【葵 26】源氏、紫の上の成長した姿に見とれる

原文

二条院には、方々払《はら》い磨《みが》きて、男女《をとこをむな》待ちきこえたり。上臈《じやうらふ》どもみな参《ま》う上《のぼ》りて、我も我もと装束《そうぞ》き化粧《けさう》じたるを見るにつけても、かのゐ並《な》み屈《くむ》じたりつる気色《けしき》どもぞあはれに思ひ出でられたまふ。御装束奉りかへて西の対に渡りたまへり。更衣《ころもがへ》の御しつらひ曇りなくあざやかに見えて、よき若人《わかうど》、童《わらは》べのなり、姿めやすくととのへて、少納言がもてなし心もとなきところなう、心にくしと見たまふ。

姫君、いとうつくしうひきつくろひておはす。「久しかりつるほどに、いとこよなうこそ大人びたまひにけれ」とて、小《ちひ》さき御几帳《みきちやう》ひき上げて見たてまつりたまへば、うち側《そば》みて恥ぢらひたまへる御さま飽かぬところなし。灯影《ほかげ》の御かたはら目、頭《かしら》つきなど、ただかの心尽くしきこゆる人に違《たが》ふところなくもなりゆくかな、と見たまふにいとうれし。近く寄りたまひて、おぼつかなかりつるほどのことどもなど聞こえたまひて、「日ごろの物語のどかに聞こえまほしけれど、いまいましうおぼえはべれば、しばし他方《ことかた》にやすらひて参り来む。今はと絶えなく見たてまつるべければ、厭《いと》はしうさへや思されむ」と語らひきこえたまふを、少納言はうれしと聞くものから、なほあやふく思ひきこゆ。やむごとなき忍び所多うかかづらひたまへれば、またわづらはしきや立ちかはりたまはむと思ふぞ、憎き心なるや。

御方に渡りたまひて、中将の君といふに、御足などまゐりて、大殿籠《おほとのごも》りぬ。あしたには、若君の御もとに御文奉りたまふ。あはれなる御返りを見たまふにも、尽きせぬことどものみなむ。

現代語訳

二条院には、あちこち払い磨いて、男も女も源氏の君をお待ち申し上げていた。

身分の高い女房たちがみな参上して、我も我もと着飾り身づくろいしているのを御覧になるにつけても、あの皆で沈み込んでいた左大臣家のようすが、しみじみと思い出される。

源氏の君は御装束をお召しかえになって、西の対にお渡りになる。衣更えしたお部屋の飾りつけが曇りなくあざやかに見えて、美しい若女房、女童《めのわらわ》の身なり、姿も見苦しくなくととのえて、少納言の心配りは足りないところがなく、奥ゆかしいと源氏の君は御覧になる。

姫君(紫の上)は、たいそう可愛らしく身づくろいしていらっしゃる。(源氏)「久しく見ないうちに、まことによく大人びられたことだね」といって、小さい御几帳をひき上げて御覧になられると、目をそらして、お恥じらいになるご様子は、飽きるところがないほどすばらしい。

火影の御横顔、髪の形など、まったくあの心底からお慕い申し上げているお方(藤壺宮)とそっくりになっていくものだな、と御覧になるにつけても、源氏の君はとてもうれしく思われる。

近くにお寄りになって、逢えないで気がかりだった時期のいろいろなことなど申し上げなさって、(源氏)「ここ最近の物語をのんびりお話申し上げたいのですが、不吉に思えますので、しばらく別の所に休んでから参り来ましょう。今はこれまでとちがって、いつも貴女を拝見することになるでしょうから、うるさいとさえ思われるでしょう」とお話申し上げなさるのを、少納言はうれしく聞くのだが、やはり不安にも存じ上げる。こっそりお通いになっていらっしゃる高貴な方々が多くいらっしゃるのだから、また気を遣はねばならないようなことが、立ちかわって出てこられるのではないかと思うのは、憎い気の回しようであるよ。

源氏の君はご自分のお部屋においでになって、中将の君という女房に、おみ足などもませなさって、お休みになった。

翌朝は、若君(夕霧)のいらっしゃる左大臣邸へお手紙を差し上げなさる。しみじみとした御返事を御覧になるにつけても、悲しみ尽きないことばかりである。

語句

■かのゐ並み屈じたりつる… 華やかな二条院のようすに比べて、これまでいた左大臣家の暗く沈み込んだようすが対照的に思い出されるのである。 ■少納言 紫の上の乳母。 ■久しかりつるほど 源氏は葵の上の没後のことで忙しく、二条院に二ヶ月ほど訪れていない。そこで紫の上の成長した姿をみて、いよいよ目を見張るのである。 ■うち側みて 恥ずかしがって視線をそらす動作。 ■御かたはら目 御横顔。 ■かの心尽くしきこゆる人 藤壺宮。紫の上は藤壺宮の姪に当たるので容姿が似ている。容姿だけでなく、紫の上を藤壺宮のごとく育てることが源氏の願いである。 ■おぼつかなかりつるほど 紫の上と逢えずに気がかりだったここ二ヶ月間。 ■他方 別の部屋。 ■いまいましうおぼえはべれば 喪に服していた時期なので。その時期について話すことが不吉に思えるのである。 ■あやふく 葵の上のかわりの女性があらわれて、紫の上がないがしろになるのではないかと不安になるのである。 ■かかづらひ 「かかづらふ」は関わり合うこと。ここでは源氏が女の宿所に通うこと。 ■またわづらはしきや立ちかはりたまはむ 葵の上にかわって正妻となるような女性があらわれて、その女性に気を遣わなければならなくなるのではないかと心配している。 ■憎き心なるや 少納言の気がまわりすぎることを「憎し」と見た、作者の感想。 ■中将の君 源氏つきの女房。 ■御足などまゐり 「足まゐる」は、貴人が足をもませること。 ■すさびて 足をもまれて、その気持ちよさにうっとりしている様子。 ■若君 夕霧は左大臣邸の大宮のもとにあずけてある。 ■あはれなる御返り 左大臣か大宮からの返事。

朗読・解説:左大臣光永