【紅葉賀 05】紫の上、源氏を慕う
幼き人は、見ついたまふままに、いとよき心ざま容貌《かたち》にて、何心もなく睦れまとはしきこえたまふ。しばし殿の内の人にも誰と知らせじ、と思して、なほ離れたる対《たい》に、御しつらひ二《に》なくして、我も明け暮れ入りおはして、よろづの御事どもを教へきこえたまひ、手本書きて習はせなどしつつ、ただほかなりける御むすめを迎へたまへらむやうにぞ思したる。政所《まむどころ》家司《けいし》などをはじめ、ことにわかちて、心もとなからず仕うまつらせたまふ。惟光《これみつ》よりほかの人は、おぼつかなくのみ思ひきこえたり。かの父宮も、え知りきこえたまはざりけり。姫君は、なほ時々思ひ出できこえたまふ時、尼君を恋ひきこえたまふをり多かり。君のおはするほどは紛らはしたまふを、夜《よる》などは、時々こそとまりたまへ、ここかしこの御いとまなくて、暮るれば出でたまふを、慕ひきこえたまふをりなどあるを、いとらうたく思ひきこえたまへり。二三日《ふつかみか》内裏《うち》にさぶらひ、大殿《おほとの》にもおはするをりは、いといたく屈しなどしたまへば、心苦しうて、母なき子持たらむ心地して、歩《あり》きも静心《しづごころ》なくおぼえたまふ。僧都は、かくなむと聞きたまひて、あやしきものから、うれしとなむ思はしける。かの御法事などしたまふにも、いかめしうとぶらひきこえたまへり。
現代語訳
幼い姫君(紫の上)は、源氏の君に見馴れなさるにつれて、たいそうよいご気質ご器量で、無心で源氏の君に親しみ申しておそば近くにいらっしゃる。
しばらく邸の内の召使いたちにはこの子を誰とも知らせまいと源氏の君は思われて、やはり離れた対屋に、調度品などをこの上なく立派にお整えになって、ご自身も明け暮れお入りになって、万事ことごとく教え申し上げなさり、手本を書いて習わせなどしつつ、ただ他家にいた御娘をお迎えされたように思っていらっしゃる。
政所《まんどころ》や家司《けいし》などを始め、特別に係の者を姫君のためにつけて、不便がないようにお仕え申し上げさせなさる。
惟光よりほかの人は、わけがわからないとばかり存じ上げている。
あの父宮、兵部卿宮も、このことを耳になさることがおできにならないのであった。
姫君は、やはり時々、昔のことを思い出し申し上げなさる時があるが、尼君を恋い申し上げなさる折が多かった。
源氏の君がいらっしゃる時は、お気を紛らわしになられるものの、夜などは、時々はお泊りになるが、あちこちの御通い所に行かれるのに隙がなくて、日が暮れるとご出発なさるのを、慕い申し上げなさる折などあるのを、源氏の君は、たいそう可愛らしいと存じ上げなさる。
ニ日三日宮中にいらして、左大臣邸にもいらっしゃる折は、姫君(紫の上)はひどくふさぎ込んだりなさるので、源氏の君は心苦しくて、母のない子を持っているようなお気持ちがして、所々へのお通いも落ち着かず、せわしなく思われる。
僧都は、源氏の君と紫の上がこのようであるとお聞きになって、妙な感じではあるが、実にうれしいこと思われた。
亡くなった尼君の御法事などなさるにも、源氏の君は丁重に弔問申し上げなさった。
語句
■政所 貴族の家のことや所領のことを扱う所。家司はその長。 ■かの父宮 紫の上の実父、兵部卿宮。藤壺の兄でもある。