【葵 27】源氏、紫の上と契る

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原文

いとつれづれにながめがちなれど、何となとき御歩《あり》きもものうく思しなられて思しも立たれず。姫君の何ごともあらまほしうととのひはてて、いとめでたうのみ見えたまふを、似げなからぬほどにはた見なしたまへれば、けしきばみたることなど、をりをり聞こえ試みたまへど、見も知りたまはぬ気色《けしき》なり。

つれづれなるままに、ただこなたにて碁打ち、偏つぎなどしつつ日を暮らしたまふに、心ばへのらうらうじく愛敬《あいぎやう》づき、はかなき戯《たはぶ》れごとの中にもうつくしき筋をし出でたまへば、思し放ちたる年月こそ、たださる方のらうたさのみはありつれ、忍びがたくなりて、心苦しけれど、いかがありけむ、人のけぢめ見たてまつり分くべき御仲にもあらぬに、男君はとく起きたまひて、女君はさらに起きたまはぬあしたあり。人人、「いかなればかくおはしますならむ。御心地の例ならず思さるるにや」と見たてまつり嘆くに、君は渡りたまふとて、御硯の箱を御帳《ちやう》の内にさし入れておはしにけり。人間《ひとま》に、からうじて頭《かしら》もたげたまへるに、ひき結びたる文御枕のもとにあり。何心もなくひき開けて見たまへば、

あやなくも隔てけるかな夜を重ねさすがに馴れしよるの衣を

と書きすさびたまへるやうなり。かかる御心おはすらむとはかけても思し寄らざりしかば、などてかう心うかりける御心をうらなく頼もしきものに思ひきこえけむ、とあさましう思さる。

昼つ方渡りたまひて、「悩ましげにしたまふらむはいかなる御心地ぞ。今日は碁も打たでさうざうしや」とてのぞきたまへば、いよいよ御衣《ぞ》ひき被《かづ》きて臥したまへり。人々は退《しりぞ》きつつさぶらへば、寄りたまひて、「などかくいぶせき御もてなしぞ。思ひの外に心うくこそおはしけれな。人もいかにあやしと思ふらむ」とて、御衾《ふすま》をひきやりたまへれば、汗におし潰《ひた》して、額髪《ひたひがみ》もいたう濡れたまへり。「あな、うたて。これはいとゆゆしきわざぞよ」とて、よろづにこしらへきこえたまへど、まことにいとつらしと思ひたまひて、つゆの御いらへもしたまはず。「よしよし。さらに見えたてまつらじ。いと恥づかし」など怨《ゑ》じたまひて、御視開けて見たまへど物もなければ、「若《わか》の御ありさまや」とらうたく見たてまいりたまひて、日ひと日入りゐて慰めきこえたまへど、解けがたき御気色いとどらうたげなり。

現代語訳

源氏の君はたいそう所在なくぼんやりと物思いに沈みがちであるが、何となくのお忍び歩きも物憂く思うようになられて、思い立たれることもない。

姫君(紫の上)が何事も理想的に成人なさって、まことに見事にばかりお見えになるのを、(夫婦になるのに)似合わないではない頃合いとおみなしになるので、源氏の君は、それっぽいことなどを、時々姫君に申し上げて試みなさるが、姫君はそれとおわかりにならない様子である。

所在のないままに、ただこちらで碁を打ち、偏つぎなどをしつつ日々をお過ごしになられるにつけ、姫君のご気性は利発で愛敬があり、たわいもない遊戯の中にも可愛らしい筋をお見せになるので、結婚相手としては考えてもいなかった今までは、ただそうした方面の可愛さだけがあったのだが、我慢ができなくなって、気の毒ではあるが、どうしたことだろうか、はた目には本当に夫婦となったのかどうか、判断がつきかねるようなご関係ではあったが、その翌朝、男君(源氏の君)は早く起きられて、女君(紫の上)はまったくお起きにならない朝がある。

女房たちは、「どういうわけでこんなふうに起きていらっしゃらないのでしょう。ご気分がすぐれないのでしょうか」と存じ上げて心配していると、源氏の君はご自分のお部屋においでになるということで、御硯のは仔を御帳の中に差し入れていらした。人のいないすきに、姫君がかろうじて頭をおもたげになると、ひき結んだ文が御枕のもとにある。何という気もなくひき開けて御覧になると、

(源氏)あやなくも…

(どういうわけで、今まで床をへだてて寝ていたのでしょう。枕は交わさなくても夜を重ねてすっかり馴染んでいた私たちの夜の衣ですのに)

と思うままに書いていらっしゃるようである。

姫君は、源氏の君にこんな御心がおありとは今まで少しも思い寄らなかったので、どうしてこんな残念な御心を、深く考えもせずに頼もしいものと思い申し上げていたのだろうと、情けなく思われる。

昼ごろ源氏の君は西の対にお越しになって、(源氏)「ご気分が悪そうにしていらっしゃるが、どんなご様子ですか。今日は碁も打たないでつまらないですね」といってお覗きになると、姫君はいよいよお召し物をひき被って横になっていらっしゃる。

人々は退きつつお控えしていると、源氏の君は姫君にお寄りになって、(源氏)「どうしてこのように気の滅入るようなおもてしをされるのですか。案外つれないお方でいらしたのですね。女房たちもどれほど妙に思うでしょう」といって、お布団を引きのけなさると、汗にぐっしょりで、額髪もたいそう濡れていらっしゃる。

(源氏)「ああ、ひどい。これはまったく大変なことですよ」といって、あれこれ機嫌を取ろうとなさるが、姫君は本当にひどくつらいとお思いになって、まったくお返事もなさらない。

(源氏)「よろしいよろしい。もう二度と拝見することはないでしょう。ひどくばつの悪い思いですよ」などお怒りになって、御硯を開けて御覧になっても中に何もないので、「子供っぽいありさまよ」と可愛らしく御覧になって、一日中御帳の中にいて姫君を慰め申し上げなさるが、なかなかご機嫌が直らないのが、とても可愛らしいのである。

語句

■似げなからぬほど 自分の結婚相手として似つかわしい年頃になったと。 ■けしきばみたること それとなく結婚を匂わせるようなこと。 ■偏つぎ 漢字の偏につくりを当てて漢字を完成させる遊戯。 ■うつくしき筋 かわいらしさが見えるようなやりかた。 ■思し放ちかる年月 源氏が紫の上を本気で夫婦になろうとはまだ実感として思えなかったこれまでのこと。源氏にとって紫の上はあくまで小さな女の子であった。それが最近の紫の上の成長を見て、妻としての認識が強まる。 ■さる方 夫婦関係や色めいたことではなく、可愛らしい方面。今まで源氏は紫の上をそういう目でしか見ていなかった。 ■心苦しけれど 無邪気な紫の上に自分のおさえがたい欲望をぶつけることが気の毒ではあったが。 ■人のけぢめ見たてまつり分くべき御仲にもあらぬに これまでも源氏と紫の上は一つ御帳の中で寝ていた。だから傍目には、夫婦となったのか、そうでないのか区別がつかないのである。 ■男君・女君 男女が枕を供にした後の、特別な言い方。 ■あやなくも 「あやなし」はわけがわからない。筋道が通らない。「夜の衣を隔つ」は男女が契をかわさないこと。「あや」「重ね」は「衣」の縁語。 ■うらなく 「うらなし」は物事を深く考えず、うっかり安心している。

朗読・解説:左大臣光永

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