【葵 04】新斎院御禊の日、葵の上、物見に出る

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原文

そのころ、斎院《さいゐん》もおりゐたまひて、后腹《きさきばら》の女三《をむなさん》の宮《みや》ゐたまひぬ。帝《みかど》后《きさき》いとことに思ひきこえたまへる宮なれば、筋異になりたまふをいと苦しう思したれど、他宮《ことみや》たちのさるべきおはせず。儀式《ぎしき》など、常の神事《むむわざ》なれど、厳《いかめ》しうののしる。祭のほど、限りある公事《おほやけごと》に添ふこと多く、見どころこよなし。人柄《ひとがら》と見えたり。御禊《ごけい》の日、上達部《かむだちめ》など数定まりて仕うまつりたまふわざなれど、おぼえことに、容貌《かたち》あるかぎり、下襲《したがさね》の色、表袴《うへのはかま》の紋《もん》、馬《むま》、鞍《くら》までみなととのへたり、とりわきたる宣旨《せんじ》にて、大将《だいしやう》の君も仕うまつりたまふ。かねてより物見車《ものみぐるま》心づかひしけり。一条の大路《おほぢ》所なくむくつけきまで騒ぎたり。所どころの御桟敷《さじき》、心々にし尽くしたるしつらひ、人の袖口《そでぐち》さへいみじき見物《みもの》なり。

大殿には、かやうの御歩《あり》きもをさをさしたまはぬに、御心地さへ悩ましければ、思しかけざりけるを、若き人々、「いでや、おのがどちひき忍びて見はべらむこそはえなかるべけれ。おほよそ人だに、今日の物見《ものみ》には、大将殿《だいしやうどの》をこそは、あやしき山がつさへ見たてまつらんとすなれ。遠き国々より妻子《めこ》をひき具しつつも参《ま》うで来《く》なるを、御覧ぜぬはいとあまりもはべるかな」と言ふを、大宮聞こしめして、「御心地もよろしき隙《ひま》なり。さぶらふ人々もさうざうしげなめり」とて、にはかにめぐらし仰せたまひて見たまふ。

現代語訳

そのころ、賀茂の斎院もお退がりになって、弘徽殿皇太后を母とする女三の宮が次の斎院としてお立ちになった。

父桐壺院も、母弘徽殿皇太后も、たいそう大切に思い申し上げなさっている宮なので、その女三の宮が、このような特殊な立場になられることを、父桐壺院も、母弘徽殿皇太后も、たいそう辛く思われたが、ほかの姫宮にはしかるべきお方がいらっしゃらない。

その儀式など、いつもの神事であるが、盛大に開催される。賀茂祭の時は、いつもの公の行事に加えて行われる儀式が多く、見どころがとても多い。それもこの斎院の人柄のせいと思われた。

御禊の日は、参加する上達部などは数が決まっていて、その人々が斎院にお仕え申し上げなさることになっているが、特に人望があり、容姿にすぐれている方々を選んで、下襲の色、表袴《うえのはかま》の模様、馬、鞍までみな調えている中に、特別の帝の宣旨によって、大将の君(源氏の君)もお仕え申し上げなさる。

それだから、物見車で見物の人々は前々から支度に心づかいをした。

一条大路は車や人でいつぱいになって、恐ろしいくらいに騒がしくなっている。あちこちの御桟敷に、思い思いに趣向をこらした飾りや、桟敷の下から女房の衣の袖口が見えているのまで、たいへんな見ものである。

左大臣家の姫君(葵の上)はこのようなお出かけもめったになさらぬ上に、ご気分までもすぐれなかったので、御禊の日の見物は少しも考えていなかったが、若い女房たちが、「さあどんなものでしょうか、私たちだけでこつそり見物申し上げても、おもしろみがないに違いありませんよ。関係のない普通の人でさえ、今日の物見には、大将殿(源氏の君)こそは、身分の低い木こりまでも拝見しようとしているということですよ。遠い国々から妻子を引き連れて参っているといいますのに、(まして正妻である貴女様が)御覧にならないのは、たいそうあんまりでございましょう」と言うのを、大宮(葵の上の母君)がお耳にして、「ご気分もよい折です。お仕えする人々もものたりなさそうですから」といって、急に仰せをめぐらせなさって物見にお出ましになる。

語句

■斎院 賀茂神社に奉仕する未婚の内親王・女王。伊勢の斎宮に準ずる。弘仁元年(810)嵯峨天皇皇女・有智子(うちこ)内親王がはじまりで後鳥羽上皇皇女・礼子(れいし・いやこ)内親王まで35代続いた。 ■祭 賀茂神社の大祭。祭に供奉する者が冠や車に葵の葉をかざすので葵祭とも。四月中の酉の日。現在の葵祭は毎年五月十五日に行われる。 ■公事に添ふこと多く 今年は賀茂の斎院が改まるため、普段の賀茂祭の神事に加えて、特別な神事がいろいろと行われるのである。 ■御禊の日 斎院が賀茂祭以前に賀茂河原に出て禊を行うこと。その後、紫野の斎院(紫野斎院)に入る。現・櫟谷七紫野神社が紫野斎院跡と伝わる。 ■上達部など数定まりて 『延喜式』に大・中納言各一人、参議二人とある。源氏は「参議二人」のうちの一人だろう。 ■下襲 正装たる束帯において、袍・半臂の下に着る服。 ■表袴 束帯のとき、大口袴の上にはく袴。 ■紋 模様。 ■宣旨 内々の帝のお言葉。 ■物見車 祭を見物する者の車。大路の両側に立てる。 ■おほよそ人  源氏と関係のない一般の人。 ■大宮 葵の上の母。桐壷院の妹宮。

朗読・解説:左大臣光永

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