【葵 28】源氏、紫の上に亥の子餅を参らせる

原文

その夜さり、亥《い》の子餅《こもちひ》参らせたり。かかる御思ひのほどなれば、ことごとしきさまにはあらで、こなたばかりに、をかしげなる檜破子《ひわりご》などばかりをいろいろにて参れるを見たまひて、君、南の方に出でたまひて、惟光を召して、「この餅《もちひ》、かう数数にところせきさまにはあらで、明日の暮に参らせよ。今日はいまいましき日なりけり」とうちほほ笑みてのたまふ御気色を、心とき者にて、ふと思ひ寄りぬ。惟光、たしかにもうけたまはらで、「げに、愛敬《あいぎやう》のはじめは日選《え》りして聞こしめすべきことにこそ。さても子《ね》の子《こ》はいくつか仕うまつらすべうはべらむ」と、まめだちて申せば、「三つが一つにてもあらむかし」とのたまふに、心得はてて立ちぬ。もの馴れのさまや、と君は思す。人にも言はで、手づからといふばかり、里にてぞ作りゐたりける。

君は、こしらへわびたまひて、今はじめ盗みもて来たらむ人の心地するもいとをかしくて、「年ごろあはれと思ひきこえつるは片端《かたはし》にもあらざりけり。人の心こそうたてあるものはあれ。今は、一夜も隔てむことのわりなかるべきこと」と思さる。

のたまひし餅《もちひ》、忍びていたう夜更かして持て参れり。少納言は大人しくて、恥づかしくや思さむ、と思ひやり深く心しらひて、むすめの弁といふを呼び出でて、「これ忍びて参らせたまへ」とて、香壺《かうご》の箱を一つさし入れたり。「たしかに御枕上《まくらがみ》に参らすべき祝のものにはべる。あなかしこ、あだにな」と言へば、あやし、と思へど、「あだなることはまだならはぬものを」とて取れば、「まことに、今はさる文字忌ませたまへよ。よもまじりはべらじ」と言ふ。若き人にて、けしきもえ深く思ひよらねば、持て参りて、御枕上の御几帳よりさし入れたるを、君ぞ、例の、聞こえ知らせたまふらむかし。

人はえ知らぬに、つとめて、この箱をまかでさせたまへるにぞ、親しきかぎりの人々思ひあはすることどもありける。御皿どもなど、何時《いつ》の間にかし出でけむ、華足《けそく》いときよらにして、餅《もちひ》のさまもことさらび、いとをかしうととのへたり。少納言は、いとかうしもや、とこそ思ひきこえさせつれ、あはれにかたじけなく、思しいたらぬことなき御心ばへを、まづうち泣かれぬ。「さても、内々にのたまはせよな、かの人もいかに思ひつらむ」とささめきあへり。

現代語訳

その夜になって、源氏の君は姫君(紫の上)の御前に亥の子餅を差し上げた。

このように服喪中のことだから、おおげさなふうではなく、姫君のところだけに、風情のある檜の破子などだけをさまざまな色に作って差し上げるのを御覧になって、南面にお出ましになり、惟光を召して、(源氏)「この餅を、このようにたくさん仰々しくではなく、明日の暮に西の対に差し上げよ。今日はよくない日であった」と微笑なさっておっしゃるご様子を、惟光は勘のいい者だから、ふっと思い当たった。

惟光ははっきりとも承らないで、(惟光)「まったく、愛敬のはじめは日を選んで召し上がるのがよろしゅうございますな。ところで「子の子」餅はいくつご用意いたしましょうか」と、まじめぶって申せば、(源氏)「三分が一ぐらいでいいだろう」とおっしゃると、惟光はすっかり心得て出発した。

もの馴れたことよ、と源氏の君はお思いになる。惟光は人にも言わず、自分の手で用意するというふうに、里にで餅を作っていた。

源氏の君は、姫君(紫の上)のご機嫌を取るのにお困りになって、今はじめて盗んで持ってきた人のような気持ちがするのもたいそうおかしくて、(源氏)「長年愛しいと思い申し上げてきたのは、今の気持ちの片端にも足りなかったな。人の心はつくづく異様なものだ。今は、一夜も隔てることは我慢できないにちがいないな」とお思いになる。

源氏の君がおっしゃった餅を、惟光はひそかにとても夜が深くなってから持って参った。少納言は年配の女房だから、姫君(紫の上)が恥ずかしく思うだろうと思いやり、深く心遣いして、むすめの弁というのを呼び出して、(惟光)「これをお忍びで姫君に差し上げてください」といって、香壺を入れた箱を一つ差し入れた。

(惟光)「これはたしかに、御枕もとに差し上げるべき祝のものでございます。よくよくご注意ください。あだ(いい加減)に扱いなさいますな」と言えば、弁は、不思議に思ったが、(弁)「あだなること(浮気)は、まだ存じませんが」といって受け取ると、(惟光)「まったく、今はそのような言葉(あだ=浮気)を忌むようになさってください。まさか会話の中にそのような言葉を混じらせますまいね」と言う。

弁は、若い女房なので、事情も深くは思いよらないので、その香壺の箱を持って姫君のもとに参って、御枕もとの御几帳から差し入れたのを、源氏の君は、例によって、こうした行為の意味を、後日姫君にお話申し上げることだろう。

他の女房たちは知らないが、翌朝、この箱をお下げになるにつけ、親しくお仕えしている人々は思いあわせることがいろいろあった。

餅をのせる御皿の類など、いつの間に調達したのだろう、華足もたいそうきよらかで、餅のようすも特に心をこめて作ってあり、たいそう趣深く整えている。

少納言は、まさかここまでと思い申し上げていたので、しみじみと勿体なく、行き届かぬところのない源氏の君の御心づかいに、まず泣かずにいられなかった。

「それにしても、内々に前もっておっしゃってくださればよかったのに。あの人(惟光)も、どう思っているのでしょうか」とひそひそ言い合った。

語句

■夜さり だんだんと夜になってくること。「さり」はやってくる。 ■猪の子餅 七種の粉(大豆・小豆・ささげ・胡麻・栗・柿・糖類)をまぜて猪形につくる餅。万病にきくとされた。 ■かかる御思ひのほど 服喪中。源氏は三ヶ月の喪に服している。 ■破子 食物を入れる箱。 ■今日はいまいましき日なり 結婚三日目に餅を食べる「三日夜餅」の儀礼があった。源氏はこの餅を三日夜餅として紫の上のもとに送ろうというのだが、ずばりそう言うのは照れくさいため、「今日は日が悪い」と言い訳して、日をずらして、餅を送るタイミングを三日目にあわせた。それが言い訳であることを勘のするどい惟光は察知した。 ■愛敬のはじめ 結婚のはじめ、もしくは結婚三日目の夜のことを惟光が言ったもの。 ■子の子 明日は子の日なので、「亥の子餅」をもじって「子の子」としたもの。惟光の即興の造語。 ■香壺の箱 香壺は香を入れる壺。箱は香壺をいくつか入れる箱。 ■あだ いい加減な。粗略な。ほかに、浮気の意味もある。惟光は「いい加減」の解釈で呼びかけ、弁は「浮気」の解釈で言う。 ■さる文字 その種の言葉。結婚しようというのに「あだ=浮気」は縁起でもないため。 ■けしき 深い裏の事情。源氏と姫君が結婚したということ。 ■聞こえ知らせたまふ 源氏が、紫の上に、結婚三日目の夜に餅を食べる意味などをお話申し上げることだろうの意。 ■親しきかぎりの人々 紫の上のおそば近くにお仕えしている人々。■華足 花の模様を彫刻した机や台の足。 ■ことさらび 「ことさらぶ」は特に趣向をこらして作ってあること。 ■いとかうしもや 「いとかうしもあらむや」の意。紫の上の乳母である少納言は、まさか源氏がここまで紫の上を大切に、正式の妻として迎えてくださるとまでは思っていなかったのである。

朗読・解説:左大臣光永