【葵 22】源氏と左大臣家の女房たち、別れを悲しみあう

原文

暮れはてぬれば、御殿油《おほんとなぶら》近くまゐらせたまひて、さるべきかぎりの人々、御前《おまへ》にて物語などせさせたまふ。中納言の君といふは、年ごろ忍び思ししかど、この御思ひのほどは、なかなかさやうなる筋にもかけたまはず。あはれなる御心かなと見たてまつる。おほかたには、なつかしううち語らひたまひて、「かう、この日ごろ、ありしよりけに誰《たれ》も誰も紛るる方《かた》なく見なれ見なれて、えしも常にかからずは、恋しからじや。いみじきことをばさるものにて、ただうち思ひめぐらすこそたヘがたきこと多かりけれ」とのたまへば、いとどみな泣きて、「言ふかひなき御ことは、ただかきくらす心地しはべるはさるものにて、なごりなきさまにあくがれはてさせたまはむほど思ひたまふるこそ」と聞こえもやらず。あはれ、と見わたしたまひて、「なごりなくはいかがは。心浅くも取りなしたまふかな。心長き人だにあらば、見はてたまひなむものを。命こそはかなけれ」とて、灯《ひ》をうちながめたまへるまみのうち濡れたまへるほどぞめでたき。

とり分きてらうたくしたまひし小さき童《わらは》の、親どももなくいと心細げに思へる、ことわりに見たまひて、「あてきは、今は我をこそは思ふべき人なめれ」とのたまへば、いみじう泣く。ほどなき衵《あこめ》、人よりは黒う染めて、黒き汗杉《かざみ》、萱草《くわんざう》の袴《はかま》など着たるも、をかしき姿なり。「昔を忘れざらむ人は、つれづれを忍びても、幼き人を見棄てずものしたまへ。見し世のなごりなく、人々さへ離《か》れなば、たづきなさもまさりぬべくなむ」など、みな心長かるべきことどもをのたまへど、「いでや、いとど待遠《まちどほ》にぞなりたまはむ」と思ふに、いとど心細し。大殿は、人々に、際《きは》々、ほどをおきつつ、はかなきもて遊び物ども、またまことにかの御形見《かたみ》なるべき物など、わざとならぬさまに取りなしつつ、みな配らせたまひけり。

現代語訳

日がすっかり暮れてしまったので、源氏の君は、御灯火を近くにとせなさって、しかるべき立場の女房たちだけを御前においてお語などおさせになる。

中納言の君という女房は、長年のご寵愛であったが、今の御悲しみに暮れるべき時期は、かえってそのような色めいた筋のことを口にされない。中納言は源氏の君のそのような御心を、情の深いことよと拝見する。

大方は、親しくお語らいになって、(源氏)「こうして、ここ数日は、以前にもまして、誰も彼も気兼ねせずすっかり馴染みになって、今後、いつもこのようにしていられなくなった場合には、さぞ恋しいだろうね。妻が亡くなった悲しみは、それはそれとしてあるのだが、ただあれこれ考えていると、耐え難いことが多いのだよ」とおっしゃると、ひどく皆泣いて、「言っても仕方ないこと(葵の上が亡くなったこと)は、ただ目の前が真っ暗になる気持ちがします。それはそれとして、当家との縁が切れたさまで、貴方さまがすっかりいなくいなくなってしまわれる時を思いますと」と最後まで申し上げることもできない。しみじみと情深く源氏の君は女房たちをお見渡しになって、(源氏)「縁が切れて、私がすっかりいなくなるなんて、どうしてそんなことがあるものかね。私を薄情者と御覧になったものだね。気長に私を見てくれる人さえいれば、いつかはわかってくださるだろうのに。しかし命ははかないものよ」といって、燈火を御覧になっている御目元のうちが涙に濡れていらっしゃるようすが美しい。

女君(葵の上)が格別に可愛がっていらした幼い女童が、両親もなくたいそう心細そうに思っている、源氏はそのように心細くしているのも無理はないと御覧になって、(源氏)「お前は、これからは私を頼りにしなくてはならないよ」とおっしゃると、女童はひどく泣く。

小さな衵《あこめ》を、人より黒く染めて、黒い汗袗《かざみ》、萱草《かんぞう》の袴など着ているのも、美しい姿である。

(源氏)「昔を忘れない人は、所在なさを我慢しても、この幼い人(夕霧)を見捨てずにお仕えください。生前の名残もなく、女房たちまで離れてしまったら、つながりがいよいよ弱まるだろうからね」など、みないつまでも変わらぬ気持ちでいてほしいことなどをおっしゃるが、(女房たち)「さあどうでしょう。たいそう訪れも稀になられるのではないか」と思うにつけ、ひどく心細い。左大臣は、女房たちに、身分や関係のていどに応じて、ちょっとしたもて遊び物や、またほんとうに故人の御形見となるような物など、仰々しくないように計らっては、皆にお配りになるのであった。

語句

■御燈油 貴人が使う油の燈火。 ■中納言の君 葵の上つきの女房。源氏の愛人。 ■この御思ひのほど 葵の上の喪中。 ■おほかたには 一般的な話としては。中納言との関係はともかく、そういう関係にない女房たちに、差し障りのない世間話ていどの話においては、といったニュアンス。 ■この日ごろ 葵の上が亡くなって後の数日。 ■ありしよりけに 「ありし」は葵の上が生存中。 ■「紛るる方なく」 「紛るる」は、正妻の葵の上がいるのではばかりがあること。 ■見なれ見なれて すっかり馴染みになること。ねんごろな関係になること。 ■えしも常にかからず 「え~ず」で「~できない」。「しも」は強調。「かかる」はこのように。女房たちと親密につきあうこと。 ■うち思ひめぐらすこそ 葵の上の死によって源氏は、人生や、人間関係、幸福などについてさまざまに思い巡らせたのであろう。 ■なごりなきさまに 葵の上が亡くなって左大臣家との縁が切れるので、訪れが少なくなることをいう。 ■思ひたまふるこそ 後に「悲しけれ」などが省略されている。 ■なごりなくはいかがは 後に「あくがれはてん」などが省略されている。 ■あてき 女童への呼びかけ。 ■衵 女房装束の中着。童女が平素着る。 ■汗袗 童女の着る表着。 ■萱草 黒みを帯びた黄色。柑子色。 ■昔を忘れざらむ人は 「昔」は葵の上が生きていたころ。 ■幼き人 源氏の子・夕霧。 ■待遠 葵の上が亡くなったことによって源氏は左大臣家との縁が切れてしまって、訪れも稀になるだろうこと。 ■際々 身分や関係性によって。

朗読・解説:左大臣光永