをしゃべて行く。■掛取道連(かけとりみちづれ)にせざれば~-借金取りが一緒に行くわけでないから、晦日に支払いの心配もない。■鼠追ふせはもなく-米をかじる鼠を追い払う面倒もない。■東男-「東男に京女」という。元気がよく粋な江戸っ子に、美しく優しい京女を対照させた言葉。その東男や京女郎も、旅の道中では、薩摩芋や団子を食べて野趣を味わうのである。■まだき-はやくの意。「花まだき京女郎」は、花恥ずかしい京都の女性。■くしにつふりをかき-かんざしならぬ食べた団子の串で頭を掻く下品の所作も、旅ではするもの。■しらぬ火-不知火。「筑紫」の枕詞で、「つくす」にかかる。■欠け落ち-ここは夜逃げ。ここは情事ではなく、生活苦からの失踪で、急ぐ。■雲井路~-雲井に同じ。遠方への旅であるのにのろのろと道草を食う観光旅行もある。■並松-並木の松。■金毘羅(こんぴら)参りの樽(たる)-金毘羅へ参詣する者は、神酒として径四寸ほどの酒樽を箱に入れて背負って行き、これを奉納する。神へのお供えを途中で飲むとは失礼なことである。■ひよぐり出す-小便をする。■鈴口-男根の先、亀頭の事で、小便の末に振る箏。これも非礼に、神社の拝殿の鈴を振って祈るに見立てた。■羇中(ぎちう)-旅中。■命の洗濯-平成の苦労を慰める楽しみの意の成語。上からは旅はまことに楽しい意、下へは洗濯着物を、むぞうさに着て、と続く。■雲水の~-行雲流水の、気楽な身軽な楽しみ。■足曳の-「やま」の枕詞。■青丹によし-「奈良」の枕詞。■奈良街道-京都と奈良間の街道。■宇治-山城国宇治郡(今の宇治市)で、茶の産地。また古来の名所旧跡が多い。■京ばし-京橋は伏見区の南にある。『都名所図絵』に「京橋のほとりは、大阪より河瀨を引登る船着にて、夜の舟昼の舟、あるは都に通ふ高瀬舟、宇治川くだる柴舟かずかずかまびすく、川辺の家には旅客をとどめ、驚忽なる声を出して饗応(もてなし)けるも・・・」。■下り船-京橋から大阪天満の八軒屋までの下りの客船、いわゆる三十石船。三十石を積む過書船の一種であるが、専ら客用のものをこの名で称する。■八軒屋-大阪の天満橋と天神橋の間の南岸(今の大阪市東区内)。淀川の舟行の大阪での発着地。『摂津名所図会大成』に「東雲の頃より今井船の一番舟二番舟を始め、三十石の昼舟おいおいに纜(ともづな)を解けば、引きちがひて夜舟の着岸す。申の刻より晩時にかけては、夜船の登り、昼舟の下り、終船は初更過にも及ぶあり(埠頭の賑を述べて)昼夜を別たず驚(さわ)がしきは繁盛の証といふべし」。■夜ぶね-京橋を暮過ぎ頃に発し、大阪へ早暁に着く。■やらかそふ-ここは見物しようの意。■乗合-『守貞漫稿』に、三十石船について「大阪より上りは、一日或は一夜也。乗合一人賃銭百四十八文、伏見より下るは、半日或は半夜也、賃せん一人七十二文、蓋し乗合といふ、唯坐することを得るのみ、故に或は一人にて一人半分、或は二三人分を借る、是を仕切りと云ふ。竿を横たへて、席を分 つ」。乗合は安い方。■そふはかいの-そうですよの意。■いつきに-直に。『物類呼称』に「直(ぢき)にといふ事を、大阪及び尾州辺、又は土佐にて、いつきにといふ。其意は休まずして、一ト息に物をする事也」。■へげたれ-阿保。■きのつゑゑべらぼうだ-向こう意気の強い馬鹿。■ねき-「かたわら」の上方方言。これが乗合の体。■とも船の船尾の一区画の称。
原文
のり合「コリヤゑらうつめくさつた。舟頭(せんどう)さん、ふとんひとつかさんせ
せんどう「ソレとらんせ。サアサアみなゑいかいな。下にゐてくだんせ。苫(とま)ふくさかい
あきん人「銭(ぜに)かいなされ。銭はよござりますかな
同「みづからさとうもちさとうもち
同「かんざけよござりますかいな。あんばいよし、あんばいよし
ト此うちせんどうども、舟にとまをふいてしまひ、さほさし出して
うた「ふねは追風(おいて)に帆(ほ)かけてはしる、われはこがれて身をあせる、ソウレソレソレソレなんぞいコリヤゑらう空がわるなつた。ふろかしらんわい
のり合「せんどうさん、ゆふべはちうしやう嶋じやあろ。精進(せうじん)がわるいさかい、コリヤ 雨じやあろぞいのハハハハハハ。ときにどなたも、じよらかいてゐなさらんか。今のうちあんじようせんと、後(のち)に工合(ぐあい)がわるなるさかい
京の人「コレおまい、ちと退(のい)てかさんせ。粽(ちまき)のうへに、いじかつてじやわいな
大阪の人「コリヤ不調法(ぶてうほう)、とかく乗合(のりい)はおたがひに、何じやろと不肖(ふせう)してくれなされ
京「よいわいな。おまい大阪(おさか)はどこじやいな
大阪「わしや道頓堀(だうとんぼり)
京「かいな。どとんぼりのしゆは、みな藝子(げいこ)じや。ナント、ここで何なとひとつ、やりなさらんかいな
長さきの人「コリヤよかたい。船中のねぶり目ざましに、あんたしゆ、ひとつヅツ藝能(げいのう)やらしやつたらよかたい。うんどもは長さきのもんじやが、能毛川嶋(のもかはしま)のぼうぶらまくらで、かみさしぽつきりでもやろふばいよヲ
越後の人「コリヤゑいことんし。わしどもはいちごのもんだが、長崎のあんにやさがやらしやつたら、わしも国風(くにふう)のおけさ松坂でもかたるべいとこと
北八「こいつはおもしろへ、マア長崎のお客からはじめなせへ
ながさきの人「よかよか。これしこやらふばい
トむしやうに手をうちたたき
うた「おまへよかはたわしよふりすてて、よんにようしやんすとちぎらんす、コリヤ どんくが飛(とぶ)なら桶(おけ)かぶせ、それでもとぶならきねおけきねおけ、コリヤコリヤコリヤなんじやいな
現代語訳
乗合「こりゃあ、えろう詰めくさった。船頭さん、布団一つ貸さんせ」
船頭「それ、取らんせ。さあさあ皆えいかいな。下にいてくだんせ。苫を葺くさかい」
商人「銭に両替なされ。使うに便利な銭はよござりますかな」
同「昆布菓子に、砂糖餅、砂糖餅」
同「燗酒よござりますかいな。こんにゃく豆腐のあんばいよし、田楽豆腐のあんばいよし」
とそのうちに船頭どもが舟に苫を葺いてしまい、竿を差し出して、
歌「ふねは追風(おいて)に帆かけて走る。われは焦がれて身をあせる。そうれそれそれそれそれなんぞいこりゃえろう空模様が悪なった。降るかもしらんわい」
乗合「船頭さん、夕べは中書島じゃあろ。行いが悪いさかい、こりゃあ、雨じゃあぞいの、はははははは。時にどなたも、胡坐をかいていなさらんか。今のうち座の具合を、好都合にしておかないと、後で具合が悪なるさかい」
京の人「これ、おまい、ちと退てかさんせ。粽8ちまき)の上にあぐらかいてじゃわいな」
大阪の人「こりゃ失礼。とかく乗合はお互いに、何じゃろと我慢してください」
京「よいわいな。おまい大阪(おさか)はどこじゃいな」
大阪「わしは道頓堀」
京「左様か。道頓堀の衆は、みな芸達者じゃ。なんと、ここで何なとひとつ、やりなさらんかいな」
長崎の人「こりゃ、よかたい。船中の眠気覚ましに、あんた衆、一つづつ芸をやらしゃったらよかたい。自分たちは長崎の者じゃが、野毛川島の南瓜(ボウフラ)枕で簪(かんざし)ぽっきり、でもやろうばい」
越後の人「こりゃあ、いいことんし。わしどもは越後(いちご)の者だが、長崎の兄さんがやらしゃったら、わしも国風のおけさ松坂でも語るべい」
北八「こいつは面白え、まあ長崎のお客から始めなせえ」
長崎の人「よかよか。是をばやりましょう」
とやたらと手を打ち叩き、
歌「おまへよかはた、わしょふりすてて、よんにょう(だいぶん)しやんす(色女)とちぎらんす、コリヤ 蛙(どんく)が飛(とぶ)なら桶(おけ)かぶせ、それでもとぶなら杵おけ杵おけ、こりゃこりゃ、なんじやいな」
語句
■苫-菅 (すげ) や茅 (かや) などを粗く編んだむしろ。■ふく-かける。■苫ふく-船の中央に棒ようのものを通し、それに苫をかけ覆い、船中の雨風や夜気をふせぐ。■銭かい-金銀の貨幣を、銭に両替すること。■みづから-昆布又は昆布に若干手を加えた菓子。■さとうもち-砂糖をまぶし、または練り込んだ餅。■かんざけ-燗をした酒。■あんばいよし-豆腐やこんにゃくに、味噌をつけた田楽。■空-空模様。■ちうしゃう嶋-中書嶋。『拾遺郡名所図会』に「中書嶋、豊後橋(伏見の)西にあり、・・・近年遊女町となりて、・・・旅客の船をとどめ」。■精進がわるいさかい-中書島で遊女を買ったのかと、からかっている。■じよら-「丈六」の転で、仏像の座したごとく、あぐらをかくこと。■あんじようせんと-座の具合を好都合にしておかないとの意。■粽(ちまき)-茅の葉で、しん粉の餅を包んで作った餅。土産の粽を持った、愛宕参詣の下向客は、下り船の一点景であるが、それを描いて「京の人」としたのは、一九の失考であろう。■いじかつて-居座る。■不調法-失礼。ここは失礼を謝る言葉。■不肖してくれなされ-我慢してください。■道頓堀-大阪南方で、劇場が並び近くに花街も多い繁華街。■かいな-「左様か」の大阪言葉として使用。■藝子-ここは芸達者の意。■よかたい-「よい」を「よか」、語尾に「たい」の序詞をつける以外は、ただ『物類呼称』を利用して、それらしく作った長崎方言である。■うんども-「自分達」の意の方言。■能毛川嶋-長崎郊外の地名(長崎県西彼杵郡野母崎町)。■ぼうぶら-南瓜。ポルトガツ語から変化した。■いちご-「越後」。越後では、「え」を「い」と発音する。■かみさしぽつきりでもやろふばい-南瓜を枕にして簪をぽっきり折るという歌でも歌おう。■あんにやさ-兄さん。■おけさ-新潟・柏崎・出雲崎など、諸地に残っている民謡。■松坂-松坂節(または松坂音頭。越後の加茂松坂、新津松坂では盆踊歌)。■これしこやらふばい-「是をばやりましょう」の意。■よかはた~-良い凧。長崎名物の凧あげで、美しい女にからんで行ったことに、恋の情をよせた歌。■よんにやう-多い。(肥州弁)。■しゃんす-女色(長崎の方言)。■どんく-ひきがえる、・・・西国にてわくどう、又どっくう。このところ、はやし詞。卑猥の意を寓している。
原文
のり合「イヨイヨゑらでけじや
ゑちごの人「わしどもやるべい みんなそれから トコトントコトンと はやしてくれさつしゃい
長さき「よかよか合点(がつてん)あろふ
のり合みなみな手を打ちたたき
トコトントコトン
ゑちごうた「お長(ちよ)なよつぱらかんだ まめでたかおちよな
のり合みなみな「 トコトントコトン
ゑちごうた「にがた一ばん すいぎゆのくしを
のり合「トコトントコトン
ゑちご「にしにさつくれべいと六百文で求(もと)めた
のり合「トコトントコトン
弥次「ハハハハハハおもいろへおもしろへ
京「イヤゑどのお客(きやく)に何ぞ、所望(しよもう)しよじやないかい
弥次「ソリヤもふ、琴三弦胡弓(ことさみせんこきう)、なんでもちつとヅツはやりやすが、ここにやアそんなものは、ねへからはじまらねへ
京「おまいのこうせきでは、こはいろが出るじやあろ。誰(だれ)なと、 ゑど役者(やくしや)やりなされ
弥二「声色(こはいろ)も二十三十ばかりはつかひやすが、誰(だれ)にしよふ。源之助か三津五郎か、イヤ高麗屋(かうらいや)にしやせう。しかしゑど役者は、おめへがたにやア わからねへからつまらねへ
大阪「ハテゑいわいの、ひとつやりなされ
弥次「みそじやアねへが、声色(こはいろ)はゑどでも一ばんといふ男さ。誰でもうしろをうたふ人があると、すつぱりやつて見せるがなア
京「うしろうたふとは呼出しのことかいな。わし、やろわい 口三弦(くちさみせん)じや。チチツツンチンシヤン
うた「これはおゑどの境町(さかいてう)や、ふきや町に名もたかき、やくしやこはいろはどふじやいな。たれじやいな。松本の幸四郎でせい。チチチチチチチン
現代語訳
乗合「いよう、いよう。えらい上出来じゃ」
越後の人「わしどももやるべい。皆それから、とことんとことんと囃してくれさっしゃい」
長崎「よかよかわかっとるばい」
乗合は皆々手を打ち叩き、
とことんとことん
越後歌「お長さん、久しぶりだった。達者でいたか、お長さん」
乗合皆々「とことんとことん」
越後歌「新潟一番、水牛の串を」
乗合「とことんとことん」
越後「あんたにあげようと六百文で手に入れた」
乗合「とことんとことん」
弥次「はははははは、面白い面白い」
京「いや、江戸のお客に何ぞ所望しようじゃないかい」
弥次「そりゃあもう、琴・三味線・胡弓何でもちっとづつはやりやすが、ここにゃあそんなものは、ねえから始まらねえ」
京「おまいの口ぶりでは声色が出るじゃあろ。誰なと、江戸役者をやりなされ」
弥次「声色も二十三十ばかりは使いやすが、誰にしよう。源之助か三津五郎か、いや高麗屋にしやしょう。しかし江戸役者はおめえ方にゃあ、わからねえからつまらねえ」
大阪「はて、えいわいの、ひとつやりなされ」
弥次「自慢じゃあねえが、声色は江戸でも一番という男さ。誰でも、後ろを歌う人がいれば、あざやかにりやって見せるがなあ」
京「後ろ歌うとは呼出の事かいな。わしがやろわい。口三味線じゃ。ちちつつんちんしゃん」
歌「これなるはお江戸の境町や、葺屋町に名も高い、役者の声色はどうじゃいな。えええと、誰じゃいな。松本の幸四郎でつせえ。ちちちちちちちん」
語句
■ゑらでけ-上出来。■合点あろふ-承知しよう。■お長(ちよ)なよつぱらかんだ~-お長さん、久しぶりだった。達者でいたか、お長さん。「よっぱるか」は、世遥かの音便かという。久しいの意。■すいぎゆのくし-水牛は亀甲のまがい物として櫛を作る材。■にしにさつくれべへと-「にし」は「ぬし」の訛り。あんたにあげようと、の意。■胡弓-弦楽器の一。三味線の小さいような型で、三弦、後には四弦を張り、馬の尾で作る弓でこすって音を出す。■こうせき-口跡。物言う風。■こはいろ-声色。歌舞伎役者のせりふ、その他の音声を摸する芸。歌舞伎の声色が特にこのころ流行。■源之助-四代目沢村宗十郎の初名沢村源之助(初代、1784~1812)。当時若手の人気役者。文化八年(1811)宗十郎襲名。■三津五郎-三代目坂東三津五郎(1773~1831)。寛政十一年(1799)襲名。和時と踊りの名手。■高麗屋-五代目松本幸四郎(1764~1838)の家号。享和元年(1801)襲名。俗に鼻高幸四郎と称され実悪の名人。以上三人を並べたのは、男役ならなんでもできるという意味。■みそ-味噌。自慢。■うしろをうたふ-声色を使う場合に、他の人が後ろに居て、「請取ったりや、其次は是も同じく役者にて、市川海老蔵で頼みやす」などという。後には端歌などを歌ったりした。■すつぱり-あざやかに。■境町・葺屋町-共に江戸の大芝居、境町には中村座、葺屋町には市村座があった。■松本の幸四郎-高麗屋のこと。
原文
のり合「イヨ松もとヲ
弥次「まんまと、うばひとつた此一巻(くはん)、是さへありやア出世(しゅつせ)の手がかり、大願成就(だいぐはんじやうじゆ)かたじけない
京「コリヤやくたいじや。わしやゑどに五六年ゐて、此間戻(もど)つたわいな。高麗屋はそないな、こうせきじやないもせんもの
大阪「わしひとつやろわいの
京うた「是はねつからでけませぬ。さて又つぎの役者名は、たれじやいな
大阪「やるぱり今のじや
ト此大阪ものはゑどにもゐて、こはいろもまんざらでなければ、わざともん句も、そのままにいふ
まんまとうばひとつた此一くはん、これさへありやア出世の手がかり。大願成就かたじけない、トハ不調法
のり合「イヨかうらいやア
京「コリヤきよといきよとい。おさかのおかたのがほんまじや。おまいのは高麗やとはきこへんわいな
弥次「きこへんはづだ。コリヤア信州(しんしう)松本のもので幸四郎が弟子(でし)の胴(どう)四朗がこはいろだ
京「そんなこつちやあろぞいなハハハハハ
ト船中 弥次郎のへこんだのをおかしがりどつと笑ふ。弥次はしよげてだんまり 此内舟ははや淀を過て
弥次「ときにきた八、とんだことをわすれた。ふねにのるまへに、小便(べん)すればよかつたものを、例のとをり、船ではどふも、あぶなくてしにくい。こまつたものだ。コレ船頭さん、ちよつくり舟をつけてもらひてへの
せんど「あがるのかいの
弥次「せうべんせうべん
せんどう「エエふなべりへちよちよこなつて、ひよぐらんせひよぐらんせ
弥次「それができりやアいひぶんはねへ。アアもふもふ、出そふになつて来た
トうろうろする。此弥次郎北八、ともの間と、どうの間のさかいの所にゐたるが、どうの間三人前かりきりにして、十二三のまへがみつれたる、ゐんきよらしきぢいさま、よひより弥次郎北八と、はなしなどしてゐたりけるが、せんこくより、ふとんかぶりてねころびゐながら
現代語訳
乗合「いよ~う松本~を」
弥次「まんまと奪ったこの一巻、是さえありゃあ出世の手掛り。大願成就かたじけない」
京「こりゃ、めちゃくちゃじゃ。わしゃあ江戸に五六年居てこの間戻ったわいな。高麗屋はそないな口跡じゃないものを」
大阪「わし、ひとつやろわいの」
京歌「これはねっからでけませぬ。さて又次の役者は誰じゃいな」
大阪「やっぱり今のじゃ」
とこの大阪者は江戸にも居て、声色もまんざらでなければ、わざと、文句もそのままに言う」
「まんまと奪ったこの一巻、これさえありゃあ出世の手係り。大願成就かたじけない、とは不調法」
乗合「いよ~う高麗屋~あ」
京「こりゃあ恐れ入った、恐れ入った。大阪のお方のがほんまじゃ。おまいのは高麗屋とは聞こえんわいな」
弥次「聞こえんはずだ。こりゃあ信州松本の者で幸四郎の弟子の胴四朗の声色だ」
京「そんなこっちゃあろぞいな、はははははは」
と船中、弥次郎兵衛がへこんだのを可笑しがりどっと笑う。弥次はしょげてだんまり。そのうちに舟は早くも淀を過ぎ、
弥次「時に北八、とんだことを忘れた。舟に乗る前に、小便すればよかったものを、例のとおり、舟ではどうも、危なくてし難い。困ったものだ。これ船頭さん、ちょっくり舟をつけてもらいてえのぅ」
船頭「上るのかいの」
弥次「小便、小便」
船頭「ええ、それなら船縁へ小さくなってやりなせえ。遠慮はいらぬ、川の中へ」
弥次「それができりゃあ文句はねえ。ああ、もうもう出そうになってきた」
とうろうろする。この弥次郎北八は「とも」の間と、「どう」の間の境の所にいたが、「どう」の間は三人前貸し切りにして、十二、三の小僧を連れた隠居らしい爺様が乗り合わせていて、弥次郎北八と話などしていたが、さっきから布団を被って寝転んでままで、
語句
■まんまと-うまうまと。以下悪役が、宝物とか伝授の巻物など、盗んだ時のせりふ。■やくたい-めちゃくちゃ。■ないもせん-「ない」の意の上方語。■是はねっからでけませぬ-これは不出来であった。■不調法-これは出来悪く失礼したの挨拶。■きよとい-恐れ入った。感心して発する語。■信州松本の~-信濃(長野県)松本(松本市)の者で、幸四郎の弟子。「どうしろ、こうしろ」の語から作った名。弥次郎兵衛のへらず口である。■淀-淀川にのぞんだ城下町(今は京都市伏見区)。城と水車が一景観をなした。■ちよちよこ-小さくなって。かがむ。つくばう。■ひよぐらんせ-小便しなさい。■いひぶん-文句。■どうの間-胴の間。船の中央部の広い一画。■まへがみ-前髪を立てた少年の召使。丁稚小僧。
原文
いんきよ「モシモシ、おまい小用(せうよう)におこまりなら、ぶしつけながら、わしがしびんかしてあぎよかいな。コレコレ長松よ長松よ、イヤこいつもふ、ねくさつたそふじや。モシそこらにあろぞいの。だんない そつちやへもてかんせ
弥次「それはありがたふござりやす
トくらがりまぎれに、となりをさぐりまはせば、はこ火ばちのうしろにどびんあり。上がたにては、これをきびしよといふ 今ゑどにもたまさか見へたり。弥次郎これをしびんとこころへ、とりいだして
「ハアここにござりやした。こいつはじんじやうなしびんだはへ
ト持つ手の所を、くちとこころへ、まへにあてがへども、あななければ、さてはくちに、こめてあるせんが、おくのほうへひつこんだものであろふと、ゆびをいれて、つつきまはすうち、しきりにせうべんがもるよふになり、心はせく、ふたのおちたをさいわい、ハハアここにもくちがあると、うへのほうから、シウシウと、せうべんをしてしまひ
「ハイありがたふございやした
トとなりへそつとやつておく。いんきよやがておきなをり
「こりやゑらうさむなつた。長松、おきて火イともさんかい。酒なとやろわい。コレ目イさまさんかさまさんか。コリヤやくたいじや
トそこらさぐりまはして、火ばちの火をつけ木にうつし、小でうちんをともして、ふなばりにぶらさげ、きびしよをとつて
いんきよ「ヤアコリヤ何じやい。ハハア茶(ちや)をたくつもりで、水がな入れておきおつたそふじや
トいひつつ、とまの間から、きびしょを出し、弥次郎がしこんだせうべんを、川の中へうちあけてしまひ、すぐに樽のさけをあけて、かの火ばちのうへにかけながら
いんきよ「モシゑどのお客、さけひとくちどふじやいな
北八「コレハおたしなみでございやすね
いんきよ「もふでけたそふじや
トさいろうのにしめなど出し、いんきよ、さかづきに少しついで
いんきよ「ドレおかん見ましよかい。イヤこれは、けたいな香(か)がするペツペツペツ。コリヤ酒がわるなつたのか、よもやそじやあろまい。ひとつおまいのんで見てくだんせ
現代語訳
隠居「もしもし、おまい小便するにお困りなら、不躾ながら、わしの尿瓶を貸してあぎょかいな。これこれ長松よ、いや、こいつもう、寝くさったそうじゃ。もし、そこらにあろぞいの。いいから、そっちへ持て行かんせ」
弥次「それはありがとうございます」
と暗がりの中、隣を探りまわすと、箱火鉢の後ろに土瓶がある。上方では、これをきびしょというが、今では江戸でもたまさか見かけることのあるものだ。弥次郎はこれを尿瓶と勘違いして取り出して
「はあ、ここにござりやした。こいつは普通の形をした尿瓶だわえ」
と取っ手の所を口と思い、前にあてがってみるが、穴が無いので、さては口に込めてある栓が奥の方へ引っ込んだものだろうと、指を入れて、突きまわすうちに、しきりと小便が漏るようになり、心はせき、蓋が落ちたのを幸いに、ははあ、ここにも口があると、上の方からしゅうしゅうと小便をしてしまい
「はい、ありがとうございやした」
と隣へそっと戻しておく。隠居がやがて起き直り、
「こりゃあえろう寒うなった。長松、起きて火い灯さんかい。酒などやろわい。これ、目い覚まさんか、覚まさんか。こりゃ役立たずじゃ」
とそこらを探りまわして、火鉢の火をつけ木に移し、小提灯を灯して、船縁にぶら下げ、きびしょを取って
隠居「やあ、こりゃ何じゃい。ははあ、茶を炊くつもりで水を入れておきおったんやな」
と言いながら、とまの間から、きびしょを取り出し、弥次郎が仕込んだ小便を川の中へぶちまけてしまい、すぐに樽の酒と入れ替えて、かの火鉢の上に架けて燗をする。
隠居「もし、江戸のお客人、酒一口どうじゃいな」
北八「これはお楽しみでございやすね」
隠居「もうでけたそうじゃ」
と(さいろう)の煮しめなど取り出し、隠居、盃に少し注いで
隠居「どれ、燗のつき具合を見ましょかい。いや、これは、変な匂いがする。ぺっぺっぺっ。こりゃ酒が悪くなったのか。よもやそうじゃあろまい。ひとつおまい飲んでみてくだんせ」
語句
■ぶしつけながら-不躾ながら。失礼ながら。■しびん-手近に置いて、小便をしこみ、後で捨てる容器。金属・陶器で製し、老人・病人の寝床や、船中などで使用する。■長松-丁稚小僧の通名。略して「ちょま」。■だんない-「差支えない」意の上方語。■はこ火ばち-長方形の箱の中に作った火鉢。■どびん-土瓶。■きびしよ-急須(きゅうす)のことで、「急焼」(福建音)の訛という。■じんじやうな-普通の形をした。■もつ手-取っ手。■つけ木-火打石で出した火を点けて、更に煙草その他へ移す薄い木片。■ふなばり-和船で、両側の外板の間に横に渡した角材。水の横からの圧力を防ぐとともに、間仕切りの用をもしている。■樽のさけ-手持ちの小さい樽に酒を詰めてきていた体。■おたしなみ-ご用意の良い事で。準備の良いことを、ほめた言葉。■さいらう-菜籠。外出の時に飯や菜を入れる木製の重箱のごときもの。■にしめ-煮しめ。魚類・野菜類をよく煮て、醤油や甘みを染み込ませたうえで、水分を切ったもの。弁当や大鉢に用意して、客席へ出す肴。■おかん見ましょ-燗の程度を調べる。■けたいな-変な「。変った。
原文
トきた八へさかづきをさす
北八「ハイこれはヲトトトトト
ト引うけてぐつとのんでしまひしが、何とやら、しほばゆきよふにて、へんなにほひのするさけだと、こころにおもひながら、むねをわるくして、なでさすりなでさすり
「ハイいただきやした
いんきよ「おつれのおかたへあげてくだんせ
北八「そんなら弥次さん、ソレ
トさかづきをまはす。弥次郎はせんこくより、これを見てふしぎにおもひ、なんでもあれはおれがせうべんをしたしびんだが、それでさけのかんをするといふは、どふしたものだ。ただしは、おれがそそうで、しびんとおもつて、せうべんしたのか。何にしても、とんだことをしたと、心のうちに、ふたりがかほをしかめるを見て、おかしさこらへられず、それとしらずにあのうちのさけを、北八がのみたるを、ふきいだすほどおかしく、じつとこらへいたりし所へ、北八さかづきをさしければ
弥次「イヤおらア御めんだ。なぜかこよひは、酒がのみたくねへ。お盃(さかづき)ばかり、ハイそれへあげませう
いんきよ「あがらんのかいな
北八「ナニあびるくらいさ。弥次さん、なぜのまねへ。さけといふと、一ばんに咽(のど)をぐいぐいするおめへが、コリヤア何でも、へんちきだはへ
いんきょ「ハハアきこへたことがあるわいの。今そつちやのお方がくらがりでしびんとまちがへて、このなかへ小用(せうよう)しこみやさんせんかいの。どふもせうようくさいとおもふたが、コリヤおまい、そじやさかい、のまんのじやあろぞい
北八「ソリヤしれやせん。桑名(くはな)のわたしでも、此人が船の中で小便(せうべん)して、大さはぎをやりやした。そのくらへの麁相(そそう)は、しかねん人さ。エエきたねへ。ゲエイゲエイ
いんきよ「どうりこそ、きびしよに何か一ツぱいあるとおもふたが、わしや又、此わろ(童)めが、水入れておきおつたと思ふて、川へほつたが、どふでもせうようのおどもりが、のこつてあつたものじやあろぞい
北八「とんだこつた。むねがむかむかする
いんきよ「アアこりや、 ゲエイゲエイ。長松よ背中たたいてたも。アアむさやの、ゲエイゲエイ
弥次「これはおきんどくな。モシ何ぞ薬でもあがりやし。しかし小便のあたつたには、何がよかろふしらん。モシモシ、どなたぞ丸薬(ぐはんやく)でも御所持(ごしよぢ)なら、少し下さいましな
現代語訳
と北八へ盃をさす。
北八「はい、これは。おっととととと」
と引受けてぐっと飲んでしまったが、何となくあと口に塩っぽいような妙な味が残っていて、変な匂いのする酒だと、心に思いながら、胸を悪くして、撫でさすり、撫でさすり
「はい、いただきやした」
隠居「お連れのお方へあげてくだんせ」
北八「そんなら弥次さん、それ」
と盃を回す。弥次郎は先ほどから、これを見て不思議に思い、何でもあれは俺が小便をした尿瓶だが、それで酒の燗をするというのは、どうしたものだ。俺の粗相で、尿瓶と思って小便をしたのか。何にしても、とんだことをしたと、心の中で、二人が顔をしかめるのを見て、可笑しさをこらえきれず。そうとは知らずにあの中の酒を北八が飲んだのを吹き出すほど可笑しくて、じっとこらえていた所へ、北八が盃をさしたので、
弥次「いや、俺は御免だ。何故か今夜は酒が飲みたくねえ。お盃ばかりで結構。はい、それへあげましょう」
隠居「飲まんのかいな」
北八「なに、浴びるくらいさ。弥次さん、何故飲まねえ。酒と言うと一番に咽をぐいぐいするおめえが、こりゃあ何でも変てこだわえ」
隠居「ははあ、解ったことがあるわいの。今そっちやのお方が暗がりで尿瓶と間違えて、この中へ小便しこんだんじゃないかいの。どうも小便臭いと思うたが、こりゃ、おまい、そじゃさかい飲まんのじゃあろ」
北八「そりゃ、そうかもしれやせん。桑名の渡しでも、この人が船の中で小便して、大騒ぎをやりやした。そのくらいの粗相は、しかねん人さ。ええ、汚い。げえっげえっ」
隠居「道理だな。きびしょに何かいっぱいあると思うたが、わしは又、この小僧めが、水入れておきおったと思って、川へほったが、それでも小便の残りが、残っておったもんじゃろぞい」
北八「とんだこった。胸がむかむかする」
隠居「ああ、こりゃ、げえっげえっ。長松よ、背中叩いておくれ。ああ、汚いな。げえっ、げえっ」
弥次「これはお気の毒な事になりやした。もし何ぞ薬でもあがりますか。しかし、小便があたったには、何がいいかわからん。もしもし、どなたか丸薬でもお持ちなら少し下さいましな」
語句
■あがらんのかいな-酒が飲めないのですか。■喉をぐいぐいする-いくらでもたくさん飲むの意。■小用-小便。上方では、やや上品な言葉として使用。■ソリャしれやせん-そうであるかもしれません。■そのくらへの麁相(そそう)は、しかねん人-それ程のしくじりはやりそうな人物。■わろ-小僧を指して言う。■おどもり-残ったもの。
原文
のり合「ハイどふもせうべんのあたつたに、よいくすりはもちませんわい
弥次「ソリヤアこまつたものだ
北八「弥次さん、苫(とま)をちつとまくつてくんな
弥次「どふする
北八「せうべんを
弥次「するのか
北八「はくのだはな
弥次「ドレふなべりへ、ぐつと顔(かほ)を出してやらかつし。おれがつかまへてゐてやろう。ソレよしか、シイ~シイ~シイシイ。どふだまだか。エエ川の中だから犬がいねてでわりい
北八「ナゼ犬がいるとどふする
弥次「てめへ小便をはくのに、白(しろ)コイコイコイコイとよんでやるは
北八「エエばかアつくすゲエイゲエイ
ト此うちいんきよは、やうやうにはいてししまひ、川の中にうがひし、くちをあらひて
いんきよ「どふじやそつちやのおかた、ゑいかいの
北八「どふやらこうやら、よくなりやした
トくちをそそぎて、まじめなかほ。弥次郎は心のうちに、おかしさをかくしている。いんきよけつかうじんと見へて、かくべつはらもたてず
いんきょ「イヤもふおたがひに、どゑらいめにあふたこつちや。くちなをしに、あとの酒やりたいが、かんをするんがなふなつた。どふせうぞいの
長まつ「そしたら、こつちやにある、ほんまのしびんでさけのかん、いたしましよかい
いんきよ「ホンニそふじや。ほんまのしびんのほうがきれいじや。藤(ふぢ)の森(もり)でけふ買(か)うてきたままで、まだ壱度もせうようせんさかい、それでかんせうわい
北八「めつそふな、あやまりやすね
現代語訳
乗合「はい、どうも小便のあたったのに効く薬は持ちませんわい」
弥次「そりゃあ困ったものだ」
北八「弥次さん、苫をちっとまくってくんな」
弥次「どうする」
北八「小便を」
弥次「するのか」
北八「吐くのだわな」
弥次「どれ、船縁へ、ぐっと出してやらかっし。俺が捕まえていてやろう。それいいか、シイ~シイ~シイシイ。どうだまだか。ええぃ川の中だから犬がいねえで不便するぜ」
北八「何故、犬がいるとどうするんだ」
弥次「せめて小便を吐くのに、白コイコイコイコイと呼んでやるわい」
北八「ええぃ、馬鹿げたことをするもんだ。げっげっ」
と口をそそいで真面目な顔。弥次郎は心の中に、可笑しさを隠している。隠居は結構人とみえて、格別腹も立てず、
隠居「いやもうお互いに、どえらい目に遭ったこっちゃ。口直しに、残りの酒を飲みたいが、燗をするのが無くなった。どうしょうぞいの」
長松「そしたら、こっちゃにあるほんまの尿瓶で酒の燗いたしましょかい」
隠居「ほんにそうじゃ。ほんまの尿瓶のほうがきれいじゃ。藤の森で今日買ってきたままで、まだ一度も小便せんさかい、それで燗しょうわい」
北八「滅相な。簡便してくれ」
語句
■はくのだわな-小便を掃くも滑稽だが、以下それを小児に小便させるように、世話を焼くのも滑稽。■白コイコイ-小児に小便をさせる時に、白とか黒とか、犬を呼び、それに向ってさせる習慣があることを利用。■ばかアつくす-馬鹿げたことをする。子ども扱い。「はく」を「する」にした悪洒落を怒る語。■かつかうじん-結構人。気の良い人柄。■藤の森-京都から伏見街道に沿って、深草の南(今の京都市伏見区内)にあり、藤の森神社(舎人親王・早良親王・伊予親王を主神とし、武功の神を配祀する)があるので有名。この地一帯には深草焼とか伏見人形の名で、素焼の焼物を作り、街道でも売っていた。その一つであるの意。■あやまります-閉口だの意。
原文
弥次「ばかアいふな。茶(ちゃ)は土瓶(どびん)の茶がうまし、酒のかんはしびんのことだは
北八「ナニしびんの酒が、のめるものか
弥次「そんなら、モシ御ゐんきよさま、やつぱり今の、きびしよとやらになさいませ
いんきよ「きびしよは川へほったわいの。しびんのほうがあたらしいさかい、きれいじやわいの
ト樽のさけをしびんにあけて火ばちのうへにかけて
いんきよ「長松、そこな茶碗おこせ。サアサアほんまのさけじや。ソレおまいがたさそかい
トちやわんをさしいだす、弥次郎ちやつと引とり
「いただきやせう
いんきよ「むしのゑいお人じや。肴(さかな)あぎよかい。煎殻(いりがら)あがるかいな
弥次「ハイハイこれは、なんでござりやす。
いんきよ「ソリヤ鯨(くじら)の油とつたあとの身じやさかい、煎殻といふわいな
弥次「いいものでございやすね。サア北八さそふか
トきた八へちやわんをまはし、しびんをとりてつぐ。あたらしきしびんとききて、なるほどだいじもあるまいと一ぱいひきうけて、ぐつとのんでしまい
北八「小便のまざらぬ酒は、また格別だ。ハイあげやせうか
いんきよ「みな乗合のおうしろへ、ひとつづつあげてくだんせ
北八「さやうならおとなりの
トつぎにいたゑちごの人にさす
ゑちご「ヤレふとついただくべいとこと
トちやわんを取る 北八しびんからつぎにかかる
ゑちご「ソリヤ小便(ばり)のする、やきたごじやアござらないか
北八「ナニこのしびんは、新(あたらし)いからきれいさ
現代語訳
弥次「馬鹿なこと言うな。茶は土瓶の茶がうまい。酒の燗は尿瓶にかぎるのよ」
北八「なに、尿瓶の酒が飲めるものか」
弥次「そんなら、もし、御隠居様、やっぱり今のきびしょとやらになさいませ」
隠居「きびしょは川へ捨てたわいの。尿瓶のほうが新しいさかい、きれいじゃわい」
と樽の酒を尿瓶にあてて火鉢の上へかけて、
隠居「長松、そこにある茶碗を寄こせ。さあさあほんまの酒じゃ。それ、おまいがたさそかい」
と茶碗を差し出す。弥次郎はさっと受け取り、
「いただきやしょう」
隠居「虫のいいお人じゃ。肴あぎょかい。煎殻あがるかいな」
弥次「はいはい、これは、何でござりやす」
隠居「そりゃあ、鯨の油をとった後の身じゃさかい、煎殻と言うわいな」
弥次「いいものでございやすね。さあ北八さそうか」
と北八へ茶碗を廻し、尿瓶を取って注ぐ。新しい尿瓶と聞いて、なるほど問題はあるまいと一杯引受けて、ぐっと飲んでしまい、
北八「左様なら、お隣の」
と次にいた越後の人に注す。
越後「やれ、ひとついただくべい」
と茶碗を受け取る。北八は尿瓶から注ぎにかかる。
越後「そりゃあ、小便をする、やきたごじゃあござらないか」
北八「なに、この尿瓶は新しいからきれいさ」
語句
■茶は土瓶-煎茶などには土瓶のものを専ら使用する。■肴(さかな)あぎよかい-酒の肴をさしあげようか。■煎殻-『浪速聞書』に「鯨肉の油とりたるをいふ」。大阪方面では、早くからこれを、煮付けて食した。■いいものでございやすね-酒の肴としては結構いけるものだ。■ふとつ-ひとつ。「ひ」と「ふ」を混じるも越後方面の一特色。■小便(ばり)-「小便」の田舎言葉。■やきたご-ここは「しびん」の越後方言とするが、焼担桶。焼物の肥たごの意で、一九の作ったものか。
原文
トついでやれば、ぐつとほして
ゑちご「アアゑいことんゑいことん。サアながさきのあんにやさ、やらつしやるか
トちやわんを廻せば長さきの人うけて
「ナイコリヤ、気のどんくうなことばよヲ
いんきよ「だんだんそつちやのおかたへ、あげてくだんせ
長さき「しから、あんたへさんじますたい
トそのつぎの人へさす。是は病人と見へて、いろのあをざめたるあかだらけの男、ゑりにわたをまきて、ふとんによりかかり、もつ共四人まへばかりかりきりにして、かいほうのおやぢと、ふたりづれにていたるが
びやう人「わしはさけはいかんさかい、こなんひとついただかんせ
ト供のおやぢにゆづる。せんこくより、しびんのきれいなることもききいたることなれば、いつかうかまはず
おやぢ「モシモシ、はばかりながら、そのしびん、こつちやへくだんせ。手酌(てじやく)にてやりましよかい
ト此おやぢ酒ずきと見へ、つづけて二はいやらかし、だんだんちやわんをもとへおくりかへせば、弥次郎兵へとりつぎて
弥次「サアゐんきよさまあげませう
いんきよ「イヤおまい、まひとつのんでおこさんせ
弥次「はいはいさやうなら、モシそのしびんをこちらへ
びやうにんの所のおやぢ「ハイハイそれへ
トしびんをおくりもどす。北八とつて弥次郎へ、なみなみとついでやる。弥次ひといきにぐつとのんでちやわんをなげだし
弥次「エエエエエエこりやとんだこつた。ゲエイゲエイ
北八「弥次さんどふした
弥次「どふした所か、コリヤ酒じやねへ。小べんだ小べんだ
おやぢ「ハハアこれはしたり、そそうしました。わしらがとこの御病人のしびんと、取違へました。サアサア酒のはここにある。ソレとりかへてくだんせ
現代語訳
と注いでやると、ぐっと干して、
越後「良いこと、良いこと。さあ、長崎の兄さあ、やらっしゃるか」
と茶碗を廻すと長崎の人は受けて、
「なに、こりゃ、気の毒なことですな」
隠居「だんだん送りにそっちの方へあげてくだんせ」
長崎「それでは、あなたへあげましょう」
とその次の人へ注す。是は病人と見えて、色の青ざめた垢だらけの男が首に綿を巻いて、布団に寄りかかり、もっとも四人前ほどの場所を借り切りにして、介抱する親爺と、二人連れで座っていたが、
病人「わしは酒は飲めんさかい、お前ひとついただかんせ」
と伴の親爺に譲る。先ほどから、尿瓶がきれいであることも聞いていたので、いっこうに構わず、
親爺「もしもし、はばかりながら、その尿瓶こっちゃへくだんせ。手酌にてやりましょかい」
とこの親爺は酒好きと見えて、続けて二杯も飲んで、だんだん茶碗を元へ送り返すと、弥次郎兵衛が取り次いで、
弥次「さあ、隠居さま、あげましょう」
隠居「いや、おまい、もう一杯のんでからおこさんせ」
弥次「はいはい、それなら、もし、その尿瓶をこちらへ」
病人の所の親爺「はいはい、それへ」
と尿瓶を送り戻す。北八が受け取って、弥次郎兵衛へなみなみと注いでやる。弥次は一息にぐっと飲んで茶碗を投げだし、
弥次「ええええええ、こりゃ、とんだこった。げぇい、げぇい」
北八「弥次さん、どうした」
弥次「どうしたどころか、こりゃあ酒じゃねえ。小便だ、小便だ」
親爺「ははあ、これはしたり、粗相しました。わしらがとこの御病人の尿瓶と取違えました。さあさあ酒の尿瓶はここにあります。それと取り換えてくだんせ」
語句
■ゑいことん-よいことよいことの意。■気のどんくうなことばよヲ-気の毒なことですな。人に物をもらって感謝する語。■しから-それでは。■さんじますたい-参じましょうよの意。■ゑりに綿をまきて、ふとんによりかかり-首に綿を巻き、病体で寒気・夜気をさける体。■もつ共-もっとも。■手酌(てじやく)にて-自分で酒を茶碗に注いで。
原文
北八「ハハハハハハこいつ大でき大でき
弥次「エエもふ、どふしたらよかろふ。此くらへなら、おれがせうべんをのむはまだしも、アノ病人(びやうにん)めが、エエわるくさい。ゲエイゲエイペッペッペッ
北八「ハハハハあの病人の顔を見な。瘡(かさ)と見へて、あたまから首筋(くびすじ)のあたりまで、じくじく
弥次「エエエエもふいつてくれるな。咽(のど)がさけるよふだ。アアくるしい。ゲエイゲエイ
北八「とかくおめへは小便がたたる。船ではもう禁便(きんべん)にするがいい。そこでいつしゆ、うかんだが、どふだどふだ
せうべんを人にのませしそのむくひおのれものんでよいきびしよなり
此騒動(そうどう)に船中おのおのねふりをさまし、大笑ひとなるうち、ふねははや、ひらかたといへる所ちかくなりたると見へ、商(あきな)い船、ここにこぎよせこぎよせ
あきん人「めしくらはんかい。酒のまんかい。サアサアみなおきくされ。よふふさるやつらじやな
ト此ふねにつけて、ゑんりよなくとまひきひろげ、わめきたつる。このあきなひぶねは、ものいひがさつにいふを、めいぶつとすること、人のしる所なり。うりことばにかひことばなれば
のり合「コリヤ飯(めし)もてうせい。ゑいさけがあるかい
北八「いかさま、はらがへつた。爰へもめしをたのみます。
あきん人「われもめしくふか。ソレくらへ。そつちやのわろはどふじやいやい、ひもじそふな頬(つら)してけつかるが、銭(ぜに)ないかい
弥次「イヤこのべらぼうめら、何をふざきやアがる
のり合「この汁(しる)はもむないかはり、ねからぬるふていかんわい
あきん人「ぬるかア水まはしてくらひおれ
のり合「何ぬかすぞい。そして、此芋(いも)も牛房(ごぼう)もくさつてけつかる
あきん人「そのはづじや。ゑい所はみな、うちで炊(たい)てくてしもふたわい
長さきの人「イヤこやつふとう(大胆)なやつよヲ。いかなちうつるばつてん(ドウシタモノジヤ)、そのぬかしよふばい
ゑちごの人「づくにうにやしてやつくれべいか
あきん人「ちよこざいぬかさずと、はやう銭(ぜに)おこせやい。コレそこなおやぢ、銭どふじやい
現代語訳
北八「はははははは、こいつは大事件、大事件」
弥次「ええぃ、もう、どうしたらよかろうか。このくらいなら、俺の小便を飲むならまだしも、あの病人めが小便なんて、ええぃ、いやな臭みだ。げげげっ。ぺっぺっ」
北八「はははは、あの病人の顔を見な。瘡と見えて、頭から首筋のあたりまで、じくじく」
弥次「ええええ、もう言ってくれるな。咽が張り裂けるようだ。ああ、苦しい。げええい、げええい」
北八「とかくおめえは小便が祟る。船ではもう禁便にするがいいぜ。そこで一首浮かんだが、どうだ、どうだ。
せうべんを人にのませしそのむくひおのれものんでよいきびしよなり
この騒動に、船中の客もおのおの眠りから覚め、大笑いとなるうちに、舟は早や、枚方(ひらかた)という所近くに着いた。商いの船が、こちらに漕ぎ寄せてくる。
商人「飯喰らわんかい。酒飲かんかい。さあさあ、皆、起きくされ。良く寝る奴らじゃな」
と乗合船に横付けして遠慮なく苫を引き広げ、わめきたてる。この商い船が、物言いをがさつに言うのを名物とすることは有名である。売り言葉に買い言葉なので、
乗合「こりゃ、飯を持って来い。いい酒があるかい」
北八「いかにも腹が減った。此処へも飯を頼みます」
商人「われも飯食うか。それ食らえ。そっちのわろはどうじゃい。ひもじそうな面しているが、銭が無いのかい」
弥次「いや、このべらぼうめら、何をふざきゃあがる」
乗合「この汁はうまくないし、元から温(ぬる)くていかんわい」
商人「温(ぬる)かなら、川水を廻して食らいおれ」
乗合「何抜かすぞい。そして、この芋も牛房も腐ってけつかる」
商人「そのはずじゃ。いい所は皆、家(うち)で炊いて食てしもうたわい」
長崎の人「いや、こやつ、横着な奴よ。どうしたものじゃ、その抜かしようばい」
越後の人「頭殴ってやっくれべい」
商人「ちょこざい抜かさず、早う銭を寄こせや。これ、そこな親爺、銭はどうした」
語句
■大でき大でき-先に小便臭い酒を飲まされた北八は、仕返しができたと大喜びの■瘡(かさ)-梅毒。■じくじく-膿が出ているさま。■禁便-禁煙はあるが、これは珍しい語。■よいきびしよなり-末句、「よい気味」を「きにしょ」にかけたもの。■枚方(ひらかた)-大阪府枚方市。淀川川船の中継地として諸設備もあり繁栄した。■商ひ船-『京大阪名所鑑』に「茶船といふて小船にて、酒飯煮物など商ふあり、これは淀・枚方・柱本・毛馬の辺に有るなり。所謂くらはんか船の事なり」。■ふさる-「ねる」の意のぞんざいな語。■がさつに-粗野に。■うせい-「来る」の意のぞんざいな語。■われ-二人称卑称。■わろ-同じく二人称卑称。やつ。■けつかる-「いる」「在る」意の、ぞんざいな語。■もむない-「味ない」・「うまくない」の上方語。■ふとうなやつ-「不当」の訛りか。横着者、したたか者。■づくにう-木菟入(ずくにゅう)。木菟のように太って憎々しい坊主頭の人を罵って言う。「入」は入道の略。頭をいう。■にやす-殴る。佐賀の方言。■ちよこざい-猪口才。生意気なこと。
原文
おやぢ「このがらんどうめらは、たつた今とりくさつて、コリヤはやういねやい。さだめしおどれがげんさいは、昼は袖乞(そでこひ)して生米(なまごめ)がなくらふさかい、今ごろはぶつぶつと腹ふくらして、しろい泡(あは)ふいてゐよぞい
あきん人「ヲヲわれらがうちは、大かた四条の蒲鉾(かまぼこ)じやあろ。雨がふりそふじや。水の出んさき、はやういにくされ
弥次「イヤこいつらア、いわせておきやア、とほうもねへやつらだ。よこつつらアはりとばすぞ
のり合「コレコレおまい、腹(腹)たてさんすな。アリヤここのあきなひ舟は、あないにものを、ぞんざいにいふのがめいぶつじやわいの
弥次「ソレだとつてあんまりな
あきん人「ワアイあほうよ、あほうよ」
トこぎだしてゆく
弥次「コリヤまちあがれ、あほうたアたれがこつた
トひとりりきんで、おもはずたちあがるひやうしに、のり合のひざをふんで、どつさりこける。
ゑちごの人「アイタタタタタ、コリヤわしがぶしやかぶふんだ
長さきの人「うんどもが、べんぷう、よんによううつた。アイタタタタタタタタタ
弥次「コリヤ御めんなせへ
トやうやうにすわる
かくて船は、ひらかたをすぎたるころ、雨催(あめもよ)ひのそら、俄(にはか)にくらくなり降(ふり)いだし、あはやと見るまに、篠(しの)をつく大雨となり。苫(とま)をもれば、乗合(のりあい)はうへを下へとさはぎたち、船頭(せんどう)もかくてははたらき自由(じゆう)ならず。やがて堤(つつみ)に船をこぎよせ、しばらくかかりて、見合せけるが、ここは伏見(ふしみ)と大阪(おほさか)の半途(はんと)にして、登り船も下りぶねも、みな落合混雑し、がたぴしと岸(きし)によりて、今やと晴をまちいたるに、およそ一ツ時あまり過たるとおぼしき頃、漸(やくや)く雨やみ雲(くも)きれて、月の影八わた山にさし出たるに、船中おのおのいさみたち、弥次郎北八も、とまひきあけ、顔(かほ)さし出して、此けいしよくをながめいたるが
弥次「ハアもふ何ン時だろふな。ときに北八、又こまつたことがあるわい。雪隠(せつちん)へゆきたくなつた 北八「エエきたねへことばつかりいふ
現代語訳
親爺「この強盗めらは、たった今取りくさって、こりゃ早よう消えくされ。さだめしおどれの女房は、昼は物乞いして、生米を食うさかい、今頃は腹の飯がちょうど出来頃で、白い泡を吹いていよるぞい」
商人「おお、われが家(お前の家)は、おおかた四条河原の蒲鉾小屋じゃあろ。雨が降りそうじゃ。水の出んさき、早う云(い)にくされ」
弥次「いや、こいつらあ、言わせておきゃあ、途方もねえ奴らだ。横っ面あ張り飛ばすぞ」
乗合「これこれ、おまい、腹立てさんすな。ありゃあ、ここの商い船は、あないに物をぞんざいに言うのが名物じゃわいの」
弥次「それだとって、あんまりな」
商人「わあい、阿呆よ、阿呆よ」
と漕ぎ出して行く。
弥次「こりゃあ、待ちやがれ。阿呆たあ誰がこった」
と一人力んで、思わず立ち上がる拍子に、乗合の膝を踏みつけて、どさっとこける。
越後の人「あいたたたたた。こりゃあ、わしの膝頭踏んだ」
長崎の人「おどんがべんぷう(頬)、ゆんにゅう(だいぶ)打った。痛かばい。あいたたたたたた」
弥次「こりゃあ、ごめんなせえ」
とようやく座る。
こうして船は、枚方を過ぎる頃、雨模様の空になって、突然暗くなり降り出した。あれよあれよという間に篠をつく大雨になり、苫も漏れて、乗合の人たちは上を下への大騒ぎ。
船頭も船を制御する事も出来ず、やがて船を堤に漕ぎ寄せ、しばらく船をつないで天候のおさまるのを待ち合わせたが、ここは伏見と大阪の中途で、登りの船も下りの船もみな集まって混雑し、がたぴしと音を立てながら岸に寄って、今か今かと晴れるのを待っていたが、約二時間程経った頃、漸く雨が止み、雲が切れて、月の光が八幡山に射しだしたので、船中の人々、それぞれ元気を取り戻し、弥次郎北八も苫を引き上げ、顔を出して、この良い景色を眺めていたが、
弥次「はああ、もう何時だろうな。ときに北八、又困ったことがあるわい。雪隠へ行きたくなった」
北八「ええっ、汚ねえことばっかり言う奴だ」
語句
■がらんどう-強盗。大盗人。早くから人を罵る語とする。■おどれ-「おのれ」(二人称)の上方語。■げんさい-人の妻または一般女性を罵っていう語。『浪速聞書』に「あのげんさい、又はえらいげんさいなど云ふ、女をさし云ふ言葉也」。■袖乞い-物乞。■生米(なまごめ)がなくらふ-物乞いして与えられた米をそのまま食うこと。■四条の蒲鉾-京都四条河原の蒲鉾小屋。即ち乞食の粗末な仮小屋。■水の出んさき-大水で小屋の流れない前。■よこつつらアはりとばすぞ-横頬を強く打つぞ。■ぶしやかぶ-膝頭(越後の方言)。■べんぷう-九州方面の方言として、今も頬のこと。■篠をつく大雨-激しく大雨の降る形容。■かかりて-船をつないで。■がたぴしと-騒がしく混雑するさかの形容。■一ツ時-二時間ほど。■月の影-月の光。■八わた山-石清水八万の鎮座する男山の一名。山城国綴喜郡(京都府八幡市)。枚方より三里北方。■けいしよく-良い景色。
原文
弥次「どふも船ではできぬ。イヤさいわい、ここにかかつてゐるうち、ちよつくり土手(どて)へあがつて、やらかしてこよふ
北八「ホンニよその船でも、人が手水(てうず)にあがるよふすだ。はやくそふしなせへ。イヤわつちもお相伴(しやうばん)がしたくなつた。モシ船頭さん、ちよつとあがつて来たいが、いいかねへ
せんどう「用たしにならはやういてごんせ。わしらが今めしくてしもふと、いつきに船を出すさかい
弥次「わらじはどこだ
弥次「ナニサはだしであがらふ。乗とき足(あし)をすすげばいいに
ト両人ふねよりつつみにあがりて
弥次「ナントいい景色(けしき)だな。どこらでやらかそふ
北八「ヲツトそこには水溜(たま)りがある。もつとこちらへ。アアなるほどいい月だ
一刻(いつこく)を千金(せんきん)ヅツの相場(そうば)なら三十石(こく)のよど川の月
かくくちずさみて、おもはず勝景に見とれゐたるが、このうち、岸にかかりゐたりし船ども、追々(おひおひ)漕(こぎ)出すやふすに、北八弥次が乗たる船も、今出ると見へて、船頭ももやひ綱(づな)をとき、棹(さほ)さしのべて、ふたりを呼(よび)たつるに、いづれのふねにも、乗合のうち、土手にあがりたるもの共、いちどきにおりたち混雑し、弥次郎北八、やうやうのことに、人をおし分、飛乗(とびのり)たるは、大阪八軒屋(はちけんや)の登(のぼ)り船なり
此ふたりあまりせんどうによびたてられて、大きにうろたへ、今までのつて来りし、伏見の船と心え、そのつぎにならびて、かかりゐたりし、大阪ののぼりぶねにとびのりたるが、とまの内くらく、まちがひたるふねとも心付ず、ことさら此ふねにも、乗合のうち、つつみにのぼりたるものも、ニ三人あれば、それらかとおもひて、船中にも、たがひにかほもかたちもしれざれば、これをとがむるものもなく、そのうちふねは出るにまかせ、おのおの宵よりはなしつかれたるにや、おし合へし合、たがひにあしをやりちがひとなし、ふしたりけるが、弥次郎北八もくらがりまぎれ、そこらさぐりまはして、手ざはりよくにたればとて、人のふろしきづつみを、わがつつみとこころえ、引よせて、すぐにそれをまくらとして、うちふし、それよりはぜんごもしらず、たかいびきなり
去ほどに、船は右にさほさしひだりに綱引のぼるに、はやくもやはた山ざきをあとになし、淀堤(よどづつみ)を打過、夜もあけちかくなりたる頃、伏見(ふしみ)にこそは着きたりける。苫(とま)もる影(かげ)も白く、烏(からす)の声告(こへつげ)わたるに、船つきたると、乗合みなみな目をさまし立さはげば、きた八弥次郎も苫打ひらきて、笠ふろしき包(づつみ)を手に引さげ、船頭があゆみ板わたすを、打わたりて岸(きし)にのぼり、ふな宿(やど)にいたるに、乗合の人々つづいて爰に来るを見れば、見しりたる顔(かほ)一人もなし。是はふしぎと、そこらうろうろ見廻しながら
現代語訳
弥次「どうも船はできない。いや、さいわい、此処に停泊しているうち、ちょっくら土手へ上がって、やらかしてこよう」
北八「ほんに、よその船でも、人が手水(ちょうず)に上る様子だ。早くそうしなせえ。いや、わっちもお相伴がしたくなった。もし船頭さん、ちょっと上って来たいが、いいかねえ」
船頭「用足しになら早く行てごんせ。わし等が今飯食うてしまうと、直に船を出すさかい」
弥次「草鞋は何処だ」
弥次「なにさ、裸足で上ろう。乗る時、足を濯(すす)げばいいに」
と両人船から堤に上って、
弥次「なんといい景色だな。どこら辺りでやらかそう」
北八「おっと、そこには水溜りがある。もっとこちらへ。ああ、なるほど、いい月だ」
一刻(いつこく)を千金(せんきん)ヅツの相場(そうば)なら三十石(こく)のよど川の月
このように口づさんで、思わず景色に見とれていたが、そのうちに、岸に停泊していた船どもが、追々漕ぎ出す様子に、北八弥次が乗って来た船も、今出ると見えて、船頭ももやい綱を解き、棹を差し伸べて、二人を呼び立てるが、どの船でも、乗合のうち、土手に上っていた者どもが一斉に下り始めて混雑し、弥次郎北八はやっとのことに、人を押し分け飛乗ったのは、大阪八軒屋の登りの船であった。
この二人はひどく船頭に呼び立てられたので、大いにうろたえ、今まで乗って来た、伏見の船と思い、その次に並んで、停泊していた大阪の登り船に飛乗ったが、苫の中は暗くて、舟を間違えたことにも気づかない。なおさら、この船でも、乗合のうち、堤に上っていた者もニ三人いるので、それらかと思って、船中でも、互いに顔も形も知らないので、これを咎める者もなく、そのうち船は出るにまかせ、おのおの宵からの話で疲れたのか押し合い圧し合い、互いに足を互い違いにして、横になったが、弥次郎北八も暗がりに紛れ、そこら探り廻して、手触りがよく似ているからと、人の風呂敷包みを我が包と勘違いし、引き寄せて、すぐにそれを枕にして横になり、それからは前後不覚に陥って高鼾(たかいびき)となった。
そうこうしているうちに船は右に棹差し左に綱を引き、登って行くので、早くも八幡山埼を後にして、淀堤を通り過ぎ、夜も明け方近くになった頃、伏見に着いた。苫を通して漏れる光も白く、烏の声が響きわたり、船が着いたと、乗合皆々目を覚まし騒ぎ出すと、北八弥次郎も苫を開け放って笠や風呂敷包みを手にぶら下げ、船頭が歩み板を渡すのを渡って岸の上り、船宿に着く。乗合の人々が続いてここに来るのを見ると、見知った顔は一つもない。これは不思議とそこらをうろうろ見廻しながら、
語句
■手水-ここは大小便をすること。■相伴-人と一緒に行動するときに、その人に対していう挨拶の言葉。一緒にいたしましょう。もちろんここは、尾籠なことを、上品に言う洒落。■用たし-ここでは、大小便をする意。■一刻を~-蘇東坡の春夜詩の「春刻一刻直千金」の相場なら、この淀川の三十石(刻に通じて)船で見る月は、その三十倍、三万両の値打があるの意。■もやひ綱-もやい綱。船をつなぎとめるのに用いる綱。■登り船-大阪八軒屋より伏見京橋へ、淀川を上る三十石船。『登舟独案内』には、昼船は九ツ、夜船は暮六ツに出るという。■やりちがひ-頭は反対にするので、足が並んでたがい違いになっているさま。■綱引のぼる-淀川の西岸で、綱手を引いて上るのである。■山ざき-山崎。男山の対岸。山城国乙訓郡(今の大山崎町)。■淀堤-淀の辺の淀川の堤。俗に千両松と称して、松並木の見事な所(淀川両岸一覧)。■影-光。■あゆみ板-船と岸の間にかけて、通行する板。
原文
弥次「ナント北八、おいらに酒をのませた隠居(いんきよ)どのは、どふしたの
北八「さればの、そしてアノ長崎ものや越後同者(ゑちごどうじや)どもは来そふなものだが、大かた爰へよらずにいつたと見へる。おいらは、ゆるりと爰で、支度(したく)して出かけやうさ
トもとのふしみについたこといつかうにきがつかず
ふなやどの女「どなたもおしたくあぎよかいな
弥次「ヲイ爰へ二ぜんたのみす
女「ハイハイ
トたきたてのめしに、八はいとうふのひらをつけてもつて来る。これはふしみのふなやどのおさだまり也。此両人はじめてなれば、こんなことはしらず、もとより大阪へついたこととばかり心得、へいきにて
弥次「けふは斯(かう)いたそ。是から長町(ながまち)の分銅河内(ふんどうかはち)やとやらいふ宿屋へいつて、あれも大和(やまと)の初瀬(はせ)の茶やで、よこした書付の所だから、あそこへとまつて、すぐに芝居(しばゐ)でも見よふじやアねへか
北八「おいらアまた、新(しん)町とやらをはやく見てへ
弥次「ヲヲそれもまんざらでねへの。アアアツツツツツツ、ごうてきにあつい汁(しる)だ。ペツペツ
此かたはらにも、ふなあがりの三四人づれおなじくしたくをしながら
「太兵衛さん、おまい虎屋のまんぢうはどしたぞいの
太兵へ「六兵へさんきかんせ。けたいなこつちや。きのふわざわざあこへいてかふて来て、とんと大仏(だいぶつ)屋にわすれたわいの
つれの人「つい一トはしりいてとてござんせ。爰(ここ)からわづか、十里ほかないもせんもの
太兵へ「ハハハハそふいふてもくれんがよいハハハハハ
此はなしをきいて、弥次ふしぎそふに
「モシあなた方が、今いひなさつた、とらやといふは、たしか大阪でございやすね
六兵へ「さよじやわいの
現代語訳
弥次「なんと北八、おいらに酒を飲ませた隠居殿はどうしたの」
北八「あの長崎者や越後道者どもは来そうなものだが、大かた此処へは寄らずに行ったと見える。おいらは、ゆるりと此処で、食事をしてから出かけよう」
と元の伏見に着いたことには一向に気づかず、
船宿の女「どなたも食事あぎょかいな」
弥次「おい、ここへ二膳頼みます」
女「はいはい」
と炊き立ての飯に、八杯豆腐の平椀をつけて持って来る。これは伏見の船宿の定番である。此の両人はこの船宿は初めてなので、こんなことは知らない。もとより大阪へ着いたこととばかり思い、平気で、
弥次「今日はこうしよう。これから長町の分銅河内屋とやらいう宿屋に行って、あれも大和の初瀬の茶屋で寄こした書付の所だから、あそこへ泊って、すぐに芝居でも見ようじゃあねえか」
北八「おいらあ又新町とやらを早く見てえ」
弥次「おお、それも悪くねえの。あああつつつつつつ、ひどく熱い汁だ。ぺっぺっ」
この傍らにも、船上りの三四人連れが、同じく食事をしながら、
「太兵衛さん、おまい、虎屋の饅頭はどうしたぞうの」
太兵衛「六兵衛さん、聞かんせ。けったいなこっちゃ。昨日わざわざあそこへ行って買うて来て、すっかり大仏屋に忘れたわいの」
連れの人「ついひと走り、行て取てごんせ。ここから僅か十里程もありわせん」
太兵衛「はははは、そんなこと言わずにいておくれ。はははははは」
六兵衛「左様(さよじゃわいの」
語句
■越後同者-越後の「道者」の当て字。道者は諸国巡拝の者。■支度(したく)-食事。■八はいとうふ-八杯豆腐。水四杯、醤油二杯、酒二杯の割合で煮た汁で、細く薄くうどんのように切った豆腐を煮たもの。■ひら-平椀。浅く平たい椀。■長町-大阪の長町。道頓堀の日本橋より南にあたる町。■分銅河内や-長町に分銅河内屋という宿屋があり、宿の主人は浄瑠璃作者であった。■大和の初瀬-磯城郡(今は奈良県桜井市)で、長谷寺の門前町。伊勢から大和・大阪への一通路にあたる。二人の道化者は大和路から伏見へ出たのであった。■初瀬の茶や-初瀬の茶屋で、大阪へ行くなら、分銅河内屋に泊るように言われ、その書付をもらっていたのである。■新町-大阪の遊里。寛永年中、大阪に散在した遊女を集めて一廓とした所。京の島原、江戸の吉原とならんで当時三大遊郭とされていた。■まんざら-まんざら悪くない。大いによし。■ごうてき-「剛敵」の意であるが、転じて甚だしい意に用いる。■虎屋-大阪高麗橋筋西へ入るにあった、饅頭どころの虎屋伊織。■大仏屋-大阪西横堀四ツ橋にあった船宿(難波丸綱目)。■ないもせんもの-「ありはせん」の洒落言葉。「十里しか」ないというも洒落。■そふいふてもくれんがよい-そんなこと言わずにおいてくれ。
原文
弥次「その虎(とら)やのまんぢう、わすれたとおつしやつた、大仏やとやらはどこでございやす
六兵へ「コリヤ新町ばし西詰(にしづめ)を南(みなみ)へいくとこじやわいの
弥次「その新町ばし南へいく所までは、爰からいくらほどでございやすね
六兵へ「ここからは十里じやわいの
弥次「はてなア、大阪は、おもひの外ひろい所だ。ノウ北八
北八「ナニサいいかげんにきいてゐなせへ。わつちらをひやかすのだはな。爰から十里あつてたまるものか。とほうもねへ。
太兵へ「イヤおまい、ここをどこじやとおもふてじや。ここは伏見の京ばしじやがな。
弥二「ナニ伏見だ。コリヤ北八がいふ通、きさまたちやア、ひとをはぐらかすな。おいらアゆふべ、伏見から船にのって来たのだはな
太兵へ「何いはんすやら。桃山のけつねにがな、つままれたもんじやあろぞい。みなこちどいてゐやんせ
北八「のいてゐろもすさまじい。そしておいらを狐(きつね)つきたアなんのこつた。ゑどつ子だぞ。つがもねへ
トいさくさなかば、此大阪もののつれと見へて、二三人かけ来り
「なんじやいなんじやい。何せりあふてじや。そんなことより、こちやどゑらいめにあふたわいの。こつとらがつつみを、船でうしなふたさかい、いんまのさきまで、其せいらしくしておつたが、ねからはからしれんわいの
トいふうち、ひとりが弥次郎のかたはらにあるつつみを見つけ
「イヤ権助さん、あこにあるわいの。そじやさかい、わしがいふまいことか。さきへあがつた衆(しゆ)を問(と)ふて見やんせといふたじやないかい
ごん助「ホンニこれじやわいな
トとりにかかれば、弥次郎ちやつとひかへて
弥次「コリヤ何ひろぐ。此 つつみはおいらがたのだは
ごん助「ナニぬかしくさる。おどれら、やばなことはたらきくさるな。コリヤ見い。ふろしきのはしに、こちの名がかいてあるわい
トいわれて弥次郎びつくりし、よくよくみればじぶんのつつみでなし。きもをつぶして
弥次「ホンニ コリヤまちがつた。ソレもどすぞ。おいらがのはどこにある
現代語訳
弥次「その虎屋の饅頭、忘れたとおっしゃった、大仏屋とやらは何処でございやす」
六兵衛「こりゃ、新町橋西詰を南へ行くとこじゃわいの」
弥次「その新町橋南へ行く所迄は、ここから幾らほどでございやすね」
六兵衛「ここからは十里じゃわいの」
弥次「はてなあ、どうもわかなねえ。大阪は、思いのほか広い所だ。のう北八」
北八「なにさ、いい加減に聞いていなせえ。わっちらを冷やかすのだわな。ここから十里あってたまるものか。途方もねえ」
太兵衛「いや、おまい此処をどこじゃと思うてじゃ。ここは伏見の京橋じゃがな」
弥次「なに、伏見だあ。こりゃあ北八が言う通り、貴様たちゃあ、人をはぐらかすな。おいらは夕べ、伏見から船に乗って来たのだわな」
太兵衛「何言わんすやら。桃山の狐に化かされたものじゃあろぞい。皆こっちゃ退(ど)いて居やんせ」
北八「退いていろとはあきれらあ。そして、おいらを狐憑きたあ何のこった。江戸っ子だぞ。とんでもねえ」
と悶着のさ中、この大阪者の連れと見えて、ニ三人が駆け寄り、
「何じゃい、何じゃい。何を言いあってる。そんな事よりこちらはどえらい目に遭うたわいの。こっとらが包を、船で失ったさかい、今の今まで、その詮索をしておったが、全くわからんわいの」
と言っているうちに、一人が弥次郎の傍らに包を見つけ、
「いや、権助さん、あこにあるわいの。そじゃさかい、言わんこっちゃない。さきに上った衆に聞いてみやんせと言うたじゃないかい」
権助「ほんに、これじゃわいな」
と取りあげようとすると、弥次郎が包をしっかり引っ込めて、
弥次「こりゃ何をしくさる。この包はおいらがたの物だわ」
権助「なに抜かしくさる。おどれ等(おまえたち)変なことをやりくさる。こりゃ、見い。風呂敷の端に、こちらの名が書いてあるわい」
と言われて弥次郎はびっくりし、よくよく見ると自分の包ではない。驚いて、
弥次「ほんに、こりゃ間違えた。それ戻すぞ。おいらがたのは何処にある」
語句
■新町ばし-新町の廓の大門を入る所にある橋。浄瑠璃「容競出入湊」で、黒舟忠右衛門が喧嘩をするところを出した。南行して大仏屋も近い。■はぐらかす-言い紛らす。上手に手玉に取って遊ぶ。■桃山-伏見城址、城山の別称。桃を植えて、花見の所ともなったのでいう(今は京都市伏見区の町名)。■けつね-「狐」の上方語。■つままれた-化かされた。■つがもねへ-とんでもないの意。歌舞伎のせりふで使用して、一般語になった。■いさくさ-悶着。いざこざ。■せりあふ-口喧嘩する。■いんまのさき-今のさき。つい今しがた迄。■ねからはから-根から葉から。全然。少しも。■せいらく-詮索。工面。上方の方言。■ひろぐ-「ひろぐ」は、行う。するの意。「馬鹿ひろぐ」などと言う。■やばなこと-「やば」は、けしからぬ事。奇怪なこと。不都合なこと。■こちの-上方方言尾一人称。此方。こちらの。■
原文
ごん助「あんだらつくせ。ナニおどれらがつつみを、たれがしろぞい
弥次「こいつはつまらねへ。北八どふした
北八「おめへ おれがのもとつて、一ツ所につつんで、そばにおいたじやアねへか。どふしておいらがしるものだ
弥次「ハテめいよふな モシいよいよここは、ふし見にちげへねかね
みなみな「ハハハハ何ぬかしくさるやら。アノ頬(つら)見やんせ。けたいなやつらじやな
北八「イヤこいつらはふてへやつらだ
ごん助「ふといもほそいもいるこつちやないわい。たかでおどれらアがんどうじや。つつみに別条ないさかい、ゆるしてこます。とつとと出ていにくされ
弥次「コリヤアとんだめにあふが、さつぱりわからぬ。きた八どふしたのだろふ
北八「されば、わつちもわからぬ。ぜんてへゆふべは何日(いつか)だつけ
弥次「ムムこうと、ゆうふべあのじぶんに月が出たから、大かた廿四五日あたりだ
北八「今月(こんげつ)は大か小か。きのふはなんの日だねへ
弥次「さればこうと、此間ソレどこかでかとまつた時、甲子(きのへね)だといつたじやアねへか
北八「ソレソレ、あの茶飯はうまかつた
弥次「ひらの牛房の大きさ、あいつはめづらしい
みなみな「ワハハハハハ、コリヤどふでもてきらはほん気じやないわい。ワハハハハハハ
トはらすじをよつて大わらひする。この中でも、としばいの太兵へしばらくかんがへて
「ハハアきこへたことがあるわいの。なるほど、あまりかしこうも 見へんわろたちじやさかい人のもの、手まへるほどのはたらきは、ありやせんわい コリヤこうじや。コレそこなわろたち ゆふべ伏見からのらんして、途中(とちう)で船のかかつたとき、用たしにがな、つつみへでもあがらんしたことがあろがな
弥次「さやうでござりやす
太兵へ「ソレ見やんせ。こつとらがのつた船にも、あの時あがりおつた人が大分ありおつたが、やがて船が出るといふと、みなうろたへてのりおつた。その時こなんたちは下り船と、のぼり船をとりちがへて、めんめんの乗て来た船とこころえ、こちのふねへ、のらんしたものでがなあろぞい
現代語訳
権助「馬鹿もよい加減にしておけ。なに、おどれ等が包を誰が知ろぞい」
弥次「こいつは困ったことになった。北八どうした」
北八「おめえ、俺がのも取って一つ所に包んで、傍に置いたじゃあねえか。どうしておいらが知るもんだ」
弥次「はて、面妖な。いよいよここは伏見に違いねえかね」
皆々「はははは、何を抜かしくさるやら。あの面(つら)見やんせ。けったいな奴らじゃな」
北八「いや、こいつらはふてえ奴等じゃ」
権助「太いも細いもいるこっちゃないわい。要するに、おどれらあ、たかが盗人じゃ。包に別条無いなかい、許してやる。とっとと出て去(い)にくされ」
弥次「こりゃあ、ますますとんだ目に遭うがさっぱりわからん。北八どうしたんだろう」
北八「わっちもわからぬ。だいたい昨夜(ゆうべ)は何日だっけ」
弥次「昨夜、あの時分に月が出たから、おおかた二十四、五日あたりだ」
北八「今月は大か小か。昨日は何の日だねえ」
弥次「この間それ、何処かで泊った時、甲子(きのえね)だと言ったじゃあねえか」
北八「それそれ、あの茶飯はうまかった」
弥次「平椀に入った牛房(ごぼう)の大きさ、あいつは珍しい」
皆々「わははははは、こりゃ、どうでも敵等は正気じゃないわい。わはははははは」
と腹をよじって大笑いをする。この中でも年配の太兵衛がしばらく考えて、
「ははあ、分かったことがあるわいの。なるほど、あまり賢くも見えんわろ達じゃさかい、人の物をかすめ取るほどの巧みな働きはありゃせんわい。多分こうじゃ。これ、そこなわろ達、昨夜伏見から乗らんして、途中で船を岸へ付けた時、小便しにがな、堤へでも上らんしたことがあろがな」
弥次「左様でござりやす」
太兵衛「それ見やんせ。こっとらが乗った船にも、あの時上りおった人が大分有りおったが、やがて船が出ると言うと、皆うろたえて乗りおった。その時こなん達は下り船と、上り船を取違えて、面々の乗って来た船と思って、こちらの船へ乗らんしたものであろぞい」
語句
■あんだら-「あんだら」は馬鹿。たわけの意。京大阪の方言。■あんだらつくせ-馬鹿もいい加減にしておけ。■つまらねへ-困ったことになった。■めいよふ-面妖。怪しき事又不思議なる事。■けたいな-「変な」の意の上方語。■たかで-ここでは、つまるところが、要するにの意。■がんどう-したたかな盗人の意。『物類呼称』には「強盗、東国にて、がんだうと云ふ」とあるが、浄瑠璃にはしばしば見えて、関西でも使用した。■別条-異状。そのままであるから。■こます-「やる」の意の上方の卑語。■大か小か-この頃の暦は、今のごとく大小の月が定まっていなくて、年々に相違した。そのため、大小歴など称して、年ごとに大小を示す暦が、年始の礼などに配られた。■甲子(きのえね)-甲子の日には、甲子待(きのえねまち)とて、大黒天を祀る行事が、商家などでは行われていた。■茶飯-膳にそなえた簡略な食事の総称。ここは甲子待に出すものを指す。
■てきら-上方で、あまり上品でない言い方の三人称。■ほん気じゃない-正気ではない。■はらすじをよつて-お笑いをする形容。■としばい-年配。年長で、大人らしい人柄。
■手まへる-たまへる。上方では、「つかまえる」とか「自分のものにする」意。それを盗むに当てて使用。■それ見やんせ-それ見たことか。自分の想像が的中した時の言葉。■こなん-対等の二人称。こなた方。■めんめん-自分達。
原文
北八「ホンニさやうでござりやせう。わつちらも船にのつた時は、くらがりではあるし、とりちがへたとはしらず、どふやら居どころもちがふたよふでございやしたが、乗合のことだから、ままのかはとそれなりに、くたびれまぎれに、ツイねてしまひやして、けさここへ来て見りや、乗合の衆のうちに、見しつたかほがひとつもねへは、ふしぎなことだと、いつていやしたのさ
弥次「そふいへばなるほど、今のさき船のあがり場で、ハテ見たよふな所だとおもひやしたが、見たはづだ。やつぱり初手のふしみだもの。ハハハハ畢竟(ひつけう)それゆへ、おまへがたのつつみを わつちらがのだと思つて、粗相いたしやした。
北八「これでものがさつぱりわかつた
弥次「イヤわかるこたアわかつたが おいらがつつみはどふしたろふ
太兵へ「それもわかつてあるわいな。おまいがたの乗らんした、下り船に、つつみばかりのこつて、今頃はおさかの八けんやに、ふろしきづつみがうろうろと、おまいがたを、たづねてゐよぞいなハハハハハ
北八「とんだめにあつた。いめへましい
弥次「ままよ、どうするもんだ。かねは胴巻(どうまき)に入れてもつてゐるから、たかが包(つつみ)は手めへとおれがきがへばかりだ。うつちやつてしまへ。そこらはゑどつ子ダは
トおしけれ共せんかたなく、これから又ふねにのつて、大阪へたづねにゆくもばかばかしいと すぐに京へ行つもりに、そうだんきめて立出れば、この人々も、それぞれにここを立出けるに、北八弥次郎、きぬけのしたかほつきにて、ぶらりぶらりと、京かい道にさしかかり
伏見出て淀の車がまたあとへまわりまわつて来たは何事
それより伏見の町を打過、墨染(すみぞめ)といへる所にさしかかりけるが、爰は少しの遊所(ゆうしよ)ありて、軒毎(のきごと)に長簾(ながすだれ)かけわたしたるうちより、顔(かほ)のみ雪(ゆき)の如く白く、青梅(あをめ)の布子(ぬのこ)に、黒(くろ)びろうどのはんゑりまで、おしろいべたべたつけたる女、はしり出て弥次郎が袖(そで)をとらへ
「もしな、はいりなされ。ちよとあそびんかいな
弥次「なんだ、よせへよせへ
トふりきれば又北八をとらへ
現代語訳
北八「ほんに左様でございやしょう。わっちらも船に乗った時は、暗がりではあるし、取違えたとは知らず、どうやら居所も違うたようでございやしたが、乗合のことだから、ええままよとそれなりに、くたびれ紛れに、つい寝てしまいやして、今朝此処へ来て見りゃ、乗合の衆のうちに、見知った顔が一つもねえのは不思議なことだと言っていやしたのさ」
弥次「そういえばなるほど、つい今しがた迄船の上り場で、はて見たような所だと思いやしたが、見たはずだ。やっぱり初手の伏見だもの。はははは。つまりそれ故お前方の包を、わっちらのだと思って、粗相いたしやした」
北八「これで物がはっきりわかった」
弥次「いや、わかるこたあわかったが、おいらが包はどうしたろう」
太兵衛「それもわかっておるわいな。おまい方の乗らんした下り船に包ばかり残って、今頃は大阪の八軒屋に風呂敷包がうろうろとおまい方を尋ねていよぞいな。ははははは」
北八「とんだ目に遭った。いまいましい」
弥次「ままよ、どうも仕方がない。金は胴巻きに入れて持っているから、たかが包はてめえと俺の着替えばかりだ。うっちゃってしまえ。そこいらの気っぷが江戸っ子だわ」
と惜しいのだが仕方なく、これから又船に乗って、大阪へ尋ねに行くのも馬鹿馬鹿しいと、すぐに京へ行くつもりに、意見が合って、この人々もそれぞれに、ここを出立したが、北八弥次郎は気合抜けした顔つきで、ぶらりぶらりと京街道にさしかかる。
伏見出て淀の車がまたあとへまわりまわつて来たは何事
それより伏見の町を通り過ぎ、墨染という所にさしかかったが、ここは少し遊び所があって、軒毎に長い簾を架け渡した家から、顔だけ雪のように白く、粗末な青梅の布子を着て、黒びろうどの半襟まで白粉(おしろい)をべったりつけた女が走り出て弥次郎の袖を捉え
「もしな、は入りなされ。ちょっと遊びんかいな」
弥次「なんだ、止せ、止せ」
と振り切ると又北八を捉え
語句
■居どころ-座席。■ままのかは-ええままよ。■畢竟-つまり。事の理由を言うときに、上につける語。■粗相-不始末。■おさか-「大阪」の上方弁。■どうするもんだ-どうも仕方がない。■胴巻-細長い袋で、その中に金を入れ、胴に巻き付けるもの。■たかが-ここは、せいぜい、最高を見積もってもの意。■きがへ-着替え。■きぬけのしたかほつきで-元気喪失の顔つきで。■京かい道-伏見から京都への街道。伏見街道街道とも称する。■伏見出て~-淀の車がくるくるまわるように、自分たちも伏見を出たのに、また廻り廻って元の所へ来たとはどうしたことだろう。「淀の車」は江戸時代、山城屋久世郡淀の城外淀川に設けた大きな水車。これによって水を城中に引き入れたという。また耕作のために設けられ、淀の水車といえば昔から有名であった。■墨染-今の京都市伏見区深草墨染町の辺をいう。墨染桜は日蓮宗の墨染寺(豊臣秀次の母が創建。深草少将の宅跡と伝える)の境内にあったという。■長簾-丈の長い簾。■青梅の布子-武蔵国青梅から八王子の一帯にかけて産する木綿の縞物(万金産業袋)。布子は木綿の綿入れ。ひなびた衣装である。■はんゑり-襦袢の襟に掛けて、飾りとする物。■ちょとあそびんかいな-客に登楼を促す言葉。
原文
女「おまいさん、どふじやいな
北八「こうじやいな
トべつかこうをする
女「ヲヲすかん、こちやいやいな
北八「いやいなの三郎よし秀(ひで)でも、とまらんのだ。エエはなしやアがれ
女「ヲヲこは
トおつぱなしてうちへはいる
弥次「ハハアここが、あとできいたすみぞめだな
すみぞめのおやまのかほの真白(ましろ)さは石灰蔵(いしはいぐら)のねづみごろも歟(か)
深草(ふかくさ)のさとは、家ごとに焼(やき)もの、土細工(つちざいく)を商(あきな)ふ見ゆれば
やきものの牛(うし)の細工に買(か)う人もよだれたらして見とれこそすれ
かくて藤のもりにいたりけるに
稲荷山松のふぐりにかかれるはふどしのさがり藤のもりかな
ここに、いなりの社(やしろ)をふしおがみつつ
北八「ナントそこらで一ツぷく、やろうじやアねへか
弥次「よかろふよかろふ
トよしずたてかけたるちやみせにはいりて弥次郎
「ヲヤあまざけあるの。ばあさん一ツぱいくんな
ばば「ハイハイぬくふしてあぎよわいな
北八「コウ弥次さん、ここのばあさんが、おめへに気があると見へて、アレこつちばかり見て、おかしな目つきをすらア
弥次「ばかアいへ。ばあさんどふだ。はやくくんな
現代語訳
女「おまいさん、どうじゃいな」
北八「こうじゃいな」
とあかんべいをして舌を出す。
女「おお、好かん。嫌ですよぅ」
北八「いや、伊那の三郎義秀でも(いやでもよしでも)泊らんのだ。ええぃ離しやがれ」
女「おお、怖いお人」
とつんつんして未練気もなく内へ引っ込む。
弥次「ははあ、ここが伏見で聞いた墨染の里だな」とここで一首。
すみぞめのおやまのかほの真白(ましろ)さは石灰蔵(いしはいぐら)のねづみごろも歟(か)
深草の里は、家ごとに焼物、土細工を商っているのが見え、ここで又一首。
やきものの牛(うし)の細工に買(か)う人もよだれたらして見とれこそすれ
このようにしながら藤の森に着いたが、そこで又一首。
稲荷山松のふぐりにかかれるはふどしのさがり藤のもりかな
ここで、稲荷の社を伏し拝みながら、
北八「なんと、そこらで一服やろうじゃあねえか」
弥次「よかろうよかろう」
と葦簀(よしず)が立て掛けてある茶店に入り、弥次郎、
「おや、甘酒があるのぅ。ばあさん、一杯くんな」
ばば「はいはい、温めてあぎょわいな」
北八「これ弥次さん、ここのばあさんが、おめえに気があると見えて、あれ、こっちばかり見て、おかしな目つきをすらあ」
弥次「馬鹿あ言え、ばあさん、どうだ。早くくんな」
語句
■べつかこうをする-あかんべいをして舌を出すさま。■こちやいないな-上方筋の玄人女の言葉で、嫌ですよと、軽くこばむ意を含む。■いやいなの三郎よし秀-朝比奈三郎義秀の語呂合せ。芝居で有名な曾我の五郎と朝比奈三郎の草摺引(もとは『曽我物語』から出て、和田一党の酒盛りの席へ駆け込む五郎をとめる三郎、鎧の草摺りが切れたという)にかけて、五郎気取りの洒落である。■あとできいた-この「あと」は過ぎて来た所。■すみぞめの~-「おやま」は元来上方で茶屋女の称。私娼の総称となり、やがて遊女の総称となった。「墨染」と「鼠衣」の「衣」は縁語。墨染の遊女が真っ白に白粉をつけたので、石灰蔵の鼠さながら、墨染の衣でなくて、こいつは鼠衣だわいの歌意。■深草-京都市伏見区の北部の地名。■やきものの~-「やきものの牛の細工」は、焼物の牛の玩具である。「牛の涎」から、「涎を垂らしてみとれる」といった。牛の細工がうまいので、感心して見とれるという意。■藤のもり-藤の森神社のある所。■稲荷山~-「稲荷山」は、京都市伏見区の北端にある山。 「ふぐり」は、松の実。松毬。陰嚢を「ふぐり」ともいうので、その縁語で、「ふどし(褌)」を出した。「ふどしのさがり」に、「さがり藤」をかけ、「藤森」とひきのばした。■いなり-伏見稲荷。祭神、倉稲魂(う
かのみたま)神・猿田彦命・大宮女(おおみやつめ)命。和銅年間、秦公伊呂具(はたのきみいろぐ)の創建という。■よしず-葦(あし)で編んだ簀子(すのこ)。
原文
ばば「まちつとまつておくれんかいな
トいひつつ此ばば、弥次郎のかほを見てはなき見てはなきするゆへ ふしぎにおもひ
弥次「ばあさんどふぞしたか。おめへ目がわるいのかね
ばば「わしやおまいのかほを見て、いかうかなしうてならんわいな
弥次「ソリヤどふして
ばば「ワアイワアイ
北八「こいつはおかしい。ばあさん、何がかなしい
ばば「わしや此あいだ、ひとりのむすこをうしなふたが、そのむすこにアノおかたが、似たとこそいへそいへ
弥次「ハアおいらに似たとかへ。それじやアおめへのむすこもいい男であつたろうに、おしいことをした
ばば「ソレそのどうまんごへの ものいひから、おまいのやうに、やつとあらいみつちやがあつて、色がくらふて、はなは獅子鼻とやらで、目のいつかい所までが、其ままじやわいな其ままじやわいな
弥次「それじやア、わつちが顔(かほ)のわるい所ばかりがよく似(に)たの
北八「わるい所ばかりもきがつゑゑ。いい所はひとつもねへもせんものを
ばば「そればかりじやないわいの、アノ片小鬢(かたこびん)のはげさんした所までが、あないにもにるものかいな
弥次「人の顔の店(たな)おろしがすんだら、其醴(あまざけ)をはやくくんな
ばば「ほんにわすれたわいな
トちやわんふたつに あまざけをくんでさしいだす ふたりながらこれをのんで
北八「ごうぎにうすい醴だ
ばば「うすふもなりましたじやあろ。わしやかなしうて、ツイ涙(なみだ)を、そのなかへおとしたわいな
弥次「エエとんだことを、涙ばかりならまだしも、見りやアおめへ、水ばなをたらしてゐるが、それも此なかへおちやせんかね
ばば「わしや見なさるとふり、三ツくちじやさかい、はな水とよだれをひとつに、その中へおとしたわいな
現代語訳
ばば「まちっと待っておくれんかいな」
と言いつつ、この婆が弥次郎の顔を見ては泣き、見ては泣きするので、不思議に思い、
弥次「婆さん、どうぞしたか。おめえ目が悪いのかね」
婆「わしゃあ、おまいの顔を見て、すごく悲しゅうてならんわいな」
弥次「そりゃどうして」
婆「わあい、わあい」
北八「こいつはおかしい。婆さん、何がそんなに悲しいのかね」
婆「わしゃこの間一人息子を死なせたが、その息子にあのお方が何から何までそっくりじゃ」
弥次「はあ、おいらに似ていたのかえ。それじゃあ、おめえの息子もいい男であったろうに、惜しいことをした」
婆「それ、その太った濁り声での物言いから、おまいのように、たくさん大きなあばたがあって、色黒で、鼻は獅子鼻というのか、目のきつい所迄がそのままじゃわいな、そのままじゃわいな」
弥次「それじゃあ、わっちの顔の悪いところばかりが良く似たのう」
北八「悪い所ばかりも、いい気なもんだぜ。ましなところはひとつもねえじゃねえか」
婆「そればかりじゃないわいの。あの片小鬢の禿さんした所までが、あないにも似るものかいな」
弥次「人の顔の店卸しが済んだら、その甘酒を早くくんな」
婆「ほんに忘れておったわいな」
と茶碗二つに甘酒を汲んで差し出す。二人ともにこれを飲んで、
北八「ひどく薄い甘酒だ」
婆「薄うもなりましたじゃあろ。わしゃあ悲しゅうて、つい涙を、その中へ落したわいな」
弥次「ええ、とんだことを。涙ばかりならまだしも、見りゃあおめえ、水鼻を垂らしているが、それもこの中へ落ちやせんかな」
婆「わしゃあ見なさるとおり、三口(みつくち)じゃさかい、鼻水と涎を一つにその中へ落したわいな」
語句
■いかう-甚だ。■どうまんごへ-太くて濁った声。■やつと-たくさん。■あらいみつちや-大きなあばた。一つ一つが大きいので、目が粗く見える。『浪速聞書』に「みつちや、江戸で云ふあばたのこと也」と。上方語である。■獅子鼻-獅子頭の鼻のごとく、小鼻が開いて、上を向いている。■いつかい-いかい。『物類呼称』に「大いなることを、五畿内近国共にゑらいといひ、又、いかいと云ふ」。■ねへもせんものを-ありはしないものを。■片小鬢-片方の小鬢(側面前方)のところ。■店(たな)おろし-元来は江戸時代の商店で、正月・七月に、商品を棚からおろし総点検する行事を称したが、転じて、人の悪いところを一々並べたてることもいう。■三ツ口-兎口。上唇の中程が割けて、兎の口のようになっている状態をいう。
原文
北八「エエコリヤなさけないことをいふ。こいつはもふのめぬ
弥次「おらア、ついのんでしまつた。いめへましい。サアいかふ
北八「ばあさんいくらだ
ばば「ハイ六文ヅツくだんせ
北八「水ばなはおまけだの。アイおせはペッペッ
トここをたち出てふりかへりながら
くりごとになみだをまぜて水ばなもすすりこんだるうばがあまざけ
かくてふたりは、足(あし)にまかせてゆくほどに、だんだんみやこちかくなりて、往来(わうらい)ことに賑(にぎは)しく、人のふうぞくも、自然(しぜん)と温順(おんじゆん)にして、しかも衣装(ゐしやう)ははなやぎたる女のよそほひに、うつつぬかして見とれ行うち、はやくも大仏(だいぶつ)まへにいたりて
北八「ヲヤヲヤごうせへなお寺だ。アレ山門のうへから仏さまがのぞひている
弥次「ハハアこれが、かの大仏だはへ。なるほどはなしにきいたよりは ごうてきなものだ。そしてこの石を見や ゑらいゑらい
大仏(だいぶつ)の御堂(みどう)は雲(くも)に入とてやこれは大きなものの天上(てんじやう)
かくよみて山門のうちに入、やがて御堂にのぼりける
道中膝栗毛六編 上編 終
現代語訳
北八「ええ、こりゃ情けないことを言う。こいつはもう飲めぬ」
弥次「あらあ、つい飲んでしまった。いまいましい。さあ、行こう」
北八「婆さん、いくらだ」
婆「はい、六文づつくだんせ」
北八「水鼻はおまけだの。はい、お世話、ぺっぺっ」
とここを出立して振り返りながら、一首。
くりごとになみだをまぜて水ばなもすすりこんだるうばがあまざけ
こうして二人は、足の向くまま歩いて行く。だんだんと都に近づいて、往来はことに賑わしくなってくる。人の風俗も自然とおだやかで、しかも女の装う衣装は華やかで、ぼーつとして見とれて行くうちに、早くも大仏様に着いて、
北八「おやおや、豪勢なお寺だ。あれ山門の上から仏さまが覗いている」
弥次「ははあ、これがかの有名な大仏だわえ。なるほど話に聞いたよりは、すごいものだ。そして、この石を見や。すごい、すごい」
大仏(だいぶつ)の御堂(みどう)は雲(くも)に入とてやこれは大きなものの天上(てんじやう)
このように詠んで山門の中へ入り、やがて御堂に登った。
道中膝栗毛六編 上編 終
語句
■おまけ-その分の代金を取らぬこと。これは悪い洒落である。■くりごと-同じことを何回も繰り返し、悲しみや後悔をすること。老人の性質とするので、「うば」の縁語となる。■温順-おだやかで、素直なさま。■うつつぬかして-ぼうとなって。正体を失って。■大仏-大仏殿方広寺。京都東山にあり、天正十七年(1589)豊臣秀吉の建立。木造大仏を祀る。慶弔に銅像、寛文に木造と、豊臣氏の盛衰と共に変遷があった。寛政十年(1798)七月一日落雷によって焼失した。この本の出た時には、大仏殿は無かった。ここでは大仏殿が無くなる前のことを書いたのである。■石-『都名所図会』方広寺の条に「仏殿の敷石、又正面石垣の大石には、国々出所の名、或は諸侯の紋所等あり」。図もおおきく描かれている。■大仏の~-大仏の高さは聳えて雲に入るということだ。これはまことに大きなものの第一番だ。「雲」と「天上」は縁語で、天上は頂上、てっぺんの意。■山門-寺の正門。『都名所図会』によれば、二王を配した楼門である。■御堂-大仏殿。
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