【葵 30】源氏、新年の参賀後、左大臣邸を訪ね、亡き葵の上の思い出にひたる

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原文

朔日《ついたちのひ》は、例の、院に参りたまひてぞ、内裏《うち》、春宮《とうぐう》などにも参りたまふ。それより大殿にまかでたまへり。大臣《おとど》、新しき年とも言はず、昔の御ことども聞こえ出でたまひて、さうざうしく悲しと思すに、いとど、かくさへ渡りたまへるにつけて、念じ返したまへどたへがたう思したり。御年の加はるけにや、ものものしき気《け》さへ添ひたまひて、ありしよりけにきよらに見えたまふ。立ち出でて御方に入りたまへれば、人々もめづらしう見たてまつりて忍びあへず。若君見たてまつりたまヘば、こよなうおよすけて、わらひがちにおはするもあはれなり。まみ、口つき、ただ春宮の御同じさまなれば、人もこそ見たてまつりとがむれ、と見たまふ。御しつらひなども変らず、御衣掛《みぞかけ》の御装束《さうぞく》など、例のやうにし懸けられたるに、女のが並ばぬこそさうざうしくはえなけれ。

宮の御消息《せうそこ》にて、「今日はいみじく思ひたまへ忍ぶるを、かく渡らせたまへるになむ、なかなか」など聞こえたまひて、「昔にならひはべりにける御装《よそ》ひも、月ごろはいとど涙に霧《き》りふたがりて、色あひなく御覧ぜられはべらむ、と思ひたまふれど、今日ばかりはなほやつれさせたまへ」とて、いみじくし尽くしたまへるものども、また重ねて奉れたまへり。必ず今日奉るべきと思しける御下襲《したがさね》は、色も織りざまも世の常ならず心ことなるを、かひなくやは、とて着かへたまふ。来ざらましかば口惜しう思さまし、と心苦し。御返りには、「春や来ぬる、ともまづ御覧ぜられになん参りはべりつれど、思ひたまへ出でらるること多くて、え聞こえさせはべらず、

あまた年けふあらためし色ごろもきては涙ぞふる心地する

えこそ思ひたまへしづめね」と聞こえたまへり。御返り、

新しき年ともいはずふるものはふりぬる人の涙なりけり

おろかなるべきことにぞあらぬや。

現代語訳

元旦は、例年のように、院にお参りになって、内裏、東宮などにもお参りになる。その後、左大臣邸へおでましになる。

左大臣は、新年のことも言わず、昔のさまざまの御ことを話し出されて、心細く悲しく思われるところに、こうして久しぶりに娘婿の源氏の君までがおでましになったのにつけて、こらえにこらえていらっしゃるが、耐え難くお思いになっている。

源氏の君は年齢を重ねられたせいであろうか、堂々とした雰囲気までも加わりなさって、以前よりすぐれて美しくお見えになる。

そこを立って亡き姫君(葵の上)のお部屋にお入りになると、女房たちも源氏の君を久しぶりでめずらしく拝見して涙をおさえることができない。

源氏の君は若君(夕霧)を拝見なさると、たいそう成長されて、よくお笑いになるのも、しみじみと情深い。

目つき、口つきも、まったく東宮と同じようすであるので、人が見とがめるのではないかと、御覧になる。

御調度品なども生前のままで、御衣掛の御装束など、いつものように衣が掛けられているのに、女君の御衣だけが並んでいないのが物足りなく見栄えがしない。

大宮のご挨拶として、(大宮)「今日はひたすら思い忍んでいましたが、このようにおいでいただけるにつけても、かえって…」など申し上げなさって、(大宮)「昔の例にならって仕立てました御装束も、ここ数ヶ月はひどく涙で霧がかかったように目がふさがって、色あいも悪く御覧になられるのではないか、と思いますが、今日だけはやはりこのやつれた御衣にお召し替えになってください」といって、たいそう手をお尽くしになられた御衣どもに、さらに加えて、源氏の君に差し上げなさる。

必ず今日差し上げなくてはと思っていた御下襲は、色も織り方も世間並みでなく趣向が特別であるのを、ご厚意を無下にしてはならないと、源氏の君はお召し替えになる。

もし今日自分が左大臣家に来なかったら、大宮はじめ左大臣家の人々は残念に思っただろうと、源氏の君は心苦しく思われる。

御返りには、(源氏)「春がやってきた、ともまず御覧に入れようと参りましたが、思い出すことが多くございまして、申し上げることもできませんで、

あまた年…

(長年にわたって、正月ごとに着替えました色衣を、本日またこの御邸に来て着替えますと、涙が流れ落ちる心持ちがいたします)

悲しい気持ちを抑えることができぬことです」と申し上げなさった。御返り、

(大宮)新しき…

(新しい年でありますのに、降るものは、年をとった私どもの涙でございますよ)

いい加減であるはずのない悲しみなのであった。

語句

■春宮の御同じさま 春宮は公式には桐壺帝の皇子だが、実は源氏と藤壺の間の不義の子。よって春宮と夕霧は腹違いの兄弟になる。似ているのは当然。それを誰かが問題にするのではないかと源氏は心配している。 ■御衣掛 衣を掛けておく衣桁。ハンガー。 ■今日はいみじく思ひたまへ忍るを 元旦なので、涙を流すのは縁起が悪いからこらえていたが。 ■なかなか 娘・葵の上を失った悲しみを耐え忍んでいたが、娘婿の源氏が訪れたことによって、それは嬉しいことのはずなのに、かえって娘を思い出して悲しみがこみあげる。 ■あまた年… 「きて」に「来て」と「着て」を掛ける。 ■新しき… 「ふる」に「降る」と「古る」を掛ける。

朗読・解説:左大臣光永

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