【若紫 07】源氏、尼君に紫の上の後見を申し出て、拒まれる

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原文

君は心地もいとなやましきに、雨すこしうちそそき、山風ひややかに吹きたるに、滝のよどみもまさりて、音高う聞こゆ。すこしねぶたげなる読経の絶え絶えすごく聞こゆるなど、すずろなる人も、所がらものあはれなり。まして思しめぐらすこと多くて、まどろませたまはず。初夜《そや》といひしかども、夜もいたう更けにけり。内にも人の寝ぬけはひしるくて、いと忍びたれど、数珠《ずず》の脇息《けふそく》にひき鳴らさるる音ほの聞こえ、なつかしううちそよめくおとなひ、あてはかなり、と聞きたまひて、ほどもなく近ければ、外に立てわたしたる屏風の中をすこしひき開けて、扇《あふぎ》を鳴らしたまへば、おぼえなき心地すべかめれど、聞き知らぬやうにやとて、ゐざり出づる人あなり。すこし退《しぞ》きて、「あやし。ひが耳にや」とたどるを聞きたまひて、「仏の御しるべは、暗きに入りても、さらに違《たが》ふまじかなるものを」とのたまふ御声の、いと若うあてなるに、うち出でむ声《こわ》づかひも、恥づかしけれど、「いかなる方の御しるべにか。おぼつかなく」と聞こゆ。「げに、うちつけなり、とおぼめきたまはむもことわりなれど、

はつ草の若葉のうへを見つるより旅寝の袖もつゆぞかわかぬ

と聞こえたまひてむや」とのたまふ。「さらにかやうの御消息《せうそこ》うけたまはり分くべき人もものしたまはぬさまは、しろしめしたりげなるを、誰にかは」と聞こゆ。「おのづから、さるやうありて聞こゆるならん、と思ひなしたまへかし」とのたまへば、入りて聞こゆ。尼君「あな、今めかし。この君や世づいたるほどにおはする、とぞ思すらん、さるにては、かの若草を、いかで聞いたまへることぞ」とさまざまあやしきに、心乱れて、久しうなれば、情なしとて、

「枕ゆふ今宵ばかりの露けさを深山《みやま》の苔にくらべざらなむ

ひがたうはべるものを」と聞こえたまふ。

「かうやうの伝《つて》なる御消息は、まださらに、聞こえ知らず、ならはぬことになむ。かたじけなくとも、かかるついでにまめまめしう聞こえさすべきことなむ」と聞こえたまへれば、尼君、「ひが事聞きたまへるならむ。いと恥づかしき御けはひに、何ごとをかは答へきこえむ」とのたまへば、「はしたなうもこそ思せ」と人々聞こゆ。「げに、若やかなる人こそうたてもあらめ。まめやかにのたまふ、かたじけなし」とて、ゐざり寄りたまへり。

「うちつけに、あさはかなりと御覧ぜられぬべきついでなれど、心にはさもおぼえはべらねば、仏はおのづから」とて、おとなおとなしう、恥づかしげなるにつつまれて、とみにもえうち出でたまはず。「げに思ひたまへ寄りがたきついでに、かくまでのたまはせ、聞こえさするも、浅くはいかが」とのたまふ。「あはれにうけたまはる御ありさまを、かの過ぎたまひにけむ御かはりに思しないてむや。言ふかひなきほどの齢《よはひ》にて、睦《むつ》ましかるべき人にも立ちおくれはべりにければ、あやしう浮きたるやうにて、年月《としつき》をこそ重ねはベれ。同じさまにものしたまふなるを、たぐひになさせたまヘといと聞こえまほしきを、かかるをりはべりがたくてなむ、思されんところをも憚《はばか》らず、うち出ではべりぬる」と聞こえたまへば、「いとうれしう思ひたまへぬべき御ことながらも、聞こしめしひがめたることなどやはべらん、とつつましうなむ。あやしき身ひとつを、頼もし人にする人なむはべれど、いとまだ言ふかひなきほどにて、御覧じゆるさるる方もはべりがたげなれば、えなむうけたまはりとどめられざりける」とのたまふ。「みなおぼつかなからずうけたまはるものを、ところせう思し憚らで、思ひたまへ寄るさまことなる心のほどを御覧ぜよ」と聞こえたまへど、いと似げなきことをさも知らでのたまふ、と思して、心とけたる御答《いら》へもなし。僧都おはしぬれば、「よし、かう聞こえそめはべりぬれば、いと頼もしうなむ」とて、おし立てたまひつ。

現代語訳

源氏の君は気分もたいそう悩ましい上に、雨がすこし注ぎ、山風が冷ややかに吹いていて、滝の淀みも水量がまして、音が高く聞こえる。

すこし眠たそうな読経の声が絶え絶えに不気味に聞こえるのなど、何の気ない人でも、場所がら神妙な心になる。まして源氏の君は思いめぐらすことが多いので、少しもお休みになることができない。

僧都は初夜といっていたが、夜もたいそう更けた。奥にも人の寝ている気配がはっきりして、ひどくひっそりとしているが、数珠が脇息にひき鳴らされる音がかすかに聞こえ、人なつかしくさやとやと鳴る衣擦れの音は、品があることよと、源氏の君は、お聞きになって、そう広いところで近いので、部屋の外側に立てならべてあるある屏風の中をすこしひき開けて、扇を鳴らされると、むこうは思いもよらないという気持ちがしたらしいが、気づかないふりをするのも何だと、にじり出てくる女房があるようだ。すこし後ろにさがって、「変ね。空耳かしら」と女房がまごつくのをお聞きになって、(源氏)「仏の御みちびきは、暗いところに入っても、まったく間違うことがないと聞いておりますのに」とおっしゃる御声の、たいそう若く品があるのに、なにか声を出すその声づかいも、恥ずかしいけれど、(女房)「どなたの御案内ですか。わかりません」と申し上げる。(源氏)「ほんとうに、突然だといぶかしがるのも道理ですが、

はつ草の…

(初草の若葉のような方を見てからというもの、お逢いしたい気持ちで、旅寝の袖も涙の露に濡れて乾かないのです)

と申し上げてくださいますか」とおっしゃる。(女房)「まったくこのようなお便りをお聞き分け申し上げられる方もおいでにならないことは、ご存知なようでございますのに、誰にそんなことを申し上げるのです」と申し上げる。

「たまたま、そのような仔細があって申し上げるのだろう、とあえて思っていただきたい」とおっしゃるので、女房は奥へ入って、尼君に申し上げる。

(尼君)「なんと今めいたこと。この源氏の君は、この子(紫の上)が、情を理解するほどの年でいらっしゃると、思われているのでしょうか、それにしても、あの若草の歌を、どうやってお聞きになったことでしょう」とさまざまに不思議で心も混迷うので、長くおまたせすると失礼だということで、

(尼君)「枕ゆふ…

(旅寝の枕を結ぶ今宵一晩だけの涙の露を、深山の苔と比べないでください)

深山ずまいの私どもは(一晩だけ涙に暮れる貴方とちがって)いつも袖が涙に濡れてかわくことも難しいことですのに」と申し上げる。

(源氏)「このような人づての御手紙は、またまったく、なんとも申し上げようのないほど、これまでに経験がないことでして。ぶしつけではありますが、このような機会に、まじめに申し上げるべきことなのですよ」と申し上げなさると、尼君は、「源氏の君は、なにか聞き違いをなさっているのでしょう。ひどくこちらが気後れするほどの源氏の君のご様子に、何ごとを申し上げればよいのでしょう」とおっしゃると、「源氏の君がばつが悪くお思いでいらっしゃいますよ」と人々(まわりの女房たち)が尼君に申し上げる。

(尼君)「なるほど、若い人が応対するなら嫌でもありましょうが(私のような年寄が応対するなら構わないでしょう)。源氏の君が本気でおっしゃっているのが、恐れ多いですから(だから私が応対します)」といって、にじり寄ってこられる。

(源氏)「突然なことで、浅はかな考えだと御覧になりかねないようなこの状況ですが、私はそのような浮ついた気持ちを抱いてはございませんので、仏は自然と、(おわかりくださるでしょう)」とまでは言ったが、尼君がひどく落ち着いていて、こちらが気後れするほどであるのに憚って、すぐには言葉をつづけることもおできにならない。

(尼君)「ほんとうに、思いつきもいたしません、このような機会に、源氏の君がこうまでおっしゃられ、またこちらが源氏の君に対して申し上げますのも、浅い縁と思えることでしょうか。

(源氏)「あはれ深いことにお聞きしておりますそちらのご事情ですが、その、お亡くなりになった方(紫の上の母=大納言の娘)の御かわりに、私のことを思ってみてくださいませんか。私も、何の分別もつかないぐらいの年で、大事にしてくれるような親類にも先立たれてしまいましたので、妙に宙ぶらりんな有様で、年月を重ねてまいりました。おなじような境遇でお育ちだということですから、私を仲間となさってくださいと、たいそう申し上げたいのですが、このような折がなかなかございませんので、どうお思いになられるかということも憚らず、こうして申し出ましたのです」と申し上げなさると、(尼君)「まことにうれしく思い申し上げるべき御ことではありますが、誤解なさっていることなどがあるだろうと、憚るのでございます。取るに足らない私の身ひとつを、頼りにする人がございますが、たいそうまだお話にならないほど幼く、大目に見ていただけるようなところもございませんでしょうから、お聞き容れすることはできません」とおっしゃる。

(源氏)「すべて詳しくうかがっておりますので、窮屈にお憚りにならず、思いをよせるさまが並々でない、私の心のほどを御覧ください」と申し上げなさったが、尼君は、孫娘(紫の上)が、年齢からいって源氏の君とは不釣り合いに幼いことを、源氏の君は、そうと知らないでおっしゃるのだろうと、お思いになって、気をゆるした御返事もない。

僧都がもどってきたので、(源氏)「まあよいです。このように切り出して申し上げておけば、たいそう頼もしいことです」といって、源氏の君は、屏風を押し立てられた。

語句

■思しめぐらすこと 藤壺のこと、紫の上のこと。 ■内 女房たちのいる屋敷の奥の方。 ■ゐざり出づる にじり出る。 ■たどる まごつく。 ■仏の御しるべ 「冥キヨリ冥キニ入リテ、永ク仏ノ名ヲ聞カザリシナリ。今、仏ハ最上ニシテ安穏ナル無漏(むろ)ノ法ヲ得タマヘルヲモッテ、我等及ビ天人ハ、タメニ最大ノ利ヲ得ルナラン」(法華経化城喩品)による。 ■おぼめきたまはむ いぶかしがる。ほかに空とぼける、しらをきるの意も。 ■うけたまわり分く 「聞き分く」の謙譲語。紫の上はまだ幼いので源氏の言うことが何のことかわからないといっている。 ■今めかし いきなり押しかけて求婚するのが、今風でつつしみがないと、なかば呆れているらしい。 ■枕ゆふ… 「枕ゆふ」は枕を結ぶ。源氏の、紫の上への愛着はあえて無視して、下の句にのみ答えた。 ■ひがたうはべる… 「夕さればいとどひがたきわが袖に秋の露さへおき添はりつつ」(古今・恋一・545 読人しらず)。 ■ひが事聞きたまへるならむ 紫の上は小さな女の子だが、源氏の君はどうまちがったか、年頃の女性と勘違いしていると尼君は見ている。実際には源氏は紫の上が小さな女の子であることを知っているのだが。 ■とみにも 多くは下に打ち消しの語を伴って「急には~しない」。 ■浅くはいかが 「浅くはいかが思ひたまへむ」の意。このあたり、しどろもどろで要領を得ない源氏と、尼君の落ち着いた受け答えの対称がよく出ていておもしろい。 ■御ありまさ 紫の上の母(大納言の娘)がすでに亡くなっていること、紫の上が祖母である尼君に養育されていること、尼君も後先短い身で孫の将来が心配であることなどの諸事情をさす。 ■かの過ぎたまひにけむ 紫の上の母=大納言の娘のこと。 ■言ふかひなきほどの齢にて 源氏は三歳で母桐壺更衣に死に別れ、六歳で祖母にも死に別れている。源氏は、自分のそういう心細い境遇が、今の紫の上の境遇と重なる。だから私に引き取らせてくださいと、尼君を説得するのである。 ■御覧じゆるさるる方 「御覧じゆるす」は「見ゆるす」の尊敬語。 ■うけたまはりとどめられざりける 「うけたまはりとどむ」は「聞きとどむ(聞き容れる)」の謙譲語。 ■いと似げなきこと 紫の上が年齢からいって源氏とは不釣り合いに幼いこと。 ■僧都おはしぬれば 僧都は法華堂でお勤めをすませてから、戻ってきた。 ■こう聞こえそめはべれば 尼君が承認するか、拒絶するかはともかく、ひとまず自分の意向を伝えておけば、それ自体が第一歩を踏み出したことになると、源氏はあえて前向きに考えた。

朗読・解説:左大臣光永

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