【葵 29】源氏、紫の上に夢中 右大臣家の思惑 六条御息所との距離感 紫の上の機嫌なおらず

原文

かくて後は、内裏《うち》にも院にも、あからさまに参りたまへるほどだに、静心《しづごころ》なく面影に恋しければ、あやしの心や、と我ながら思さる。通ひたまひし所どころよりは、怨めしげにおどろかしきこえたまひなどすれば、いとほしと思すもあれど、新手枕《にひたまくら》の心苦しくて、「夜をや隔てむ」と思しわづらはるれば、いとものうくて、悩ましげにのみもてなしたまひて、「世の中のいとうくおぼゆるほど過ぐしてなむ、人にも見えたてまつるべき」とのみ答《いら》へたまひつつ過ぐしたまふ。

今后《きさき》は、御匣殿《みくしげどの》なほこの大将にのみ心つけたまへるを、「げに、はた、かくやむごとなかりつる方も亡《う》せたまひぬめるを、さてもあらむになどか口惜しからむ」など大臣《おとど》のたまふに、いと憎しと思ひきこえたまひて、「宮仕もをさをさしくだにしなしたまへらば、などかあしからむ」と、参らせたてまつらむことを、思しはげむ。君も、おしなべてのさまにはおぼえざりしを、口惜しとは思せど、ただ今は異《こと》ざまに分くる御心もなくて、「何かは。かばかり短かめる世に。かくて思ひ定まりなむ。人の怨みも負ふまじかりけり」と、いとどあやふく思し懲りにたり。

かの御息所はいといとほしけれど、まことのよるべと頼みきこえむには必ず心おかれぬべし、年ごろのやうにて見過ぐしたまはば、さるべきをりふしにもの聞こえあはする人にてはあらむなど、さすがに事の外には思し放たず。

この姫君を、「今まで世人もその人とも知りきこえぬもものげなきやうなり。父宮に知らせきこえてむ」と思ほしなりて、御裳着《もぎ》のこと、人にあまねくはのたまはねど、なべてならぬさまに思しまうくる御用意など、いとあり難けれど、女君はこよなう疎みきこえたまひて、「年ごろよろづに頼みきこえて、まつはしきこえけるこそあさましき心なりけれ」と、悔しうのみ思して、さやかにも見あはせたてまつりたまはず、聞こえ戯れたまふも、いと苦しうわりなきものに思し結ぼほれて、ありしにもあらずなりたまへる御ありさまを、をかしうもいとほしうも思されて、「年ごろ思ひきこえし本意なく、馴れはまさらぬ御気色の心うきこと」と恨みきこえたまふほどに、年も返りぬ。

現代語訳

源氏の君は、このようなこと(紫の上と夫婦となったこと)の後は、内裏にも院にも、ほんのしばらく参られる時さえ、お心が落ち着かず、姫君を面影にみて恋しいので、不思議な心だと、我ながらお思いになる。

お通いになっていらっしゃる忍び所からは、恨めしそうにご連絡申し上げなどしてくるので、気の毒とはお思いになることはあるが、新妻(紫の上)のことがひどく気にかかって、「一夜として逢わずにおられようか」と気におかかりになって、忍び歩きに出ることはひどく気が進まず、ご気分がすぐれぬふりをなさって、(源氏)「世の中がひどく悲しく思えます。この気分がなくなってから、どなたにもお目にかかりましょう」とだけお答えになりつつ日をお過ごしになる。

今后(弘徽殿皇太后)は、御匣殿(朧月夜)がまだこの大将(源氏の君)にばかり心惹かれていらっしゃるのを、(右大臣)「本当に、また、あのように大切でいらした方(正妻の葵の上)もお亡くなりになったようだから、そのような関係になったとしても別に残念なことではなかろう」など父右大臣がおっしゃると、今后は大将のことをひどく憎いとお思いになって、「宮仕えを一人前になさるようにさえなるなら、どうしてそれが悪いことがありましょう」と、この姫君(朧月夜)を入内させようと決意を固められる。

源氏の君も、この姫君(朧月夜)が並大抵の方とはお思いにならなかったので、残念とはお思いになったが、さしあたっては紫の姫君(紫の上)の他に分ける御気持ちもなかったので、「何の問題があろう。これほど短い人生なのだから。私もこのまま落ち着くとしよう。人の怨みも負うてはならないのだ」と、たいそう臆病になり、こりごりのお気持ちにならなれた。

あの御息所のことはたいそうおいたわしく思われるが、本気の生涯の拠り所として信頼申し上げるとしたら必ず気詰まりなことになるにちがいない、ここ数年のようにお過ごしくださるなら、しかるべき折節にお話を分かち合う人とはなるだろうなど、さすがにまるきり思い放すことはなさらない。

この姫君(紫の上)を、「今まで世間の人も、どういう人とお知り申し上げないのも、物の数に入らないようである。父宮にお知らせ申し上げよう」と源氏の君は思い立たれて、御裳着のことを広く人にお知らせになられはしないが、並々でないさまにご計画なさるそのご用意など、たいそう類のない御心の深さだが、女君(紫の上)はひどく源氏の君を嫌がりなさって、「長年、万事にお頼み申し上げて、親しく近くに侍っていたのは、情けない心であったこと」と、悔しくばかりお思いになって、はっきりと源氏の君と御顔をあわせ申し上げもなさらず、君が御冗談をおっしゃるのに対しても、ひどく苦しく嫌なものにお思ってふさぎ込んでしまわれて、今までとはまるで違うようになられたその御ようすを、源氏の君は、おもしろくも愛おしくもお思いになって、(源氏)「長年思い申し上げてきた私の気持ちに反して、うちとけてくださらないご機嫌が、残念なことですよ」と怨み言申し上げになさっているうちに、年も改まった。

語句

■かくて後 紫の上と夫婦になって後。 ■静心なく そわそわして落ち着かないこと。 ■面影に恋しければ 目の前にいない紫の上が、あたかも目の前にいるように見えて恋しい。 ■新手枕 新妻となった紫の上のこと。「若草の新手枕を枕《ま》きそめて世をや隔てむ憎くあらなくに」(万葉集2542)。 ■悩ましげに 気分が悪いように。 ■今后 弘徽殿皇太后。右大臣の娘。 ■御匣殿 朧月夜の姫君。弘徽殿皇太后の妹。「御匣殿」は帝の御装束を調達する役所。またそこの別当。ここでは御匣殿別当たる朧月夜のこと。 ■さてもあらむに 源氏の君と朧月夜が結婚することになっても。 ■をさをさしく 「長々し」はしっかりしている。立派である。一人前である。 ■参らせたてまつらむ 後宮に入れること。 ■思しはげむ 決意を固める。朧月夜が源氏に心惹かれているという状況ながら、無理やりに。 ■年ごろのやうにて ここ数年の御息所と源氏の関係。本気の恋人ということではなく、たまに逢って話し相手になる程度の関係。 ■さすがに事の外には 御息所にはこりごりだが、だからといって関係を断ち切ってしまおうとまでは思わない。 ■馴れはまさらぬ 「み狩する狩場の小野の楢柴の馴れはまさらず恋こそまされ」(万葉集3048)。『新古今集』では下句「馴れはまさらで恋ぞまされる」。

朗読・解説:左大臣光永