【若紫 14】藤壺の懐妊

殿におはして、泣き寝に臥し暮らしたまひつ。御文なども、例の御覧じ入れぬよしのみあれば、常のことながらも、つらう、いみじう思しはれて、内裏《うち》へも参らで、二三日籠《こも》りおはすれば、また、いかなるにかと、御心動かせたまふべかめるも、恐ろしらのみおぼえたまふ。

宮も、なほいと心うき身なりけり、と思し嘆くに、なやましさもまさりたまひて、とく参りたまふべき御使しきれど、思しも立たず。まことに御心地例のやうにもおはしまさぬは、いかなるにかと、人知れず思すこともありければ、心うく、いかならむとのみ思し乱る。暑きほどはいとど起きも上がりたまはず。三月《みつき》になりたまへば、いとしるきほどにて、人々見たてまつりとがむるに、あさましき御宿世《すくせ》のほど心うし。人は思ひよらぬことなれば、この月まで奏せさせたまはざりけること、と驚ききこゆ。わが御心ひとつには、しるう思し分くこともありけり。御湯殿《ゆどの》などにも親しう仕うまつりて、何ごとの御気色をもしるく見たてまつり知れる、御乳母子《めのとご》の弁《べん》、命婦《みやうぶ》などぞ、あやしと思へど、かたみに言ひあはすべきにあらねば、なほのがれがたかりける御宿世をぞ、命婦はあさましと思ふ。内裏《うち》には御物の怪のまぎれにて、とみに気色なうおはしましけるやうにぞ奏しけむかし。見る人もさのみ思ひけり。いとどあはれに限りなう思されて、御使などのひまなきもそら恐ろしう、ものを思すこと隙なし。

中将の君も、おどろおどろしうさま異《こと》なる夢を見たまひて、合はする者を召して問はせたまへば、及びなう思しもかけぬ筋のことを合はせけり。「その中に違《たが》ひ目ありて、つつませたまふべきことなどはべる」と言ふに、わづらはしくぼえて、「みづからの夢にはあらず、人の御ことを語るなり。この夢合ふまで、また人にまねぶな」とのたまひて、心の中《うち》には、いかなることならむと思しわたるに、この女宮の御こと聞きたまひて、もしさるやうもや、と思しあはせたまふに、いとどしくいみじき言《こと》の葉《は》尽くし聞こんたまへど、命婦も思ふに、いとむくつけう、わづらはしさまさりて、さらにたばかるべき方《かた》なし。はかなき一行《ひとくだり》の御返りのたまさかなりしも、絶えはてにたり。

七月《ふづき》になりてぞ参りたまひける。めづらしうあはれにて、いとどしき御思ひのほど限りなし。すこしふくらかになりたまひて、うちなやみ面痩《おもや》せたまへる、はた、げに似るものなくめでたし。例の明け暮れこなたにのみおはしまして、御遊びもやうやうをかしき空なれば、源氏の君もいとまなく召しまつはしつつ、御琴笛など、さまざまに仕うまつらせたまふ。いみじうつつみたまへど、忍びがたき気色の漏り出づるをりをり、宮もさすがなる事どもを、多く思しつづけけり。

現代語訳

源氏の君はお屋敷にお帰りになって、泣いて寝て横になって一日中お過ごしになっておられた。藤壺宮に差し上げた御文なども、いつもの通りご覧にならないよしの御返事ばかりがあるので、いつものことではあるが、つらく、たいそう呆然とされて、宮中へも参内しないで、ニ三日籠もっていらっしゃると、帝が、また、どうしたのかと、御心をお動かしになるだろうことも、恐ろしくばかり思われる。

藤壺宮も、やはりたいそう情けない身の上であったことよと、思い嘆かいていらしたところ、ご病気もひどくなられ、早く参内せよという御使いがしきりにあるが、ご決心もおつきにならない。

ほんとうにご気分が、いつものようでもいらっしゃらないので、どうしたのかと、人知れず思われることもあったので、心配で、これからどうなるのだろうとばかり思い乱れていらっしゃる。

藤壺宮は、暑い頃はいっそう起き上がりもなさらない。三月におなりになると、まことにはっきり懐妊の兆候がわかるほどで、人々は拝見して不審がるにつけても、藤壺宮は、あきれた前世からの源氏の君との約束のほどが心痛い。

人は思いもよらぬことであるので、この月まで奏上なさらなかったことと、驚き存じ上げる。

藤壺宮は、ご自分の御心ひとつには、はっきりわかっていらっしゃったこともあったのである。御湯殿などにも親しくお仕え申して、どんなご様子をもはっきり拝見して知っている、御乳母子の弁、命婦などは、(藤壺宮が懐妊の事をなかなか帝に奏上しないことを)不可解に思うけれど、お互いに話しあっていいことでもないので、やはり何としても逃れがることのできなかった前世からの約束だったことを、命婦はあきれたことに思う。

帝には御物の怪にまぎれて、すぐにはご様子がおわかりでなくいらしたように奏上したのだろう。周囲の人もそうとばかり思ったのだった。帝は、いっそう藤壺宮を愛しく限りなく思われて、御使などがひっきりなしなのも、藤壺宮は何となく恐ろしく、常の物思いをされている。

中将の君(=源氏の君)も、おどろおどろしく普通と違っている夢をご覧になって、夢占をする者を召してご質問になると、及びなく、思いもかけない筋のことを解き合わせたのだった。

(占者)「その運命の中には意に反することがあって、ご謹慎なさらねばならないことがございます」と言うので、源氏の君は、はばかり多くお思いになって、「私自身の夢ではない。他人の御事を語っているのだ。この夢が実現するまで、ほかの人に伝えるなよ」とおっしゃって、心の中には、どういうことだろうとずっと思っていらしたところ、この女宮(藤壺宮)の御懐妊の事をお聞きになって、もしかしてあの予言が実現するかもしれない、と思い合わせなさるに、いよいよ切ない言葉を尽くして藤壺宮に訴え申し上げるが、命婦も考えてみるに、たいそう恐ろしく、いよいよ処置にこまることなので、まったく取り計らいようがない。わずかな一行の御返事をたまさかにいただいていたのさえ、絶え果ててしまった。

七月になって藤壺宮は参内なさった。しばらくぶりでいっそう愛しく思われ、たいそうご寵愛なさるほどは、限りもない。

藤壺宮はすこしふっくらとなられて、ご病気がちでお痩せになったのも、それはそれでまた、まったく似るものとてなく、美しい。

帝は、いつものように、明け暮れ藤壺宮のお局にばかりおいでになったして、管弦の御遊もしだいに趣深くなる秋の空であるので、源氏の君を、しょっちゅう召してお近くに侍らせては、御琴、笛など、さまざまにご下命になられる。

源氏の君は、ひたすらお隠しになっていらっしゃるが、忍び難い様子が漏れ出る折々は、藤壺宮もさすがにお忘れにならないことを、あれこれ思い続けていらっしゃるのであった。

語句

■なやましさもまさりたまひて もともと病気で里下がりしていたのだが、源氏の君との一件があってから、いよいよ心身の不調がましたのである。 ■例のやうにもおはしまさぬは 藤壺は懐妊している。 ■しるきほどにて 懐妊の兆候がはっきりあらわれてきたこと。 ■とがむる 「とがむ」は不審がる。 ■人は思ひもよらぬこと まさか人々は、藤壺宮と源氏の君が通じたなどとは想像だにしないの意。 ■わが御心ひとつには… 藤壺宮は、お腹の子が帝の子ではなく、源氏の君の子であることをわかっていた。 ■弁、命婦などぞ 命婦の君だけが、藤壺と源氏の君が通じたことを知っている。 ■あやしと思へど 藤壺宮が懐妊したことを帝に奏上しないことが。 ■御物の怪のまぎれにて 物の怪がとりついて猛威をふるっていたから、妊娠の兆候に気づかなかった。それで報告がおくれたというふうに、とりつくろって帝に報告したという意味。 ■及びなう思しもかけぬ筋のこと あなたの御子が生まれ、やがて帝位につくということを言われたのである。源氏は臣籍に降下しているのでその子が帝位につくことはありえない。 ■違ひ目 意に反すること。源氏がやがて須磨に流されることをさす。 ■まねぶな 「まねぶ」はそっくりそのまま人に伝えること。 ■さるやうもや 下に「あるらむ」などを省略。もしかしたら、あのとんでもない予言が実現するかもしれない。

朗読・解説:左大臣光永

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