【葵 08】祭の当日、源氏、紫の上の髪を切りそろえる

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原文

今日は、二条院に離れおはして、祭見に出でたまふ。西の対に渡りたまひて、惟光に車のこと仰せたり。「女房、出でたつや」とのたまひて、姫君のいとうつくしげにつくろひたてておはするをうち笑みて見たてまつりたまふ。「君は、いざたまへ。もろともに見むよ」とて、御髪《みぐし》の常よりもきよらに見ゆるをかき撫でたまひて、「久しう削ぎたまはざめるを、今日はよき日ならむかし」とて、暦《こよみ》の博士《はかせ》召して時刻《とき》問はせなどしたまふほどに、「まづ、女房、出でね」とて、童《わらは》の姿どものをかしげなるを御覧ず。いとらうたげなる髪どもの末《すそ》はなやかに削《そ》ぎわたして、浮紋《うきもん》の表袴《うへのはかま》にかかれるほどけざやかに見ゆ。「君の御髪は我削がむ」とて、「うたて、ところせうもあるかな。いかに生《お》ひやらむとすらむ」と削ぎわづらひたまふ。「いと長き人も、額髪《ひたひがみ》はすこし短うぞあめるを、むげに後《おく》れたる筋のなきや、あまり情《なさけ》なからむ」とて、削ぎはてて、「千尋《ちひろ》」と祝ひきこえたまふを、少納言、あはれにかたじけなしと見たてまつる。

はかりなき千尋の底の海松《みる》ぶさの生ひゆく末は我のみぞ見む

と聞こえたまへば、

千尋ともいかでか知らむさだめなく満ち干る潮《しほ》ののどけからぬに

と物に書きつけておはするさま、らうらうじきものから、若うをかしきを、めでたしと思す。

現代語訳

今日は源氏の君は二条院にお逃れになって、祭を見にお出かけになる。西の対にお渡りになって、惟光に車の用意をお命じになった。

(源氏)「女房たちは祭見に出るのか」とおっしゃって、姫君(紫の上)がたいそう可愛らしく装束などを整えていらっしゃるのを、微笑んで拝見なさる。

(源氏)「姫君(紫の上)は、さあいらっしゃい。一緒に祭を見ましょう」といって、御髪がいつもよりもさっぱりと美しく見えるのをかき撫でなさって、(源氏)「久しく髪をお切り揃えにならないのを、今日は吉い日であろうな」といって、暦の博士を召して、髪を切りそろえるのに適した時刻をお尋ねなどなさっているうちに、(源氏)「まず、女房さんたちが出てきなさい」といって、たくさんかわいらしい童どもの姿を御覧になる。

たいそうかわいらしい感じの豊かな髪のすそを皆、はなやかに切り揃えて、浮紋が表袴《うへのはかま》にたれかかっているあたりがあざやかに見える。

(源氏)「貴女の御髪は私が削ぎましょう」といって、(源氏)「ひどくたくさんあるものだな。これが伸びていったら、末はどんなになるだろう」と、源氏の君は姫君(紫の上)の御髪を切り揃えづらそうにしておられる。

(源氏)「たいそう髪が長い人でも、額髪はすこし短いだろうに、まったくおくれ毛がないのは、あまりに風情がないでしょう」といって、切り揃え終わって、「千尋」と祝い申し上げなさるのを、少納言は、情深くもったいないことと拝見する。

(源氏)はかりなき…

(はかりしれないほど深い千尋の海底に群生する海藻のような貴女の髪の毛。それがのびていく末は、私だけが見るとしましょう)

と申し上げなさると、

(紫の上)千尋とも…

(千尋の海の底に群生した海藻の行く末を見るといっても、どうやってそれを知るのです。潮の満ち干が不定期であるように、貴方は落ち着いていらっしゃらないのに)

と何かに書きつけていらっしゃる様子は、才気ばしっているが、同時に若く風情があるのを、源氏の君はすばらしいとお思いになる。

語句

■離れおはして 源氏はなにかと面倒な六条御息所や葵の上に距離を置いて、心休まる紫の上のいる二条院に逃れた。 ■女房、出でたつや 紫の上つきの女童たちを、戯れに「女房」と呼んだもの。 ■よき日 髪を削ぐのに吉日。 ■まづ、女房、出でね 紫の上つきの女童たちに、ややおどけて呼びかけたもの。 ■暦の博士 陰陽寮の職員。暦を作り吉凶を見る。 ■浮紋 模様が立体的に浮き上がるように縫ったもの。 ■表袴 うへのはかま。打袴の上にはく袴。晴れの時にはく。 ■額髪 額の左右から流れて両耳よりも前にたれる髪の毛。  ■むげに まったく・全然~ない。  ■遅れたる筋 後れ毛。女性が髪を束ねたときに、耳横などに残ってたれた短い髪。紫の上は後れ毛が少なく、額から後ろ髪までまっすぐ伸びている髪型らしい。 ■千尋 「尋」は両手を広げた時の左右の指先間の長さ。千尋は非常に長い、または深いこと。源氏は紫の上の髪の毛が千尋ものびるように祈った。 ■少納言 紫の上つきの乳母。 ■海松ぶさ 海藻が群生しているさま。美しい髪の毛をたとえる。

朗読・解説:左大臣光永

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