七編序

原文

東海道中膝栗毛七編 上・下

東海道中膝栗毛七編序

穆王(ぼくわう)、八駿(じゆん)に御(ぎよ)して、王母(わうぼ)が桃(もも)を甘(あまん)じ、霊鷲(れうじゆ)の説法(せつぽう)を聴(きく)も、ひとへに名馬の功によれり。

ここに弥二郎兵衛、喜多八は、心の欲(ほつす)る所に随(したが)ひ、膝栗毛(ひざくりげ)にのりが来るまま、四方に奔走(ほんそう)して果(はて)もなきは、八駿(じうん)にも勝(まさり)てたのしかるべし。かの生(いけ)ずき、磨墨(するすみ)ならば、八十(やそ)うぢ川の争(あらそ)ひもあるべきに、人喰ひ馬も合口同士(あひくちどし)、勝手次第(かつてしだい)の道草(みちぐさ)は、これ此栗毛の徳(とく)ならずや。

尽(つき)ぬ趣向(しゆかう)に七編(へん)の緒(いとぐち)を、作者の乞(こふ)に任(まか)せ、予(よ)も又乗(のり)かかつて筆(ふで)を揮事然(ふるふことしかり)

文化辰春

亀山人蘭衣述

現代語訳

穆王が八頭の駿馬を御して、王母に遭い、くだされものの桃を甘く味わって、霊鷲山において釈迦の説法を聴けたのも、ひとえに名馬の手柄によるものである。

ここに弥次郎兵衛、北八は、心の欲するところ、膝栗毛に興味を覚えるままに従い、四方に旅をしてまわって終が無いのは、八頭の駿馬にもまして楽しいものである。あの生(いけ)ずき、磨墨(するすみ)ならば、宇治川の合戦での働き場所もあったろうが、放逸な人にも、それ相応に気の合う者がいるものである。勝手気ままな道草は、これこの膝栗毛の徳というべきであろうか。

尽きない趣向に七編の序文を作者の願いに従い、予も又乗りかかって筆を揮(ふる)うのである。

語句

■穆王(ぼくわう)-周五代の王、名は満。在位五十五年にして没。八匹の駿馬で西王母に会ったという故事。■八駿(はちじゆん)-八匹の駿馬。■王母-有名な女仙。■甘んじ-甘く味わって。■霊鷲-霊鷲山。マカダ国舎城の東北にあって、釈迦の説法した所。■のりが来るまま-興味を覚えるままに従って。■生(いけ)ずき、磨墨(するすみ)-『平家物語』巻九の宇治川の合戦に、共に頼朝から賜った名馬。佐々木高綱の生(いけ)ずきと梶原景季の磨墨(するすみ)が、先陣を争った。■八十うぢ川-琵琶湖から流れ出て淀川に入る宇治川の、和歌などでの称。■人喰ひ馬も合口同士(あひくちどし)-放逸な人にも、それ相応に気の合う者があるの意。■道草-馬が道の草を食う縁で出したが、ここは旅中に、でたらめに時間を費やす意。■緒(いとぐち)-序文の意。■乗(のり)かかつて-関係しついでに。この序者は五編にも序を執筆している。■文化辰春-文化五年戌辰(1808)の春。

述意

原文

◎洛陽(らくやう)の名所旧跡(きうせき)しるすにいとまあらず 予若年の比浪花(なには)にありし時、おりおり上京して周遊(しうゆう)せしが そは十とせあまり以前(いぜん)のことなるゆへ悉(ことごと)く亡失(ぼうしつ)し、今此編にはやうやくその十がひとつをあらはすのみ

◎先にいへる如く僕浪花(やつがれらうくは)に七とせあまりも居住(きよぢう)せしが 花洛(くはらく)へは唯用弁(ただようべん)の為のみに登れば、一覧(らん)の目をよろこばせしまでにて委(くは)しからず 地理順逆(ちりじゆんぎやく)もおぼつかなし 亦今の流行(りうかう)に照(て)らしあはさばまはり遠(とを)く もののおくれたることも多かるべし

◎五編目著述(ちよじゆつ)の前に 予おもひたちて勢州(せいしう)に杖(つえ)をはせ 参宮道中(さんぐうどうちう)のおもむき 今のむかしにかはれるあらましを粗(ほぼ)あらはしたれば その心ざしやまず 既(すで)に六編におよばんとする時 上京の念(おも)ひをおこし 其儲(まうけ)ととのひたるが はからずも類焼(るいしやう)にあひてしからざれば やむことを得(え)ず 予がむかし見しままをしるしてやみぬ 故に今七編も右におなじければ それこれをさつし給はるべし

◎近比此書(ほん)に類(るい)せし版本さまざま出たりしを 予悉(ことごと)くもとめ得(え)て閲(けみ)するに おのおの滑稽(こつけい)の花実(くはじつ)を備(そな)へて 其おもむき尤(もとも)ふかし 恐(おそ)るべし 予が家(いえ)の膝栗毛既(すで)に七篇の老馬(らうば)となりて 他の駿足(じゆんそく)におくれんことを こや六編にして筆をおくにしかじとおもひたりしに 書林栄邑堂(えいゆうだう)のあるじ連(しきり)にすすめて 冊中(さつちう)の騒客(そうかく)が浪花(なには)の津にいたらん限(かぎ)りまであめよと 乞(こ)ふによりツツいなみがたくて 終(つゐ)にこれを著すものならし

東都 通あぶら町のみどり橋

十辺舎一九誌

現代語訳

◎京都の名所旧跡を記述する時間の余裕もない。予は若年の頃浪花に住んでいた時、おりおり上京して周遊したが、それは十年ほども前のことなので、すっかり忘れ去り、今この編において、ようやくその十年の間の出来事のいくつかを著すのみである。

◎先述したように、予は浪花に七年程居住したが、花の京都へは只用事を果たす為だけで上京したので、京都の名所旧跡についてはは、ちょっと見物しただけに過ぎないので詳しくはない。又、道順についてもはっきりと理解しているわけでもない。また、今の流行の順路に照らし合わせてみても、道草を食ったこともあり、遅れたことが多い。

◎五篇目を著述する前に、予は思い立って伊勢路に杖を馳せ、参宮道中の趣、今の昔と変わったあらましを、ほぼ著したが、その志(こころざし)は止まず、すでに六編に及ぼうとする時、上京の念にかられ、又、その準備も整ったが、はからずも類焼に遭ったため、やむを得ず、予が昔見たままの状況を記して終わった。故に今七篇も右に同じであり、それこれをお察し願います。

◎近頃、この書に類する版本がさまざま出版されたが、それをことごとく買い求めて読んでみると、それぞれに滑稽な表現・内容ともに立派であって、その趣はもっとも深く、恐るべきことである。予が著した膝栗毛はすでに七編を数え、内容に新鮮味が無くなり、他の新進の作家に遅れを取ることを愁い、この六編にして筆を置くにこしたことはないと思ったが、版元の村田屋の主がしきりに勧め、弥次郎兵衛・北八が浪花の津に到着するまでのことを書いてくれと願うので断りがたく、終にこれを著すものである。

東都 通あぶら町のみどり橋

十辺舎一九誌

語句

■洛陽-京都。■僕(やつがれ)-一人称の人代名詞。自分をへりくだっていう語。■浪花-寛政の初め(寛政元年<1789>、二十五歳)頃、七年間、一九は大阪に浄瑠璃作者などとして、住んだ。『敵討住吉詣』(寛政十一年)にも「予難波江のあしのかり寝に、七とせあまり漂泊して、・・・近松東南が門葉につらなりて・・・」。江戸へ出たのは寛政六年。■十とせあまり-寛政六年から文化五年(1808)までは十四年。■用弁の為-用事を果たすため。■一覧の目をよろこばせしまでにて-ちょっと見物して。■まはり遠く-直接的でなく。■儲(まうけ)-準備。■類焼にあひて-六編(文化四年)著述の頃とすれば、この類焼は文化三年の頃でもあるか。■類せし版本-若干をあげれば、文化三年に『膝摺木』『綾繰戯』、同四年に『夷国滑稽羽栗毛』『播州巡り旅枕浦青海』前・後編、『足毛◎』のごとくである。■駿足-「馬」の縁で、他のすぐれた作者たちをいう。■栄邑堂(えいゆうだう)-版元村田屋のこと。■騒客(そうかく)-漢語で詩人の意。ここは弥次郎兵衛・北八をさして、道楽者などの意に転用したか。■東都 通あぶら町のみどり橋-日本橋本町通りの東側(今、東京都中央区日本橋大伝馬町三丁目)。通塩町に続く側に架かるのが緑橋。類焼後の住所であろう。

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朗読・解説:左大臣光永