【賢木 10】桐壺院の崩御
大后《おほきさき》も参りたまはむとするを、中宮のかく添ひおはするに御心おかれて、思しやすらふほどに、おどろおどろしきさまにもおはしまさで、隠れさせたまひぬ。足を空に思ひまどふ人多かり。御位を去らせたまふといふばかりにこそあれ、世の政《まつりごと》をしづめさせたまへることも、わが御世の同じことにておはしまいつるを、帝はいと若うおはします、祖父大臣《おほぢおとど》、いと急にさがなくおはして、その御ままになりなん世を、いかならむと、上達部《かむだちめ》、殿上人みな思ひ嘆く。
中宮、大将殿などは、ましてすぐれてものも思しわかれず。後々の御わざなど、孝《けう》じ仕うまつりたまふさまも、そこらの親王《みこ》たちの御中にすぐれたまへるを、ことわりながら、いとあはれに、世人《よひと》も見たてまつる。藤の御衣《ぞ》にやつれたまへるにつけても、限りなくきよらに心苦しげなり。去年今年とうちつづき、かかる事を見たまふに、世もいとあぢきなう思さるれど、かかるついでにも、まづ思し立たるることはあれど、またさまざまの御絆《ほだし》多かり。
御四十九日《なななぬか》までは、女御御息所たち、みな院に集ひたまヘりつるを、過ぎぬれば、散り散りにまかでたまふ。十二月《しはす》の二十日《はつか》なれば、おほかたの世の中とぢむる空のけしきにつけても、まして晴るる世なき中宮の御心の中なり。大后の御心も知りたまへれば、心にまかせたまへらむ世のはしたなく住みうからむを思すよりも、馴れきこえたまへる年ごろの御ありさまを思ひ出できこえたまはぬ時の間《ま》なきに、かくてもおはしますまじう、みな外《ほか》々へと出でたまふほどに、悲しきこと限りなし。
宮は、三条宮《さんでうのみや》に渡りたまふ。御迎へに兵部卿宮参りたまへり。雪うち散り風はげしうて、院の内やうやう人目離《か》れゆきてしめやかなるに、大将殿こなたに参りたまひて、古き御物語聞こえたまふ。御前の五葉《ごえふ》の雪にしをれて、下葉《したば》枯れたるを見たまひて、親王《みこ》、
かげ広みたのみし松や枯れにけん下葉散りゆく年の暮かな
何ばかりのことにもあらぬに、をりからものあはれにて、大将の御袖いたう濡れぬ。池の隙《ひま》なう凍れるに、
さえわたる池の鏡のさやけきに見なれしかげを見ぬぞかなしき
と思すままに。あまり若々しうぞあるや。王命婦《わうみやうぶ》、
年暮れて岩井の水もこほりとぢ見し人かげのあせもゆくかな
そのついでにいと多かれど、さのみ書きつづくべきことかは。
渡らせたまふ儀式変らねど、思ひなしにあはれにて、旧き宮は、かへりて旅心地したまふにも、御里住み絶えたる年月のほど、思しめぐらさるべし。
現代語訳
弘徽殿大后も院に参上なさろうとするのを、藤壺中宮がこうして院のおそばにいらっしゃるのにお心がはばかられて、ためらっていらっしゃるうちに、それほどお苦しみのご様子もなく、お隠れになった。
足を空に浮かせるごとくに、困惑する人が多い。桐壺院は、御位をお去りになられたというだけであって、世の政を統治なさることも、御在位中と同じことでいらしたのだが、その桐壺院が崩御された今、帝はとても若くいらっしゃるし、帝の祖父である右大臣は、ひどく短慮で、思いやりがない方でいらして、その右大臣家のなさるままになっていく世を、どうなるだろうと、上達部、殿上人はみな思い嘆く。
中宮や大将殿などは、誰にもまして格別なお嘆きであり、ものの判断もおつきにならないというご様子である。
後々の御法事などおつとめになるようすも、そこらの親王たちの御中にすぐれていらっしゃるのを、それは当然ではあるが、しみじみと感心して、世間の人も拝見する。
藤の御喪服に御身をやつしていらっしゃるのにつけても、限りなく清らかで心苦しそうである。
源氏の君は去年今年とご不幸が続き、このような事を御覧になるにつけ、この世をひどくかいのないものに思われるので、このような機会にご出家でもと、まず思い立たれることはあるが、またさまざまの現世での絆が多いので、おいそれとご出家にも踏み切れずにいらっしゃるのである。
四十九日の法事までは、女御・御息所たちが、みな院に集まりなさっていたが、それが過ぎてしまえば散り散りに帰っていかれた。十二月の二十日なので、いったいに世の中が暮れてゆく空のけしきにつけても、それにもまして晴れる間もない、藤壺中宮の御心の中である。
藤壺中宮は、弘徽殿大后の御心を知っていらっしゃるので、心にまかせたやり方をなさって世も居心地が悪く住みづらくなるのを思われる。だがそのことよりも、親しみ申し上げていた故桐壺院の長年の御ようすを思い出し申し上げなさらない時の間もないのに、こうしていつまでも院御所にいらっしゃるわけにもゆかず、みなそれぞれ他所に出ていきなさる折節につけ、悲しいことは限りがない。
中宮は、三条宮にお移りになる。御迎えに兵部卿宮が参られた。雪が散り風がはげしい上、院の内はしだいに人影が少なくなってしんみりしているところに、大将殿(源氏の君)がこちらに参られて、思い出話をお話申し上げる。
御前の五葉の松が雪にしおれて、下葉が枯れているのを御覧になって、親王(兵部卿宮)が、
(兵部卿宮)かげ広み…
(下陰が広いので皆がたのみにしていた松(桐壺院)が枯れてしまった。その下葉が散ってゆく秋の暮であるよ)
何というほどのこともない歌だが、今の折にしみじみと感慨深く、源氏の大将の御袖はひどく濡れた。池が隙間なく凍っていることを、
(源氏)さえわたる…
(さえわたる鏡のようにさやかに張っている池の氷に、見馴れた御方の姿が見えないのが悲しい)
とお心にまかせてお詠みになった。あまりにも幼い詠みようではある。王命婦が、
年暮れて…
(年が暮れて、岩の清水の水も凍り塞がって、かつてそこに映った人の姿も、色あせていくものですよ)
こうした機会に詠まれた歌はとても多いが、そうみな書きつづけるべきことでもあるまい。
中宮が三条邸にお帰りになるにあたっての儀式は、常と変わらないが、思いなしかしみじみと悲しく思われ、もともとのすまいである三条邸のほうが、かえって旅先にいるよにうなお気持ちになるにつけても、御里に長くお帰りになられなかった長い年月のことが、思いめぐらされることだろう。
語句
■大后 弘徽殿大后。右大臣の娘。源氏に反感を抱き続けている。 ■祖父大臣 朱雀帝の外祖父である右大臣。作者は右大臣に対して一貫して批判的。 ■孝じ 「孝ず」は親孝行をする。転じて、追善供養をする。 ■去年今年 去年は妻である葵の上を失い、今年は父である桐壷院を失った。 ■御絆 「世の憂きめ見えぬ山路へ入らむには思ふ人こそほだしなりけれ」(古今・雑下 物部吉名)をふまえるか。 ■女御御息所 ここで御息所は更衣の意と思われる。 ■世の中とぢむる 一年が暮れることと、桐壺院の御世が終わることを掛ける。 ■大后の御心 弘徽殿大后は源氏や藤壺中宮、左大臣家を憎悪し続けてきた。桐壺院がなくなり弘徽殿大后の実家である左大臣家が権力をにぎると、源氏や藤壺中宮にとって生きづらい世の中になるだろうと藤壺中宮は考える。 ■三条宮 藤壺中宮の里。 ■兵部卿宮 藤壺中宮の兄。紫の上の父。 ■かげ広み… 「松」は桐壷院のこと。「下葉」は女御・更衣など桐壺院にお仕えした人々。 ■「池はなほ昔ながらの鏡にて影見し君がきぞ悲しき」(大和物語七十ニ段)をふまえる。故敦慶親王をしのんで平兼盛が詠んだ歌。 ■王命婦 藤壺中宮つきの女房。 ■年暮れて… 「岩井」は岩の合間から溢れる清水。「浅《あ》す」は、人影が消え散っていくこと。「水」の縁語。桐壺院が亡くなってから御所に人がいなくなっていくことをさす。