蛇性の婬 三

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わらは打ちゑみて、「よくも来ませり。こなたに歩(あゆ)み給へ」とて、前(さき)に立ちて行くゆく、幾ほどもなく、「ここぞ」と聞ゆる所を見るに、門高く造りなし、家も大きなり。蔀(しとみ)おろし簾(すだれ)たれこめしまで、夢の裏(うち)に見しと露違(たが)はぬを、奇(あや)しと思ふおもふ門に入る。わらは走り入りて、「おほがさの主(ぬし)詣(まうで)給ふを誘(いざな)ひ奉る」といへば、「いづ方にますぞ、こち迎(むか)へませ」といひつつ立ち出づるは真女児なり。

豊雄、「ここに安倍(あべ)の大人(うし)とまうすは、年頃(としごろ)物学(まな)ぶ師にてます。彼処(かしこ)に詣づる便りに傘取りて帰るとて推(おし)て参りぬ。御住居見おきて侍れば又こそ詣で来(こ)ん」といふを、真女児強(あながち)にとどめて、「まろや努(ゆめ)出し奉るな」といへば、わらは立ちふさがりて「おほがさ強(しひ)て恵(めぐ)ませ給ふならずや。其(そ)がむくひに強ひてとどめまゐらす」とて、腰(こし)を押(おし)て南面(みなみおもて)の所へ迎へける。

板敷の間に床畳(とこだたみ)を設(まう)けて、几帳(きちやう)、御厨子(みづし)の餝(かざり)、壁代(かべしろ)の絵(ゑ)なども、皆古代のよき物にて、倫(なみ)の人の住居ならず。真女児立ち出でて、「故ありき人なき家とはなりぬれば、実(まめ)やかなる御饗(みあへ)もえし奉らず。只、薄酒一杯(うすざけひとつぎ)すすめ奉らん」とて、高坏(たかつき)・平坏(ひらつき)の清(きよ)らなるに、海の物山の物盛(もり)並べて、瓶子(へいじ)・土器(かはらけ)擎(ささ)げて、まろや酌(しやく)まゐる。

豊雄また夢心してさむるやと思へど、正(まさ)に現(うつつ)なるを却(かへり)て奇(あや)しみゐたる。客(まらうど)も主(あるじ)もともに酔(ゑひ)ごこちなるとき、真女児盃をあげて、豊雄にむかひ、花精妙(はなぐはし)桜が枝の水にうつろひなす面(おもて)に、春吹く風をあやなし、梢(こずゑ)たちぐく鶯(うぐいす)の艶(にほ)ひある声していひ出(いづ)るは、「面(おも)なきことのいはで病(やみ)なんも、いづれの神になき名負(おふ)すらんかし。努(ゆめ)徒(あだ)なる言(こと)にな聞き給ひそ。故(もと)は都の生(うまれ)なるが、父にも母にもはやう離(わか)れまゐらせて、乳母(めのと)の許(もと)に成長(ひととなり)しを、此の国の受領(じゆりやう)の下司県(しもつかさあがた)の何某(なにがし)に迎えられて伴(とも)なひ下(くだ)りしははやく三とせになりぬ。夫(つま)は任(にん)はてぬ此の春、かりそめの病(やまひ)に死(しし)給ひしかば、便りなき身とはなり侍る。

都の乳母(めのと)も尼(あま)になりて、行方(ゆくへ)なき修業(しゆぎやう)に出でしと聞(きけ)ば、彼方(かなた)も又しらぬ国とはなりぬるをあはれみ給へ。きのふの雨のやどりの御恵(めぐ)みに、信(まこと)ある御方(おかた)にこそとおもふ物から、今より後の齢(よはひ)をもて御宮(おみや)仕(つか)へし奉らばやと願ふを、汚(きた)なきものに捨て給はずば、此(こ)の一杯(ひとつぎ)に千とせの契をはじめなん」といふ。

現代語訳

少女は微笑み、「よくぞおいでくださいました。こちらへお歩みください」といって、先に立って案内する。ほどなく、「ここでございます」と言う所を見ると、門が高く造られ、家も大きなものだった。蔀をおろし、簾を下まで垂らして、夢で見た家と少しも違わず、不思議に思いながら門を入る。少女は家の中に駆け込んで、「傘を貸してくださった方がお出でになりましたので案内してまいりました」と言う。「どこにおられるのか。こちらにお迎えしなさい」と言いながら、立ち現れたのはあの真女児であった。

豊雄は、「この里に居られる安倍先生というお方は、私が長年ご指導を受けている師匠です。そこに参りますついでに傘を持って帰ろうと思い、不躾ながらやってまいりました。御住いを拝見させていただきましたので、又の機会に来ることにしましょう」と言うのを、真女児はしきりに引き留めて、「まろよ、決して外に出してはいけませんよ」と言うと、少女は豊雄の前に立ち塞がり、「傘を無理にお貸しくださったではありませんか。(その熱い温情に)報いるため強いてお引き留めいたします」と言って、豊雄の腰を押して南面の表座敷へ迎え入れた。

板敷の間に床畳が設けられ、几帳・御厨子の飾り・壁代の絵など、どれをとっても時代がかって古風なよい品で、普通一般の人の住居ではない。真女児が立ち現われて、「事情があって夫のいない家になり、気の利いたおもてなしはできませんが、ただ、粗酒など一杯おすすめいたしたい」と言って、洗い清められた高坏(たかつき)・平坏(ひらつき)に山海の珍味を盛り並べて、徳利や素焼きの盃を取り上げて、まろやがお酌をする。

豊雄は、また夢を見てそれが覚めたのかと思ったが、正に現実の事であるのをかえって不思議がるのだった。豊雄も真女児も共に酔いがまわり、気分がよくなってきたとき、真女児が盃を上げ、豊雄に向って、咲き誇る桜の枝が水面に写っているような美しい顔で、春風のような愛嬌をたたえ、梢を飛び潜りまわる鶯のようなきれいな声で語り始めた。「恥しいことですが、これを言わずに病気にでもかかれば、古歌にありますように、どこぞの神に無実の罪を着せることになります。思い切って打ち明けるこの話をどうかかりそめの浮気な話と聞いてくださいますな。わたしはもと都の生れですが、両親とも早くに死に別れ、乳母の許で育てられましたが此の国の国司の下役の県の何某に気に入られてその嫁になり、夫に従って、此処に下って、早いことで、もう三年にもなりました。夫は任期途中で此の春、ふとした病が元で亡くなりましたので、よるべないひとり身になってしまいました。

都にいた乳母も尼になり、行方知れずの諸国修業に出立したと聞きましたので、故郷の都もまたなんのゆかりもない他国となった身の侘しさをご推察くださいませ。
昨日の雨宿りで、貴方様にご親切にしていただき、情の篤い御方だと思い込み、これより先の人生を、貴方様にお仕えして過ごそうと願いますことを、汚らわしい者とお見捨てなくば、そのしるしにこの盃を取り交し、千年の末永い夫婦の契を結びとうございます」と言う。

語句

■ここぞ-新宮市内の天然記念物、「浮島の森」が、真女児の住居だったという伝説があるが、本篇完成後の伝説であろう。■聞ゆる-「言う」の丁寧語。■奇(あや)しと思ふおもふ門に-思ひながら門に。おほがさの主(ぬし)詣(まうで)給ふを誘(いざな)ひ奉る-。■主-あの方。ここでは主人といふ意ではない。■ます-「在る」「居る」の尊敬語。■ませ-尊敬の補助動詞。■真女児-「真女児」と「真女児」が混用されていたがすべて真女児に統一した。■彼処-新宮の安倍氏在所。■便り-ついで。■まろ-「わらは」の名。■努(ゆめ)-「ゆめ」は下に打消しや禁止の語を伴い、決して、必ず、の意を表す副詞。■南面の所-南面の座敷。表座敷。■床畳-「上畳(あげたたみ)」とも。「床」は畳の芯。藁を芯として畳表を張ったもので、現在の普通の畳。昔の部屋は板敷で、客を迎える際、円座、畳(現在のござ)を敷いた。「床畳」は高貴の家でしか使用しない。■几帳-室内の仕切りに用いた家具。几という台に支柱を立て横木を渡して布を結び垂れたもの。■御厨子-普通、三重の小さな置き戸棚で、両開きの扉がつき、黒漆で塗ったものが多い。■壁代-壁代わりに間仕切りとして垂らしておく綾絹等の帳帷。絵や刺繍のあるものが多かった。以上、王朝古代の貴族の調度品が多い。■古代の-由緒ありげな、時代ががって古風なの意。時代区分上の「古代」や時間上の過去としての「昔」ではない。■倫(なみ)の人-普通一般の人。■人なき家-ここでいう「人」とは妻が夫をさしていう「人」、すなわち主人。武家屋敷時代の語法と思われる。■実やかなる-丁寧な。■御饗(みあへ)-食事の饗応。御馳走。■薄酒-粗酒。「薄酒」は謙辞。■高坏(たかつき)・平坏(ひらつき)-共に食事を盛る台。高坏(たかつき)は脚があり、平坏(ひらつき)は脚がない。■海の物山の物-山海の珍味。■瓶子(へいじ)-徳利の一種。■土器(かはらけ)-素焼きの盃。■まゐる-瓶子を近づけて酌をするので「まゐる」といった。■花精妙桜(はなぐはし)-桜の枕詞。花うるわしの意。■春吹く風-暖かくやさしい微笑を意味する。■立ちぐく-「立ち潜る」。枝々を飛びくぐること。■面(おも)なきこと-恥ずかしいこと。■受領-朝廷から任ぜられた国司。■下司-下役。■任-地方官の任期は四年または六年。■便りなき身-よるべなき身。ひとり身。■しらぬ国-何のゆかりもない他国。■物から-中古は「けれども」の意だったが、近世では「故に」の意。■御宮(おもや)仕(つか)へし奉らばや-妻としてお仕えしたい。

備考・補足

■風流を好み、夢見がちな豊雄だが、さすがにここでは現実が夢ではないのをいぶかしむ。しかし夢よりももっと夢幻的に現実が進行するのである。現実と夢が重層してゆく。

朗読・解説:左大臣光永

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