【帚木 15】源氏、ふたたび空蝉に言い寄るも空蝉は応じず

例の、内裏《うち》に日数経《へ》たまふころ、さるべき方の忌《いみ》待ち出でたまふ。にはかにまかでたまふまねして、道の程《ほど》よりおはしましたり。紀伊守《きのかみ》驚きて、遣水《やりみず》の面目《めいぼく》と、かしこまり喜ぶ。小君には、昼より、「かくなん思ひよれる」とのたまひ契れり。明け暮れまつはし馴らはしたまひければ、今宵もまづ召し出でたり。

女も、さる御消息《せうそこ》ありけるに、思したばかりつらむほどは浅くしも思ひなされねど、さりとて、うちとけ、人げなきありさまを見えたてまつりても、あぢきなく、夢のやうにて過ぎにし嘆きをまたや加へんと、思ひ乱れて、なほさて待ちつけきこえさせんことのまばゆければ、小君が出でて去ぬるほどに、「いとけ近ければかたはらいたし。なやましければ、忍びてうち叩かせなどせむに、ほど離れてを」とて、渡殿《わたどの》に、中将といひしが局《つぼね》したる隠れに移ろひぬ。

さる心して、人とく静めて御消息あれど、小君は尋ねあはず。よろづの所求め歩きて、渡殿に分け入りて、からうじて辿《たど》り来たり。いとあさましくつらしと思ひて、「いかにかひなしと思さむ」と、泣きぬばかり言へば、「かくけしからぬ心ばへはつかふものか。幼き人のかかること言ひ伝ふるは、いみじく忌むなるものを」と言ひおどして、『心地なやましければ、人々退けず押へさせてなむ』と、聞こえさせよ。あやしと誰も誰も見るらむ」と言ひ放ちて、心の中《うち》には、いとかく品定まりぬる身のおぼえならで、過ぎにし親の御けはひとまれる古里ながら、たまさかにも待ちつけたてまつらば、をかしうるやあらまし。しひて思ひ知らぬ顔に見消《みけ》つも、いかにほど知らぬやうに思すらむと、心ながらも胸いたく、さすがに思ひ乱る。とてもかくても、今は言ふかひなき宿世《すくせ》なりければ、無心《むじん》に心づきなくてやみなむと、思ひはてたり。

君は、いかにたばかりなさむと、まだ幼きをうしろめたく待ち臥したまへるに、不用《ふよう》なるよしを聞こゆれば、あさましくめづらかなりける心のほどを、「身もいと恥づかしくこそなりぬれ」と、いといとほしき御気色なり。とばかりものものたまはず、いたくうめきて、うしと思したり。

「帚木《ははきぎ》の心をしらでその原の道にあやなくまどひぬるかな

聞こえん方《かた》こそなけれ」とのたまへり。女も、さすがにまどろまざりければ、

数ならぬ伏屋《ふせや》に生《お》ふる名のうさにあるにもあらず消ゆる帚木《ははきぎ》

と、聞こえたり。

小君、いといとほしさに、眠《ねぶ》たくもあらでまどひ歩《あり》くを、人あやしと見るらんとわびたまふ。

例の、人々はいぎたなきに、一所《ひとところ》、すずろにすさまじく思しつづけらるれど、人に似ぬ心ざまの、なほ消えず立ちのぼれりけると、ねたく、かかるにつけてこそ心もとまれと、かつは思しながら、めざましくつらければ、さばれと思せども、さも思しはつまじく、「隠れたらむ所になほ率《ゐ》ていけ」とのたまへど、「いとむつかしげにさし籠《こ》められて、人あまたはべるめれば、かしこげに」と聞こゆ。いとほしと思へり。「よし、あこだにな棄《す》てそ」と、のたまひて、御かたはらに臥せたまへり。若くなつかしき御ありさまを、うれしくめでたしと思ひたれば、つれなき人よりは、なかなかあはれに思《おぼ》さるとぞ。

現代語訳

いつものように源氏は、内裏に何日もお過ごしになっているころ、紀伊守邸に出かけるのに都合のいい方角の物忌をお待ちになって、その時がくると、急に左大臣邸へ退出なさるふりをして、道の途中から紀伊守邸へいらした。

紀伊守はおどろいて、遣水の名誉と、かしこまって喜ぶ。小君には昼から、(源氏)「このように思いついたのだ」とおっしゃって約束しておいた。

明けても暮れても、源氏は小君をお側近くにいつも置いておられるので、今夜もまっさきに小君をお召しになった。

女も、そのような御手紙が源氏の君からあったので、わざわざそんな計画をしてまでのお心のほどは、浅いものとはあえて思いはしないが、だからといって、契りを結び、自分の、人並みでないすがたを御覧に入れるのも、つまらなく、夢のようにして過ぎた嘆きをまた繰り返すことになるだろうと、思い乱れて、やはりそうやって、待ちに待っていてやっとお逢いすることは決まりが悪いので、小君が部屋を出ていって、いないすきに、(女)「お客様の御座所にとても近いので、ばつが悪いです。気分が悪いので、こっそりと肩や腰などを叩かせたいと思うので、離れたところに参ります」といって、渡殿に、中将という女房が局を持っている隠れに移ってしまった。

源氏は、女に逢おうというお気持ちで、お供のひとを早々に休ませて女に御便りを送ったが、小君は姉を尋ねだすことができない。

小君はあらゆるところを探しまわって、渡殿に分け入って、ようやく姉のもとにたどりついた。

小君はたいそう呆れた、つらいことに思って、(小君)「どれほど源氏の君が私のことを頼みがいのない者と思われるでしょう」と、泣き出しそうに言えば、(女)「このようによからぬ考えをしてよいものですか。幼い人がこのようなことを言い伝えるのは、たいそう避けるべきことと言われているのに」と言いおどして、(女)「『気分が悪いので、人々をそばに置いて、体をもませているのです』と、申し上げなさい。不審だと、誰も彼も思うでしょう」と言って小君を追いはらって、心の中では、すっかり今のように身分が定まった身で言い寄られるのではなく、亡くなった親の御けはいがとどまっている実家にいるままで、時々でも待っていてお逢い申し上げるなら、うれしくもあったろうに。しいてわからないような顔で源氏の君のお気持ちを無視するのも、どんなに身の程知らずとお思いだろうと、自分の心から出たこととは言いながら、胸がいたく、こうやって拒否したとはいってもやはり、思いが乱れる。

とにもかくにも、今は言っても仕方ない運命となったので、まるで心が無いように、気に食わない女として押し通そうと、覚悟を決めた。

源氏の君は、小君がどのようにとり計らうだろうかと、まだ幼いのを心配に思って横になって待っておられたところ、だめだったということを申してきたので、あきれるほど珍しい女の心のほどに、(源氏)「私もたいそう恥ずかしくなったよ」と、たいそう愛しいご様子である。

しばらくものもおっしゃらず、たいそううめいて、つらいことだと思っていらっしゃる。

(源氏)「箒木の…

(帚木の、遠くからは見えるが近づくと消えてしまうという心を知らないで、その原の道にわけもわからず、迷い込んでしまいましたよ)

申し上げようもないことですよ」とおっしゃった。女も、やはりまどろむこともできずにいたので、

(女)数ならぬ…

(物の数でもない見すぼらしい伏屋生まれという評判が立つのがつらいですから、あるのかないのかわからず消えてしまう帚木のように、私は姿を消します)

と申し上げた。

小君は、たいそう気の毒で、眠たくもならずあちこち歩き回るのを、人が不審に思うだろうと、女君はお困りになる。

いつものように、お供の人々はぐっすり寝ているのに、源氏の君お一人は、なんとなく面白くなく思い続けられているが、人なみでない女の心のさまが、やはりまだ消えずに気位高くしていることよと、それが憎らしく思われ、またこのようであるからこそ心引かれるのだと、一方ではお思いになりながら、また一方では心外につらくもあるので、どうとでもなってしまえと思われるが、そのように思い切ることはなさらず、(源氏)「隠れている所にやはり連れて行け」と小君におっしゃるが、(小君)「たいそうむさ苦しい感じに閉じ込められて、人が多くございますようですから、畏れ多いようでございます」と申し上げる。

小君は源氏に対して申し訳ないと思っている。(源氏)「まあ仕方ない。せめてお前だけは私を捨てないでおくれよ」とおっしゃって、源氏の君は御そばに小君をお寝かせになった。

小君は、若くて親しみ深い源氏の君の御ようすを、うれしく美しいと思ったているので、源氏の君も、小君のことを、つれないあの女よりは、かえって可愛いと思われた、ということである。

語句

■さるべき方 紀伊守邸へ出かけることの口実にするのに具合のよい方角。 ■遣水の面目 紀伊守邸には遣水が風流な感じに引いてあるのようすが、『箒木』中盤に描かれている。 ■さる御消息 「小君を手引して今夜そっちに行きますから」といった趣旨の手紙だろう。 ■うちとけ 「うちとく」は契をむすぶ。 ■人げなきありさま 女の容貌はさほど美しいというほどでもない。源氏はそれを暗闇の中ではっきりとは確認できいていない様子である。 ■待ちつけ 待ちに待っていて、やっと逢う。 ■小君が出てて去ぬるほどに 小君が源氏の御手紙をもって女の部屋まで来る→女、悩む→小君、ちょっと部屋を出る→女、姿をくらますという流れ。 ■うち叩かせ 召使いに腰や肩などを叩かせること。 ■ほど離れてを 「を」は強調。 ■さる心して 女に逢おうという気持ちで。 ■いとあさましくつらしと思ひて 姉がこんなふうに源氏のお気持ちに添わず、逃げ隠れしているので、自分が遣いとして無能だと思われるだろう。それが、呆れた、つらいことだと小君は残念がる。 ■ものか 反語。「~してよいものか」。 ■押へさせて マッサージさせていること。 ■言ひ放ちて 言って相手を追いやる。 ■見消つ 無視する。 ■心ながらも みずからの心から出たこととはいいながら。このような冷淡な態度は自分が決めてやっていることだ。それはわかっている、しかし…という屈折した気持ち。 ■とてもかくても 「とありてもかくありても」の略。たとえ源氏の君がどんなにすばらしく、私がどんなに源氏の君から思いを寄せられているとしても、の意。 ■無心に 情を解さない。心が無いようす。 ■心づきなくて 「心づきなし」は気にくわない。 ■思いはてたり 覚悟を決めた。 ■たばかりなさむ 「たばかる」はとり計らう。 ■身 わが身。自分。私。 ■とばかり しばらく。 ■帚木 信濃国の伝説に、同国下伊那郡の「園原伏屋」の森にあるという木。遠くから見ると箒状の梢が見えるが、近づくと見えなくなり触ることもできないという。「園原や伏屋に生ふる帚木のありとてゆけどあはぬ君かな」(古今六帖五。新古今・恋一)。「遠くからは見えるが近づくといなくなってしまう」という、空蝉のキャラクターが強く打ち出されている。 ■あやなく わけもわからず。 ■伏屋 地名の「伏屋」に卑しいすまいの意を掛ける。 ■あるにもあらず あるのかないのかわからず。 ■消ゆる 女の歌に「消ゆる帚木」とあるのを受ける。「立ちのぼる」は「消ゆる」の縁語。気位高くしていること。 ■さばれ 「さばあれ」の約。どうとでもなってしまえ。 ■むつかしげに むさくるしい感じに。 ■かしこげに 下に「はべる」を省略。 ■思さるるとぞ 帖の最後を伝聞風に結ぶ。これによって、過去に実際に起こった出来事を作者が語っているような感じを出している。

朗読・解説:左大臣光永

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