【帚木 09】雨夜の品定め(八)式部丞の若き日の恋愛話ー学問好きの女

「式部がところにぞ、気色あることはあらむ。すこしづつ語り申せ」と、責めらる。『下《しも》が下の中には、なでふことか聞こしめしどころはべらむ」と言へど、頭の君、まめやかに、「おそし」と責めたまへば、何ごとをとり申さんと、思ひめぐらすに、「まだ文章生《もんじやうのしやう》にはべりし時、かしこき女の例をなん見たまへし。かの馬頭の申したまへるやうに、おほやけどとをも言ひあはせ、わたくしざまの世に住まふべき心おきてを思ひめぐらさむかたもいたり深く、才《ざえ》の際《きは》、なまなまの博士《はかせ》恥づかしく、すべて口あかすべくなんはべらざりし。

それは、ある博士のもとに、学問などしはべるとて、まかり通ひしほどに、あるじのむすめども多かりと聞きたまへて、はかなきついでに言ひよりてはべりしを、親聞きつけて、盃もて出でて、わが両《ふた》つの途《みち》歌ふを聴けとなん、聞こえごちはべりしかど、をさをさうちとけてもまからず、かの親の心を憚《はばか》りて、さすがにかかづらひはべりしほどに、いとあはれに思ひ後見《うしろみ》、寝覚めの語らひにも、身の才《ざえ》つき、おほやけに仕うまつるべき道々しきことを教へて、いときよげに、消息文《せうこぶみ》にも仮名《かんな》といふもの書きまぜず、むベむべしく言ひまはしはべるに、おのづからえまかり絶えで、その者を師としてなん、わづかなる腰折文《こしをれぶみ》作ることなど習ひはべりしかば、今にその恩は忘れはべらねど、なつかしき妻子《さいし》とうち頼まむには、無才《むざい》の人、なまわろならむふるまひなど見えむに、恥づかしくなん見えはべりし。まいて、君達《きむだち》の御ため、はかばかしくしたたかなる御後見は、何にかせさせたまはん。はかなし、口惜《くちを》しと、かつ見つつも、ただわが心につき、宿世《すくせ》の引く方はべるめれば、男《をのこ》しもなん、仔細なきものははべるめる」と、申せば、残りを言はせむとて、「さてさてをかしかりける女かな」と、すかいたまふを、心は得ながら、鼻のわたりをこつきて、語りなす。

「さて、いと久しくまからざりしに、ものの便りに立ち寄りてはべれば、常のうちとけゐたる方にははべらで、心やましき物越しにてなん会ひてはべる。ふすぶるにやと、をこがましくも、またよきふしなりとも思ひたまふるに、このさかし人、はた、かるがるしきもの怨《ゑん》じすべきにもあらず、世の道理を思ひ取りて、恨みざりけり。声もはやりかにて言ふやう、『月ごろ風病《ふびやう》重きにたへかねて、極熱《こ゜くねち》の草薬《さうやく》を服《ぶく》して、いと臭きによりなん、え対面《たいめん》賜はらぬ。目《ま》のあたりならずとも、さるべからん雑事《ざふじ》らはうけたまはらむ』と、いとあはれに、むべむべしく言ひはべり。答《いら》へに何とかは。ただ、『うけたまはりぬ』とて、立ち出ではべるに、さうざらしくやおぼえけん、『この香《か》失せなん時に立ち寄りたまへ』と、高やかに言ふを、聞きすぐさむもいとほし、しばし休らふべきにはたはべらねば、げにそのにほひさへはなやかに立ち添へるも、すべなくて、逃げ目を使ひて、

『ささがにのふるまひしるき夕暮にひるますぐせと言ふがあやなさ

いかなることっけぞや』と、言ひもはてず、走り出ではべりぬるに、追ひて、

あふことの夜《よ》をし隔てぬ仲ならばひるまも何かまばゆからまし

さすがに口疾《と》くなどははべりき」と、しづしづと申せば、君達、あさましと思ひて、「そらごと」とて、笑ひたまふ。「いづこのさる女かあるべき。おいらかに鬼とこそ向ひゐたらめ。むくつけきこと」と、つまはじきをして、言はむ方なしと、式部をあはめ憎みて、「すこしよろしからむことを申せ」と、責めたまへど、「これよりめづらしき事はさぶらひなんや」とて、をり。

現代語訳

(中将)「式部のところには、おもしろい話はあるか。すこしずつ語り申せ」と、お責めになる。

(式部)「(私のような)下の下の中には、なんのお聞かせするような話しがございましょうか」と言うが、頭の君(頭中将)は、本気になって、「おそい」とお責めになるので、何事をお話申そうかと、思いめぐらしたところ、(式部)「私がまだ文章生であった時、かしこい女の例を見ました。さきほど馬頭が申されましたように、公の事も相談相手となり、私事の世渡りの心がけを思いめぐらす方面でも配慮が深く、学問の程度は、生はんかな博士なら顔負けするほどで、万事、人に口出しさせないというほどでした。

それは、私がある博士のもとに、学問などをしようということで、通っておりました頃、主人の娘たちが多いと聞きまして、ちょっとしたことのついでに言い寄りましたのを、親が聞きつけて、盃をもって出てきて、「私の歌う二つの道をきけ」と、私に言ってきかせましたが、うちとけた気持ちが通うこともほとんどせず、その親の心に配慮して、そうはいってもやはり、女と関わっておりますうちに、女はたいそう愛情深く私の世話をしてくれ、寝覚めの語らいにも、学才が身につき、朝廷にお仕えするのに必要な正式な学問を教えて、とてもきれいな筆跡で、手紙にも仮名というものを書きませず、なるほどもっともらしい言い回しをいたしますので、自然と通うことが絶えず、その女を師として、わずかに下手な漢文を着く丸ことなど習いましたので、今にその恩は忘れませんが、親しみ深い妻子として頼みにするには、私のような学才のない者は、何かみっともないふるまいなど見られた場合、恥ずかしく思いました。

まして(あなた方のような)貴族の御子弟の御ためには、このようなやり手でしっかり者の御世話は、何の必要があるでしょうか。

つまらない、残念だと、一方では見つつも、ただ自分の心にぴったり合って、宿縁に引かれて付き合い続けるということがあるといいますから、男というものは、たわいもないものでございますようです」と、申せば、残りを言わせようとして、「それにしても面白い女だな」とおだてなさるのを、(式部は)おだてとわかっていながら、鼻のあたりにおどけた表情を浮かべて、話をする。

(式部)「さて、たいそう長いあいだ女のもとに通いませんでしたところ、何かのついでに立ち寄りますと、いつものくつろいだ場所にはおりませんで、つまらないことに、物ごしにて会いました。

すねているのだろうかと、間が抜けていることに思い、また別れ話を切り出すのによい機会だとも思いましたが、この賢い女は、また、軽々しく恨んだりするはずもなく、男女の仲の道理をわきまえて、恨み言など言いませんでした。

声もせかせかと言うことは、『ここ数ヶ月、風病の重いのにたえかねて、極暑の草を飲んで、とても臭いので、対面いただくことはできません。目の前で会って話さなくても、しかるべき用事などはお聞きしましょう』と、とても神妙に、こちらの納得のいく調子で言いました。こういう時何と答えればよいものでしょう。

ただ、『承知した』といって退出しましたところ、女は物足りなく思ったのでしょう、『この臭いが消えた時にお立ち寄りください』と、声高に言うのを、聞き過ごすのも可哀想で、そうかといって、しばらくでもぐずぐずしていられるわけでもございませんで、実際、その臭いまでが強烈に加わっているのも、どうしようもなくて、逃げ目を使って、

(式部)『ささがにの…

(蜘蛛がさかんに活動する夕暮に、「昼間過ごせ」=「ニンニクの臭いがしている間待て」というのは道理にあいません)

私に会いたくないばかりに、なんという口実を使うのですか』と、言いも終わらず、走り出ましたところ、女が追ってきて、

(女)あふことの…

(夜を隔てず会っている仲なら、昼間もどうしてまばゆいことがありましょう=ニンニクの臭いがしている間も、どうして恥ずかしいと思うでしょう。あなたが滅多に来てくれないから、ニンニクの臭いなどという些細なことでも恥ずかしいと思うのです)

さすが賢い女だけあって即座に返しの歌を読みました」と、(式部が)重々しく申せば、君達は、あきれて、「作り事だ」といって、お笑いになる。

「どこにそんな女があるものか。おとなしく鬼と向かい合っていたほうがよいだろう。気味の悪い話だ」と、つまはじきをして、どう言いようもないと、式部を非難し憎んで、「すこしはましなことを申せ」とお責めになるが、(式部)「これよりめずらしい事がございましょうか」といって、すわっている。

語句

■気色あること 面白い。 ■申せ 式部がほかのメンバー
に比べて格下であることがわかる。 ■なでふことか 「なでふ」は「なんといふ」の約。「か」は反語。 ■頭の君 頭中将。頭は蔵人頭。蔵人所の次官で天皇のおそばにお仕えする。 ■まめやかに 本気になって。 ■文章生 もんじょうのしょう。大学寮で文章道(紀伝道)を専攻した者。定員20名。 ■才の際 学問の程度。 ■学問 漢詩文を学ぶこと。 ■わが両の途 「主人良媒ヲ会ス 置酒シテ玉壺ニ満ツ 四座且ク飲ムコト勿レ 我ガ両ノ途ヲ歌フヲ聴ケ 富家ノ女ハ嫁シ易シ 嫁スルコト早ケレドモ其ノ夫ヲ軽ンズ 貧家ノ女ハ嫁シ難シ 嫁スルコト晩ケレドモ姑二孝ナリ 聞ク君 婦ヲ娶ラムト欲スト 婦ヲ娶ル意何如」(白楽天「秦中吟」)。うちは貧乏だけど娘はいい嫁になるよ。だから結婚してやってくれの意。 ■聞こえごち 「聞こえごと」の活用。言ってきかせる? ■をさをさ 下に否定語をともなって「ほとんど~しない」。 ■むべむべしく もっともらしく。 ■腰折文 下手な漢文。 ■なつかしき 親しみ深い。 ■なまわろらなむふるまひ なにかみっともないふるまひ。 ■はかばかしく やり手で。 ■したたかなる しっかり者の。 ■仔細なきもの たわいもないもの。 ■すかいたまふ 「すかしたまふ」の音便。おだてなさる。 ■をこつきて 「烏滸つきて」。おどけた表情を浮かべて。 ■ふすぶる くすぶる。すねる。焼きもちを焼く。 ■よきふしなり 別れるのによい機会だ。 ■をこがましくも ばかばかしく思う。間抜けに思う。 ■はやりか 「逸りか」は調子が速い。せかせかしている。 ■風病 風邪? ■極熱の草薬 極暑の草薬。にんにくと思われる。 ■ささがにの… 「わが背子が来べき宵なりささがにの蜘蛛のふるまひかねてしるしも」(古今・恋四・墨滅歌)による。「ささがに」は子蟹。形が似ていることから蜘蛛の意にも。蜘蛛が巣をはると、訪ね人があるという俗信があった。「昼間」に「蒜間」(にんにくの臭いのする間)を掛ける。「あやなし」は道理が通らない。風流にはほど遠い歌で式部の身分のほどがうかがえる。 ■ことづけ 口実。女の言うニンニクの話はうそであり、そんな作り話までして私に会いたくないのか、なんということかというニュアンス。 ■まばゆからまし 「まばゆし」はまぶしいと、恥ずかしいの意を掛ける。滅多にたずねてこない男への恨み言になっている。 ■おいらかに おっとりと。おだやかに。おとなしく。 ■むくつけき 気味の悪い。 ■つまはじきをして 人差し指または中指の爪先を親指の腹にかけてはじくこと。気に食わない時の動作。 ■あはめ 「淡め」は非難する。

朗読・解説:左大臣光永

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