【空蝉 03】源氏、空蝉と違えて軒端荻と契る

渡殿の戸口に寄りゐたまへり、いとかたじけなしと思ひて、「例ならぬ人はべりてえ近うも寄りはべらず」、「さて今宵もやかへしてんとする。いとあさましう、からうこそあべけれ」とのたまへば、「などてか。あなたに帰りはべりなば、たばかりはべりなん」と聞こゆ。さもなびかしつべき気色《けしき》にこそはあらめ。童《わらわ》なれど、物の心ばへ、人の気色見つべくしづまれるを、と思すなりけり。

碁打ちはてつるにやあらむ、うちそよめく心地して人々あかるるけはひなどすなり。「若君はいづくにおはしますならむ。この御格子《みこうし》は鎖してん」とて、鳴らすなり。「しづまりぬなり。入りて、さらば、たばかれ」と、のたまふ。この子も、妹の御心は撓《たわ》むところなくまめだちたれば、言ひあはせむ方なくて、人少なならんをりに入れたてまつらんと思ふなりけり。「紀伊守《きのかみ》の妹もこなたにあるか。我にかいま見せさせよ」と、のたまへど、「いかでかさははべらん。格子には几帳《きちょう》添へてはべり」と聞こゆ。さかし、されどもと、をかしく思せど、見つとは知らせじ、いとほし、と思して、夜更くることの心もとなさをのたまふ。

こたみは妻戸を叩きて入る。みな人々しづまり寝にけり。「この障子口《さうじぐち》にまろは寝たらむ。風吹き通せ」とて、畳ひろげて臥す。御達《ごたち》東《ひむがし》の廂《ひさし》にいとあまた寝たるべし。戸放ちつる童《わらわ》べもそなたに入りて臥しぬれば、とばかりそら寝して、灯《ひ》明き方に屏風《びやうぶ》をひろげて、影はのかなるに、やをら入れたてまつる。いかにぞ、をこがましきこともこそ、と思すに、いとつつましけれど、導くままに母屋《もや》の几帳の帷子《かたびら》引き上げて、いとやをら入りたまふとすれど、みなしづまれる夜《よ》の御衣《おんぞ》のけはひ、やはらかなるしも、いとしるかりけり。

女は、さこそ忘れたまふをうれしきに思ひなせど、あやしく、夢のやうなることを、心に離るるをりなきころにて、心とけたるいだに寝られずなむ、昼はながめ、夜は寝覚《ねざ》めがちなれば、春ならぬ木のめもいとなく嘆かしきに、碁打ちつる君、今宵はこなたにと、今めかしくうち語らひて、寝にけり。若き人は何心なういとようまどろみたるべし。かかるけはひのいとかうばしくうち匂ふに、顔をもたげたるに、ひとへうちかけたる几帳の隙間に、暗けれど、うちみじろき寄るけはひいとしるし。あさましくおぼえて、ともかくも思ひ分かれず、やをら起き出でて、生絹《すずし》なる単衣《ひとへ》をひとつ着て、すべり出でにけり。

君は入りたまひて、ただひとり臥したるを心安く思す。床《ゆか》の下《しも》に、二人ばかりぞ臥したる。衣《きぬ》を押しやりて寄りたまへるに、ありしけはひよりはものものしくおぼゆれど、思ほしも寄らずかし。いぎたなきさまなどぞ、あやしく変りて、やうやう見あらはしたまひて、あさましく、心やましけれど、人違《たが》へとたどりて見えんもをこがましく、あやしと思ふべし。本意《ほい》の人を尋ね寄らむも、かばかり逃《のが》るる心あめれば、かひなう、をこにこそ思はめ、と思《おぼ》す。かのをかしかりつる灯影《ほかげ》ならばいかがはせむに、思しなるも、わろき御心浅さなめりかし。やうやう目覚めて、いとおぼえずあさましきに、あきれたる気色《けしき》にて、何の心深くいとほしき用意もなし。世の中をまだ思ひ知らぬほどよりは、ざればみたる方《かた》にて、あえかにも思ひまどはず。我とも知らせじと思せど、いかにしてかかることぞと、後《のち》に思ひめぐらさむも、わがためには事にもあらねど、あのつらき人のあながちに名をつつむも、さすがにいとほしければ、たびたびの御方達《かたたが》へにことつけたまひしさまを、いとよう言ひなしたまふ。たどらむ人は心得つべけれど、まだいと若き心地に、さこそさし過ぎたるやうなれど、えしも思ひ分かず。憎しとはなけれど、御心とまるべきゆゑもなき心地して、なほかのうれたき人の心をいみじく思す。いづくにはひ紛れて、かたくなしと思ひゐたらむ、かくしふねき人はありがたきものを、と思すにしも、あやにくに紛れがたう思ひ出でられたまふ。この人のなま心なく若やかなるけはひもあはれなれば、さすがに情《なさけ》々しく契りおかせたまふ。「人知りたることよりも、かやらなるはあはれも添ふこととなむ、昔の人も言ひける。あひ思ひたまへよ。つつむことなきにしもあらねば、身ながら心にもえまかすまじくなんありける。また、さるべき人々もゆるされじかしと、かねて胸痛くなん。忘れで待ちたまへよ」など、なほなほしく語らひたまふ。「人の思ひはべらんことの恥づかしきになん、え聞こえさすまじき」と、うらもなく言ふ。「なべて一人に知らせばこそあらめ、この小さき上人《うへびと》に伝へて聞こえん。気色《けしき》なくもてなしたまへ」など言ひおきて、かの脱ぎすべしたると見ゆる薄衣《うすぎぬ》をとりて出でたまひぬ。

現代語訳

源氏の君が渡殿の戸口に寄りかかっていらっしゃるのを、小君は、たいそう申し訳ないと思って、(小君)「いつもはいない人がいらして、近寄ることもできませんで」、(源氏)「さあお前は今宵も私を追い返そうとするのかね。とても呆れた、辛いことではないか」とおっしゃると、(小君)「どうしてそのようなこと。客人がむこうに帰りましたら、取り計らいましょう」と申し上げる。

そのように話をつけられそうな様子である。小君は子供ではあるが、事のありようや、人の機嫌をわかりそうなくらい落ち着いているからと、源氏は思われるのだった。

碁を打ち終わったのだろうか、さらさらと衣ずれの音がする気配がして人々が解散しているようすなどするようだ。

(女房)「若君はどこにいらっしゃるのかしら。この御格子は閉ざしてしまいましょう」といって、音を立てるようだ。

(源氏)「しずかになったようだ。入って、それでは、よきにはからえ」と、おっしゃる。

この子(小君)も、姉の御心は曲がるところなくまじめに構えているので、話をつけるのは無理なので、人が少なくなるだろうからその時に源氏の君を姉の部屋にお入れしようと思うのである。

(源氏)「紀伊守の妹(軒端荻)もここにいるのか。私にのぞかせろ」と、おっしゃるが、(小君)「どうしてそのようなことができましょう。格子には几帳が立て添えてございます」と申し上げる。

それはそうだ。そうではあるがと、源氏の君はおかしく思われた。だが、すでに見たとは知らせまい、可哀相だと思われて、夜が更けることが待ち遠しいことをおっしゃる。

今度は妻戸を叩いて(中から女童に開けてもらって、)中に入る。みな人々は寝静まっている。

(小君)「この襖のところに私は寝ることにします。風よ吹き通してくれ」といって、畳をひろげて臥す。

年配の女房たちは東の廂の間にたいそう多く寝ているのだろう。妻戸を開けてくれた童もそっちに入って横になっているので、ほんのしばらく寝たふりをして、灯の明るいところに屏風をひろげて、灯影が薄暗くなっている所に、そっとお入れ申し上げる。

源氏は、どうなるだろう、ばかげたことになるのではないかとも思われて、たいそう尻込みなさるが、小君が導くままに母屋の几帳の帷子を引き上げて、たいそう忍んでお入りになろうとするが、みな寝静まっている夜の御衣の衣擦れは、やわらかではあるが、それがかえって、ひどくはっきりわかるのだった。

女は、あれほど源氏の君が自分をお忘れになることをうれしいことに思おうとしたが、なぜかわからないが、夢のようなあの出来事を、心から離れないこの頃で、古歌にあるように、安心して眠ることもできず、昼は物思いに沈み、夜は寝ることができず目がさめてばかりなので、春でもないのに木の芽(目)も休むひまがないのが嘆かわしいのに、碁を打った君(軒端荻)は、今宵はこちらにと、今風にはなやかに語らって、寝てしまった。

若い人(軒端荻)は何も心配せずたいそうよく寝ているらしい。そこへこのような気配がしてたいそう香ばしく匂うので、女(空蝉)が顔をもたげたところ、単衣の布をかけていた几帳の隙間に、暗いが、うごめいて近寄ってくるけはいがはっきりする。

女(空蝉)は、呆れたことに思って、どうしていいかわからず、そっと起き出して、生絹の単衣をひとつ着て、すべるように抜け出していった。

源氏の君は母屋にお入りになって、女がただ一人で寝ているのに安心された。床の下に、女房が二人ほど横になっている。

衣を押しのけて女にお寄りになると、以前逢ったときの気配よりは大柄に思われたが、別人とは思いもよりもされないのだった。

眠り込んでいるさまなどは、奇妙なまでに以前と違っていて、だんだん正体がおわかりになってくると、呆れて、逃げたあの女(空蝉)を憎く思うが、人違いであったと、この女(軒端荻)に悟られてるのもみっともないし、女も変に思うだろう。

はじめからの目当ての人(空蝉)を尋ね近づこうとしても、ここまで逃げる心があるなら、そのかいもないことで、女(空蝉)は私のことをばかな男と思っているだろう、と思われる。

あの灯火の影に見えた美しい女なら、それでもいいではないかという思いになられるのも、よくない軽薄さといったものだろう。

女はしだいに目覚めて、何が何だかさっぱりわからず、呆れたようすで、何の思慮深さも、男が気の毒に思うような心構えもない。

男女の関係をまだ思い知らないにしては、楽しみ戯れているかんじで、弱々しくうろたえたりしない。

源氏は、自分が誰だとも知らせないようにしようと思われたが、この女はどうしてこんなことになったかと、後に思いめぐらすだろうことも、自分にとっては何でもないが、あの冷淡な女がむやみに世間の評判を気にするのも、さすがに気の毒なので、たびたびの御方違えを口実になさって逢いに来たさまを、たいそう詳しく言いつくろいなさる。

筋道をたどって考えるような人は話がおかしいことに気づくだろうけれど、まだたいそう若い女の心は、あんなに出しゃばりなようではあるが、気づかない。

憎いわけではないが、御心がとどまるべき理由もないかんじがして、やはりあの、求愛を受け入れない、いまいましい女の心をひどいと思う。

どこにこっそりと紛れて、見苦しい男だと思っているだろう、このように執念深い人はめったにないのに、と思われるにつけても、皮肉にもほかのことに気が紛れようがなく、思い出されなさる。

この女(軒端荻)の中途半端なませた心ではなく、若やいだ気配もすばらしいので、別の女に御気が惹かれているとはいっても、やはり、情愛たっぷりに約束をなさる。

(源氏)「人が知っていることよりも、このように秘密の関係であるのは、かえって思いも深くなるものだと、昔の人も言っている。貴女も私をお思いくださいよ。私は世間に隠すことがないわけでもないので、我ながら思うままにできないのです。

またあなたの周りの人々もゆるされないだろうと、今から胸が痛むのです。私のことを忘れずにお待ちくださいよ」など、通りいっぺんなことを語らいなさる。

(軒端荻)「人の思いますことが恥ずかしいので、お便りを差し上げることはとても無理です」と、疑いもなく女は言う。

(源氏)「そこらじゅうの人に知られたら恥ずかしくもあるでしょうが…。この小さな殿上人(小君)にことづけてお便りをいたしましょう。なにげないふうに、うまくやってください」など言いおいて、あの、女(空蝉)がすべるように脱いだと思われる薄衣をとって、退出なさった。

語句

■渡殿の戸口 渡殿と寝殿の境に立てられた戸口。 ■例ならぬ人 いつもはいない人。軒端荻。 ■あべけれ 「あるべけれ」の音便。 ■なびかしつべき 「なびかす」は従わせる。服従させる。ここでは話をつけて、軒端荻に西の対に帰ってもらうよう、話をつけること。 ■そよめく さらさらと衣擦れの音をさせる。 ■あかるる 「あかる」は離れる。散る。 ■若君 小君のこと。 ■撓む 曲がる。 ■言ひあはす 話し合って約束する。 ■こたみは 今度は。 ■障子口 妻戸のそばの襖のところ。 ■風吹き通せ 風を室内に入れて涼しくするという名目で、小君は源氏がしのびこみやすいように工夫した。 ■帷子 几帳の横木に垂らす布類。 ■さこそ忘れたまふ 「御消息も絶えてなし」というほどに。 ■いだに寝られず 「い」は睡眠。「いを寝(ぬ)」で寝ること。寝ることさえできない。「君恋ふる涙の氷る冬の夜は心とけたるいやは寝らるる」(拾遺・恋ニ 読人しらず)。 ■いとなく 「いとなし」はひまがない。絶え間ない。 ■今めかしく 今風。若い人のよくやるように、楽しく、はなやか感じ。 ■生絹 すずし。繭から取ったままの絹。 ■床の下 母屋の北廂。母屋より一段低くなっている。 ■ものものしく 大柄に。肥えて。 ■たどりて 感づく。悟る。 ■をかしかりつる灯影 垣間見した時灯影に美しく見えた女。軒端荻。 ■いかがはせんに どうしよう。それでもいいではないか。 ■あえか 弱々しく繊細。きゃしゃだ。 ■さすがにいとほしければ 源氏は後日、軒端荻によって源氏と空蝉の関係が暴露されるだろうことを心配している。自分にとっては何ということはないが、あの世間の目を気にする空蝉が、気の毒だと。 ■たどらむ人 筋道をたどって考えるような人。 ■さし過ぎたる 出しゃばり。 ■うれたき 求愛を受け入れない、いまいましい相手。空蝉。 ■はひ紛れて 「這ひ」は接頭語。こっそりと。 ■かたくなし 頑なし。見苦しい。みっともない。 ■かたくなし しつこい。 ■しふねき 「執念」の形容詞化。しつこい。強情な。執念深い。 ■あやにくに 皮肉にも。 ■なま心 なまじな気持ち。中途半端な好色心。 ■つつむことなきにしもあらねば 私は世間に隠すことがないでもないので。源氏はもう二度と軒端荻を訪れる気がない。 ■さるべき人々 軒端荻のまわりの親兄弟など、後見人になる人。軒端荻を捨てる前提。 ■なほなほしく 「直々し」。通りいっぺんに。おざなりに。 ■あらめ 軒端荻の台詞の「恥づかしきになん」を受ける。 ■気色なく そぶりもなく。 ■脱ぎすべしたる 「脱ぎすべる」はすべるように脱いだ。

朗読・解説:左大臣光永

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