七編上編 京見物
原文
東海道中膝栗毛七編 上・下
東海道中膝栗毛七編 上編
或(ある)人の句に、花尊都(はなたうとみやこ)に本寺本寺かな、と詠(よみ)たりしは、実(げに)も寺院堂塔(じいんどうたう)の広大無辺(くはうだいむへん)にして、其荘厳麗秀(しやうごんれいしう)なるいふもさらなり。殊(こと)に花の春紅葉の秋は、東西南北に、名だたる勝景(しやうけい)の地ありて、加茂川名酒の樽(たる)とともに、人の魂(たましゐ)をとばしめ、商人のよき衣きたるは、他国(たこく)に異(こと)にして、京の着(き)だをれの名は、益(ますます)西陣(にしじん)の織(おり)元より出、染(そめ)いろの花やぎたるは、堀川(ほりかは)の水に清(きよ)く、釜(かま)もとのおしろい、川端(かはばた)のふしのこは、ゆきをあざむき、御影堂(みえいどう)の扇(あふぎ) 伏見(ふしみ)のうちわに、風匂ふ香(かう)堂前の粽(ちまき)、丸山かるやき 大仏もち、醍醐(だいご)の独活芽(うどめ)、くらまの木芽漬(このめづけ)は、庭訓(ていきん)往来にいちじるく、東寺の蕪(かぶら) 壬生(みぶ)の菜(な)は、名物選にはなたかし。其外名産奇製(めいさんきせい)の品物(ひんぶつ)あまたある都に、たまたま入こむ騒客(さうかく)の両人、弥次郎兵衛喜多八とて、ぬけまいりの刷毛序(はけついで)にまぐれ出たれども、淀(よど)川の下り船に、かどちがひして荷物(にもつ)を失(うしな)ひ、五条新地の一ツぱい機嫌(きげん)に、はや呑込(のみこみ)して丸裸(はだか)となりたる、きた八の名にも似(に)ず、同行(どうぎやう)の弥次郎兵衛が木綿合羽(もめんがつぱ)を、借着(かりぎ)せしほどの仕合なれば、かかる洛陽(みやこ)の地もおもしろからず、うかうかと、新地もどりの朝風身にしみわたり、五条のはしにさしかかりたるに、此所はいにしへ、牛若丸(うしわかまる)の千人切したまふ所とあれば、きた八しほしほと打かたぶきて
現代語訳
或る人の句に、花尊都に本寺本寺かな。と詠みあげたのは、まことに京都の風景にふさわしく、寺院堂塔は広大で果てしなく続き、美しくおごそかに飾り立てられ、その美しさは例え様もなく見事なものである。 殊に花の春・紅葉の秋は、東西南北に有名な景勝地があって、銘酒「賀茂川」の樽を抱えてここかしことそぞら歩きをしたくなる。何かにつけ倹約を旨とする京の商人が、衣服だけは上等なものを着ているのは、他国とは異なる心意気で、京の着倒れの名文句も、西陣の織元の技術から出るもので、あの友禅の染め色の華やかさはまた、堀川の清らかな流れによってますます絢爛に染め上がるのである。窯元の白粉、川端のふしのこは京女の身だしなみの良さに一助を成し、御影堂の扇、伏見の団扇に、香堂の前の粽、円山かる焼、大仏餅、醍醐の独活芽、鞍馬の木芽漬は、古くから庭訓往来にも記載されており、有名である。その外、東寺の鏑、壬生の菜はもちろんのこと名物選の中でも自慢の旨い物である。その外、数え上げたら限りなく名産珍品の有る都であるが、たまたま入り込んだ詩歌など作って楽しむ二人は弥次郎兵衛喜多八といって、お伊勢参りのついでに、軽い気持ちでふらふらと都に迷い込んできたのである。淀川の下り船で、勘違いして荷物を失くし、五条新地での一杯機嫌に、早合点して丸裸となった。きた(着た)八の名にも似ず、同行の弥次郎兵衛の木綿合羽を借りて着るほどの運命なので、このような都の地も面白いはずがない。うかうかと新地戻りの朝風の冷たさが身に染みわたり、五条の橋にさしかかったが、ここは昔、牛若丸が千人切をしたという武勇伝が伝えられる所というので、北八は何か首をかしげて考え込んで、
語句
■花尊都~-作者未詳。本寺は本山。「花尊」は「あな尊」に「花」(季語)をかけた句。■広大無辺-仏法の忝(かたじけな)さの甚だしさをいう語を、寺院の大に使用。■荘厳麗秀-立派な寺院の飾りつけ■加茂川-加茂川という酒は当時有名であった。■人の魂(たましゐ)をとばしめ-勝景・銘酒ともに、人の心をすっかり奪う。■『古今集』仮名序、文屋康秀の歌の評に「いはば、商人(あきひと)のよき衣(きぬ)着たらむがごとし」による。町人もよい着物をつけているのは。■京の着だをれ-諺「京の着倒れ、大阪の食い倒れ」。衣類に金を使うの意。■西陣-堀川の西、一条通の北の一区画の地名(応仁の乱、東の細川に対し、山名の西の陣のあった所)。西陣織で名高く、日本の機業の中心。■染(そめ)いろの花やぎたる-京出来の染め物。京友禅を中心にして、はなやかさが特色。■堀川-賀茂川の支流で、一条戻橋の辺からは、市街の西寄りの地を南下して、上鳥羽で賀茂川に入る。友禅は賀茂川で晒す。堀川ではわからない。■釜(かま)もとのおしろい-白粉を製するには、水銀を釜に入れて焼いたので、その製造元を窯元といった。■川端(かはばた)のふしのこ-「ふしのこ」はお歯黒染め。『論講』に「御用所 御ふしの粉司 京都寺町通かうだうの前 川端陸奥◎という商標を載せ、また文化板の『京都二重大全』の名職の部に『御用御ふしの粉司 寺町通竹屋前 川場陸奥大◎」とある。■ゆきをあざむき-京女の身だしなみの良さをいう。■御影堂(みえいどう)の扇(あふぎ)-五条首途(かどいで)八幡の西にある時宗(じしゅう)の寺。新善光寺のこと。坊中に扇を折り業とする。『京都買物独案内』にも「御影堂内七軒」とか、香阿弥・持阿弥などの坊名で、「御影堂根本御扇所」と称する。■伏見のうちわ-深草の団扇と一にしていった。■風匂ふ-扇・団扇の縁で、「香堂」の序とした。■香(かう)堂前の粽(ちまき)-「革堂」(下御霊の南にある行願寺)の当て字。「粽」は烏丸蛤御門前にある川端道喜家の名産。ふしの粉司の川端と一にしている。■丸山かるやき-「円山」の当て字。甘味のある煎餅の一種。早く江戸にも伝わり、浅草誓願寺門前前茗荷九兵衛で「京丸山かるやき」として出す。円山は京都東山(今の円山公園)のうち、『水の富貴寄』に、「円山かき餅」とあるが同じか。■大仏もち-方広寺前で売る。古来から有名で、『都名所図会』にも挿画となっている。『京都買物独案内』に「名物大仏御餅所、洛東大仏前、墨田兵左衛門」。■醍醐(だいご)の独活芽(うどめ)-「醍醐」は今は伏見区の町名。「独活芽」は独活その他の新芽を塩漬けにしたもの。■くらまの木芽漬(このめづけ)-洛北鞍馬で、若芽を漬けたもの。今に伝わる。■庭訓(ていきん)往来-伝玄恵著の往来物の古典。■東寺の蕪(かぶら)-庭訓往来の「東山の鏑」を、一九が誤ったもの。もし東寺が正しいとすれば、東寺のある九条辺りの名産「瓜」の間違いであろう。■壬生(みぶ)の菜(な)-今日もある壬生菜。洛の西南壬生産の水菜。■名物選-未詳。京都名物を寄せたものでは、安永七年(1778)『水の富貴寄』などある。■騒客-詩歌など作って楽しむ人。■刷毛序-あることのついでに、他のことをすること。■きた八-着た八。■新地もどりの-五条新地からの朝帰り。合羽一つの北八には、その朝風が一段とこたえる。■五条のはし-『都名所図会』に「五条橋は初は松原通にあり。即いにしへの五条通也。秀吉公の時此所に移す。故に五条橋通といふ。実は六条坊門前也」。■牛若丸-源義経の幼名。千人切は、謡曲「千人切」に、阿武隈川源左衛門、父の恨みで千人の人を事などあって、五条橋の千人切は土岐悪五郎の話がある。(嬉遊笑覧)。弁慶が千人の太刀を取ろうとした話(義経記)を、牛若丸と一つにしていったもの。■打かたぶきて-不審がる。
原文
かかる身はうしわか丸のはだかにて弁慶(べんけい)じまの布子こひしき
かくて東(ひがし)にわたりて、河原院(かはらのいん)の旧跡(きうせき) 門出(かどで)八幡もすぐどをりとなして、高瀬(たかせ)ぶねの綱(つな)にひかれてたどりゆく道すがら
北八「おもへばおもへばつまらねへことになつた。どふぞふる着屋(ぎや)でも見つけたら、どんなでも綿入(わたいれ)が一まいほしいが、弥次さん、いいちゑはねへかの
弥二「ナニかわずともいいにしたがいい。ゑどつ子の抜参(ぬけまいり)に、はだかになつてけへるは、あたりめへだは
北八「それだとつてさむくてならねへ
弥次「そんならさいわいここに湯屋(ゆや)がある ナントちよつくりあつたまつていかねへか
北八「ホンニこいつはきめうきめう 弥次さんおさきへ ありがてへ
トいちもくさんに あるかうしづくりのうちののれんをくぐりて、すつと入り、かけあがつて、はだかにならふとすれば、そこのていしゆ
「モシモシこなさん誰(だれ)じやいな 何さんすのじや何さんすのじや
トとがめられて、北八あたりを見廻し見るに、ゆやでなし
「エエいめへましい 湯屋かとおもつた
ていしゆ「ハハハハこちの暖簾(のれん)に、ゆのじがあるさかい それでせんとうかとおもふてじやの。アリヤ済生湯(さいせいとう)といふ、ふり出しぐすりの名じやわいな
弥次「ホンニこいつは大わらひだ
北八「また一倍(ばい)さむくなつた。いめへましい
トこごといひながらゆくさきに、しみたれのふるぎやいつけんあり。見せさきに、ふるぬのこ、ふるあはせつるしあり。きた八弥次郎兵へをくどきて、ぬのこ一まいもとめんと、くだんの見せにたちひねくりまはして、こんぬのこをとつてすかし見
「モシこのぬのこはいくらだね
ふる手やのていしゆ「ハイハイこつちやへおかけなされ。コレおちやもてこんかいな。おたばこの火もないわいな。赤(あかい)の、ひとつちやとくさんせ
北八「イヤ茶もたばこもいりやせん。コリヤアいくらだといふに
現代語訳
かかる身はうしわか丸のはだかにて弁慶(べんけい)じまの布子こひしき
このようにして東側に渡り、河原院の旧跡、門出八幡も参詣もせず素通りして、高瀬舟の上り舟の綱を引く人に従って、三条の方へ辿って行く道すがら、
北八「思えば思えばつまらんことになった。どうぞ古着屋でも見つけたら、どんなものでも綿入れが一枚欲しいが、弥次さん、いい知恵はねえかの」
弥次「なに、買わなくてもいいということにしたがいい。江戸っ子の抜参りに、有り金全部失くして帰るのは当たり前だは」
北八「だからといって寒くてならねえ」
弥次「そんなら幸にここに風呂屋がある。どうだい、ちょっくら暖まっていかねえか」
北八「ほんに、こいつは奇妙、奇妙。弥次さんお先へ。ありがてえ」
と、一目散に、ある格子造りの家の暖簾を潜って、すっと入り、掛け上がって、裸になろうとすると、そこの亭主、
「もしもし、こなさん誰じゃいな。何さんすのじゃ、何さんすのじゃ」
と咎められて、北八が辺りを見回して見ると、風呂屋ではない、
「ええぃ、いまいましい。風呂かと思った」
亭主「はははは、こちの暖簾に、湯の字があるさかい、それで銭湯かと思うてじゃの。ありゃあ、済生湯(さいせいとう)という、振出薬の名じゃわいな」
弥次「ほんに、こいつは大笑いだ」
北八「また、一段と寒くなった。いまいましい」
と、小言を言いながら行く先に、みすぼらしい古着屋が一軒ある。店先に古布子と古袷が吊るしてある。北八は弥次郎兵衛を説得して、布子を一枚求めようと、その店前に立って、その布子をひねくり回し、この布子を手に取って透かして見る。
北八「もし、この布子はいくらだね」
古着屋の亭主「はいはい、こっちゃへお掛けなされ。これ、お茶持てもんかいな。お煙草の火も無いわいな。炭の赤くなったの一つ早く取てくりゃんせ」
北八「いや、茶も煙草もいりやせん。こりゃあいくらだと言うに」
語句
■かかる身に~-「うし」に「憂し」と「牛」若、「丸」に「丸裸」をかけ、縞模様に弁慶の名をはめる。弁慶縞は粗い格子の織で、白紺、紺茶、紺と浅黄など二色を使用。■東にわたりて-以下、賀茂川西岸の地名であるが、宮川町のごとく東岸も見える。一九は賀茂川の東西を混じている。■河原院-平安朝の昔、河原左大臣源融の別荘のあった所。「五条橋通万里小路の東八町四方にあり」(都名所図会)、塩釜の浦を模したことで有名。■門出八幡-五条橋西詰(都名所図会)にある松豊八幡宮。貞純親王の霊を祀る。■すぐどをりとなして-参詣もせずに、素通りして。■高瀬ぶね-河船の一種であるが、ここは特に高瀬川を上る舟。高瀬川の上り舟の綱を引く人に従って、三条のほうへ辿って行く。■はだかになつてけへるは-ここは金を全部、使い果たしての意。■かうしづくり-格子造り。通りに面して格子をはめている家の構え。■せんとう-銭湯。京の銭湯について、『見た京物語』に「湯屋は掛行灯ありて各銘有り、入る人はなはだ少し、やうやう五人ほども有る也」。■済生湯-『京羽二重大全』(文化八年)に「済生湯、三条東洞院東入、谷安映」。■ふり出しぐすり-布の小袋に入った薬剤を熱湯中につけ、振って飲むようにしたもの。■しみたれ-みすぼらしい。■赤の-炭のあかくなったの。■ちやと-早く。
原文
ていしゆ「ハイハイ「そりやきやうとうよござります。おやすうしてあげふわいな。
小ぞう「ハイおちやあがりなされ
ていしゆ「長吉、そりやおぬるいじやないかいな。なぜ、あついちややあげんぞい
小ぞう「イヤおゑさまが、朝(あさ)はちやがゆじやさかい、茶(ちや)ちや焚(たく)なとおつしやつてでござります。それはきのふ、焚(たい)たまんまのちややでござりますわいな
弥次「いかさま、きのふのお煮花(にばな)ほどあつて、とんと河童(かつぱ)の屁(へ)のようだ。イヤ屁のついでに、尾籠(びろう)ながら御ていしゆさん、手水(てうず)にゆきたい。おうらをちよつと
ていしゆ「ハイハイ雪隠(せつちん)へお出かいな
小ぞう「せつちんはぬるふはござりませぬ。よふわいてじやあろぞいな
ていしゆ「ナニ雪隠(せつちん)を誰(だれ)が沸(わか)したぞい
小ぞう「それじやてて、いんまのさきわたしがさんじたさかい、すぐいて見なされ。ぽつぽと煙(けむり)が出てじやあろ
ていしゆ「エエむさいこといふやつじや
北八「そんなことより此布子はいくらだへ、はやくきめてくんねへ。さむくてこたへられぬ
ていしゆ「おさむくは、もつとそつちやへよりなされ。そないによふ日がさしてじやわいな。きのふも着物(きりもん)かいにお出たおかたが、コリヤきやうとい、ぬくひうちじやてて、そこに一チ日ひなたぼこしていなれましたが、そのおかたがもふ、着物買(きりもんか)うて着(き)んでもだんない。毎日ここのうちへ日向(ひなた)ぼこしにこうわいなと、こないに、いふてじやあつたわいな
北八「エエじれつてへ。コリヤうらねへのか、どふだな
ていしゆ「ハイハイかうじやわいな
北八「やすくしてくんねへ
ていしゆ「ソノ紺(こん)のおひゑじやな
トそろばんぱつちぱつち
三拾五匁とんとぎりぎりじやわいな
現代語訳
亭主「はいはい、そりゃあ、とてもよござります。お安くしてあぎょわいな」
小僧「はい、お茶あがりなされ」
亭主「長吉、そりゃあ温(ぬる)いんじゃないかいな。なぜ、熱い茶あげんぞい」
小僧「いや、女将さまが、朝は茶粥じゃさかい、茶は焚くなとおっしゃってでございます。それは昨日、焚いたままの茶でござりますわいな」
弥次「いかにも、昨日のでお煮花だけあって、とんと河童の屁のようだ。いや、屁のついでに、不潔ながら御亭主さん、手水に行きたい。お裏をちょっと」
亭主「はいはい、雪隠へお出でかいな」
小僧「雪隠は温うはござりませぬ。よう沸いてじゃあろぞいな」
亭主「なに、雪隠を誰が沸かしたぞい」
小僧「それじゃとて、いまさっき私が行き参じましたさかい、すぐ行て見なされ。ぽっぽと煙が出てじゃあろ」
亭主「ええぃ、汚いことを言う奴じゃ」
北八「そんなことよりこの布子はいくらだえ、早く決めてくんねえ。寒くて堪えられぬ」
亭主「お寒くば、もっとそっちゃへ寄りなされ。そないによう日が射してじゃわいな。昨日も着物を買いに来たお方が、こりゃすごい、温いうちじゃてて、そこに一日日向ぼっこして帰られましたが、そのお方が、もう着物を勝うて着んでもかまわんわい、毎日この家に日向ぼっこしにこうわいなと、こないに、言うてじゃあったわいな」
北八「ええぃ、じれってえ。こりゃ、売らねえのか、どうだな」
亭主「はいはい、買うじゃわいな」
北八「安くしてくんねえ」
亭主「その紺のお卑衣じゃな」と算盤をパチパチ、「三十五匁、とんとぎりぎりじゃわいな」
語句
■きやうとう-おそろしく。甚だしく。すばらしく。■おゑさま-おかみさん。し■茶がゆ-茶粥。茶を煎じた中で作った粥。■茶ちや-茶々。上方語でお茶のこと。■煮花-茶の葉を煎じた初めごろの茶。でばな。■河童の屁-たわいのないこと。水中の屁であるから勢いがないのでいう。また、木っ端の屁の訛とも。■だんない-「大事ない」の訛で、かまわない、支障がない、大丈夫だなどの意。■おひゑ-お卑衣。木綿の綿入れ。
原文
北八「たかいたかい。わつちらはゑどのものだが、古着(ぎ)は商売(しやうばい)がらで、いくらもとりあつかつてゐるから、やるもんじやアねへ。ほんとうの所をいひなせへ
ていしゆ「ハア御商売がらとあれば、おまいさまも古着屋(ふるぎや)なされてかいな
北八「イヤわしは、質(しち)せうばいさ
ていしゆ「しちとあれば何かいな。おとりなさるのか、置(おき)なさるのかいな
弥次「おくのが此男のせうばいさ
北八「それだから、質(しち)におく時の算用(さんやう)からしてかからにやアかはれやせぬ。此ぬのこはどふしても、壱〆より外は貸(かす)めへから、弐朱ばかりにかはにやア損(そん)がいく
ていしゆ「なにいふじやぞいな。後家(ごけ)のしちやへもていても、金壱分はものいはず、かすわいな
北八「とんだことをいふ。どふして壱分かされやしやう
ていしゆ「ナニ壱分つかん事はありやしよまいがな
北八「それともおめへ、じきにうけなさるか
ていしゆ「うけるわいな
北八「そふいつても、あてにやアならねへ。それよりか此間の股引(ももひき)の出入はどふしなさる。そして袷(あはせ)の時がしもあるし、それもおめへ、子ども衆が脾胃虚(ひゐきよ)して煩(わずら)つてゐるうへ、かみさまが疫病(やくびやう)でしなれたけれど、仏(ほとけ)かかへて葬礼(そうれい)を出す工面(くめん)が出来ぬと、たつてのおたのみゆへ、貸(かし)てあげたものを、義理(ぎり)のわるい。いつそのこと、此布子(ぬのこ)はその袷(あはせ)のかたに、只(ただ)とつておきやせう
ていしゆ「アアこれ申、とつともふ、やくたいもないこといふてじやわいな。わしが嬶(かか)が、いつ疫病(やくびやう)でしんだぞいな。あたけたいなこといはんすわいな
トていしゆ大きにはらたてる 弥次郎兵へおかしく
「どふも此男は、くちがわるくてなりやせん。了簡(りやうけん)しなせへ。そして何角とめんどうな。そのぬのこも、壱貫にまけてやりなせへし
ていしゆ「よござります。朝商(あさあきな)ひじや。まけてあぎよわいな。シヤンシヤンシヤン
北八「まづは、ぬのこにありついた
現代語訳
北八「高い、高い。わっちらは江戸の者だが、古着は商売柄、いくらも取り扱っているから、そんな言い値で買えやしねえよ。本当の所を言いなせえ」
亭主「はあ、御商売柄とあれば、おまいさまも古着屋なされてかいな」
北八「いや、わしは、質商売だ」
亭主「質とあれば何かいな。お取りなさるのか、置きなさるのかいな」
弥次「置くのがこの男の商売さ」
北八「それだから、質に置く時の計算をしてかからにゃ買われやせぬ。この布子はどうしても、千文を超えた値では貸すめえから、二朱ほどには買わにゃあ、損になるわい」
亭主「何言うじゃぞいな。どう安う見積もっても金一分は、文句も言わず、貸すわいな」
北八「とんだことを言う。どうして一分貨されやしょう」
亭主「なに、一分の値がつかんことがありましょかいな」
北八「それとも、おめえ、すぐに請け出しなさるか」
亭主「請けるわいな」
北八「そういっても、あてにゃあならねえ。それよりかこの間の股引の貸し借りのもめごとはどうなさる。それに袷の一時的な融通のこともあるし、それもおめえ、子供衆が
脾胃痛をして煩っている上、かかみさんに疫病で死なれたけれど、仏を抱えて葬式を出してやる工面も出来ぬと、たっての頼みなので、貸してあげたものを、不義理な奴じゃわい。いっそのこと、この布子はその袷の代りにただ取っておきやしょう」
亭主「ああ、これ、なんともかとも、とんでもないことを言うてじゃわいな。わしの嬶が、いつ疫病で死んだぞいな。いまいましいことを言わんすわいな」
と、亭主はおおきに腹を立てる。弥次郎兵衛は可笑しくなって、
「どうもこの男は、口が悪くてなりやせん。勘弁して下せえ。そして何かと面倒な。その布子も一貫にまけてやりなせえし」
亭主「よござります。朝商いじゃ。まけてあぎょわいな。しゃんしゃんしゃん」
北八「先ずは、布子にありついた」
語句
■商売がら-商売上■質せうばい-質商売。質屋を商売としているように聞こえるのが滑稽。すぐ化けの皮がはがれる。■壱〆-銅銭で千文。文化四年京都の相場では、銀九匁強に当る。■弐朱-金一分の半分。■後家のしちやへもていても-どう安く見積もってもの意。■壱分-金一両の四分の一。■ものいはず-文句を言わないで。■つかん事は~-値がつかないことは、よもやない。ここで、亭主が質を置くほう、北八が質屋のきもちになった物言いとなる。かかる情緒不安定な気持ちの変化が、滑稽本や落語の会話に多い。■計算。貸し借りのもめごと。■時がし-一時的な融通。■脾胃虚-脾臓と胃が弱った病気。■疫病-流行病。■かたに-代りに。■あたけたいな-「けたいが悪い」の略。忌々しい。■何角-なにかと。■朝商-商人の諺に「朝商いは福を呼ぶ」といって、早朝から客がつくと、縁起がよいとした。
原文
ト弥次郎に代銭をはらはせ、かのぬのこをきて、弥次郎兵へに木綿合羽をかへし、此うち出るとて、のれんを見れば、とらやとあるにおもひよりて
和藤内(わとうない)三貫(ぐはん)あまりの古布子老(ふるぬのこらう)一くわんにもとめこそすれ
それより、きた八は忽(たちまち)に元気をゑて、
「ナント弥次さん、すさまじかろう。古着屋めをちやらぽこで、はぐらかして、壱貫に見おとしは、安いもんだ。見なせへし、まだ襟垢(ゑりあか)もつかねへものを
弥次「紺(こん)の看板(かんばん)と見へて、おいらがおとものよふで、えうどいいの
北八「ときに、ここらは何といふ所だの。ごうてきに、いきなたぼがちらちらするは
弥次「ハハア紫(むらさき)ぼうしの野郎どもが見へるから 大かた宮川町といふけんとうだ
北八「くるぞくるぞ美しい妓(おやま)どもがくる。いいときおいらアきものを買(かつ)てよかつた まんざらはだかのうへにその木綿合羽じやア あいつらにすれちがつても、げへぶんがわるい
トにはかにゑりかきあはせて見へはりながら 向ふより来るおやまげい子にすれちがひとをれば一人のおやまふりかへり きた八を見て
「はつねさん見なませ あの人さんのきりもんに、おつきな紋(もん)がついてじやわいなヲヲおかしヲホホホホホ
はつね「ホンニあほらしい人さんじや ヲヲすかんやのヲ ホホホホホ
ト打わらひ行過るゆへ弥次郎兵へも心付て
「ヲヤヲヤきた八、手めへのきものを見や。背中(せなか)のよこちよに、大きな紋(もん)所が、くつついていらア
北八「どこにどこに
トふりかへりてよく見れば、のぼりを、こんにそめたるぬのこゆへ、ちよつと見てはしれねども、日あたりへ出ると、大きなもんどころ、ありありとすいて見ゆる
北八「コリヤ大変コリヤ大変
弥次「ハハハハハハすそのほうには、鯉(こい)の滝(たき)のぼりが見へるから、こいつ幟(のぼり)のはぐらかしたものだな
北八「エエ古着(ふるぎ)やめがとんだ目にあはしやアがつた。どふりで安いとおもつた。ぶんのめして来よふ
弥次「ナニうつちやつておきやれ。みな手めへがべらぼうだからおこつたことだ。さきは商売だものを、しかたがねへ
北八「エエいめへましい
現代語訳
と弥次郎に代銭を払わせ、その布子を着て、弥次郎兵衛に木綿合羽を返す。この家を出ようと、暖簾を見ると、虎屋となっているのに思いを寄せて一首。
和藤内(わとうない)三貫(ぐはん)あまりの古布子老(ふるぬのこらう)一くわんにもとめこそすれ
それから北八はたちまち元気になって、
「どうだ弥次さん、すごいだろう。古着屋めをでまかせで、ごまかして、一貫まで安くしたのは、たやすいもんだ。見なせえ。まだ襟垢も付いてねえものを」
弥次「おあつらえの紺の仕着せだ。おいらのお供のようで、ちょうどいいわい」
北八「ときに、ここらは何という所だの。ごうてきに、粋な女がちらちらするわ」
弥次「ははあ、紫ぼうしの野郎が見えるから、おおかた宮川町という見当だ。
北八「来るぞ、来るぞ。美しいおやまどもが来る。いいときにおいらあ着物を買ってよかった。まんざら裸の上にその木綿合羽じゃあ、あいつらにすれ違っても、外聞が悪いわ」
と、急に襟を掻き合わせて見栄を張りながら、向うから来るおやま芸子とすれ違って通ると、一人のおやまが振り返り、北八を見て、
「初音さん、見なませ。あの人のきりもん(着物)に大きな紋が付いてじゃわいな、おお、可笑し、おほほほほほほ」
初音「ほんに阿保らしい人さんじゃ。おお、嫌やなあ~。ほほほほほほ」
と笑いながら行き過ぎるので、弥次郎兵衛も気づいて、
「おやおや、北八、てめえの着物を見や。背中の横っちょに、大きな紋所が、くっついていらあ」
北八「えっ、どこに、どこに」
と振り返って良く見ると、幟を紺に染めた布子なので、ちょっと見るとわからないが、日の当たる所に出ると、大きな紋所が、ありありと透けて見える。
北八「こりゃ大変、こりゃ大変」
弥次「はははははは、裾の方には、鯉の滝登りが見えるから、こいつは幟を作り直したものだな」
北八「ええぃ、古着屋めがとんだ目にあわしゃあがった。道理で安いと思った。ぶんのめして来よう」
弥次「なに、うっちゃっておきやれ。みな手めえがべらぼうだから起こったことだ。相手は商売だものを、仕方がねえ」
北八「ええ、いまいましい」
語句
■和藤内(わとうない)-和藤内は国姓爺鄭(てい)三官、老一官はその父鄭芝竜に当る。虎屋の屋号から、近松の「国姓爺合戦」に、虎を従える一条があることを思い出した。■すさまじかろう-すごいだろう。■ちやらぽこ-でまかせ。よい加減なこと。■はぐらかして-ごまかして。気を別な方面にそらさせて。■見おとし-安値につける。安く見る。■襟垢--着古して、襟の角の外が赤で汚れ、摺り目が目だったりするをいう。■紺の看板-紺色の看板。看板は武家の中間小者が着る、主家の紋を背に染め出した、短い半纏ようのもの。■たぼ-女性をいう通言。■紫ぼうしの野郎-歌舞伎役者が、野郎頭の剃った部分を覆った野郎帽子の、後々まで残ったもの。売色の野郎などは、舞台以外でも、紫縮緬のこの帽子を利用した。■宮川町-賀茂川東岸の四条より南へ五条の間、八丁目までにわたる。東石垣町(略して東石(とうせき))とも。野郎の茶屋が、古くからあった上に、宝暦元年(1751)から花街が開かれた。■けんとう-見当。■見へばり-見得を作りながら。■げい子-ここは、前文から見れば、芸子即ち野郎をさすようである。■おつきな-大きな。■あほらしい人-ばかげた人。■すかんやのヲ-嫌だワ。上方の娼妓・芸者の常文句。■のぼり-幟。五月の節句に、戸外に立てるものなること、以下でわかる。この幟には、その家の紋所を染め込んである。■鯉の滝登り-五月幟の画様の一。■はぐらかしたもの-ごまかしたもの。
原文
トまじめになりてつぶやきながら、四条どふりに出れば、何しあふ川東のきつすい、ぎおんまちのはんじやうは、りやうがはの芝居、やぐらだいこを打まじへ、てんからてんからのおといさましく、狂言の名代かんばんはなやかに、ついのはでもやう、きかざりたる、東西の木戸番、しをからごへにて
「サアサアひやうばんじゃひやうばんじや。今が三五郎の腹切(はらきり)じや腹切じや。此あとが、あら吉と、友吉が所作(しよさ)ごと。ひやうばんひやうばんひやうばん
トよびたつる。江戸で火なはといふは、京大阪にてはみな女なり。北八弥次郎兵へがそでをひゐて
女「モシナおまいさん方、ひとまく、見てお出んかいな
北八「いかさま、ナント弥次さん、京のしばゐも、ひときり見やうじやアねへか
弥次「おもしろかろう。女中いくらで見せる
女「よござりますわいな。わたしがどふなとするさかい、マアお出なされ
トふたりを両ほうの手にひつぱり、引つれてしばゐへはいり、ニかいへあがると、さじきばん来り、ふたりを向ふさじきのまへがはへ入れる。もつともまくの内にて、中うりのあきん人こへごえに
「みづから、うぢやまうぢやま、まんぢうよいかいな「茶アあがらんかいな。ちややどふじやいな「ばん付ゑほんばん付ゑほん
弥次「ごうぎに大入りだ。しかしゑどの芝居の半分でもねへ
北八「アアたいくつだ。一ツぱいのみたくなつた
弥次「おらア腹(はら)がへりまの大根(だいこん)だ。くはしでも買(かつ)てくをふ
商人「みづから宇治山
弥次「なんだ手づからうつちやる。勝手にさつせへ
商人「まんぢう、どふじやいな
北八「こいつがいつちわかつてゐる。コレまんぢう、三ツ四ツくんなせへ
商人「ハイハイ、三文づつでござります
となりさじきのけんぶつ「コレまんぢうやさん、どしたもんじやぞい。こちの弁当(べんとう)へしつぶしじや
商人「ハイおゆるしなされ
現代語訳
と真面目になってつぶやきながら、四条通に出ると、名にしおう川東の生粋、祇園町の繁盛は、両側の芝居小屋が、櫓太鼓を打ち交え、テンカラテンカラの音勇ましく、狂言の名代看板は華やかで、揃いの派手な模様の衣服を着た東西の木戸番が声を枯らして、
「さあ、さあ。評判じゃ、評判じゃ。今が三五郎の腹切りじゃ、腹切りじゃ。このあとが、嵐吉(あらきち)と、友吉の舞踊劇。評判、評判、評判」と客を呼ぶ。江戸で火縄というのは、京大阪ではみな女である。北八弥次郎兵衛の袖を引いて、
女「もしな、おまいさん方、一幕、見てお出でんかいな」
北八「いかさま、なんと弥次さん、京の芝居も一幕見ようじゃあねえか」
弥次「面白かろう。お女中いくらで見せる」
女「よござりますわいな。私がどうなとするさかい、まあ、お出でなされ」
と二人を両方の手で引っ張り、引き連れて芝居小屋へ入り、二階へ上がると、桟敷番がやって来る。桟敷番は、二人を二階正面の前側に入れる。最も幕の近くで、中売りの商人が声々に、
「水辛、宇治山、宇治山、饅頭はいらんかいな。茶あ上らんかいな。茶どうじゃいな。番付に絵本、筋書どうじゃいな」
弥次「たいそう大入りだ。しかし江戸の芝居の半分でもねえ」
北八「ああ、退屈だ。一杯飲みたくなった」
弥次「おらあ、腹がへりまの大根だ。菓子でも買って食おう」
商人「水辛~、宇治山~」
弥次「なんだ、みずから宇治屋(自分から捨ててしまっとる)。勝手にさっせえ」
商人「饅頭、どうじゃいな」
北八「こいつが一番おなじみだ。これ、饅頭、三つ四つくんなせえ」
商人「はいはい、三文づつでござります」
隣桟敷の見物人「これ、饅頭屋さん、どしたもんじゃぞい。こちの弁当押しつぶしてしまったぞい」
商人「はい、お許しなされ」
語句
■川東のきつすい-賀茂川の東岸一帯。ことに、花街や劇場のあった四条通は、歓楽の地であった。よって「生粋」と称した。■ぎおんまち-祇園町。祇園社の西側、四条通をはさみ、北・南一帯。花街であって、芝居はこの町より更に西、賀茂川東岸で、四条通の北・南側にあった。一九は混交している。■やぐらだいこ-櫓太鼓。ここは古式のそれでなく、芝居の開閉を告げたり、客寄せのための太鼓をいう。「打まじへ」は、互いの芝居で打っているさま。■名代かんばん-名題看板。上演中の狂言の外題を書いて、劇場正面に立てたもの。様式に推移があるが、登場役者を示した絵を上部に描き、また大名題に対して、小名題とて、各幕をも示したもののあった。『劇場楽屋図会』上に図がある。■ついのはでもやう、きかざりたる-揃いの派手な模様の衣服を着た。■木戸番-劇場の木戸口即ち入口に位置して、出入り者に応待したり客寄せ警備などを担当する者。「東西」は両側を示したものかと思われるが、京都の四条の場合は南北とあるべきである。■しをからごへ-しわがれ声。声をからして。■三五郎-三世嵐三五郎(?~1838)。寛政九年(1797)襲名して、当時上方の立役。号来芝。■あら吉-二世嵐吉三郎(1769~1821)。当代を代表する上方役者で美男の立役。その号により大璃寛(だいりかん)と称された。晩年橘三郎。■友吉-初代藤川友吉(1759?~1808)。上方の若女形で評判記の巻軸とまでなった。■所作-歌舞伎中の舞踊劇的な場面。景事。■火なは-『劇場新話』に「火縄売は、揚幕の際に片寄居る火縄の数にて、見物の入高を量る、一名きせるといふ」。煙草用の火縄を売り、留場(とめば)(場内整理役)をも手伝う者。■ひときり-一切。一幕。■-さじき番-見物を、桟敷のそれそれの席に割り付ける役をする者。その主任は大夫元の名代もするという。■向ふさじき-向う桟敷。二階正面。■中うり-劇場内の幕間に、簡単な飲食物などを、呼び声をもって売り回る者。■みづから-水辛。昆布を菓子ように製したもの。■うぢやま-落雁菓子の一。■ばん付ゑほん-番付絵本。場面を示した絵を主に、役割をも書いた案内用の小冊子。■腹(はら)がへりまの大根(だいこん)だ-練馬名物の大根を入れ込んだ洒落言葉。■へしつぶしじや-押し潰してしまった。
原文
弥次「アイタタタタタタ、ごうぎに足をふんだ
商人「ハイこれは、モシちとおゆるしなされ
北八「コリヤどふしやアがる。人のあたまのうへを、金玉をひきずつてとをりやアがる。エエきたねへきたねへ
となりのけんぶつ太郎兵へ「ヲヲ権(ごん)兵へさん、何買(か)うてお出たぞいな
権兵へ「太郎兵衛さん、待(まつ)てじやあろ。わしや、今あこの桟敷(さじき)でな、気疎味(けうとううま)ひものくてじやさかい、ソレ見てゐて、おそなつたわいな。サアサアこないなもんじや
ト竹の皮づつみを出す
太郎兵へ「ハア鯖(さば)のすもじかいな。コリヤきよとい、きよとい。その飯(めし)は弁当のかはりにして、さかなはへがして、酒のさかなにさんせ。それがよいわいな」
権兵へ「さよじや、竹の皮(かは)はもていんで、草履(ぞうり)のはなをたてるわいな。イヤときに、一盃(いっぱい)やろかいな
トちいさなちよくを取出し、ふろしきにつつみし、とくりよりついでのむ。
北八これを見て、小ごへになり
「弥次さん見ねへ。うまそふにのみおるがうらやましい。
弥次「エエいめへましいことをいふおとこだ
北八「コレおぼうさん、おまんひとつあげやせう
トおのれがくひのこしたまんぢうひとつ、となりさじきの子どもにやる。これにてあしをつけて、さけをのもふといふ下ごころなり
太郎兵へ「コレハお有がたふござりますわいな
北八「おめへがたアよいものをあがりなさる
太郎兵へ「おまいも御酒はおすきかいな
北八「さやうさやう、めしよりは好物(こうぶつ)さ
太郎兵へ「ソリヤよいおたのしみじやわいな。コレ権兵衛さん、もひとついただこかいな。ヲトトトトトコリヤよい酒じやな
権兵へ「さよじや。ホンニおとなりのお客、御退屈じやあろ。是なとひとつ、あがらんかいな
現代語訳
弥次「あいたたたたた、えらく足を踏んだな」
商人「はい、これは、もし、ちとお許しあれ」
北八「こりゃ、何しやあがる。人の頭の上を、金玉引きずって通りやあがる。ええ、汚ねえ。ぺっぺっ」
隣の見物人太兵衛、「おお、権兵衛さん、何を買っておいでたぞいな」
権兵衛「太郎兵衛さん、待ってじゃあろ。わしゃあ今この桟敷でな、おそろしく旨い物を喰ってじゃさかい、それを見ていて、遅くなったわいな。さあさあ、こないなもんじゃ」
と竹の皮包を出す。
太郎兵衛「はあ、鯖のすもじかいな。こりゃ珍しい、珍しい。その飯は弁当の代わりにして、魚は剥がして、酒の肴にさんせ。それがよいわいな。
権兵衛「左様じゃ。竹の皮は持って帰って、草履の花緒たてるわいな。いや、ところで、一杯やろかいな」
と小さな猪口を取り出し、風呂敷に包んだ徳利から注いで飲む。
北八はこれを見て、小声になり、
「弥次さん、見ねえ。旨そうに飲みおるが羨ましいぜ」
弥次「ええ、いまいましいことを言う男だ。饅頭で我慢しな」
北八「そうはいかねえ、これ、ぼっちゃん、お饅頭ひとつあげやしょう」
と自分が食い残した饅頭をひとつ、隣桟敷の子供にやる。饅頭一個で関係をつけ、あわよくば徳利の酒を飲んでやろという下心である。
太郎兵衛「これはこれは、有難うござりますわいな」
北八「おめえがたあ良い物をあがりなさる」
太郎兵衛「おまいも御酒はお好きかいな」
北八「さようさよう。飯よりは好物さ」
太郎兵衛「そりゃあ、良いお楽しみじゃな。これ、権兵衛さん、もひとついただこかいな。おっとととととと。こりゃ、良い酒じゃな」
権兵衛「さよじゃ。ほんにお隣のお客、御退屈じゃあろ。これなとひとつ、あがらんかいな」
語句
■気疎(けうとう)-おそろしく。甚だしく。ひどく。■鯖のすもじ-鯖鮓(さばずし)。鯖を上部において、仕込んだ押し鮓。■おぼうさん-ぼっちゃん。■あしをつけて-関係をつけて。
原文
トちやわんをさしいだす。きた八手に取よりはやくいただきて
「ハイありがたうございやす
太郎兵へ「しかし、さめはせんかいな。モシおてうしごと、それへあぎよわいな
ト茶やのどびんをきた八にわたせば、もつけなかほしてうけとりついでのめば、ぬるひ茶なり
北八「エエちやだそふな。ぺツペツ
太郎兵へ「おぬるなつたじやあろ
北八「とてもぬるい序(ついで)に、どふぞ是へその徳利(とつくり)のをうめて下さりませ
太郎兵へ「これはしたり、コレ見なされ。こないになつたわいな
トとつくりをさかさまにして見せる
弥次「ハハハハごうさらしな
北八小ごへにて
「いまへましい。まんぢう一ツぼうにふつた
トぶつぶつくちのうちに、こごといひながら、ふくれてゐると、此内がくやにてひやうし木
「カツチカツチ
見物「イヨ口上さまア
口上「とうざいとうざい
ト此内口上もすみ、まくのうちにて
たいこ「てんてんてれつくてんてんてんてれつくてん
ひやうし木「カツチカツチカチチチチチ
三味「ツツテンツツテンツツテン
まくひらくと、はな道よりしだしのやくしや、大ぜい出ると、けんぶつのわる口
「イヨ大根(だいこ)ウ十把(じつぱ)ひとからげじや
北八「ナニ大根とは、アノ役者(やくしや)のことか。何のこつた
現代語訳
と茶碗を差し出す。北八はそれを手に取るより早くおしいただき、
「はい、有難うございます」
太郎兵衛「しかし、冷めはせんかいな。もし、お銚子ごと、それへあぎょわいな」
と茶屋の土瓶を北八に渡すと、北八は勿怪の幸いという顔をして、受け取り、注いで飲むと、ぬるい茶である。
北八「ええ、こりゃ茶じゃねえか。ぺっぺっ」
太郎兵衛「おぬるかったじゃあろ」
北八「とても温いついでに、どうぞここへその徳利のを埋めて下さりませ」
太郎兵衛「これは残念。これを見なされ。こないになったわいな」
と徳利を逆さまにして見せる。
弥次「はははは、恥さらしな男だぜ」
北八は小声になって、
「いまいましい。饅頭ひとつ棒に振ったわい」
とぶつぶつと口の中で小言を言いながら、膨れていると、そのうちに楽屋で拍子木の音がしだした。
「カッチカッチ」
見物「いよっ、口上さまあ~」
口上「とうざいとうざい」
とそのうちに口上も済み、幕の内で、
太鼓「てんてんてれつくてんてんてんてれつくてん」
拍子木「カツチカツチカチチチチチ」
三味「ツツテンツツテンツツテン」
幕が開くと、花道から仕出しの役者が、大勢出ると、見物の悪口、
「いよっ、大根十把ひとからげじゃ」
北八「なに、大根とは、あの役者のことか。何のこった」
語句
■棒にふる-棒に振る。無駄にする。■がくや-楽屋。ここでは幕の内の意。■口上-歌舞伎では、幕の初めに、見物に挨拶し、役者を紹介し、又は特別の場合には、それぞれ目的に応じての挨拶など、舞台から話しかける一形式をいう。■とうざいとうざい-東西東西。場内の騒がしいのを制する語。■はなみち-花道。■しだし-仕出。演劇用語。登場人物の中で極めて軽い役。幕間とか、主要人物の台詞のとぎれた時に往来する役、又は群集の役など。■大根(だいこ)-大根役者。芸の拙劣な役者をあざけっていう語。■十把(じつぱ)ひとからげ-良い悪いの区別なく、何もかもいっしょくたに取り扱うこと。
原文
見物「ヨウでけますの
北八「ありがてへと申やす
ト此きた八いたつてしばゐずきゆへ、まくがあくとむちうとなり、何もかもうちわすれて、むしやうに大きなこへしてほめるゆへ、見物みなみなおかしがり、きた八のほうを見ていると
北八「ヨウヨウ大根め大根め
此大根といふ事は、上がたにては、役者の下手なものを大根といふ。北八そのわけはしらず、人が大根大根といふを、きいたふうに、やくしやさへ見ると、大根大根とよびたつるを見物、北八を小ばかにして
「イヨ盲禄(もうろく)さまア
トきた八をわらふ。かみがたにてもうろくといふは、ゑどにていふ、おりすけといふ事也。きた八こんのぬのこをきているゆへ、見物かんばんきたるとおもひて、かくいふなれど、きた八もうろくのわけをしらねば
北八「弥次さんきいたか。こつちの役者には、いろいろのへんちきな名がある。大根(だいこ)だの盲禄(もうろく)だのと、よもや俳名(はいめう)じやアあるめへ
弥次「大かた役者の仇名(あだな)だろう
北八「そんなら今出た役者がもうろくだな。ヨウヨウ、もうろくありがてへぞ
トいふと、見物にどつとおちがきて、きやうげんは見ずに、きた八のほうばかり見て、どつどつとわらひながら
「イヤ向ふさじきのもうろくさま、大でけ大でけ
けんぶつ「あほよあほよ、向ふさじきの、もうろくのあほうヤアイ
北八「なんだ、むかふさじきのもうろくたア、なんのこつた。はなつたらしめら
弥次「ハハハハハ、はなつたらしたア手めへのこつたは
北八「なぜなぜ
弥次「上がたで、もうろくといふは、折助のことだは。手めへ紺(こん)のかんばんをきてゐるから、それでみんなに、ひやかされるのだは
北八「エエそふか。そんならとつくにそふいつてくれればいいに
現代語訳
見物「よう出けますの。大根やい」
北八「待ってました。うめえぞ」
と北八はたいそうな芝居好きなので、幕が開くと夢中になり、何もかも忘れて、むやみに大きな声で誉めるので、見物衆が皆々可笑しがり、北八の方を見ていると、
北八「よう、よう大根め、大根め」
この大根ということは、上方では、役者の下手なものを大根と言う。北八はその訳を知らないので、人が大根大根と言うのを、聞いた風に、役者さえ見ると、大根大根と呼び立てるので、見物人は北八を小馬鹿にして、
「いよっ、耄碌さまあ~」
と北八を笑う。上方で盲禄というのは、江戸で言う、折助ということである。北八は紺の布子を着ているので、見物人は看板が着たと思ってこう言うが、北八は耄碌の訳を知らないので、
北八「弥次さん、聞いたか。こっちの役者には、いろんなおかしな名がある。大根だの盲禄だのと、よもや俳名じゃあるめえ」
弥次「そんなら今出た役者が盲禄だな。よう、よう、盲禄ありがてえぞ」
と言うと、見物人は拍手喝采で大笑い。狂言は見ずに、北八の方を見て、どっと笑いながら、
「いや、向う桟敷の盲禄さま、大出来、大出来」
見物「阿保よ、阿保よ。向う桟敷の盲禄の阿呆やあい」
北八「何だ、向う桟敷の盲禄たあ、何のこった。鼻っ垂らしめら」
弥次「はははははは、鼻っ垂らしたあ手めえのこったは」
北八「なぜ、なぜ」
弥次「上方で、盲禄と言うのは、折助のことだは。手めえが紺の看板を着ているから、それで皆に冷やかされるのだは」
北八「えっそうか。そんならとっくにそう言ってくれればいいに」
語句
■ヨウでけますの-「大根」縁での、たくさんできると、ひやかした語。■ありがてへと申やす-これは江戸で、役者をほめる語。「ヨウでけますの」を誤解しての語。■盲禄-耄碌。老いぼれることをいうが、上方では折助のことを耄碌といった。■おりすけ-折助。武家で使役する中間・小者。■俳名-本来俳号と同義であるが、江戸時代中期以降の芸能分野においては、 歌舞伎役者が舞台の上で使う名跡(芸名)とは別に、公私にわたって自由に使用した名(号)。 1の用法から転じて、現在言うところの「芸名」に相当する語 。■どつとおちがきて-拍手喝采で笑われること。
原文
見物「あほよあほよ
北八「イヤこいつらは、ふてへやつらだ
トむしやうにりきむと、見物みなみなさはぎたち、けんくはよけんくはよと大そうどうになると、さじきばん四五人来り、北八をとらへ、引出んとする
北八「コリャどふする
さじきばん「おまい狂言(けうげん)の邪魔(じやま)になるわいな。こちごんせ
見物「そいつはやういなせヤイ
北八「なにぬかしやアがる
さじき「ハテよいわいな
弥次「コリヤきさまたち、此男をどふする
さじき「イヤおまいもごんせごんせ
トふたりをちうにつりあげ、下へかきおろし、くちぐちに、何のかのとぺちやくちや、まるめられてのぼせあがり、せんかたなく、エエめんどうだと、両人こごとたらたら、しばいを出てぎをんまちのかたにおもむく
北八「エエごうさらしなハハハハハ
木戸銭(きどせん)を棒(ぼう)に古手(ふるて)の布子(ぬのこ)にてしばゐも紺(こん)のだいなしにせし
それよりゆきゆきて、祇園(ぎをん)の社にまいる。御本社の中央(ちうわう)は、大政(まん)所牛頭天皇(ごづてんわう)、東の間は八王子、西の間は稲田姫(いなだひめ)。聖武(しやうむ)天皇の御宇(ぎよう)、吉備大臣(きびだいじん)、唐土(もろこし)より帰朝(きてう)の時、播磨(はりま)の広峯(ひろみね)に、垂跡(すいじやく)し給ふを崇(あがめ)奉れりといふ。其外摂社末社(せつしやまつしや)するすにいとまあらず。参詣(さんけい)日日に群集(くんじゆ)し、茶店(さてん)あまた祇園香煎(ぎおんかうせん)の匂(にほ)ひ高く、歯磨(はみがき)うりの居合抜(ゐあいぬき)、売薬(ばいやく)のいひたて、うき世ものまね能狂言(のうけうげん)、境内(けいだい)に所せきまででみちみちたり
ここにもさまざまな方言おかしみあれども、そのおもむき、感話亭のあらはす、旧観帳に、ことふりたればここにりやくす。弥次郎兵衛きた八、ことごとくじゆんぱいして、南の方楼門を出ると、ニけんぢや屋。とうふでんがくのめいぶつにて あかまへだれしたる女ども大ぜい、かどにたちて、しやべる
現代語訳
見物「阿呆よ、阿呆よ」
北八「いや、こいつらは、ふてえ奴等だ」
と無性に力むと、見物は皆が皆騒ぎ立て、喧嘩よ、喧嘩よと大騒動になる。そこへ桟敷番が四五人やって来て、北八を捕まえて引き出そうとする。
北八「こりゃあ、どうするつもりだ」
桟敷番「おまいは狂言の邪魔になるわいな。こちごんせ」
見物「そいつを早う放り出さんかい」
北八「何をぬかしやあがる」
桟敷「はて、良いわいな」
弥次「こりゃ、貴様たち、この男をどうするつもりだ」
桟敷「いや、おまいもごんぜ、ごんせ」
と二人を宙に吊り上げ、下へ掻き下ろし、口々に、何のかのと、ぺちゃくちゃ丸められてのぼせあがり、仕方なく、ええぃ面倒だと、両人小言たらたら、芝居小屋を出て祇園町の方へ向かう。
北八「ええぃ、恥さらしな」
木戸銭(きどせん)を棒(ぼう)に古手(ふるて)の布子(ぬのこ)にてしばゐも紺(こん)のだいなしにせし
それよりどんどん歩いて、祇園の社に参詣する。御本社の中央は、大政所牛頭天皇、東の間は八王子、西の間は稲田姫を祀る。聖武天皇の御代、右大臣吉備真備(きびのまきび)が、唐から帰朝した時、神が播磨の広峯にお現われになったのを崇め奉った社だという。その外、摂社末社がたくさんある。参詣人は日々境内に群集し、祇園香煎の香り高い匂いのする茶店が軒を連ね、歯磨き売りの居合抜き、薬売りの宣伝口上、浮世の物真似、能狂言など境内に所狭しと満ち溢れている。
ここにも様々な方言が飛び交い、可笑しくはあるが、その趣は感話亭の著した旧観帳に詳しいので略す。弥次郎兵衛喜多八、ことごとく巡拝して、南の楼門を出ると、二軒茶屋がある。そこは豆腐田楽が名物で、赤い前垂れをした女どもが大勢門に立ってしゃべっている。
語句
■祇園の社-東山区祇園町にある八坂神社、古くは祇園社、牛頭天王などといった。■八王子-素◎鳴尊の五男三女をいう。■御宇- 帝王が天下を治めている期間。御代 (みよ) 。
■吉備大臣-右大臣吉備真備(きびのまきび)の通称。■祇園香煎-祇園焦(こがし)ともいう。祇園社の付近で売った香煎。■歯磨うりの居合抜-歯磨売りが客を引くために、居合抜きを演じた。■浮世物真似-浮世の様々な事物の声色を真似ること。■能狂言-いかに京都でも、能狂言をいつもしてはなかろう。例の思い付きのままに書いたものか。■感話亭-感話亭鬼武。一に曼亭。前野愛七。武家勤めの後浪人。算術・撃剣・画などをよくしたと。読本『自来也説話』など作あり。一九と親しく、「戯友」と称した。■じゆんぱいして-巡拝。摂社末社まで拝し回って。■ニけんぢや屋-祇園社頭の南、大鳥居の内に、昔は藤屋・中村屋の二軒茶屋があって豆腐田楽を売った。■あかまへだれ-赤前垂れがまた、お定まりであった。
原文
「おやすみなされおやすみなされ。これへおはいりなさらんかいな。コレナおしたくなさらんかいな
弥次「ハハアここが川柳点(せんりうでん)に、とうふ切る顔(かほ)にぎをんの人だかり、といつた所だな。アレ北八見や。こいつは妙だ、妙だ
トのぞひて見れば女のとうふきる音
「トントトトトトトトントントトトトトトトン
北八「ホンニおもしろへおもしろへ。イヤときに、ここで一ぱいやらかしはどふだ。ちと腹(はら)が北野(きたの)の御神木(しんぼく)だ
女「サアおくへおはいりなされ
ト此内両人おくへとふる
女「おちやあがりませ
北八「でんがくで飯(めし)にしよふ 酒(さけ)もすこし
女「ハイハイ
弥次「京では何でも他国(たこく)ものと見ると、とほうもなく、高くとるといふことだから、ゆだんはならぬ
北八「ホンニそれそれ、三文でも割(わり)をくつちやアごうはらだ
ト此うち女さかづきをもち出、口とりに菜のしたしもの、丼に入持出
女「ただ今、おでんがでけます。マアひとつあがりなされ
弥次「よしよし。モシ女中、酒はいくらづつだの
女「ハイハイ、わたし所の御酒はよござります。六十匁がへでござりますといな
弥次「エエそれじやわからねへ。此どんぶりはいくら
女「それかいな。五分でござりますわいな
北八「めしをはやくたのみます
女「ハイハイかしこまりました
トぜんを二ぜんにめしばちでんがくを持出
現代語訳
女「お休みなされ、お休みなされ。これへお入りなさらんかいな。これな、お食事なさらんかいな」
弥次「ははあ、ここの川柳に、豆腐切る顔に祇園の人だかり、といった所だな。あれ、北八見や。こいつは面白い、面白い」
と覗いて見ると女が豆腐を切る音がする。
「トントトトトトトトントントトトトトトトン」
北八「ほんに、おもしれえ、おもしれえ。いや、時に、ここで一杯やらかしはどうだ。ちと腹が北野の御神木だ」
女「さあ、奥へお入りなされ」
と、そのうちに御両人が奥へ通る。
女「お茶あがりませ」
北八「田楽で飯にしよう。酒も少し欲しいわい」
女「はいはい」
弥次「京は何でも他国者を見ると、途方もなく、高く取るということだから、油断はならんぞ」
北八「ほんにそれそれ。三文でも損をしたら癪に障る」
と、そうこうしているうちに、女が盃・銚子と一緒に、口取りには菜のひたしものを丼に入れたものを持ってくる。
女「只今、おでんがでけます。まあ、おひとつあがりなされ」
弥次「よしよし。もし、お女中酒はいくらづつだの」
女「はいはい、私の所の御酒はよござります。六十匁替えでござりますわいな」
弥次「ええ、それじゃあわからねえ。この丼はいくらだい」
女「ええ、それかいな。五分でござりますわいな」
北八「飯を早く頼みます」
女「はいはい、かしこまりました」
と膳を二膳に飯鉢、田楽を持ってくる。
語句
■川柳点-川柳のこと。早くは川柳点の前句付けを略して、かく称した。■とうふ切る~--出典未詳。美人の女中が、あざやかな手さばきで、豆腐を切るに人だかりするの意。■妙だ-面白い。■腹が北野の~-「腹が来た(空腹を覚える意)」に「北野」の「御神木」(梅のこと)をかけた洒落。■割を食っちやア~-少しでも損をしては癪にさわる。■口とり-口取り肴 (ざかな) の略。 饗宴 (きょうえん) の前に座付き吸い物が出るが、それといっしょに出す皿盛りの酒の肴。 古くは昆布、かちぐり、のしあわびの類の盛り物であったが、いまではかまぼこ、きんとん、卵焼きに季節の鳥類、魚、野菜などを甘く煮て盛り合わせる。■したしもの-「ひたしもの」とも。野菜などをゆがき、醤油をさして食すもの。■おでん-「田楽」の女性言葉。■六十匁-『近世後期における主要物価の動態』によると、文化五年(1808)春、京都で酒一石、百三十匁強。六十匁は四斗樽の価であろう。一升は一匁五分。■五分-ごふん。一匁の半分。
原文
「ハイおでんが出けました
弥次「こいつは変(へん)な田楽(でんがく)だ
女「ソリヤ葛(くず)ひきじやわいな。おむしのは只今
弥次「でんがくはいくらづつだ
北八「ハハハハいかにさきへ直(ね)をきくがいいとつて、田楽はきかずといいじやアねへか。サア一ツぱいはじめねへ
弥次「ヲツトヲツト、なるほどいい酒だ。水ツぽくてねからのめぬ。もふいつぱいつづけよふ
北八「コレおめへ、こごとをいひながら、ひとりでのむの。ちとこつちへよこしねへな
弥次「ときにこれではいかぬ。モシモシ何ぞさかなをひとつ
女「ハイハイ
トやがてすずりぶたを持来る
弥次「この硯(すずり)ぶたはいくらだ
女「ハイ弐匁五分でござります
北八「こいつはたけへたけへ
弥次「へへうつちやつておきや。あんまりあたじけなくしやアがると、おれがこまらせてやる仕法がある
トだんだんさかなを出すごとに そのねだんをききて出ただけのもの、のこらずくひしまひて
弥次「サアサア女中勘定(かんじやう)をたのみます
女「ハイそれへ
トかきつけをはかりにそへてもちきたる
弥次「ドレドレ北八見や。ざつとした所が此書付だ
北八「ヲヤヲヤ拾弐匁五分たアごうせへにたけへたけへ。弐朱ぐらひのものだ。弥次さんまけて貰(もら)ひなせへ
弥次「イイヤやすいものだ。ソレつりをもつてきな。サアサアきた八、荷物(にもつ)ができた。これをみな持(もつ)てけへるのだぜ
現代語訳
女「はい、おでんができました」
弥次「こいつは変な田楽だ」
女「そりゃあ、葛引きじゃわいな。おむしのはただいま」
弥次「田楽はいくらづつだ」
北八「ははははは、いかに先に値を聞いた方がいいと言うても、田楽は聞かなくてもいいじゃあねえか。さあ、いっぱい初めねえ」
弥次「おっとおっと、なるほどいい酒だ。水っぽくて根っから飲めぬ。たてつけもう一杯続けよう」
北八「これ、おめえ、小言を言いながら、一人で飲むのかい。ちとこっちへ寄こしねえな」
弥次「ところで、これでは飲めんわい。もしもし、何ぞ肴をひとつくれまいか」
女「はいはい」
とやがて硯蓋を持ってくる。
弥次「この硯蓋はいくらだ」
女「はい、二匁五分でござります」
北八「こいつは高い高い」
弥次「へへ、うっちゃっておきや。あんまりけちくさくしゃあがると、俺が困らせてやるやり方があるぞ」
と逐次肴を出すごとに、その値段を聞いて、出ただけの物を、すっかり喰い終り、
弥次「さあさあ、お女中、勘定を頼みます」
女「はい、そこに」
と請求書を天秤秤に添えて持ってくる。
弥次「どれどれ、北八見や。だいたいのところがこの請求書だ」
北八「おやおや、十二匁五分たあ、たいそうに高い高い。こりゃあ二朱ぐらいのものだ。弥次さん負けて貰いなせえ」
弥次「いやいや、安いものだ。それ、釣りを持って来な。さあさあ、北八、荷物が出来た。これを皆持って帰るのだぜ」
語句
■葛ひき-『豆腐百珍』に「葛田楽、祇園とうふなり」とあって祇園名物。葛を入れた味付け汁をかけたもの。あんかけの豆腐。■おむし-「味噌」の女性言葉。味噌をつけた豆腐。■すずりぶた-酒の肴や菓子を乗せて、客席に出す長方形の盆。■うつちやつておきや-もうそのままでほうっておけ。■あたじけなく-欲を深く。けちんぼうに。■かきつけ-請求書。■はかり-天秤。上方では銀本位制であり、銀貨幣は秤量であって、いちいち量って使用する。しかし、この場の如く、いちいち客席で天秤にかけたかどうか。上方者は利勘であることを、滑稽に見せた趣向であろう。■ざつとした所-大体のところ。■弐朱-一分の半分。一両の八分の一。金一両を銀六十匁替えにすると七匁五分にあたる。
原文
トすずりぶた、大ひら、どんぶり、などを、みなはながみにてふき、かたづけるゆへきた八
「弥次さん、それをどふする
弥次「コレ女中、コリヤアみな、もつてけへりやすぞ
女「イエそれは
弥次「ハテさつきに、此どんぶりはいくらだときいたら、五分だといつたじやアねへか。そして硯ぶたはといへば、弐匁五分だといふ。よしか、太平が三匁、よしか、此鉢(はち)はときいたら、これが三匁五分と、きさまがいつたにちげへはあるめへ。そこで〆た所が拾弐匁五分、わたしたからいひぶんはあるめへ
女「ヲホホホホホ、よふぢやらぢやらと、てんごういふおかたじやわいな。ヲホホホホホ
弥次「イヤ、ヲホホじやアねへ。ほんとうにもつてけへる
トまじめになつてふろしきにつつもふとするゆへ 女きもをつぶし
「モシナ、わたしのいふたは、おさかなのことでござりますわいな。ヲホホホホホ
弥次「ハテさかなの直段(ねだん)きく気なら、此すずりぶたにもつてある、さかなはいくらだとききやす。それを、此すずりぶたはといつたら、弐匁五分だといつたじやアねへか
女「そじやててそれがまあ
弥次「ナニいさくさがあるもんだ
トやつつかへしついふところへ、いさいをきいて、まへだれしたるおとこかつてより出
「ハイこれは、あなたの御尤(もつとも) よござります。おもちなされませ。そのかはり、道具の代物はいただきましたが、あがつたもののおはらひは、まだいただきませんわいな。それを御勘定(かんぢやう)下さりませ
弥次「なるほどなるほど、くつたものは、たかがしれてある。はらひやせう、いくらだ
男「ハイ七拾八匁五分でござりますわいな
弥次「とほうもねへことをいふ。おいらを盲(めくら)だとおもふか。コレエたつた五百か六百がものをくはせておいて、大それたことをぬかしやアがる
男「イヤわたくし方では、何じやあろとおさかなは、、大阪(おさか)から徒歩荷(かちに)で、とりよせますさかい、駄賃(だちん)がゑらうかかりますわいな
現代語訳
と硯蓋、大平、丼、等をみな鼻紙で拭き片付けるので北八は、
「弥次さん、それをどうするね」
弥次「これ、お女中、こりゃあみな、持って帰りやすぞ」
女「いえ、それは」
弥次「はて、さっきこの丼はいくらだと聞いたら、五分だと言ったじゃあねえか。そして硯蓋はと言うと、二匁五分だと言う。いいか、大平が三匁、いいか、この鉢はと聞いたら、これが三匁五分と、貴様が言ったに違いはあるめえ。そこで締めたところが十二匁五分、渡したから文句はあるめえ」
女「おほほほほほ、よう面白遊び半分に冗談を言うお方じゃわいな。おほほほほほ」
弥次「いや、おほほじゃねえ、本当に持って帰る」
と真面目になって風呂敷に包もうとするので、女は驚いて、
「もしな、私の言うたのは、お肴の事でござりますわいな。おほほほほほ」
弥次「はて、肴の値段を聞く気なら、この硯蓋に盛ってある肴はいくらだと聞きやす。それを、この硯豚はと言ったら、二匁五分だと言ったじゃあねえか」
女「だからと言って、それがまあ~」
弥次「なに、これ以上何の言い分があるもんか」
と、口をとがらせて、言いあっている所へ、委細を聞いて、前垂れかけの男が 勝手から恐る恐る出て来た。
「はい、これは、あなたの言分は御尤も。よござります。お持ちなされませ。その代わり、容器の代金はいただきましたが、そちらで召し上がった中身の料理のお支払いは済んでおりませんわいな。その勘定下さりませ」
弥次「なるほど、なるほど。食ったものは、たかがしれている。払いやしょう。いくらだ」
男「はい、七十八匁五分でござりますわいな」
弥次「途方もねえことを言う。おいらを盲だと思うか。これえ、たった五百から六百の料理を食わせておいて、大それたことをぬかしやあがる」
男「いや、私方では、何であろうとお肴は、大阪から徒歩荷で取り寄せますさかい、駄賃がえろうかかりますわいな」
語句
■いひぶん-文句。■ぢやらぢやらと-面白半分遊び半分に。■てんごう-冗談。■そじやてて-それだといって。■いさくさ-言い分。■五百か六百が-銅銭で五百文か六百文。文化五年(1808)京都の相場で銭一貫文が九匁強である。大体がわかっていて、安く言わせているのである。■大それた-だいそれた。けしからぬ。道理や常識にはずれた。■徒歩荷(かちに)-堺・大阪など大阪湾で漁した新鮮な魚を、陸路、京都へ急行で持ってゆくことは、早くから行われたものである。■駄賃-運送料。
原文
弥次「さかなはそれにもしてやろうが、青(あを)物はたかがしれてある。アノはじめに出した、菜(な)のしたしものはいくらにつく
男「ハイあれは七匁五分
弥次「ヤアあれが七匁五分たア、あんまり人をうつむけにしやアがる。三文か四文がものだ
男「そないにおつしやりますな。ありや京の名物(めいぶつ)で、東寺菜(とうじな)と申ますわいな。わたくし方では別(べつ)につくらせまして、虫(むし)のくた菜(な)はのけますわいな。そして茎(くき)もふといほそいのないやうに、選(ゑり)出してあげるわいな。むさいおはんしじやが、糞(こへ)も絹ごしにしてかけますはいな
弥次「とんだことをいふ。そんなことがあるもんか。何でもくつたものの代は、弐朱ばかりやろう
男「イエイエさよじやなりませんわいな。ハテたかいとおぼしめすなら、あがつたものを、残(のこ)らずおもどし下さりませ
ト此一言にこまり、弥次郎兵へやつきとなりて、せりあふた所が、りくつづめにあひて、大へこみとなり、まじくじすれば
北八「エエめんどうな、弥次さんはじまらねへぜ
弥次「いまいましい、言分(いいぶん)があれど、かんぢやうづくで恰好(かつこう)がわりい。了簡(りやうけん)してやろう。よく「おぼへていやアがれ
トにらみまはして立上り、ほうほうこの所を出れば
女「よふお出、またおちかいうちにへ
弥次「くそをくらへハハハハハ
又してもぎをんの茶(ちや)やにでんがくのみそをつけたる身こそくやしき
それより境内(けいだい)を出、もとの四条どをりをゆくに、日もはや七ツさがりとなれば、いそぎ三条に宿(やど)をもとめ、足休(あしやすめ)んとたどりゆくさきにたちて、近在(きんざい)の女商人(あきんど)、いづれも頭(つふり)に柴薪(しばたきぎ)あるひは、梯子(はしご) 連(すりこ)木、槌(つち)などをいただきて、四五人打つれだち、「はしごかはしやんせんかいにやア。れん木いらんかいにやア
北八「コウ見ねへ。ごうせへなものをあたまへのつけてゆくは
弥次「アノまた尻(しり)をふるざまはいハハハハ
現代語訳
弥次「肴はそれにもしてやろうが、青物はたかがしれている。あの初めに出した菜のしたしものはいくらにつく」
男「はい、あれは七匁五分でござります」
弥次「やあ、あれが七匁五分たあ、あんまり人を馬鹿にしやあがる。俺の見立てじゃあ、三文か四文のものだ」
男「そないにおっしゃりますな。ありゃあ京の名物で、東寺菜(とうじな)と申しますわいな。私方では特別に栽培させまして、虫の食った菜は退けますわいな。そして茎も太い細いの無いように、選り出してあげるわいな。汚い話じゃが、肥も絹ごしにして掛けますわいな」
弥次「とんだことを言う。そんことがあるもんか。何にしても、喰ったものの代金は、二朱ばかり払おう」
男「いえいえ、さよじゃなりませんわいな。はて、高いと思召すなら、お召になったものを、残らずお戻し下さりませ」
とこの一言には困り、弥次郎兵衛は躍起になって、競り合ったところが、理屈詰めに遭って、意気消沈し、戸惑う。
北八「ええぃ面倒な。弥次さん、始まらねえぜ」
弥次「いまいましい、まだ言分はあるが勘定ずくでやり合っているようでみっともねえ。まあ、料簡してやろう。覚えていやあがれ」
と睨みまわして立ち上がり、、ほうほうのていでここを出ると
弥次「糞食らえ、はははははは」
又してもぎをんの茶(ちや)やにでんがくのみそをつけたる身こそくやしき
それから境内を出て、元の四条通を行くと、日も早や午後四時を過ぎていたので、急いで三条の宿を探し、足を休めようと辿って行く先に、近在の女商人、いずれも頭に柴薪あるいは、梯子、すりこぎ、槌などを乗せて、ふれ売りしながら四五人連れだってやって来る。
「梯子買わしゃんせんかいなあ~、すりこぎいらんかにゃあ~」
北八「これ、見ねえ。豪勢なものを頭に乗っけていくわい」
弥次「あの、また尻を振るざまは、はははは」
語句
■うつむけにしやアがる-ばかにする。■東寺菜-東寺九条辺に産する水菜。もと糞尿を用いず、流水を畦間に引き入れて作った。壬生に多く作って壬生菜とも称する。■むさい-きたない。■絹ごし-豆腐の絹ごしと混ぜて精選したとの洒落。■まじくじ-とまどうさま。■みそをつける-事を仕損じたとこに言う語。またしても祇園の田楽茶屋で、みそをつけたとは残念しごくの歌意。■七ツさがり-午後四時過ぎ。■近在の女商人-八瀬や大原など、京都の近郊の村里より出る物売りのつもりである。■すりこぎ-擂粉木。『物類呼称』に「すりこぎ、五幾内及び西国・中国・四国にて、れんぎと云ふ」。わざと東西の方言を、区別して使用させている。
原文
女あきん人「たきぎかはしやんせんかいにやア
トゆきゆきて河原に出ると、かの女ども、おのおのここに荷をおろし、すり火打にて、たばこなどのみてやすむ
弥次「ハハアさすがは都(みやこ)じや。どいつも小ぎれいな面(つら)つきだ。ちとひやかしてやろふか
北八「またおめへ、へこまされよふとおもつて
弥次「ばかアいふな。手めへじやア有ルめへし
トきせるをいだし 女あきん人のそばへより
御無心(むしん)ながら、火をひとつ。パツパパツパパツパ ときにおめへがたア、とんだおもてへものを、よくあたまへきけてあるきなさるの
女「さよじやわいな
北八「ナニ此くらへなものを、おいらなんざア、廿〆目や丗〆目ある石を、あたまでふりまはしたものだ
女「おまいさんは、うどん屋の粉(こ)なひきじやあろわいな
弥次「エエ手めへ、だまつてゐろへ
女「おまいさんがたア、どふぞ此連木買(れんぎか)うておくれんかいな
弥次「ナニすりこ木か。アアかいてへが、コリヤほそい。わつちらが所じやア、なんでも材木(ざいもく)のやうな、そして四角なすりこ木でなくちやア、間にあはねへ
女「ヲホホホホホ、四角にした連木で、おむしすらんすなら、大かたすりばちも、四角じやあろわいな
弥次「そふともそふとも おいらが所じやア穴倉(あなぐら)でみそをする
女「ヲホホホホホきやうとい、きさくなおかたじやわいな。アノ連木(れんぎ)おいやなら、梯子(はしご)かうておくれんかいな
弥次「ハハハハハハはしごおもしれへ。いくらだ
女「けふはなにもよふうらんさかい、安(やす)してあぎよわいな。六匁下んせ
弥次「弐百ばかりなら引受やうさ
女「アノぢやらぢやらいふてじやことわいな。もちとかうて下んせ
弥次「いやだいやだ
現代語訳
女商人「薪買わしゃんせんきにゃあ~」
と売り声を出しながら、河原に出ると、かの女達は、それぞれに個々に荷を下ろし、すり火打ちを使い、煙草などを吸って休憩を取る。
弥次「ははあ、さすがは都じゃ。どいつも小綺麗な面(つら)つきだ。ちと冷やかしてやろうか」
北八「またおめえ、へこまされようと思ってか」
弥次「馬鹿あ言うな。手めえじゃあるめえし」
と煙管を取り出して女商人の傍に寄り、
「御無心ながら、火をひとつ。パツパパツパパツパ 。ところでおまいがたあ、とんだ重たいものを、良く頭に乗せて歩きなさるの」
女「さよじゃわいな」
北八「なに、この位の物を、おいらなんざぁニ十貫や三十貫ある石を、頭で振り回したものだ」
女「おまいさんは、うどん屋の粉ひきじゃあろわいな」
弥次「ええ、手めえ、黙っていろ」
女「おまいさんがたあ、どうぞこの連木を買っておくれんかいな」
弥次「なに、すりこぎか。ああ、買いてえが、こりゃ細い。わっちらが所じゃあ、なんでも材木の様な、そして四角いすりこぎでなくちゃあ、間に合わねえ」
女「おほほほほほ、四角にした連木でおむしすらんすなら、おおかた擂鉢も、四角じゃあろわいな」
弥次「そうとも、そうとも。おいらが所じゃあ穴倉で味噌を摺る」
女「おほほほほほ、珍しくさっぱりしたお方しゃわいな。あの連木がお嫌なら、梯子を買っておくれんかいな」
弥次「はははははは、梯子面白い。いくらだ」
女「今日は何にもよう売らんさかい、安うしてあぎょわいな。六匁下んせ」
弥次「二百ばかりなら引き受けようさ」
女「あの、阿保らしいことばかし、じゃらじゃら言うことわいな。もちと高く買って下んせ」
弥次「嫌だ、嫌だよ」
語句
■河原-賀茂川の河原。■すり火打ち-火打金と火打石とを磨って火を熾す具。■へこまされる-やりこめられる■きけて-のせて。あげて。■うどん屋の粉ひき-粉をひく時に重みのついた棒を回して、石臼を動かすからいったものであろう。■穴蔵(あなぐら)-地を掘り、木または石で囲んだ蔵。その頃火災の予防のために、こうい蔵がよく造られた。■きさく-気質のさっぱりして、面白いさま。■六匁-銭六百文弱。
原文
女「おまいさん、こないにあぢよふしてあるわいな。モシ五匁にあぎょかいな
弥次「いやいや
女「よいわいな。是もていんだら、ひかられよふ。弐百にまけてあぎよわいな
弥次「ヤアまけるか。情(なさけ)ないことをいふ
女「きゃうとうやすいもんじやわいな
弥次「いくらやすくつても、はしごを買(かつ)てどふするもんだ。内もねへくせに
女「よいわいな サアもていなんせ
弥次「こいつはあやまる。ありやうは、おいらは旅のもので、今宵(こよい)は三条にとまろうといふのだから、はしごをかつてもしかたがねへ
女「なにいはんすぞいな。いらんものを、つけさんすことはないわいな
弥次「ソリヤもふ、直(ね)をつけたが不肖(ふしやう)だから、いらねへまでも、袂(たもと)かふところへはいるものなら、買(かつ)てもやろふが、何をいつても、此はしごだからおそれるおそれる
女「そじやてて、わたしらを、なぶらんしたのかいな こちや商売(しやうばい)じやわいな。そないなこといやじや。もていなんせ
ト女ども四五人、くちぐちにやかましくしやべりたちて、弥次郎を中にとりまきせめたつる。すべて此女あきん人は、みないたつてきのつよきものゆへ、なかなかがてんせず。ものみだかい京の人だち、何ごとやらんとおりかさなりて、ぐるりととりまくに弥次郎兵衛、にげられもせず、大きにこまりはて、さまざまにいひわけし、又はりこみいつて見ても、いつこうききいれず、あいてはみな女のことなり、けんくはにもならず。せんかたなく、銭二百文出してやり、とうとうはしごをかいとり、人の見るまへすてられもせず、見物はどつとわらひてちる
弥次「こいつは、いくぢもねへめんいあつた。北八そこらまでかついでくれ
北八「エエとんだことをいふ。おめへもちなせへな
弥次「又一ばんへこんだ ごうはらな
いかにせん梯子(はしご)の親(おや)とこのよふなやつかいものをひきうけし身は
現代語訳
女「おまいさん、こないに上手に造ってあるわいな。もし、五匁ならあぎょかいな」
弥次「いや、いや」
女「よいわいな。このまま売れ残して帰ったら、叱られよう。二百にまけてあぎょわいな」
弥次「やあ、まけるのか。情けないことを言うね」
女「おそろしく安いもんじゃわいな」
弥次「いくら安くっても、梯子を買っては何にもならねえ。家もねえくせに」
女「よいわいな。さあ、持ていなんせ」
弥次「こいつは謝る。実は、おいらは旅の者で、今夜は三条に泊ろうというのだから、梯子を買ってもしかたがねえ」
女「何言わんすぞいな。いらん物を、値をつけて交渉することはないわいな」
弥次「そりゃあ、もう値を付けたのはわっちの間違いだから、いらねえまでも、袂か懐へ入る物なら、買ってもやろうが、何を言っても、この梯子だから恐れ入りやす」
女「そじゃとて、私らをなぶらんしたのかいな。こちゃ商売じゃわいな。そないなこと嫌じゃ。持ていなんせ」
と女ども四五人が、口々にやかましくしゃべりたてて、弥次郎を中にして取り巻き、責め立てる。すべてこの女商人は、いたって気の強い者たちで、なかなか納得しない。
物見高い京の人たちが、何事だろうかと通り、重なって、ぐるりと取り巻くので、弥次郎兵衛は逃げられもせず、大変困り果て、さまざま言い訳をし、又罰金を出すと言ってみても一向に聞き入れられず、相手はみな女の事であり、喧嘩をする訳にもいかない。仕方なく銭二百文出してやり、とうとう梯子を買い取り、人の見ている前で捨てるわけにもいかず、見物人はどっと笑って散って行く。
弥次「こいつは、だらしねえ目に遭った。北八そこらまで担いでくれ」
北八「ええ、とんだことを言う。おめえ持ちなせえな」
弥次「又一番やりこめられた。癪にさわるね」
いかにせん梯子(はしご)の親(おや)とこのよふなやつかいものをひきうけし身は
語句
■あぢよふしてある-上手に作ってある。■ひかられる-「叱られる」の上方弁。■つけさんす値段をつけて、売買交渉する。■不肖-誤り、失敗。愚か。■はりこみ-悪口を言う。■いくぢもねへ-だらしのない。■ごうはら-業腹。癪にさわる。■梯子の親-両方の縦棒。段をなす所が即ち「はし子」。梯子の親でもあるまいし、こんなやっかいな「はし子」を引受けてしまった身は、とんだ閉口なことだの意。
原文
かくて四条どをりを、寺町へさがりてゆくみちみちも、梯子のもちおもりして、つぶやきながら
「ナント北八、手めへ付合(つきあひ)をしらぬものだ。ちつとばかりもてくれろへ
北八「いかさま、おめへ心がらとはいひながら、きのどくなこつた。さぞおもたかろ。こうしなせへ。アノ女どものやうに、あたまへきけてもつて見なせへ
弥次「なるほどなるほど
ト手ぬぐひをたたみあたまへのせ、そのうへへはしごをのせ、両手にもちそへゆくと、わうらいの人
「コリヤなんじやいな。浮雲(あぶなふ)てならんわいな
弥次「ハイハイむかふが、さつぱり見へねへであるかれぬ
わうらいの人「コリヤじやうもんがいくそふじや。おひやもて出やしやんせんかいな
じゃうもんがいくとは火事があるそふなといふこと也
わうらい「どこに、じやうもんがいくぞいな「アレあこへ、はしごもていくわいな。あほよあほよ
弥次「何ぬかしやがる
わうらい「ふぬけなわろじやハハハハハ
弥次「イヤべらさくめら
トはしごをあたまにのせたなりに、ぐつとふりかへれば、かのはしごのあとさきにて、わうらいのあたまをこつつり
わうらい「アイタタタタタタ何ンじやい、どめつそふな。此人中で、ながいもの横(よこ)たはしにしくさつて、ゑらいあんだらじやな。のうてんどやいてこませやい
弥次「ナニたはごとぬかしやアがる
わうらい「わしが額(ひたい)の痰瘤(たんこぶ)がなふなつた。そこらにやないか、見て下んせ
弥次「エエおいらがしるものか。馬鹿(ばか)なつらな
わうらい「ゑらい頤(おとがい)なわろじや。たたんでこませやい
トいづれもきかぬ気のものどもと見へて、大ぜいどやどやと立かかれば北八とどめて
現代語訳
このようにして四条通を、寺町へ下がっていく道でも、梯子の持ち御守をして、呟きながら、
「なんと、北八、てめえは付き合い方を知らぬ者だ。ちっとばかり持ってくれろ」
北八「いかさま、おめえの悪い癖とはいいながら、気の毒なこった。さぞ重たかろ。こうしなせへ。あの女どものように、頭へ乗せて持って行きなせえ」
弥次「なるほど、なるほど」
と手拭いをたたみ、頭へ乗せ、その上へ梯子を乗せ、両手に持ち添えていくと、往来の人、
「こりゃ何じゃいな。危のうてならんわいな」
弥次「はいはい、向うが、さっぱり見えねえで歩かれぬ」
往来の人「こりゃ、じょうもんがいくそうじゃ。水を持て外へ出てこんかいな」
じょうもんがいくとは火事がありそうだということである。
往来「何処に、じょうもんが行くぞいな。あれ、あこへ、梯子持て行くわいな。阿呆よ、阿呆よ」
弥次「何をぬかしやがる」
往来「まぬけなわろじゃ。ははははは」
弥次「いや、べらぼうめ」
と梯子を頭に乗せたまま、ぐっと振り返ると、かの梯子の前後で、往来の人の頭をごっつん。
往来「あいたたたたたた、何じゃい。途方もない。この人中で長い物を横倒しにしくさって、えらい阿呆じゃな。脳天を殴ってこませやい」
弥次「何を戯言ぬかしやがる」
往来「わしの額の痰瘤がのうなった。そこりゃないか、見て下んせ」
弥次「ええ、おいらが知るものか。ばっかな面あしやあがって」
往来「えらいな悪口をきくわろじゃ。袋叩きにしてしまえ」
といずれも聞かぬ気の人たちと見えて、大勢がどやどやといちどきに掴み掛ってくる。北八がそれを押しとどめて、
語句
■じやうもんがいく-火事の事。「焼亡」の訛かと言われる。梯子を持って行くを火消と見て言ったもの。■おひや-水を上品に言ったもの。ただし火事に出す多量の水を「おひや」と称したかどうかは疑問。滑稽に言ったものであろう。■あこ-あしこ。あの所。■ふぬけ-まぬけ。■べらさくら-「べらぼう」をまた擬人化した罵言。■ど滅相な-「ど」は「滅相」を強める接頭語。途方もない。■あんだら-馬鹿。阿呆を更に強めたもの。■横たはし-横倒し。■ゑらい頤(おとがい)なわろ-ひどい口をきくやつ。■たたんでこませやい-やっつけてしまえ。
原文
「コリヤアこつちらがわるかつた。どなたも御りやうけん下さりませ。サアサア弥次さん。あゆびなせへ
弥次「いめへましいやつらだ。北八どふもひとりではもたれぬ。あとのほうへ肩(かた)をいれてくれぬか
北八「ドレドレコリヤアおれまでをとんだめにあはせる
是もまた咄(はな)しのたねよはるばると京へのぼりし梯子一脚(はしごいつきやく)
弥次「エエ歌(うた)どころじやアねへ。どふぞうつちやつてしまいてへものだが
ト今は二百の銭もおしからず、やつかいもののはしご、うちすててゆかんと、わうらいすくなきよこ町へはいり、そつとすておき、にげんとすれば おりあしく人に見付けられてとがめられ せんかたなくかつぎあるき 又いづかたへぞすてんすてんとおもふうち うかうかと三条どをりに来りければ やど引と見へたる男
「モシナおまいさまがた おとまりかいな
弥次「とまりとまり
やど「こちのうちかたへお出んかいな
北八「おめへどこだ
やど「ツイあこじやわいな サアサアお出んかいなお出んかいな
トうちつれて大はしのかたへゆく
道中膝栗毛七編 上 終
現代語訳
「こりゃあ、こっちらが悪かった。どなたもご了見下さりませ。さあさあ弥次さん、歩きなせえ」
弥次「いまいましい奴らだ。北八どうも一人では持たれぬ。後の方へ肩を入れてくれぬか」
北八「どれどれ、こりゃあ、俺までもとんだ目に遭わせる」
是もまた咄(はな)しのたねよはるばると京へのぼりし梯子一脚(はしごいつきやく)
弥次「ええ、歌どころじゃあねえ。何とか放り出してしまいてえものだが」
と、今は二百の銭も惜しくはなく、厄介者の梯子を打ち捨てて行こうと、通りのの少ない横町へ入り、そっと捨て置き、逃げようとすると、運の悪いことに人に見付けられて咎められ、又も仕方なく担いで歩く。又何処かへ捨てなきゃ捨てなきゃと思ううちに三条通に来てしまった。宿引き風の男が傍へ寄ってきて、
「もしな、おまいさまがた、お泊りかいな」
北八「おめえ何処だ」
宿引「すぐそこじゃわいな。さあさあ、お出でんかいな、お出でんかいな」
と引っ張って三条大橋の方へ行く。
道中膝栗毛七編 上 終
語句
■御りやうけん-ご了見。ご堪忍。■是もまた~-京へ梯子が一脚で上ったとは、これも話の種だわいと、あきらめた歌。しびれさへ京へ上れといえば、足のある梯子ではないこともあるまい。吁々。■よこ町-本通ではない町。■三条どをり-四条通より一つ北の東西(横)の大通り。■やど引-宿引。■大はし-三条大橋。『見た京物語』に「江戸より京への入口は三条大橋なり、是加茂川也。其先(西の方)の小川にかかり又橋あり、是三条小橋也、川は加茂川の水を角倉屋敷へ分け、夫より此川に及ぶ。是高瀬川也」。またいう「三条の橋より江戸日本橋迄、里数百廿六里六町を壱間有りとぞ」。
次の章「七篇下編 京見物」