【賢木 03】源氏と御息所、歌を唱和し別れる

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原文

心にまかせて見たてまつりつべく、人も慕ひざまに思したりつる年月は、のどかなりつる御心おごりに、さしも思されざりき。また心の中《うち》に、いかにぞや、疵《きず》ありて思ひきこえたまひにし後、はたあはれもさめつつ、かく御仲も隔たりぬるを、めづらしき御対面《たいめ》の昔おぼえたるに、あはれと思し乱るること限りなし。来《き》し方行く先思しつづけられて、心弱く泣きたまひぬ。女は、さしも見えじと思しつつむめれど、え忍びたまはぬ御けしきを、いよいよ心苦しう、なほ思しとまるべきさまにぞ聞こえたまふめる。月も入りぬるにや、あはれなる空をながめつつ、恨みきこえたまふに、ここら思ひあつめたまへるつらさも消えぬべし。やうやう今はと思ひ離れたまへるに、さればよと、なかなか心動きて思し乱る。

殿上《てんじやう》の若君達《きむだち》などうち連れて、とかく立ちわづらふなる庭のたたずまひも、げに艶《えん》なる方に、うけばりたるありさまなり。思ほし残すことなき御仲らひに、聞こえかはしたまふことども、まねびやらむ方なし。

やうやう明けゆく空のけしき、ことさらに作り出でたらむやうなり。

あかつきの別れはいつも露けきをこは世に知らぬ秋の空かな

出でがてに、御手をとらへてやすらひたまへる、いみじうなつかし。風いと冷やかに吹きて、松虫の鳴きからしたる声も、をり知り顔なるを、さして思ふことなきだに、聞き過ぐしがたげなるに、ましてわりなき御心まどひどもに、なかなかこともゆかぬにや。

おほかたの秋の別れもかなしきに鳴く音な添へそ野辺の松虫

悔しきこと多かれど、かひなければ、明けゆく空もはしたなうて出でたまふ。道のほどいと露けし。

女もえ心強からず、なごりあはれにてながめたまふ。ほの見たてまつりたまへる月影の御容貌《かたち》、なほとまれる匂ひなど、若き人々は身にしめて、過ちもしつべくめできこゆ。「いかばかりの道にてか、かかる御ありさまを見棄てては、別れきこえん」と、あいなく涙ぐみあへり。

御文、常よりもこまやかなるは、思しなびくばかりなれど、またうち返し定めかねたまふべきことならねば、いとかひなし。男は、さしも思さぬことをだに、情のためにはよく言ひつづけたまふべかめれば、ましておしなべての列《つら》には思ひきこえた

現代語訳

思いのままにお逢い申し上げることができ、御息所もご自分を慕っていると思っていた年月は、源氏の君はのんびりかまえていい気になっていらしたから、それほど切ない思いもされなかった。

また心の中に、なんとしたことかと、御息所に過失があるように思い申し上げなさって後は、また愛情も冷めつつ、こうして御仲も隔たってしまったのだが、久しぶりのご対面が昔を思い出させるにつけ、しみじみと心乱れるとは限りがない。

源氏の君は過去・未来を思いつづけなさって、心弱くお泣きになる。

女(御息所)は、悲しみにくれているようには見られまいと、こらえているようだが、我慢できないご様子を、源氏の君はいよいよ気の毒に、やはり伊勢下向は思いとどまられるよう、申し上げなさるようである。

月も隠れてしまったのか、しみじみと情緒深い空をながめつつ、恨み言を申し上げなさるにつけ、あれこれ思いが積もっていらした、その辛さも消えてしまうのだろう。

ようやく今が最後と断念なさるのだが、やはり心配していたとおり別れるのが惜しくなって、お逢いしたためにかえって心が動いて思いが乱れる。

殿上の若い君達などが連れ立って、あれこれ立ち去り難く歩き回るという庭のようすも、なるほど風情ある場所として、十分満たされているようすである。残すところなく物思いをされているお二人の御仲に、互いにかわされるお話の数々は、筆舌につくしがたい。

だんだん明けていく空のけしきは、ことさら人の手で作り出したようである。

(源氏)あかつきの…

(後朝の別れはいつも悲しく涙にくれるものだが、これは世にしることのない、しみじみ悲しい、秋の空であるよ)

源氏の君は、立ち去りにくそうにして、御手をつかんでじっとしておられるのは、たいそう懐かしい感じである。

風がとても冷やかに吹いて、松虫の鳴き枯らした声も、今がどういう折が知っているふうであるのを、さほど物思いがない時でさえ、聞きすごしがたいのを、ましてどうにもならない御心まどいがさまざまある中で、かえって歌もうまく詠めないのだろうか。

(御息所)おほかたの…

(並大抵の秋の別れでさえ悲しいのに、さらにそこに鳴く声を添えて悲しみを添えてくれるな、野辺の松虫よ)
源氏の君は悔やまれることが多いが、どうしようもないので、明るくなっていく空もきまりが悪く、ご出発なさる。道中、ひどく露が多い。袖を濡らす涙も多い。

女(御息所)も気丈にはできず、源氏の君の面影をしみじみと思い出して、ぼんやりと物思いに沈んでおられる。ほんの少し拝見された月明かりに照らされた御姿、今もまだ残っている香の匂いなど、若い女房たちは深く心に残って、過ちも犯してしまいそうなほど、お褒め申し上げる。(女房)「どれほど避けられない旅立ちだとても、あのような御ようすを見捨てては、別れ申すことができましょう」と、埒もなく涙ぐみあっている。

語句

■瑕ありて 御息所が生霊となって葵の上を取り殺したことをいう。 ■女は 男女の関係を強調した言い方。 ■恨みきこえたまふに 恋の恨み言を切々とのべる。 ■ここら 数多く。 ■今はと 今が最後と。 ■さればよと 逢ったら別れるのが辛くなるのではないかと心配しているとおり、別れるのが辛くなった。このあたり、御息所の心理はひたすらクドく、しつこく、冗長で、気が滅入る。 ■立ちわづらふ 「わづらふ」は~しかねる。 ■うけばりたる 十分に満たされている。 ■出でがてに 立ち去りにくそうにして。 ■なかなかこともゆかぬにや しみじみと心にしみる場面なので普通ならよい歌が詠めそうなものだが、あまりに心にしみすぎているために、かえってよい歌が詠めないのである。 ■悔しきこと 御息所の伊勢下向を引き止めるべきだったという後悔。 ■身にしめて 深く心に残って。 ■あいなく 「あいなし」は埒もない。

朗読・解説:左大臣光永

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