【葵 09】源氏、源典侍と歌の応酬

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原文

今日も所もなく立ちにけり。馬場殿《むまばのおとど》のほどに立てわづらひて、「上達部《かむだちめ》の車ども多くて、もの騒がしげなるわたりかな」とやすらひたまふに、よろしき女車《おむなぐるま》のいたう乗りこぼれたるより、扇をさし出でて人を招き寄せて、「ここにやは立たせたまはぬ。所避《ところさ》りきこえむ」と聞こえたり。いかなるすき者ならむ、と思《おぼ》されて、所もげによきわたりなれば、ひき寄せさせたまひて、「いかで得たまへる所ぞと、ねたさになん」とのたまへば、よしある扇の端《つま》を折りて、

「はかなしや人のかざせるあふひゆゑ神のゆるしのけふを待ちける。

注連《しめ》の内には」とある手を思し出づれば、かの典侍《ないしのすけ》なりけり。「あさましう、古《ふ》りがたくも今めくかな」と憎さに、はしたなう、

かざしける心ぞあだに思ほゆる八十氏人《やそうぢびと》になべてあふひを

女はつらしと思ひきこえけり。

くやしくもかざしけるかな名のみして人だのめなる草葉ばかりを

と聞こゆ。人とあひ乗りて簾《すだれ》をだに上げたまはぬを、心やましう思ふ人多かり。「一日《ひとひ》の御ありさまのうるはしかりしに、今日うち乱れて歩《あり》きたまふかし。誰《たれ》ならむ、乗り並ぶ人けしうはあらじはや」と推《お》しはかりきこゆ。「いどましからぬかざし争ひかな」とさうざうしく思せど、かやうにいと面《おも》なからぬ人、はた人あひ乗りたまへるにつつまれて、はかなき御いらへも心やすく聞こえんもまばゆしかし。

現代語訳

今日も祭見物の車が隙間もなく立っているのだった。馬場殿《むまばのとど》のあたりになかなか車を立てられず、(源氏)「上達部の車どもが多くて、なんとなくざわついた所だな」と、ためらっておられると、悪くはない女車の、たいそうこぼれるほど人が乗っているのから、扇をさし出して源氏の君の供人の一人を招き寄せて、「ここに車をお立てください。場所をあけてさしあげましょう」と申し上げた。

どんな物好きだと、源氏の君はお思いになって、しかし場所も実際、よい方面なので、車をそっちのほうに引き寄せさせなさって、(源氏)「どうやってこんないい場所をお取りになったのかと、うらやましくて…」とおっしやると、風情ある扇の端を折って、

(源典侍)「はかなしや…

(はかないことですよ。すでに他の女性と逢ってしまった貴方ですのに、そんな貴方と逢いたい一心で、私は賀茂の神様が男女の逢瀬をお許しになる、今日この日、葵(逢ふ日)祭の日を待っていたのです)

しめ縄の内側には入れないのですね」と書いてある手跡を思い出しなさると、あの典侍であったのだ。

「呆れたことだ。年甲斐もなく若い者のようなことをして」と源氏の君は見苦しく思って、そっけなく、

(源氏)かざしける…

(貴女が葵をかざしたその御心は、いい加減なものに思われますよ。今日は誰彼かまわず逢う日ですからね)

すると女(源典侍)は、ひどいと思って申し上げるのだった。

(源典侍)くやしくも…

(つまらなくも葵の葉をかざしたものですよ。逢ふ日=葵とは名ばかりで、人に空頼みをさせるただの草の葉にすぎないのに)

と申し上げる。

源氏の君が誰かと相乗りをして簾をさえお上げにならないのを、心おだやかでなく思う人が多いのだ。「先日の御禊の日の源氏の君の御ようすはきちんとしておられたのに、今日はくつろいでお出かけなさっていることですよ。誰でしょう、並んで乗っている人は変な人ではないでしょうね」と推測して取り沙汰申し上げる。

源氏の君は「張り合いのないかざし争いであるよ」と物足りなく思われるが、この源典侍くらい厚かましくない人は、どなたかがいっしょに車にお乗りになっているのに遠慮して、ちょっとしたご返事も気軽に申し上げることも気後れするにちがいないのだ。

語句

■今日 賀茂祭(葵祭)の当日。 ■馬場殿 むまばのおとど。左近衛の馬場・右近衛の馬場の殿舎。5月5日の騎射(賀茂の競馬)のとき、近衛中将・少将が着座する。左近衛馬場は一条西洞院。右近衛馬場は一条大宮にあった。 ■扇の端 檜扇の先端の部分。 ■はかなしや… あふひ 「葵」と「逢ふ日」を掛ける。さらに「葵」は源氏をさす。「葵をかざす」は男女が逢うこと。「人のかざせる葵」は他の人(紫の上)が逢ってしまった貴方=源氏。 ■古りがたくも 源典侍は「五十七八の人」とあった(【紅葉賀 15】)。ここでは六十歳か六十一歳。 ■かざしける… 「かざしける心」は源典侍の心とする説と源氏の心とする説がある。「八十氏人」はさまざまな氏族の人。見境なくさまざまな人と…の意。 ■くやしくも… 「葵」=「逢ふ日」はその名からして、いかにも男女の仲を取り持ってくれそうに期待させるが、実際には取り持ってくれない。期待倒れに終わる。そのことを戯れによんだ歌。 ■いどましからぬかざし争ひ 張り合いのない葵を「かざす」ことについての論争だよ。なにしろ相手が源典侍では。

朗読・解説:左大臣光永

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