【葵 11】懐妊中の葵の上、物の怪に悩まされる

大殿《おほとの》には、御物《もの》の怪《け》めきていたうわづらひたまへば、誰も誰も思し嘆くに、御歩《あり》きなど便《びん》なきころなれば、二条院にも時々ぞ渡りたまふ。さはいへど、やむごとなき方はことに思ひきこえたまへる人の、めづらしきことさへ添ひたまへる御悩みなれば、心苦しう思し嘆きて、御修法《みずほふ》や何やなど、わが御方にて多く行はせたまふ。物の怪、生霊《いきすだま》などいふもの多く出で来てさまざまの名のりする中に、人にさらに移らず、ただみづからの御身につと添ひたるさまにて、ことにおどろおどろしうわづらはしきこゆることもなけれど、また片時離るるをりもなきもの一つあり。いみじき験者《げんざ》どもにも従はず、執念《しふね》きけしきおぼろけのものにあらずと見えたり。大将《だいしやう》の君の御通ひ所ここかしこと思しあつるに、「この御息所、二条の君などばかりこそは、おしなべてのさまには思したらざめれば、怨みの心も深からめ」とささめきて、ものなど問はせたまへど、さして聞こえあつることもなし。物の怪とても、わざと深き御敵《かたち》と聞こゆるもなし。過ぎにける御乳母《めのと》だつ人、もしは親の御方につけつつ伝はりたるものの、弱目《よわめ》に出で来たるなど、むねむねしからずぞ乱れ現はるる。ただ、つくづくと音《ね》をのみ泣きたまひて、をりをりは胸をせき上げつついみじうたヘがたげにまどふわざをしたまへば、いかにおはすべきにかと、ゆゆしう悲しく思しあわてたり。

院よりも御とぶらひ隙《ひま》なく、御祈禱《いのり》のことまで思し寄らせたまふさまのかたじけなきにつけても、いとど惜しげなる人の御身なり。世の中あまねく惜しみきこゆるを聞きたまふにも、御息所はただならず思さる。年ごろはいとかくしもあらざりし御いどみ心を、はかなかりし所の車争ひに人の御心の動きにけるを、かの殿には、さまでも思し寄らざりけり。

現代語訳

左大臣家では、姫君(葵の上)が、御物の怪のせいと見えてひどくお患いになるので、誰も誰も思い嘆いているところ、源氏の君も、夜毎のお出かけなども具合が悪いときなので、二条院にも時々しかいらっしゃらない。

夫婦仲が悪いとはいっても、大切にするという意味では格別に思い申し上げている人に、めずらしいこと(懐妊)まで加わっているお悩みであるので、源氏の君は、心苦しく思い嘆かれて、ご祈祷や何やと、ご自分のほうでいろいろと行わせなさる。

物の怪、生霊などいうものが多く出てきて、さまざまの名乗りをする中に、憑坐《よりまし》にも全く乗り移らず、ただ姫君ご自身の御身にぴったりと寄り添っているようすで、別段恐ろしくわずらわし申し上げることはないが、また片時も離れる時もないものが一つある。

霊験あらたかな修験者どもにも従わず、執念ぶかいようすは、尋常のものではないと見える。

大将の君(源氏の君)のお通い所をここかあそこかと思い当ててみると、「この御息所と、二条の君などだけは、源氏の君が並々でなく思っていらっしゃるようなので、姫君(葵の上)に対する恨みの心も深いのでしょう」とささきあって、占わせなどなさるが、物の怪の正体は誰それだと言い当て申すこともない。

物の怪といっても、姫君(葵の上)にはとくに深い御敵と申す人もいない。亡くなった御乳母めいた人、もしくは親の御方に代々つきまとつているもので、姫君の弱り目に出てきたのなど、主な物の怪ではなく、ばらばらに現れる。

姫君(葵の上)はいつまでも、声を立てて泣いてばかりいらして、時々は胸をつまらせてはたいそう堪えがたそうにもだえさわぐことをなさるので、周囲の者は、どういうことになられるのかと、不吉に思ったり、悲しく思ったりして、うろたえている。

桐壺院からも御見舞いが絶え間なく届いて、ご祈祷のことまでお心づかいあそばされるようすの畏れ多いのにつけても、いよいよ惜しく思われる、姫君の御身である。

世間の誰もが惜しみ申し上げているのをお聞きになるにつけても、御息所は平静なお気持ちではいらっしゃられない。

ここ数年はそれほどでもなかった葵の上に対するご競争心を、たわいもない車争いによって、御息所のお心が動揺したことを、左大臣家では、そこまでとはお気づきにならなかったのである。

語句

■生霊 いきすだま。生きている人間の例が物の怪となってあらわれるもの。 ■名乗り 加持祈祷によって憑坐に取り付いた物の怪が、憑坐の口を通じて名乗りをするの。 ■人にさらに移らず ここで「人」は憑坐のこと。憑坐とは物の怪がこの世と交信するための媒となる人間。物の怪を憑坐にとりつかせて、加持祈祷によって退散させるのである。 ■験者 修験者。密教の修法を使って物の怪を憑坐に移らせ、退散させる。 ■二条の君 「二条の君」は紫の上のことだが、世間には源氏の熱心な想い人とだけしか知られていない。紫の上が幼い少女だと知る者は一部しかいない。 ■怨みの心 葵の上に対する怨み。 ■さして聞こえあつる 「さして」は「指して」。物の怪の正体は誰それだと言い当て申すこと。 ■むねむねしからず 「宗々し」はしっかりしている。 ■つくづくと いつまでも。絶えることなく同じ状態がつづくこと。 ■ただならず思さる 世の中が皆、葵の上を大切に思う一方、自分のことを見下しバカにしているように思えるので、御息所は平静な気持ちでいられないのである。 ■

朗読・解説:左大臣光永

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