【若紫 23】源氏、紫の上を二条院に迎える

原文

二条院は近ければ、まだ明《あか》うもならぬほどにおはして、西の対《たい》に御車寄せて下《お》りたまふ。若君をば、いと軽らかにかき抱きて下ろしたまふ。少納言、「なほいと夢の心地しはべるを、いかにしはべるべきことにか」とやすらへば、「そは心ななり。御みづから渡したてまつりつれば、帰りなむとあらば、送りせむかし」とのたまふに、わらひて下りぬ。にはかに、あさましう、胸も静かならず。宮の思しのたまはむこと、いかになりはてたまふべき御ありさまにか、とてもかくても、頼もしき人々に後れたまへるがいみじさ、と思ふに、涙のとまらぬを、さすがにゆゆしければ、念じゐたり。

こなたは住みたまはぬ対なれば、御帳《みちやう》などもなかりけり。惟光召して、御帳御屏風など、あたりあたりしたてさせたまふ。御几帳《みきちやう》の帷子《かたびら》引き下ろし御座《おまし》などただひきつくろふばかりにてあれば、東《ひむがし》の対に、御宿直物《とのゐもの》召しに遣はして、大殿籠《おほとのごも》りぬ。若君は、いとむくつけく、いかにすることならむ、とふるはれたまへど、さすがに声たててもえ泣きたまはず。「少納言がもとに寝む」とのたまふ声いと若し。「いまは、さは大殿籠《おほとのごも》るまじきぞよ」と、教へきこえたまへば、いとわびしくて泣き臥したまへり。乳母《めのと》はうちも臥されず、ものもおぼえず、起きゐたり。

明けゆくままに見わたせば、殿《おとど》の造りざま、しつらひざま、さらにもいはず、庭の砂子《すなご》も玉を重ねたらむやうに見えて、かかやく心地するに、はしたなく思ひゐたれど、こなたには女などもさぶらはざりけり。けうとき客人《まらうと》などの参るをりふしの方なりければ、男どもぞ御簾《みす》の外《と》にありける。かく人迎へたまへり、と聞く人、「誰ならむ。おぼろけにはあらじ」とささめく。

御手水《てうず》御粥《かゆ》など、こなたにまゐる。日高う寝起きたまひて、「人なくてあしかめるを、さるべき人々、夕づけてこそは迎へさせたまはめ」とのたまひて、対《たい》に童《わらは》べ召しに遣はす。「小《ちひ》さきかぎり、ことさらに参れ」とありければ、いとをかしげにて、四人《よたり》参りたり。君は御衣《ぞ》にまとはれて臥したまへるを、せめて起こして、「かう心うくなおはせそ。すずろなる人は、からはありなむや。女は、心やはらかなるなむよき」など、今より教へきこえたまふ。御容貌《かたち》は、さし離れて見しよりも、きよらにて、なつかしらうち語らひつつ、をかしき絵遊び物ども取りに遣はして、見せたてまつり、御心につく事どもをしたまふ。やうやう起きゐて見たまふに、鈍色《にびいろ》のこまやかなるが、うち萎えたるどもを着て、何心なくうち笑みなどしてゐたまへるが、いとうつしきに、我もうち笑まれて見たまふ。

東《ひむがし》の対に送りたまへるに、たち出でて、庭の木立《こだち》、池の方などのぞきたまへば、霜枯れの前栽《せんざい》絵にかけるやうにおもしろくて、見も知らぬ四位五位こきまぜに、隙《ひま》なう出で入りつつ、げにをかしき所かな、と思す。御屏風どもなど、いとをかしき絵を見つつ、慰めておはするもはかなしや。

現代語訳

二条院は近いので、まだ明るくもならない時間にいらして、西の対の屋に御車を寄せてお下りになる。姫君(紫の上)を、たいそう軽々と抱いて下ろしなさる。少納言、「やはりひどく夢のような気持ちがしますのを、どういたすべきことでしょうか」とぐずぐずしていると、(源氏)「それは貴女の心次第でしょうな。姫君の御身をお移し申し上げてしまったので、貴女が帰りますというのであれば、送りましょう」とおっしゃるので、少納言は笑って車を下りた。

急なことで、途方に暮れ、胸もおだやかでない。父宮がどのように思われ、おっしゃるか。姫君は後々どのような御ありさまになってゆかれるのか。とにもかくにも、頼みとする人々に先立たれなさったことの悲しさ、と思うにつけて、涙が止まらないのを、さすがに泣くのは縁起が悪いので、こらえて控えていた。

こちらはふだんお住みでない対屋なので、御帳などもなかった。惟光を召して、御帳や御屏風など、あちこちにこしらえさせなさる。御几帳の帷子を引き下ろし、御座(おまし)などただちょっと整えればよい程度になっているので、東の対屋に、夜具を取りに人を遣わして、源氏の君はお休みになった。

姫君(紫の上)は、たいそう気味が悪く、どうするつもりなのかと、震えておられるが、さすがに声を立ててお泣きになることもできない。(紫の上)「少納言のそばで寝る」とおっしゃる声はたいそう幼い。

(源氏)「いまは、そのようにお休みになるのではございませんよ」と、教え申しなさると、姫君は、たいそうわびしくて泣きながら寝ていらした。乳母は寝ることもできず、ものも考えられず、起きていた。

しだいに夜が明けてくるので辺りを見渡せば、御殿の造りや設備のさまが素晴らしいのは言うまでもなく、庭の砂子も玉を重ねたように見えて、かがやくような風情なので、少納言はきまりが悪く思っているが、こちらの対には女房などもお仕えしていなかった。

まれな客人などが参った時に通されるところであったので、男たちが御簾の外にいた。このように源氏の君が女君をお迎えしたと聞く人は、「誰だろう。並のご寵愛の方ではあるまい」とひそひそ噂している。

お手を洗うための水、お粥などは、こちら(西の対)で召し上がる。源氏の君は日が高くなってからお起きになって、(源氏)「女房がいなくて不便でだろうから、しかるべき女房たちを、夕方になってからお迎えになるとよい」とおっしゃって、東の対に子供たちを呼びに人を遣わす。

「小さい者だけ、とくに参れ」ということだったので、たいそう可愛らしげに、四人の女の子が参った。女君(紫の上)はお召し物にくるまって横になっていらっしゃるのを、無理に起こして、(源氏)「このように残念なふるまいをなさいますな。分別なくいい加減な気持ちの者が、このような心づくしをするものですか。女は素直なのがよいのです」など、今から教え申し上げなさる。

御姿は、離れて見たときよりも、美しげで、源氏の君は、親しく語らいつつ、面白い絵や多くの玩具を取りに人をやって、お見せして、姫君のお気に召すような多くの事をなさる。

姫君はだんだん起き直って源氏の君の持ってこられた絵や玩具をご覧になるが、鈍色の、濃い、よれよれになった喪服を何枚も重ね着して、無心に笑いなどして座っていらっしゃるのが、たいそう可愛らしいので、源氏の君は、ご自分も思わず微笑まれて姫君をご覧になる。

源氏の君が東の対屋にお移りになると、姫君はたち出て、庭の木立、池の方などをおのぞきになると、霜枯れの植込みが絵に描いたようにおもしろくて、見たこともない四位五位の人の着るさまざまな色の衣がまぜこぜになって、ひっきりなしに出たり入ったりして、ほんとうにおもしろい所だな、とお思いになられる。

たくさんの御屏風など、たいそうおもしろい絵を見つつ、心慰められていらっしゃるのも、あどけないことであるよ。

語句

■二条院は近ければ 紫の上邸は六条京極、二条院は二条二坊の「陽成院跡」と比定される。 ■わらひて 源氏のあまりに横柄な態度に、これはどう抵抗してもかなわないと苦笑したものか。 ■宿直物 夜具。 ■むくつけく 「むくつけし」は気味が悪い。 ■けうとき まれな。滅多にない。親しい客人は源氏の住む東の対に通す。 ■手水 手や顔を洗い清めること。またそれに使う水。 ■粥 粥は現在の飯にあたる固粥と現在の粥にあたる汁粥がある。ここでは前者。ご飯。 ■人なくて… お仕えする女房がいなくて。 ■さるべき人々 大納言邸に残っている女房たちのうち、しっかりしたそれなりの女房たち。 ■せめて 「責めて」。無理に。 ■すずろなる人 無分別でいい加減な気持ちの者。 ■女は、心やはらかなるなむよき 源氏の女性観であると同時に当時の貴族男性の一般的な女性観でもあった。 ■四位五位こきまぜに 着用する袍(ほう)の色が、四位は黒、五位は緋色。「こきまぜ」はまぜこぜになっているさま。 ■はかなしや 実家から連れ去られて家族と引き離されたのに、庭の美しさに心を奪われている。そのようすが「はかない」という作者の感想。

朗読・解説:左大臣光永

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