【末摘花 03】源氏、おぼろ月夜に末摘花邸に赴き、琴の音をきく

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原文

のたまひしもしるく、十六夜《いさよひ》の月をかしきほどにおはしたり。「いとかたはらいたきわざかな。物の音《ね》すむべき夜のさまにもはべらざめるに」と聞こゆれど、「なほあなたに渡りて、ただ一声《ひとこゑ》ももよほしきこえよ。空しくて帰らむが、ねたかるべきを」とのたまへば、うちとけたる住み処《か》にすゑたてまつりて、うしろめたうかたじけなしと思へど、寝殿に参りたれば、まだ格子もさながら、梅《むめ》の香をかしきを見出《い》だしてものしたまふ。よきをりかなと思ひて、「御琴《こと》の音《ね》いかにまさりはべらむ、と思ひたまへらるる夜《よ》の気色《けしき》にさそはれはべりてなむ。心あわたたしき出で入りに、えうけたまはらぬこそ口惜しけれ」と言へば、「聞き知る人こそあなれ、ももしきに行きかふ人の聞くばかりやは」とて、召し寄するも、あいなう、いかが聞きたまはむと、胸つぶる。

ほのかに掻き鳴らしたまふ。をかしう聞こゆ。なにばかり深き手ならねど、物の音《ね》がらの筋ことなるものなれば、聞きにくくも思《おぼ》されず。いといたう荒れわたりて、さびしき所に、さばかりの人の、古めかしう、ところせく、かしづきすゑたりけむなごりなく、いかに思《おも》ほし残すことなからむ、かやうの所にこそは、昔物語にもあはれなる事どももありけれなど、思ひつづけても、ものや言ひ寄らましと思《おぼ》せど、うちつけにや思さむと、心恥づかしくて、やすらひたまる。

命婦かどある者にて、いたう耳ならさせたてまつらじと思ひければ、「曇りがちにはべるめり。まらうとの来むとはべりつる、いとひ顔にもこそ。いま心のどかにを。御格子《みかうし》まゐりなむ」とて、いたうもそそのかさで、帰りたれば、「なかなかなるほどにてもやみぬるかな。もの聞き分くほどにもあらで、ねたう」とのたまふ。気色をかしと思したり。「同じくは、けぢかきほどの立ち聞きせさせよ」とのたまへど、心にくくてと思へば、「いでや、いとかすかなるありさまに思ひ消えて、心苦しげにものしたまふめるを、うしろめたきさまにや」と言へば、げにさもあること、にはかに、我も人も、うちとけて語らふべき人の際《きは》は際とこそあれなど、あはれに思さるる人の御ほどなれば、「なほ、さやうの気色をほのめかせ」と語らひたまふ。

また契りたまへる方やあらむ、いと忍びて帰りたまふ。「上《うへ》の、まめにおはしますと、もてなやみきこえさせたまふこそをかしう思うたまへらるるをりをりはべれ。かやうの御やつれ姿を、いかでかは御覧じつけむ」と聞こゆれば、たち返り、うち笑ひて、「こと人の言はむやうに、咎《とが》なあらはされそ。これをあだあだしきふるまひと言はば、女のありさま苦しからむ」とのたまへば、あまり色めいたりと思して、をりをりかうのたまふを、恥づかしと思ひて、ものも言はず。

現代語訳

源氏の君は、おっしゃったとおり、十六夜の月のよい時に常陸宮邸へいらした。

(命婦)「ほんとうに人がどう思われるかばつか悪いことですよ。琴の音色が澄んで聞こえるような夜のようすでもございませんでしょうに」と申し上げるが、(源氏)「やはりあちらに行ってただ一声でもお勧めして弾いていただいてくれ。琴の音を聞かずに空しく帰るのは、いまいましいだろうから」とおっしゃるので、命婦は源氏の君を、とりつくろわない自分の部屋にお通しして、気がかりで畏れ多いと思うが、寝殿に参ったところ、まだ格子も昼のまま上げっぱなしで、梅の香がよいのを姫君は見出して眺めておられる。

命婦は、よい折だと思って、(命婦)「御琴の音がどんなにいつもよりよく聞こえるでしょう、と存ぜられます夜の風情にさそわれまして、参りました。いつもあわただしくこのお邸に出入りするだけで、姫君の御琴の音を拝聴できないのが残念ですよ」と言えば、(姫君)「世の中には琴の音を聞き分ける人がいるというじゃないの。でも、私の琴は、宮中に出入りする人が聞くほどでの音では…」といって、姫君が琴を取り寄せなさるのも、命婦は、ただもう、源氏の君が姫君の琴の音をどう聞かれるだろうと、胸がつまる思いである。

少しかき鳴らされる。源氏の君にはよい音と聞かれた。それほど上手ではないが、もともと琴の音は音色が他とは異なっているので、ひどいとまでは思われない。

たいそうひどく一面に荒れていて、さびしい所に、しかるべき身分の人が、古めかしく、気詰まりなほど、可愛がられていたその名残はなく、どれほど、とことんな物思いをされているだろう、このような所にこそは、昔物語にも風情あることなどが語られていたなどと、源氏の君は思いつづけられるにつけても、言葉をかけて近寄りたいと思われるが、姫君が唐突に思われるだろうかと、気が引けて、ためらっておられる。

命婦は知恵ある者で、あまり源氏の君のお耳をならさせ申し上げまいと思ったので、(命婦)「曇りがちのようでございます。客人が来るということでございました、その客人の来訪を姫君が嫌がって居留守を使ってるように客人から思われるのも困りますから、いずれまた、ゆっくりと…。御格子を下げましょう」といって、それほど事をおすすめもしないで帰ったので、(源氏)「中途半端で止めたものだね。音を聞き分けるほどにも聞けていないので、恨めしいよ」とおっしゃる。源氏の君は姫君の様子にご興味を抱かれた。

「どうせなら、近くで立ち聞きさせろ」とおっしゃるが、命婦は、奥ゆかしい程度で切り上げていただこうと思うので、(命婦)「いかがなものでしょうか。姫君は、たいそう心細いありさまに意気消沈なさって、お気の毒なご様子でいらっしゃるようです。そんな姫君の姿を今、君にご覧いただくのは、(あまりに酷い姫君のご様子でしょうから)私は気がとがめるのですが…」と言えば、源氏の君は、なるほど、それはもっともだ、いきなり最初から、こっちも向こうも、親密に話し合うような人は、それなりに低い身分に限られるなどと思い、しかし姫君は、しみじみといたわしく思われるような高いご身分であるので、(いきなり直接会うというわけにはいかないだろう)(源氏)「ではやはり、私のこうした気持ちを少し伝えておけ」と命婦とお話になる。

ほかにもお約束なさった方があるらしく、源氏の君はたいそうこっそりと帰っていかれる。

(命婦)「帝が、あなたさまのことを、実直でいらっしゃると、ご心配あそばされているのがおかしく思うことが時々ございますね。こんなふうに御身をやつしての忍び通いを、帝はけしてご覧にならないでしょうし」と申し上げると、源氏の君は戻ってきて、微笑んで、(源氏)「ほかの人が言うように、私が好色だとあら捜しをなさいますな。この程度を浮気めいたふるまいと言うなら、貴女の好色さときたら、ひどいものということになりましょうね」とおっしゃると、命婦は、源氏の君が、命婦のことを、色めいているとお思いになって、時々こんなことをおっしゃるのを、恥ずかしいと思って、ものも言わない。

語句

■物の音すむべき 朧月夜は湿気が多いから弦楽器を奏すには向かない。澄んだ音が出るのは乾燥している時。 ■うちとけたる住み処 常陸宮邸内の命婦の部屋。 ■格子もさながら 昼のまま上げたままにして。 ■御琴の音いかに勝りはべらむ 源氏に言ったことと正反対。命婦の口達者な性格が出ている。 ■なむ 下に「参りたりける」などを省略。 ■聞き知る人 いわゆる「伯牙断琴(博雅断琴)」の故事。伯牙の琴の音を聴いて鍾子期は誰よりもその真意を悟った。その鍾子期が死ぬと、伯牙は「知恵者がいなくなった」といって琴の弦を切ってしまった。(列子・湯問)。「琴の音をききしる人のありければ今ぞたちいでて緒をもすぐべき」(古今六帖五)。 ■あいなう 「胸つぶる」に掛かる。「あいなし」はむやみやたらに。わけもなく。ただもう。 ■ももしきに行きかふ人 命婦をさす。「ももしき」は宮中。 ■さばかりの人 常陸宮の娘という、格式高い姫君の境遇をいう。 ■昔物語 『宇津保物語』俊蔭巻や『大和物語』一七三段に、荒れ果てた屋敷にすむお姫様を男が訪ねて恋仲になる話がある。 ■思ほし残すことならかむ これ以上の物思いはできないほど物思いすること。とことんな物思い。 ■なかなかなるほど まったく聞かないなら気にもならないが、ちょっと聞いたのでかえって心残りになるということ。 ■心にくくて 下に「とどめたてまつらむ」などが省略されていると見る。命婦は、これ以上源氏の君が姫君に接近するとまずいと焦っている。「心にくし」は奥ゆかしい。上品だ。 ■うしろめたきさまにや 「うしろめたし」は不安だ。気がとがめる。命婦は、姫君の沈み込んだありさまを源氏の君にご覧に入れるのは、気がとがめる。なぜならお見せできるようなまともな状態ではないからといって、源氏の君に遠慮ねがう。

朗読・解説:左大臣光永

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