【若紫 03】明石の入道父娘の噂

原文

君は行ひしたまひつつ、日たくるままに、いかならんと思したるを、「とかう紛らはさせたまひて、思し入れぬなんよくはベる」と聞こゆれば、後《しりへ》の山に立ち出でて、京の方《かた》を見たまふ。はるかに霞みわたりて、四方《よも》の梢《こずゑ》そこはかとなうけぶりわたれるほど、「絵にいとよくも似たるかな。かかる所に住む人、心に思ひ残すことはあらじかし」とのたまへば、「これはいと浅くはべり。外《ひと》の国などにはべる海山《うみやま》のありさまなどを御覧ぜさせてはべらば、いかに御絵いみじうまさらせたまはむ」「富士の山、なにがしの獄《たけ》」など語りきこゆるもあり。また西国《にしくに》のおもしろき浦々、磯《いそ》のうへを言ひつづくるもありて、よろづに紛らはしきこゆ。

「近き所には、播磨《はりま》の明石《あかし》の浦こそなほことにはべれ。何のいたり深き隈《くま》はなけれど、ただ海のおもてを見わたしたるほどなん、あやしく他所《ことどころ》に似ず、ゆほびかなる所にはべる。かの国の前《さき》の守《かみ》、新発意《しぼち》のむすめかしづきたる家、いといたしかし。大臣の後《のち》にて、出で立ちもすべかりける人の、世のひがものにて、交らひもせず、近衛中将《このゑのちゆうじやう》を棄てて、申し賜はれりける司《つかさ》なれど、かの国の人にもすこしあなづられて、『何《なに》の面目《めいぼく》にてか、また都にもかへらん』と言ひて、頭髪《かしら》もおろしはべりにけるを、すこし奥まりたる山住《やまず》みもせで、さる海づらに出でゐたる、ひがひがしきやうなれど、げに、かの国の内に、さも人の籠《こも》りゐぬべき所どころはありながら、深き里は人離《ばな》れ心すごく、若き妻子《さいし》の思ひわびぬべきにより、かつは心をやれる住まひになんはべる。先《さい》つころ、まかり下りてはべりしついでに、ありさま見たまへに寄りてはべりしかば、京にてこそところえぬやうなりけれ、そこら遙かにいかめしう占めて造れるさま、さはいへど、国の司《つかさ》にてしおきけることなれば、残りの齢《よはひ》ゆたかに経べき心がまへも、二なくしたりけり。後《のち》の世の勤めもいとよくして、なかなか法師まさりしたる人になんはべりける」と申せば、源氏「さてそのむすめは」と問ひたまふ。「けしうはあらず、容貌《かたち》心ばせなどはべるなり。代々《だいだい》の国の司など、用意ことにして、さる心へ見すなれど、さらに承《う》け引かず。『わが身のかくいたづらに沈めるだにあるを。この人ひとりにこそあれ。思ふさまことなり。もし我に後れて、その心ざし遂げず、この思ひおきつる宿世《すくせ》違《たが》はば、海に入《い》りね』と、常に遺言《ゆいご》しおきてはべるなる」と聞こゆれば、君もをかしと聞きたまふ。人々、「海龍王《かいりゅうわう》の后になるべきいつきむすめななり」「心高さ苦しや」とて笑ふ。

かく言ふは播磨守《はりまのかみ》の子の、蔵人《くらうど》より今年冠《かうぶり》得たるなりけり。「いとすきたる者なれば、かの入道の遺言《ゆいごん》破りつべき心はあらんかし」「さてたたずみ寄るならむ」と言ひあへり。「いで、さいふとも、田舎《ゐなか》びたらむ。幼くよりさる所に生ひ出でて、古めいたる親にのみ従ひたらむは」「母こそゆゑあるべけれ。よき若人《わかうど》、童《わらは》など、都のやむごとなき所どころより、類《るい》にふれて、尋ねとりて、まばゆくこそもてなすなれ」「情なき人なりてゆかば、さて心やすくてしも、えおきたらじをや」など言ふもあり。君、「何心ありて、海の底まで深う思ひ入るらむ。底のみるめもものむつかしう」などのたまひて、ただならず思したり。かやうにても、なべてならず、もてひがみたること好みたまふ御心なれば、御耳とどまらむをや、と見たてまつる。

「暮れかかりぬれど、おこらせたまはずなりぬるにこそはあめれ。はや帰らせたまひなん」とあるを、大徳《だいとこ》、「御物《もの》の怪《け》など加はれるさまにおはしましけるを、今宵はなは静かに加持《かぢ》などまゐりて、出でさせたまへ」と申す。「さもあること」と皆人申す。君も、かかる旅寝もならひたまはねば、さすがにをかしくて、「さらば暁《あかつき》に」とのたまふ。

現代語訳

源氏の君は仏前のお勤めをなさっているうちに、日が長くなってくるので、病はどうなるのだろうかとご心配されるのを、(聖)「何かと紛らわせなさって、深くお考えにならないのがよいのです」と申し上げるので、源氏の君は、後ろの山にお出かけになり、京の方角を御覧になる。

遠くまでに霞がずっとかかって、四方の木々の梢がどうというこしとなしに一面に煙り立っているようすに、(源氏)「絵にたいそうよく似ているな。このような所に住む人は、存分に情緒を味わい尽くして、心に思い残すことはないだろう」とおっしゃると、(供人)「ここの風情はまだ浅いものございます。地方の国などにございます海山のようすなどを御覧になられましたら、わが君の絵の御腕もたいそうご上達なさるでしょう」(供人)「富士の山、なにがしの獄」など源氏の君に語り申し上げる者もある。また西国の風情ある浦々、磯の上のことを言い続ける者もあって、なにかと、源氏の君のご気分を紛らわし申し上げる。

(良清)「近い所では、播磨の明石の浦こそやはり、格別にすばらしゅうございます。何の風情の行き届いた場所はありませんが、ただ海の面を見渡したぐあいは、不思議とよその所とは違っており、ゆったり広々した所でございます。その国の前の国司で、最近出家した者が、娘をかわいがっている家は、たいそうすばらしいです。その人は大臣の子孫で、出世もするはずの人でしたが、たいそうのすねもので、人と交際もせず、近衛中将の官を棄てて、みずから申請して、朝廷よりいただいた播磨守の役職でしたが、その国の人にもすこし侮られて、『何の面目で、また都に帰ろう』と言って、髪もおろしてございましたのを、すこし奥まったところの山住まいもしないで、あのような海に面したところに出て住んでいますのは普通でないようですが、まったく、あの播磨国の内に、いかにも世捨て人の籠もりそうな所どころはあるものの、深い山里は人気から離れるかんじが気味悪く、若い妻子が嫌がるでしょうし、またひとつには、本人の気晴らしの住まいなのでございますよ。先日、私が播磨国に下りましたついでに、その前播磨守のようすをミニ寄ってみましたところ、京にてこそ不便なようすでございましたようですが、たいそう広々といかめしく土地を占めて屋敷を作っているようすは、いくら国人に侮られていたとはいっても、国司としてやっておいたことなので、余生をゆたかに過ごすことのできる用意も、またとないほど、行っておりました。後世菩提のための仏事の勤めもたいそう熱心で、法師になってかえって人柄がすぐれてきた人物でございました」と申せば、(源氏)「ところでその娘というのは」とご質問になる。

(良清)「悪くはございません。容貌も性格も。代々の国司の方などが、格別に心遣いをして、結婚したいというような思いを見せたようですが、まったく応じないのです。『わが身がこのようにつまらない立場に沈んでいることだけでも堪えられないのに。私に娘はこの人ひとりだけなのだ。娘の将来について私が思っているのは国司の妻などとは異なっている。もし私に死に遅れて、その望みが遂げられず、私がかねて定めておいた宿世と違うことになるなら、海に入ってしまえ」と、常に遺言をしているということだそうです」と申し上げると、源氏の君もおもしろいとお聞きになる。

人々は、「海龍王の后となるべき秘蔵の娘というわけだね」「その気高さが重苦しいよ」といって、笑う。

こう言うのは播磨守の子で、蔵人から今年五位に叙せられた者であった。

(供人)「やつはたいそう好色なので、あの入道の遺言を破ろうという心があるのだろう」「それでふらふらと入道のもとに立ち寄るのだろう」と言い合った。

(供人)「さあ、そうはいっても、その娘は田舎じみているだろう。幼い頃からそのような所に生まれ出て、古臭い親一人に従っているのでは」

(供人)「母親のほうは、しっかりした筋の者なのだろうね。きれいな若女房、童などを、都のあちこちの位の高い家から、縁者のつてで、探し集めて、まばゆいばかりに娘をもてなすのだそうだ」

(供人)「心ない人が国司となって赴任してきたら、そのように気楽にも、放っておけないのではないかな」など言う者もいる。

源氏の君、「入道はどんな魂胆で、海の底まで深く思い入るのだろう。水底のみるめ(海藻)が、やっかいだろうに」などとおっしゃって、ただごならずご興味を抱かれた。

このようなことでも、普通でなく風変わりなことを好まれる源氏の君のご性質なので、御耳にとどまるのだろうと、供人たちはご推察申し上げる。

(供人)「日が暮れかかりましたが、病の発作もおこらずいらっしゃるようでありますな。はやく都へお帰りください」と言うのを、聖は、「御物の怪などがついているようすでございますので、今宵はやはり静かに加持などなさって、それからご出発ください」と申す。

「それもそうだ」と一同が申し上げる。源氏の君も、このような旅寝も慣れていらっしゃらないので、かえって趣深いことに思われて、(源氏)「それなら明け方に出発しよう」とおっしゃる。

語句

■近き所には… 話者は播磨守の子、良清という者であることが後に明かされる。 ■いたり深く 風情が行き届くこと。 ■ゆほびか ゆったり、ひろびろしていること。 ■かの国の前の守 後に登場する前播磨守、明石入道。源氏の母の桐壺更衣とは従兄妹の関係。 ■新発意 「しんぼち」の撥音「ん」の表記されない形。最近出家した者。 ■いたしかし 「いたし」はすばらしい。非常によい。程度がはなはだしい。 ■大臣の後 大臣の子孫。 ■ひがひがしき 普通でない。 ■さも いかにも。まことに。 ■かつは 一方では。条件を並列する。前播磨守が海際に住んでいるのは一方では妻子が深い山里を嫌うからであるし、一方では自分自身の気晴らしのためであるの意。 ■ところえぬ 明石入道が都で官職を得られなかったことをいう。 ■そこら はなはだしく。たいそう。非常に。副詞。 ■さはいへど 「さ」は「かの国の人にもすこしあなづられて」をさす。 ■なかなか 俗人である時よりも出家してから見どころが出てきた人物であると。 ■けしうはあらず… 本来の語順は「容貌心ばせなど、けしうはあらずはべるなり」。源氏の唐突な問いに対して結論を先にいったもの。 ■用意 心遣い。 ■いつきむすめ 「いつく」は心身を清めて仕える。ここでは外に出さず大事に育てている秘蔵の娘ということ。 ■冠得たる 叙爵。従五位の下に叙せられること。 ■たたずみ 「たたずむ」は一箇所に立ち続ける、徘徊する、うろつく。 ■底のみるめ 「海の底」の縁語として「海松布(みるめ)」をかけた。海に身投げしたら海底の海松布がうっとうしいだろうの意と、そんなに親が思いつめているなら、その娘の見る目(体裁)も、わずらわしいかんじだ、の意。通常、歌で「みるめ」は「海松布」と「見る目」を掛ける。「みるめなきわが身をうらと知らねばや離れなで海人の足たゆくくる」(古今・恋三・623 小野小町/伊勢物語二十五)。 ■もてひがみたる 「もて」は接頭語。「ひがむ」はかたよる。風変わりなようす。

朗読・解説:左大臣光永

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