【葵 15】葵の上、出産 六条御息所の苦悩

原文

すこし御声も静まりたまへれば、隙《ひま》おはするにやとて、宮の御湯持《も》て寄せたまへるに、かき起こされたまひて、ほどなく生まれたまひぬ。うれしと思すこと限りなきに、人に駆り移したまヘる御物の怪どもねたがりまどふけはひいともの騒がしうて、後《のち》のことまたいと心もとなし。言ふ限りなき願《がん》ども立てさせたまふけにや、たひらかに事なりはてぬれば、山の座主《ざす》、何くれやむごとなき僧ども、したり顔に汗おし拭《のご》ひつつ急ぎまかでぬ。多くの人の心を尽くしつる日ごろのなごりすこしうちやすみて、今はさりともと思す。御修法《みずほふ》などは、またまた始め添へさせたまへど、まづは興あり、めづらしき御かしづきに、皆人ゆるべり。院をはじめたてまつりて、親王《みこ》たち、上達部《かむだちめ》残るなき産養《うぶやしなひ》どものめづらかに厳《いかめ》しきを、夜ごとに見ののしる。男《おとこ》にてさへおはすれば、そのほどの作法にぎははしくめでたし。

かの御息所は、かかる御ありさまを聞きたまひても、ただならず。かねてはいとあやふく聞こえしを、たひらかにもはた、とうち思しけり。あやしう、我にもあらぬ御心地を思しつづくるに、御衣《ぞ》などもただ芥子《けし》の香《か》にしみかへりたる、あやしさに、御ゆする参り、御衣《ぞ》着かへなどしたまひて試みたまへど、なほ同じやうにのみあれば、わが身ながらだにうとましう思さるるに、まして人の言ひ思はむことなど、人にのたまふベきことならねば、心ひとつに思し嘆くに、いとど御心変りもまさりゆく。大将殿は、心地すこしのどめたまひて、あさましかりしほどの問はず語りも心うく思し出でられつつ、いとほど経《へ》にけるも心苦しう、またけ近う見たてまつらむには、いかにぞや、うたておぼゆべきを、人の御ためいとほしうよろづに思して、御文ばかりぞありける。

いたうわづらひたまひし人の、御なごりゆゆしう、心ゆるびなげに誰《たれ》も思したれば、ことわりにて御歩《あり》きもなし。なほいと悩ましげにのみしたまへば、例のさまにてもまだ対面《たいめん》したまはず。若君のいとゆゆしきまで見えたまふ御ありさまを、今からいとさまことにもてかしづききこえたまふさまおろかならず、事あひたる心地して、大臣《おとど》もうれしういみじと思ひきこえたまへるに、ただこの御心地おこたりはてたまはぬを心もとなく思せど、さばかりいみじかりしなごりにこそはと思して、いかでかはさのみは心をもまどはしたまはん。

現代語訳

すこし御声もお静まりになったので、症状が一時よくなられたのだろうかと、母宮が御薬湯をおそばにお持ちになったので、姫君は女房たちにゆり起こされなさって、ほどなく御子がお生まれになった。

うれしいと思われることは限りがないが、憑坐に乗り移らせなさっていた御物の怪どもがお産を妬んで大騒ぎするようすが、ひどく騒がしいので、産後のこともまた、ひどく心配である。

言っても際限のないほどの多くの願をお立てになったせいだろうか、無事にお産の事が終わったので、比叡山の座主とか、誰彼といった高貴な僧たちは、得意顔で汗をぬぐいつつ急いで退出した。

多くの人が心を尽くしたここ数日の名残はすこし休まって、今はまさかお命の危険まではと人々はお思いになる。

御修法などは、新しいのを加えて始めさせなるが、さしあたっては喜ばしく、めづらしい御子のお世話に、皆人は気をゆるめている。

院をはじめ、親王たち、上達部から残りなく贈られてくるいろいろな産養のめずらしく立派であることを、お祝いの夜ごとに見て大騒ぎする。しかも男子であられるので、その間の作法はにぎやかで立派なものである。

あの御息所は、このような御ようすをお聞きになるにつけても、心穏やかでない。

一時はたいそう危ないという噂だったのに、よくもまあ無事に生みおおせたことと、思われていた。

不思議なことに、自分が自分でないような御気持ちを思いたぐってみると、お召し物などもすっかり芥子の香がしみこんでいる。

不思議に思い、御髪を洗い、お召し物を着替えなどなさってお試しになるが、やはり同じように臭いがまるで消えないので、わが身のこととしてさえ不気味に思われるのに、まして他人がどのように言い、思うだろうかと、人に言うようなことではないので、心ひとつに思い嘆くにつけて、ご狂気の度合いもひどく増していかれる。

大将殿(源氏の君)は、気持ちをすこしお静めになって、あの時のあまりに意外な問わず語りも嫌なことに思い出されつつ、御息所のもとに長くご無沙汰しているのも心苦しいが、そうはいっても親しく拝見するには、それもどうだろうか、その時は嫌に思うに違いないので、御息所のために気の毒に万事思われて、御便りだけを送っておられた。

ひどくおわずらいになっている御方(葵の上)の、予後が心配で、油断できない様子と誰もが思っているので、源氏の君も当然のこととして御忍び歩きもされない。

姫君(葵の上)がやはりたいそう具合が悪そうにばかりなさっているので、いつものようすで対面することもなさらない。

若君(夕霧)がたいそう不吉なまでに可愛らしくお見えになるご様子を、生まれたばかりの今から格別に、大切にお世話し申し上げるようすは、並々でない。すべて順調に進んでいる気持ちがして、左大臣もうれしく素晴らしいことに思い申し上げなさるにつけて、ただ姫君のご気分が完全に回復なさらないのを心配に思われるが、あれだけ酷かった病の名残だろうとお思いになって、そこまでご心配なさることはなかったのである。

語句

■すこし御声も 物の怪としての声。 ■宮 葵の上の母宮。 ■生まれたまひぬ 源氏の長男。夕霧と後に名付ける。 ■言ふ限りなき願ども 言っても際限がないほどの多くの願。 ■けにや 「故にや」。~のためだろうか。 ■したり顔に 自分たちの行った加持調伏によってお産が無事に終わったという意味で得意顔なのである。 ■芥子の香 物の怪調伏のために炊く護摩の煙に芥子の香がふくまれているのである。それを生霊としてあらわれた御息所はまともにかぶったのである。 ■ゆする参り 髪を洗うこと。「ゆする」は髪を洗うための台。 ■御心変り 異常な心理。狂気。 ■のどめたまひて 「のどむ」は冷静になる。気持ちを静める。 ■御文ばかりを 直接会いに行くのはばつが悪い。かといって御息所のことは心配ではあるので、せめて文だけは送っていたのである。 ■おこたりはてたまはぬ 「おこたる」は病気が回復する。病気が完全には回復されない。

朗読・解説:左大臣光永