【若紫 20】兵部卿宮、紫の上を訪ねる

かしこには、今日しも、宮渡りたまへり。年ごろよりもこよなう荒れまさり、広うもの古《ふ》りたる所の、いとど人少《ずく》なにさびしければ、見わたしたまひて、「かかる所には、いかでか、しばしも幼き人の過ぐしたまはむ。なはかしこに渡したてまつりてむ。何のところせきほどにもあらず。乳母《めのと》は、曹司《ざうし》などしてさぶらひなむ。君は、若き人々あれば、もろともに遊びて、いとようものしたまひなむ」などのたまふ。

近う呼び寄せたてまつりたまへるに、かの御移り香の、いみじう艶《えん》に染《し》みかへらせたまへれば、「をかしの御匂《にほ》ひや。御衣《ぞ》はいと萎えて」と心苦しげに思《おぼ》いたり。「年ごろも、あつしくさだすぎたまへる人に添ひたまへるよ。かしこに渡りて見ならしたまへなどものせしを、あやしう疎みたまひて、人も心おくめりしを、かかるをりにしもものしたまはむも、心苦しう」などのたまへば、「何かは。心細くとも、しばしはかくておはしましなむ。すこしものの心思《おぼ》し知りなむに渡らせたまはむこそ、よくははべるべけれ」と聞こゆ。

「夜昼《よるひる》恋ひきこえたまふに、はかなきものも聞こしめさず」とて、げにいといたう面痩《おもや》せたまへれど、いとあてにうつくしく、なかなか見えたまふ。「何か、さしも思す。今は世に亡き人の御ことはかひなし。おのれあれば」など語らひきこえたまひて、暮るれば帰らせたまふを、いと心細しと思《おぼ》いて泣いたまへば、宮うち泣きたまひて、「いとかう思ひな入りたまひそ。今日明日《けふあす》渡したてまつらむ」など、かへすがへすこしらへおきて、出でたまひぬ。なごりも慰めがたう泣きゐたまへり。

行く先の身のあらむことなどまでも思し知らず、ただ年ごろたち離るるをりなうまつはしならひて、今は亡き人となりたまひにける、と思すがいみじきに、幼き御心地なれど、胸つとふたがりて、例のやうにも遊びたまはず、昼はさても紛らはしたまふを、夕暮となれば、いみじく屈《く》したまへば、かくてはいかでか過ごしたまはむ、と慰めわびて、乳母も泣きあへり。

現代語訳

あちら(紫の上邸)には、ちょうどその日、父宮がお訪ねになった。ここ数年よりもたいそうひどく荒れており、広く古びた所で、ひどく人気が少なくさびしいので、見渡しなさって、(宮)「このような所には、どうして、しばらくでも幼い人がお過ごしになられようか。やはりあちらの邸へお移し申し上げよう。何の気詰まりするところでもない。乳母は、局などを設けて、お仕えすればよい。姫君(紫の上)は、若い子供たちがいるので、一緒に遊んで、ほんとうに楽しくされるがよい」などとおっしゃる。

父宮は、姫君(紫の上)を近くに呼び寄せ申し上げなさると、あの源氏の君の移り香が、たいそう艷やかに深く染み込んでいらっしゃるので、「よい御匂いであるよ。御召し物はたいそうしなびてしまって」と心苦しげに思っていらっしゃる。

(宮)「長年、あの病気で年を取られた方のそばにいらっしゃったことですよ。あちら(父宮の邸)に移ってお馴染みになってくださいなどと言っていたのを、妙に嫌がられて、私の家内も気兼ねしているようなので、このような時にお移りになるのも気の毒で」などおっしゃると、(少納言)「どうしてお移りになりましょう。心細くても、しばらくはこうしてこの邸にいらっしゃるのがよいでしょう。少しわけがわかるようになってからお移りになるのが、ようございましょう」と申し上げる。

(少納言)「夜昼、亡くなつた尼君を恋い申していらっしゃいますので、ちょっとしたものも召し上がりません」といって、ほんとうに、たいそう酷くお痩せになったが、かえってまこと品があって美しくお見えになる。

(宮)「どうして、そのように思われるのか。今は世に亡き人の御ことはどうにもならない。父である私がいるのだから」など語らい申し上げて、日が暮れるとお帰りになるのを、姫君は、たいそう心細いと思ってお泣きになると、父宮はお泣きになって、「そのようにひどく物思いをなさいますな。今日明日にもこちらの邸に移し申し上げましょう」など、返す返す言いなだめおきて、お帰りになった。父宮が去られた後の姫君の悲しさは紛らわしようがなく、お泣きになる。

姫君(紫の上)は、これから先、わが身がどうなるかということまでもお考えにならず、ただこの数年、尼君が離れる時なくずっとおそばにいてくださったのに、今は亡き人となられたのだ、と思われるのが悲しいので、幼心地ながら、胸がずっとつまって、いつものようにもお遊びにならず、昼はそれでもお紛らわしになるのだが、夕暮れとなれば、たいそうふさぎこんでしまわれるので、このようであればどうしてお過ごしになれようかと慰めようもなく、乳母たちも一緒に泣きあった。

語句

■かしこ 紫の上のいる故按察使の大納言邸。 ■今日しも 源氏の君が紫の上邸に一晩を過ごして帰っていった、ちょうどその日。 ■かしこ 兵部卿宮の邸。 ■曹司 部屋・局。 ■ものしたまひなむ 「ものす」は代動詞。いろいろな動詞を代用する。ここでは「あり」。 ■染みかへらせたまへれば 「かへる」は反復して行うこと。転じて程度がはなはだしいこと。 ■思いたり 「思したり」の音便。 ■あつしく 「あつし」は病弱であること。 ■さだすぎ 「さだ過ぐ」は年老いる。 ■人も心おくめりしを 「人」は兵部卿宮の北の方。 ■かかるをり 祖母である尼君を失った直後に継母の世話になりに行くのはさすがに気の毒だと、兵部卿宮は思っている。 ■何かは 「渡りたまはむ」を下に略。 ■心細くとも… 少納言は本心では紫の上を兵部卿宮に渡したくない。少しでも時期を引き伸ばしたい。 ■なかなか見えたまふ 本来の語順は「なかなか、いとあてに、うつくしく見えたまふ」。

朗読・解説:左大臣光永

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